おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

JR成東駅~横芝駅。その1。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

2024-03-24 13:51:47 | 銚子往還

3月15日(金)快晴。銚子往還歩きの第3日目。

成東駅(船橋~千葉~大網~東金~成東)に到着。

「成東駅」は「東金線」の終点と同時に、「総武本線」の駅でもあります。

総武本線 名称は上総国(かずさのくに)・下総国(しもうさのくに)と武蔵国(むさしのくに)を結ぶことに因む。

1972年(昭和47年)、錦糸町駅から東京駅まで地下トンネル化が完成した後(総武快速線)は、「東京駅~銚子駅」となる。錦糸町駅で分岐して御茶ノ水駅に至る支線(総武緩行線)、小岩駅新小岩信号場駅)から分岐して金町駅および、越中島貨物駅に至る貨物支線を持つ。

電車内や駅構内の旅客案内上は主に千葉駅から銚子駅の区間がこの名称で呼ばれる

成東駅前の案内板。

伊藤左千夫の生家などをたどる道(成東駅~東金駅)のようです。

※伊藤左千夫の歌碑が錦糸町駅前(ここで、牧場を営んでいた)にあります。

※「成東」という地名の由来は、成田の東に位置するからではなく、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のおり、太平洋の荒波が押し寄せ、鳴濤(なるとう)と名づけたという伝説に由来するようです

さて、出発です。

今回は、二つ先の「横芝」駅まで。約10キロのノンビリ手抜きコース。とはいえ、途中の「イチゴ街道」でイチゴ狩りでも、という魂胆。土産にもしよう、と。

この道が旧道のようですが線路で分断されるようです。

総武線の踏切を渡ります。

                    成東駅方向。

下り方向。

「境川」に架かる「往還橋」。

                    この道が「銚子往還」の道であることの証し?

境川(下流方向)。

上流方向。

「境川」

この川が大和朝廷蝦夷の地の境であったからだと言われ、日本武尊が命名したとされている。日本書紀卷第七景行天皇四十年十月の条には「爰に日本武尊、即ち上総より転りて、陸奥国に入りたまふ。時に大きなる鏡を王船に懸けて、海路より葦浦に廻る。横に玉浦を渡りて、蝦夷の境に至る。」との記述がありそれがこの地であると言われる。当時の境川は、現在の作田川とは別個の川として玉浦に注いでいたであろうことは想像に難くない。

(この項、「Wikipedia」より)

先に進みます。

街道筋らしい雰囲気の道。

出桁の商家造り。

このおうちも立派な造り。                

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「九十九里鐵道」廃線跡(片貝~東金)。その6。(「銚子街道」をゆく。番外編。)

2024-03-22 18:32:49 | 廃線跡

真亀川の土手から廃線跡(片貝駅方向)を望む。

向こう岸(東金駅方向)に行くため、県道の橋を渡ります。

あぜ道から橋台跡を望む。

田植えの準備が進む。 

「真亀川」下流方向。

                 新しい橋を建設中。 

土手の部分も工事中なので、県道から回り込んで、廃線跡の水路の出会いまで歩きます。

            県道沿いの「ラーメン自動販売機」。最近、はやっているようです。

水路になっている廃線跡。「真亀川」方向。

東金市浄化センターの用水路として転用したもののようです。幅は思ったよりも広い。

「東金駅」方向。用水路となっている廃線跡。

水路脇の道を歩きます。

                           南側に広がる田畑。

しだいに住宅地に入っていきます。

    ボケの花。

「堀上(ほりあげ)」駅は、どの付近にあったのか? 

      

        ↓が「堀上駅」(があったところ)。(「今昔マップ」より)

この先、広い「国道126号」を越えて、廃線跡は続きます。

            正面の道路ではなく、右手の住宅・空地が廃線跡のようです。

国道126号線。けっこう交通量の多い幹線道路。

国道を渡って東金駅方向へ。

右奥の方に廃線跡が続きます。

東金市の市章・桜。(「市役所」前)

JR「東金」駅前東口広場。

現在は駐輪場になっている付近に九十九里鉄道の東金駅があった。

「九十九里鐵道」線は、しばらくJR線に沿って進み、廃線跡にある「山武健康福祉センター」から東に向きを変え、「片貝駅」方向に進んでいました。

JRホーム上から廃線跡を望む。

天気は大変良かったのですが、風がものすごく強く、歩くのも大変、田んぼに転げ落ちてしまうか、と。

それでも何とか片貝海岸から東金駅までたどり着きました。

九十九里町側の遊歩道(軌道道)、路線跡の草道、田植えの準備が始まった水田、住宅地の生活道路、用水路脇の細道、大きな犬に吠えられたり、地元の方と話をしたり、・・・そして、唯一の遺跡・橋台など、けっこう変化のある廃線跡探索でした。

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「九十九里鐵道」廃線跡(片貝~東金)。その5。(「銚子街道」をゆく。番外編。)

2024-03-21 19:47:06 | 廃線跡

通りを越えて、廃線跡を進みます。

しばらく進むと、砂利道に。この先は、土手(路盤)に戻る。

脇道から廃線跡を望む。

振り返る。

          立て看板は、「関東天然瓦斯」の看板だった?

舗装された、生活道路に。

振り返る。微妙なカーブが線路を彷彿とさせる。

都内では見かけない消火栓。

少し広くなったところ。菜の花が満開に。

この付近に家徳駅があったようです。

             右の↓が「家徳」駅、左が「堀上」駅。(「今昔マップ」より)

両側に家並みが続きます。

この先、廃線跡は田んぼの中の道に。

右が線路跡(路盤)。

歩いている道は線路跡ではありません。線路跡にはけっこう草が生い茂り、歩くのを躊躇。

唯一の遺構・橋台跡を発見。

片貝駅方面を望む。

東金駅方面を望む。

↓が橋台跡。

「真亀川」に突き当たります。

廃線跡はこの先は、水路となって東金駅方向へ進みます。

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「九十九里鐵道」廃線跡(片貝~東金)。その4。(「銚子街道」をゆく。番外編。)

2024-03-19 18:36:55 | 廃線跡

「西」駅から次の駅跡へ。

                       廃線跡としてけっこう広く残っています。                            

県道に接近する廃線跡。

振り返る。

田植えの準備が始まっています。

廃線跡の部分?

黄金のすすき(?)の波。

振り返る。

足元には車線のデザイン。

            右手は住宅。左は田畑。            

            

右手に大きな公園。

          九十九里町と東金市の境。バス停。駅の跡ではなさそうです。

ここまでが遊歩道(九十九里町)。振り返る。

この先は廃線跡の堤になります。県道の方に迂回して進みます。

「九十九里町」ともお別れ。東金市入り。

踏み跡があります。

                 遠くに車が駐車中。

    刈られた土手を歩く。

真夏時の草がいっぱいのときには、歩きにくそう。

             右手は工場。

左手には水田が広がる。

あぜ道に咲く紫の花。

新しい広い道を通過。

荒生(あらおい)駅跡?

廃線脇の草。これは?

         

この先で廃線跡は藪の中に隠れてしまいます。

来た道を振り返る。

再び廃線跡が右手に現れます。

<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/9d/d7fea38c95f3c8d9dce115754623f516.jpg">用水路を挟んだ脇の道を歩くことにします。

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「九十九里鐵道」廃線跡(片貝~東金)。その3。(「銚子街道」をゆく。番外編。)

2024-03-18 18:39:12 | 廃線跡

随所にベンチなどが設置されています。

「関東天然瓦斯」。

南関東ガス田のうち千葉県茂原市を中心とした一帯の鉱区の採掘権を所有し、水溶性天然ガスの採取・販売及びヨウ素の製造・販売を営んでいる。可採埋蔵量973億立方メートルと推定される合計714平方キロメートルの鉱区で、天然ガス採掘権を有する。ただし、天然ガスの生産は地盤沈下をもたらすため、千葉県との協定に基づいて制限している。可採埋蔵量は、現在の生産量の600年分にあたるという

※房総東往還歩きのとき、茂原付近で「大多喜ガス」の大きなガスタンクを見ましたが、廃線後の九十九里鐵道の敷地もこの会社の所有地になっているのでしょうか。

農家の間の道を抜けて行きます。

左方向。

      右方向。

この広い土地には、駅舎でもあったのでしょうか?

      

左手に田んぼが広がります。

右手にはバスが通る県道が。

大きな敷地。                        

振り返る。

通りを越えるとモニュメント。

「←2.5㎞ 甘藷栽培発祥地」。

江戸時代、飢饉による餓死者を救うために、青木昆陽(1698~1764)はこの地で甘藷(サツマイモ)の試作を行いました。現在その試作地に「関東地方甘藷栽培発祥の地」の石碑が建てられています。

サツマイモの普及に努め、栽培奨励を幕府の政策に乗せたのが甘藷(かんしょ)先生として有名な青木昆陽(1698から1769)である。昆陽の墓が、目黒不動瀧泉寺の裏手にあるのをご存じだろうか。樹木に囲まれ、ひっそりとたたずむこの墓は、国の指定文化財(史跡)となっている。

青木昆陽は、江戸日本橋に生まれ、幼い頃からの学問好きであった。享保4年(1719年)に京に上り、儒者伊藤東涯に学んだ。昆陽が甘藷のことを知ったのは、この頃だったといわれている。その後、江戸に帰った昆陽は私塾を開いていたが、町奉行大岡忠相に推挙され、以降、幕府に仕えた。

享保17年(1732年)に「天下飢饉、疫癘(えきれい)行る」と「武江年表」享保17年の項に書かれ、多くの死者を出した大飢饉が起った。昆陽は、甘藷(かんしょ)が地味の肥えていない土地でも十分に生育することに目をつけ「蕃薯(ばんしょ)考」を著し幕府に上書した。これが将軍吉宗にとりあげられ、甘藷(かんしょ)の試作を命じられた。昆陽は早速種芋を取寄せ、小石川御薬園(現:文京区白山東京大学附属小石川植物園)で試作を始めた。1度は失敗したものの、2度目に良好な結果を得ることに成功した。ここで採れた芋は種芋として各地に配られ、甘藷(かんしょ)栽培が定着するもととなった。この功績から昆陽は甘藷(かんしょ)先生と称されるようになったのである。

その後、昆陽は、蘭学研究に打ち込み数々の名書を著し、有数の蘭学者となった。

(この項、「」HPより)

ここが「西」駅跡のようです。

上下線の行き違う駅だったのでしょうか?

<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/3f/05ebbcf21d4169d8318f655ec0469478.png">

                          (「今昔マップ」より)

まだまだ探索が続きます。

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