斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

73 【東北、縄文時代の豊穣②】

2020年07月26日 | 言葉
 落葉広葉樹林の堅果類に秘密
 日本の森林の特徴は、東日本から北日本にかけて落葉広葉樹林が多く、西日本では常緑広葉樹林が多いことだ。寒暖の移り変わりにより植生分布に変化が生じるが、全体の傾向としては暖かな土地で常緑樹が多くなり、寒い土地では落葉樹が多くなる。縄文人の主食はトチやクリ、ドングリ、クルミなど澱粉(でんぷん)の豊富な堅果類(けんかるい=種実類)だったと考えられ、それらの多くは北の落葉広葉樹林でよく育った。この樹林帯ではキノコ類やワラビ、ゼンマイ、フキなどの山菜類が豊富で、イノシシやシカ類といった哺乳類もいる。
 秋はサケが川をさかのぼり、冷水を好むマスやイワナなどの渓流魚も多い。関東や東北では貝塚遺跡が多く発見されるが、海ではアサリやシジミ、カキ、ハマグリといった貝類が豊富にとれた。これに対して西日本の常緑広葉樹林には堅果類が少なく、イノシシやサケ、貝類も東北に比べると乏しい。稲作技術の普及とともに西日本の人口が爆発的に増えるのは弥生時代以降のことであり、縄文時代の東北は実に豊穣の地であった。この結果、食糧を求めて縄文人たちは北の地へ移動した。

 縄文期も盛んだっ栽培農業
 一般に縄文時代のイメージと言えば狩猟採集の生活であり、食糧を求めての移動生活である。そこで食糧の生産・再生産は行われなかったのか、という疑問が生じる。縄文前・中期の遺跡として名高い三内丸山遺跡(青森市)の発掘調査では、自然のブナ林が広範囲に伐採されてクリ林に植え替えられ、人工林として育てられていたことが、出土した花粉の分析から判明した(小山修三・岡田康博著『縄文時代の商人たち』、洋泉社刊)。花粉化石の8割がクリで、集落の建物に使われている木材も大半がクリ材、さらに燃料としてもクリが使われていた。このクリが栽培種であることも遺伝子分析から分かっている。三内丸山遺跡では他に、人の手が必要な栽培品種作物としてヒョウタンや豆類、エゴマ、ゴボウ、アガサの種が見つかっている。
 日本の稲作では食だけでなく、稲ワラが衣や住から燃料にまで広く活用された。同じように縄文時代の三内丸山ではクリが栽培され、コメに劣らぬ利用価値を有していた。縄文人は栽培農業の担い手であり、違いはコメとクリという栽培品目のみであった。

 ちなみにクリの徹底利用が進んだこのような場所では、アクの強いドングリはほとんど出土せず、食べられていなかったことも分かっている。ドングリはアク抜きが面倒なうえ、クリと比べて木材としての利用価値も少ない。ただし三内丸山は縄文時代の先進地と見なされていて、全国各地の縄文人たちが皆このように甘いクリや新鮮なサケばかりを食べるグルメだったわけではない。岡田康博氏は同書の中で「春と秋は森の実りが大半で、森に食糧が少なくなってくると、海の魚を利用し始める。冬場は保存加工したものと動物で乗り切った」と、縄文前・中期の三内丸山での食生活を解説している。海山の幸の両方を、上手に利用していた。
 
 ともかくも東北の縄文人たちの食卓は、現代人も羨(うらや)むほど彩り豊かであった。人口が東北に偏ったことも容易に想像出来る。縄文期という長い年月、日本列島における豊穣の地は西日本でなく東北だったのである。

 始まっていた東北の稲作
 北上川中流域では、大和朝廷勢力の進出以前から稲作が広く行われていた。稲作は、この地を征した倭人(わじん)がもたらしたものではなく、倭人たちは先住民たる蝦夷(えみし)たちの間ですでに普及していた米作の富を収奪すべく、この地へ進出したのである。この頃の蝦夷には山から下りずに狩猟採集の生活を続ける山夷(さんい)と、里に下りて稲作や畑作に従事する田夷(でんい)、また、それぞれを適宜に兼ねる蝦夷が存在したと考えられる。長いスパンで見れば田夷の比率が増える傾向にあったが、ある時期には山夷が増えたこともあった。

 稲作の跡を裏付ける遺跡は枚挙にいとまがなく、よく知られたところでは奥州市の常盤遺跡や秋田県男鹿市(旧琴浜村)の志藤沢(しどのさわ)遺跡、青森県田舎館(いなかだて)村の垂柳(たれやなぎ)遺蹟などがある。常盤遺跡は旧佐倉河村内にあり、奥州市の中でも阿弖流為(あてるい)率いる蝦夷軍の根拠地ともなった地域だ。ここで出土した弥生式土器には籾粒の圧痕が認められることから、稲作が行われていたことが証明された。土器の製作年代から考えて、坂上田村麻呂が同地を制圧して胆沢城を築城(802年)する少なくとも6百年前から、蝦夷たちは営々とコメ作りに励んでいた。この土器は岩手県内で初めて発掘された弥生式土器と言われ、昭和27年の発掘時は大きな反響を呼んだ。

 言うまでもなく現在も水利の良い奥州市などの北上川沿いは東北有数のコメどころである。田村麻呂もこの地に初めて足を踏み入れた時は、青一色に染まった一面の水田を見たに違いない。「王化」への意欲を掻き立てたことだろう。

 さて、反響の大きさと考古学上の大発見という点では、昭和33年に発掘調査が行われた青森県田舎館村の垂柳遺跡がある。同年の調査で、水田の地表下50センチの場所から多くの田舎館式土器と2百粒を超える焼米が発掘され、弥生中期後半までに津軽平野でコメ作りが行われていた事実を裏付けた。コメ粒はナマだと腐るが、焼けて炭化したものは後々まで元の形のままで残り、土器の底などに付いた籾粒の圧痕でも確認出来る。田舎館遺跡のコメ粒は前者だった。昭和56年に10面の水田跡が発掘され、翌年と翌々年の2か年に調査ではさらに656面もの水田跡が発掘された。畔できちんと区画された立派な水田は、発掘調査にあたった研究者たちを驚かせた。1面当たりの広さは現代の水田に及びもつかないが、水路といい畔といい、申し分のない形をととのえていた。

 それまで青森県内では、弥生時代に水田耕作はなかったと考えられていた。ところが津軽平野ではすでに稲作が始まっていたわけで、従来の常識を大きく覆すインパクトがあった。当時、垂柳遺跡の発掘調査を指導した伊東信雄氏の著『古代東北発掘』(学生社刊)によれば、坂上田村麻呂の蝦夷制圧まで岩手県内では米作が行われていなかった、とする考え方が歴史学界の常識だった。遣唐使たちの唐での証言や『日本書紀』『続日本紀』などの文献に疑問を抱かない限り、蝦夷たちは肉ばかりを食べコメを口にしていなかったことになる。(続く)

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