政党と世界観
政党には主義主張に基づいた政治目標や方向性がある。「世界観」の語義を広く解釈すれば、どの政党も「世界観政党」なのである。しかし自由や民主主義を党是とする中道政党が「世界観政党」と呼ばれることはない。自由主義それ自体が「世界観」のカテゴリーに含まれるにもかかわらず、である。
各政党が「政治目標」として設計図上に引く線は、精密なものから大雑把なものまで、さまざまだ。とりわけ線が濃く明瞭、かつ緻(ち)密な図を持つのは、宗教政党と共産主義政党である。ともに文献が豊富で、主張は体系的に整理され、アッピールしやすい。これらの政党が「世界観政党」と呼ばれる。『現代日本の革新思想』で論じられているのも、社会主義政党やマルクス・レーニン主義政党である。「イデオロギー政党」とされることも多い。
完全に近付けば「イデオロギー」?
どのような考え方であれ、考え抜かれてモノゴトは整理され、深化する。イデオロギー政党の設計図が完璧に、あるいは完璧に近く描かれているとすれば、優秀な頭脳が長大な時間と労力を費やして構成し、体系化した結果だ。しかし皮肉なことに、設計図の完成度が高ければ高いほど、芳(かんば)しからざるイメージで「イデオロギー政党」や「世界観政党」の名を頂戴することになる。不当な評価だと言えなくもない。
「上」でも述べたが、これには理由がある。設計図の完成度の高さは、裏を返せば、他者の異論を排除する論理に繋(つな)がりやすい。「あるべき姿」がアプリオリ(先験的に)に存在し、すでに明快なのだから、それ以上は議論するに及ばない。ならば議論はムダ、というわけだ。
しかし、これでは”民主主義”に反する。民主主義の常道とは、さまざまな”異”見を持ち寄って議論し合い、議論の場を保証し合うことである。どれほど「あるべき姿」の設計図が立派でも、議論なしにモノゴトを決めてはいけない。価値観は単一ではなく、一元化すべきでもない。多様な価値観を認め合いながら、国や社会の「あるべき姿」を見い出すプロセスこそが、民主主義の本質である。「議論なし」では少数の、場合によっては1人の独裁者によって、モノゴトが決められかねない。
「階級独裁」から「一党独裁」へ
「プロレタリアート独裁」が論じられる時、しばしば引合いに出されるのが、マルクス『ゴータ綱領批判』(1875年)中の、以下の部分である。ドイツ革命(1848年)やパリ・コミューン(1871年)が起きた、騒然とした時代だった。
<資本主義社会と共産主義社会との間には、革命的転化の時期が横たわる。それにはまた一つの政治的過渡期が照応し、この過渡期の国家はプロレタリアートの革命的独裁以外の何物でもありえない>
「資本主義から共産主義への過渡期には『プロレタリアートの革命的独裁』が必要である」と。マルクスが「プロレタリアート独裁」を論じたのは、この書の、この部分のみ。簡単過ぎるために明確さと精確さを欠き、後世さまざまに論議された。
さらにレーニンは「プロレタリアート独裁」を、「一切の法律に依拠しない、無慈悲な暴力による独裁」と定義した(『国家と革命』)。激しい党派闘争の時代を背景に「階級独裁」は実質「一党独裁」へとコトバを変えた。
時代がイデオロギーを追い越す
どれほど優れた世界観(イデオロギー)であれ、200年も経てば綻(ほころ)びが生じる。200年の間に起きた世界の変貌変質を「あるべき姿」の設計図内に収め切れなくとも、マルクスの過誤ではない。地球温暖化や核戦争の危険、貧富の枠(わく)外で激化する人種対立や宗教対立、コロナ禍・・。解決にマルクスはヒントを与えていない。
昔こんなジョークがあった。「マルクス主義は男女の三角関係に、解決策を示せない」。対してマルクス主義者(?)の反論。「三角関係はフロイトにでも、お任せしたら? マルクス主義とは別次元の問題には、解決策を出せなくて当然だ」。なるほど。しかし、さらなる異議も聞こえて来る。「地球温暖化や人種対立にマルクス主義が解答を示せないなら、問題を自由に討議すべき。マルクス主義が触れなかった問題まで『一党独裁』で対応すると言うのでは、スジが通らない」。
新たな問題であれば、討議で決めても「世界観(イデオロギー)」の修正にはならない。もともと修正すべき原図がないのだから。200年間の変化変貌を見極めることも「日和見主義」ではない。時代の変化に目を瞑(つむ)ってしまえば、歴史学の書とは言えない。
『現代日本の革新思想』の本が出てから半世紀が過ぎた。「修正主義」も「日和見主義」も死語に近くなったが、「一党独裁」の方は現在も世界を闊歩(かっぽ)し続けている。
「運動論」の分離を
マルクス・レーニン主義は、哲学から経済学、政治学、歴史学、運動論その他に及ぶ、壮大な学問体系である。古色蒼然ながら唯物史観や剰余価値説、資本の共有化、貧富差の解消など、社会や学問に投げ掛けて来た問題意識と貢献には、容易に否定し得ないものがある。一方、壮大な世界観体系だけに、時代にそぐわないものも多々出ている。とりわけ「運動論」と「組織論」の部分かもしれない。現代という時代を読み、この2つを大胆にリフレッシュしてみては、どうだろうか。
政党には主義主張に基づいた政治目標や方向性がある。「世界観」の語義を広く解釈すれば、どの政党も「世界観政党」なのである。しかし自由や民主主義を党是とする中道政党が「世界観政党」と呼ばれることはない。自由主義それ自体が「世界観」のカテゴリーに含まれるにもかかわらず、である。
各政党が「政治目標」として設計図上に引く線は、精密なものから大雑把なものまで、さまざまだ。とりわけ線が濃く明瞭、かつ緻(ち)密な図を持つのは、宗教政党と共産主義政党である。ともに文献が豊富で、主張は体系的に整理され、アッピールしやすい。これらの政党が「世界観政党」と呼ばれる。『現代日本の革新思想』で論じられているのも、社会主義政党やマルクス・レーニン主義政党である。「イデオロギー政党」とされることも多い。
完全に近付けば「イデオロギー」?
どのような考え方であれ、考え抜かれてモノゴトは整理され、深化する。イデオロギー政党の設計図が完璧に、あるいは完璧に近く描かれているとすれば、優秀な頭脳が長大な時間と労力を費やして構成し、体系化した結果だ。しかし皮肉なことに、設計図の完成度が高ければ高いほど、芳(かんば)しからざるイメージで「イデオロギー政党」や「世界観政党」の名を頂戴することになる。不当な評価だと言えなくもない。
「上」でも述べたが、これには理由がある。設計図の完成度の高さは、裏を返せば、他者の異論を排除する論理に繋(つな)がりやすい。「あるべき姿」がアプリオリ(先験的に)に存在し、すでに明快なのだから、それ以上は議論するに及ばない。ならば議論はムダ、というわけだ。
しかし、これでは”民主主義”に反する。民主主義の常道とは、さまざまな”異”見を持ち寄って議論し合い、議論の場を保証し合うことである。どれほど「あるべき姿」の設計図が立派でも、議論なしにモノゴトを決めてはいけない。価値観は単一ではなく、一元化すべきでもない。多様な価値観を認め合いながら、国や社会の「あるべき姿」を見い出すプロセスこそが、民主主義の本質である。「議論なし」では少数の、場合によっては1人の独裁者によって、モノゴトが決められかねない。
「階級独裁」から「一党独裁」へ
「プロレタリアート独裁」が論じられる時、しばしば引合いに出されるのが、マルクス『ゴータ綱領批判』(1875年)中の、以下の部分である。ドイツ革命(1848年)やパリ・コミューン(1871年)が起きた、騒然とした時代だった。
<資本主義社会と共産主義社会との間には、革命的転化の時期が横たわる。それにはまた一つの政治的過渡期が照応し、この過渡期の国家はプロレタリアートの革命的独裁以外の何物でもありえない>
「資本主義から共産主義への過渡期には『プロレタリアートの革命的独裁』が必要である」と。マルクスが「プロレタリアート独裁」を論じたのは、この書の、この部分のみ。簡単過ぎるために明確さと精確さを欠き、後世さまざまに論議された。
さらにレーニンは「プロレタリアート独裁」を、「一切の法律に依拠しない、無慈悲な暴力による独裁」と定義した(『国家と革命』)。激しい党派闘争の時代を背景に「階級独裁」は実質「一党独裁」へとコトバを変えた。
時代がイデオロギーを追い越す
どれほど優れた世界観(イデオロギー)であれ、200年も経てば綻(ほころ)びが生じる。200年の間に起きた世界の変貌変質を「あるべき姿」の設計図内に収め切れなくとも、マルクスの過誤ではない。地球温暖化や核戦争の危険、貧富の枠(わく)外で激化する人種対立や宗教対立、コロナ禍・・。解決にマルクスはヒントを与えていない。
昔こんなジョークがあった。「マルクス主義は男女の三角関係に、解決策を示せない」。対してマルクス主義者(?)の反論。「三角関係はフロイトにでも、お任せしたら? マルクス主義とは別次元の問題には、解決策を出せなくて当然だ」。なるほど。しかし、さらなる異議も聞こえて来る。「地球温暖化や人種対立にマルクス主義が解答を示せないなら、問題を自由に討議すべき。マルクス主義が触れなかった問題まで『一党独裁』で対応すると言うのでは、スジが通らない」。
新たな問題であれば、討議で決めても「世界観(イデオロギー)」の修正にはならない。もともと修正すべき原図がないのだから。200年間の変化変貌を見極めることも「日和見主義」ではない。時代の変化に目を瞑(つむ)ってしまえば、歴史学の書とは言えない。
『現代日本の革新思想』の本が出てから半世紀が過ぎた。「修正主義」も「日和見主義」も死語に近くなったが、「一党独裁」の方は現在も世界を闊歩(かっぽ)し続けている。
「運動論」の分離を
マルクス・レーニン主義は、哲学から経済学、政治学、歴史学、運動論その他に及ぶ、壮大な学問体系である。古色蒼然ながら唯物史観や剰余価値説、資本の共有化、貧富差の解消など、社会や学問に投げ掛けて来た問題意識と貢献には、容易に否定し得ないものがある。一方、壮大な世界観体系だけに、時代にそぐわないものも多々出ている。とりわけ「運動論」と「組織論」の部分かもしれない。現代という時代を読み、この2つを大胆にリフレッシュしてみては、どうだろうか。