一、狭霧(さぎり)消ゆる湊江(みなとえ)の 舟に白し朝の霜
ただ水鳥の声はして いまだ覚めず岸の家(作詞・作曲者 不詳)
「私が好きなのは『朧(おぼろ)月夜』と‥‥『冬景色』です」
上皇后様(当時は皇后陛下)からそうお聞きして、国語学者の金田一春彦さん(故人)はポンとひざを叩きたかったという。金田一さんも詞の美しい、この二つの唱歌が大好きだった。1993年、場所は静岡県下田の御用邸。近くの別荘に滞在していた金田一さんは、その日、宮内庁係官から「よろしければ、こちらにお越しになりませんか」との誘いを受けた。
「好きな歌は『海』です。歌うといつも沼津の海を思い出します」。上皇様(当時は天皇陛下)は別の御用邸がある静岡県沼津を思い浮かべるように答えられた。「答えられた」というのは、金田一さんはどの人に会っても「あなたの好きな童謡、唱歌は何ですか?」と尋ねるようにしていたから。上皇様への質問の後、お答えに触発されれるように上皇后様も「朧月夜」と「冬景色」をお挙げになった。
金田一さんの父でアイヌ語研究に業績を残した京助は、金田一さんに言わせると、熱烈な教育パパだった。そのためもあって音楽に、特に童謡や唱歌に魅かれるようになる。「逃避場所だったのかもしれないな、唱歌が‥‥」。どんな歌でも「ド、レ、ミ、ファ」の音階で歌えるようになった。そんな息子を、父は客の前で自慢した。息子はますます童謡や唱歌が好きになった。
やがて「十五夜お月さん」など数々の童謡を作曲した本居長世に弟子入りする。旧制高校時代のこと。以後、本職の国語学のかたわら寸暇を割いて童謡や唱歌を研究し、この方面の著作も多い。会う人ごとに「あなたの好きな童謡、唱歌は?」と問うのには、こんな経緯があった。
ちなみに筆者も東京・阿佐ヶ谷のご自宅に取材でお伺いした時に同じ質問を受けた。咄嗟にミッションスクール出の姉が讃美歌と一緒に口ずさんでいたフレーズが浮かび「題名は忘れましたが<おおヒバリ 高くまた かろく何を歌う‥‥>という歌詞です」と答えると「ああ、それはメンデルスゾーンです。明るい歌がお好きなんですね」と、おっしゃられた。
二、烏啼(からすな)きて木に高く 人は畑(はた)に麦を踏む
げに小春日ののどけしや 返り咲きの花も見ゆ
「冬景色」は大正2年、音楽教科書「尋常小学校唱歌(五)」で発表された。5年生用。わかりやすい歌詞をという方針で作られた文部省唱歌の代表作だったが、それでも「狭霧消ゆる湊江の」など、当時の子供たちにも理解しにくい言葉が並んだ。他にも特徴があった。歌詞が六五調であること。それまで六五調の歌はなかったから、斬新な印象の歌だった。
「それにね‥‥」。唱歌を語る時は、いかにも楽しそうな金田一さん。「当時は歌詞の優れたもの、しゃれたものは、すべて三拍子でした。『冬景色』もそうです」。上皇后様もこの歌の好きな理由として、やはり六五調の節回しとリズミカルな三拍子を指摘されたという。
冬だが、むしろ初冬。一番は海か湖岸の早朝、二番は野の日中、三番は里の夕暮れ。「日本画の掛軸でも見るような、伝統的な美意識に訴える歌詞です」。その構成は人の一生にもたとえられる。一日の始まりをより新鮮に印象付ける、緊張感さえはらむ冬の朝。人の一生なら赤ちゃんか幼児期。二番の情景の何と平和なことか。麦を踏む農夫、木々高く啼くカラス。生きてあることの幸福を心底味わっているふうだ。青年期か壮年期。そして三番。一転、景色は冬らしい厳しさへ突き進む。老境だろうか。
三、嵐(あらし)吹きて雲は落ち 時雨(しぐれ)降りて日は暮れぬ
若(も)し燈火(ともしび)の漏れ来ずば それと分かじ野辺の里
氷雨混じる冬の嵐。陰鬱(いんうつ)な空。人家らしきものは見えない野辺の一点から、茶色がかった火影(ほかげ)がポッと漏れて来る。ランプそれとも囲炉裏(いろり)の火影か。光さえ漏れなければ粗末な茅ぶき民家は背後の草木に溶け込み、自然のままに同化してしまいそうだ。向井潤吉さんの絵を思わせ、詞には強い描写力がある。
寒いほど、また暗いほど、火影は暖かみを増す。家族の団らん。老境を意味するとしても、冬らしい寒さや暗さがかえって人生の温(ぬく)もりを伝える不思議な歌詞である。三番があればこそ二番の「のどけしや」が活き、一番のピーンと張り詰めた気配も強調される。
作詞・作曲者不詳の文部省唱歌
今も「冬景色」のような作詞・作曲者不詳の文部省唱歌は多い。「『平家物語』の作者が誰かといった学術論文なら山ほどあります。ところが文部省唱歌の作詞者、作曲者探しの論文は出ません。不思議です」と”金田一探偵”。これまでも機会あるごとに作詞・作曲者探しを呼び掛けてきた。一例は「こいのぼり」。この歌が「浜千鳥」や「靴が鳴る」「しかられて」の作曲者、弘田龍太郎の作曲であることを突き止めたのは金田一さんである。ちなみに作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一のゴールデンコンビの作として知られる「故郷」と「朧月夜」も大正3年の音楽教科書初出時は作詞作曲者不詳の文部省唱歌として発表され、作者名が明らかになったのは戦後のことだった。
なぜ作者不詳の文部省唱歌が多いのか。「詞や曲の多くは合議制で作られました。それが不詳のままの理由の一つです」。東京芸術大学教授の佐野靖さん(音楽教育学)の解説。文部省が明治40年に設置の唱歌編纂委員には作詞と作曲に各5から7人がいて、合議で唱歌を作った。その場合もたたき台となる詞や曲はあり、合議で修正されなかったり、わずかな修正にとどまったりすれば、その後に作詞・作曲者は名乗り出やすい。逆に大幅な修正が加えられていれば、自作とは主張しにくくなる。「それに金田一先生のご指摘の通り、これをテーマにした研究者は少ないのです」。佐野教授の結論だ。
(本稿は、岩波現代文庫『唱歌・童謡ものがたり』の中から、当時筆者が執筆した「冬景色」の項を、書き改めたものです)
ただ水鳥の声はして いまだ覚めず岸の家(作詞・作曲者 不詳)
「私が好きなのは『朧(おぼろ)月夜』と‥‥『冬景色』です」
上皇后様(当時は皇后陛下)からそうお聞きして、国語学者の金田一春彦さん(故人)はポンとひざを叩きたかったという。金田一さんも詞の美しい、この二つの唱歌が大好きだった。1993年、場所は静岡県下田の御用邸。近くの別荘に滞在していた金田一さんは、その日、宮内庁係官から「よろしければ、こちらにお越しになりませんか」との誘いを受けた。
「好きな歌は『海』です。歌うといつも沼津の海を思い出します」。上皇様(当時は天皇陛下)は別の御用邸がある静岡県沼津を思い浮かべるように答えられた。「答えられた」というのは、金田一さんはどの人に会っても「あなたの好きな童謡、唱歌は何ですか?」と尋ねるようにしていたから。上皇様への質問の後、お答えに触発されれるように上皇后様も「朧月夜」と「冬景色」をお挙げになった。
金田一さんの父でアイヌ語研究に業績を残した京助は、金田一さんに言わせると、熱烈な教育パパだった。そのためもあって音楽に、特に童謡や唱歌に魅かれるようになる。「逃避場所だったのかもしれないな、唱歌が‥‥」。どんな歌でも「ド、レ、ミ、ファ」の音階で歌えるようになった。そんな息子を、父は客の前で自慢した。息子はますます童謡や唱歌が好きになった。
やがて「十五夜お月さん」など数々の童謡を作曲した本居長世に弟子入りする。旧制高校時代のこと。以後、本職の国語学のかたわら寸暇を割いて童謡や唱歌を研究し、この方面の著作も多い。会う人ごとに「あなたの好きな童謡、唱歌は?」と問うのには、こんな経緯があった。
ちなみに筆者も東京・阿佐ヶ谷のご自宅に取材でお伺いした時に同じ質問を受けた。咄嗟にミッションスクール出の姉が讃美歌と一緒に口ずさんでいたフレーズが浮かび「題名は忘れましたが<おおヒバリ 高くまた かろく何を歌う‥‥>という歌詞です」と答えると「ああ、それはメンデルスゾーンです。明るい歌がお好きなんですね」と、おっしゃられた。
二、烏啼(からすな)きて木に高く 人は畑(はた)に麦を踏む
げに小春日ののどけしや 返り咲きの花も見ゆ
「冬景色」は大正2年、音楽教科書「尋常小学校唱歌(五)」で発表された。5年生用。わかりやすい歌詞をという方針で作られた文部省唱歌の代表作だったが、それでも「狭霧消ゆる湊江の」など、当時の子供たちにも理解しにくい言葉が並んだ。他にも特徴があった。歌詞が六五調であること。それまで六五調の歌はなかったから、斬新な印象の歌だった。
「それにね‥‥」。唱歌を語る時は、いかにも楽しそうな金田一さん。「当時は歌詞の優れたもの、しゃれたものは、すべて三拍子でした。『冬景色』もそうです」。上皇后様もこの歌の好きな理由として、やはり六五調の節回しとリズミカルな三拍子を指摘されたという。
冬だが、むしろ初冬。一番は海か湖岸の早朝、二番は野の日中、三番は里の夕暮れ。「日本画の掛軸でも見るような、伝統的な美意識に訴える歌詞です」。その構成は人の一生にもたとえられる。一日の始まりをより新鮮に印象付ける、緊張感さえはらむ冬の朝。人の一生なら赤ちゃんか幼児期。二番の情景の何と平和なことか。麦を踏む農夫、木々高く啼くカラス。生きてあることの幸福を心底味わっているふうだ。青年期か壮年期。そして三番。一転、景色は冬らしい厳しさへ突き進む。老境だろうか。
三、嵐(あらし)吹きて雲は落ち 時雨(しぐれ)降りて日は暮れぬ
若(も)し燈火(ともしび)の漏れ来ずば それと分かじ野辺の里
氷雨混じる冬の嵐。陰鬱(いんうつ)な空。人家らしきものは見えない野辺の一点から、茶色がかった火影(ほかげ)がポッと漏れて来る。ランプそれとも囲炉裏(いろり)の火影か。光さえ漏れなければ粗末な茅ぶき民家は背後の草木に溶け込み、自然のままに同化してしまいそうだ。向井潤吉さんの絵を思わせ、詞には強い描写力がある。
寒いほど、また暗いほど、火影は暖かみを増す。家族の団らん。老境を意味するとしても、冬らしい寒さや暗さがかえって人生の温(ぬく)もりを伝える不思議な歌詞である。三番があればこそ二番の「のどけしや」が活き、一番のピーンと張り詰めた気配も強調される。
作詞・作曲者不詳の文部省唱歌
今も「冬景色」のような作詞・作曲者不詳の文部省唱歌は多い。「『平家物語』の作者が誰かといった学術論文なら山ほどあります。ところが文部省唱歌の作詞者、作曲者探しの論文は出ません。不思議です」と”金田一探偵”。これまでも機会あるごとに作詞・作曲者探しを呼び掛けてきた。一例は「こいのぼり」。この歌が「浜千鳥」や「靴が鳴る」「しかられて」の作曲者、弘田龍太郎の作曲であることを突き止めたのは金田一さんである。ちなみに作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一のゴールデンコンビの作として知られる「故郷」と「朧月夜」も大正3年の音楽教科書初出時は作詞作曲者不詳の文部省唱歌として発表され、作者名が明らかになったのは戦後のことだった。
なぜ作者不詳の文部省唱歌が多いのか。「詞や曲の多くは合議制で作られました。それが不詳のままの理由の一つです」。東京芸術大学教授の佐野靖さん(音楽教育学)の解説。文部省が明治40年に設置の唱歌編纂委員には作詞と作曲に各5から7人がいて、合議で唱歌を作った。その場合もたたき台となる詞や曲はあり、合議で修正されなかったり、わずかな修正にとどまったりすれば、その後に作詞・作曲者は名乗り出やすい。逆に大幅な修正が加えられていれば、自作とは主張しにくくなる。「それに金田一先生のご指摘の通り、これをテーマにした研究者は少ないのです」。佐野教授の結論だ。
(本稿は、岩波現代文庫『唱歌・童謡ものがたり』の中から、当時筆者が執筆した「冬景色」の項を、書き改めたものです)