右翼からも支持された田中正造
足尾銅山に対する渡良瀬川流域住民の闘争は、日本における反公害運動の嚆矢(こうし、かぶらや)とされる。つまり田中正造は日本の反公害闘争史上、最初のリーダーだった。現代の感覚からすれば左翼的な人物という印象だが、むしろ典型的な明治人であり、熱烈な天皇主義者である。明治22年の日本帝国憲法(明治憲法)発布式には栃木県議会議長として参列し、後年回顧して「畏くも両陛下出御の御英姿を拝したる時、斯くてこそ我が日の本は無窮安泰なるべしと、えに言われぬ神秘の感に打たれたり」と、感激の様子を書き残している。
議会演説では常に鉱毒被害農民を「天皇陛下の赤子」にたとえ、鉱毒被害の無策は「帝国憲法に反する」と訴えた。なにより明治34年の天皇直訴は、天皇崇拝ゆえの行動だった。正造の分骨を祀った神社、栃木市藤岡町の田中霊祠(れいし)境内には、右翼の大物・頭山満が寄せた「義気堂々貫白虹」の石碑も建てられている。「白虹」とは日暈(ひかさ、にちうん)のこと。古代中国では「白虹、太陽を貫く」は反乱やクーデターの兆しを意味し、テロリスト荊軻(けいか)が秦の始皇帝を暗殺しようとした時、白虹が太陽を貫いたとの故事がある。
キリスト教への傾斜
左翼陣営も翁を支持した。『谷中村滅亡史』を書いた荒畑寒村、東京・神田での鉱毒反対演説会にたびたび参加していた堺利彦や河上肇、キリスト教社会運動家だった木下尚江や安部磯雄、天皇直訴文を草稿した幸徳秋水らである。キリスト教関係では安部、木下両氏のほか、晩年の翁が深く私淑したとされる新井奥𨗉(おうすい)、救世軍のブース大将、潮田千勢子ら日本キリスト教婦人矯風会のメンバーたちがいる。なかでも翁の臨終にも立ち会った木下尚江の存在は大きかった。
正造が初めて聖書を手にしたのは議員辞職後の明治35年春、いわゆる「大あくび事件」で41日間の禁固刑に処せられた時で、差し入れの聖書を熟読した(木下尚江『田中正造翁』)。62歳だったから意外に遅い。キリスト教へ改宗はしなかったが、2年後の谷中村入り以後の正造には、キリスト教の影響が色濃く見て取れる。大正2年9月、死の床に就いた翁の所持品は、菅笠と信玄袋で、袋の中身は帝国憲法と新約聖書、日記3冊、採取した川海苔と小石3個だった。
聖書を読むようになってからの正造翁は「政治のため20年、損をした」と周囲に語るようになった。同じ頃、基督教青年会に招かれて神田で講演した時は「真の平和というものは、聖人が出なければ、来るものではない。東洋久しく聖人が出ない。今度は日本から出る番である」とも述べている。栃木県議初当選から衆議院議員を辞すまでの20年間の政治活動を否定し、聖書を道標に鉱毒被害民救済への途を探ろうとした。
正造翁が目指したものと、谷中村村民たちが望んだもの
ここで谷中村農民たちの側から考えてみたい。正造みずから谷中村で自分たちと起居を共にし始めたことを農民たちは心強く思い、正造の誠実さを痛感しただろう。しかし一方で正造が国会議員を辞めたこと、すなわち政治力を失うこと、ないしは弱まることを歓迎したのだろうか。谷中村を廃村の危機から救い、谷中村復活の夢をかなえさせる方法があるとすれば、現実には政治の力以外にない。増額した議員歳費をもらっても構わないから、国会で農民の声を代弁し続けてくれることを願ったのではないか。
<谷中と銅山の戦いなり。官権之に加わりて銅山を助く。人民死を以って守る。何を守る。憲法を守り、自治の権を守り、祖先を守り、ここに死を以って守る>
よく知られている翁のコトバ。平田東助・内相に面会する前日、明治43年4月1日の日記にあるから、この通りのコトバで内相へ訴えたのだろう。旧谷中村で16戸の農民が残留し続ける理由は「憲法を守り、自治の権を守り」というのだから、まことに立派である。立派ではあるが、それでなくても疲労困憊した農民に「憲法と自治の権を守る」役割まで背負わせるようで、心苦しい気持ちになってくる。現実より理念優先、あえて言えばイデオロギー過剰である。
現実的な救済策の途はなかったか
地域住民が大規模な国家的プロジェクトにより移転を余儀なくされる例は昔も今もある。ダムの湖底に沈んだ例があり、空港滑走路予定地として先祖伝来の農地を手放さなければならなかったケースもある。だが、どの場合も、それなりに補償などの救済策が講じられた。この点、いかに日露戦争で財政逼迫の時代だったとは言え、栃木県と国とが谷中村民に提示した移転案は、あまりにも納得し難い。
まず鉱毒汚染を理由に買収予定農地の土地評価額を低く抑えた栃木県のやり方である。農地の鉱毒汚染に農民は何ら責任がないのに、汚染後の低い土地評価額で買収価格を決められてはスジが通らない。代替の移転地として県があっせんした那須高原も農地に不向きなうえ、昔からの地元農民が「よそ者は去れ」と、入植した旧谷中農民宅へ押し掛けて来る始末。事前の調査・調整不足は、ずさんな行政のゆえのこと。約束だった移転経費も県は支払わなかった。それでいて県の某高官は、代替地への移転経費を低く抑えた報奨として、国から当時の金額で数百円を与えられた。とんでもない話だ。
翁が政治家として国政の場で正論を吐き続けていた方が、農民たちの力になれたはずである。正造翁が国政の場から去り、旧谷中村内へ引っ込んでくれたおかげで、為政者たちが胸を撫で下ろしたことは間違いない。
政治と宗教、あるいは政治家と宗教家
政治家として生きることと宗教家として、あるいは宗教的倫理観を高く掲げた社会運動家として生きることとは、おのずと異なる。政治家として手を汚してでも、弱い立場の谷中農民を守り抜くことが、真に求められた姿だったように思う。鉱毒に生命を脅かされた渡良瀬川沿岸の農民たちが、帝国憲法や自治の崇高な理念に無関心で、素朴に「元の農地に戻せ」と主張するだけであっても、国民の共感を得られたことだろう。しかし翁の言説は、ますます理念で飾られるようになった。
田中正造翁に最後まで従った16戸の残留農民の「辛酸」も、翁が味わった「辛酸」に決して劣らなかったはずだ。翁の生き方に限りない敬意と称賛、共感を覚える一方で、リーダーとしての足跡には一抹の疑義を抱かざるを得ない。
足尾銅山に対する渡良瀬川流域住民の闘争は、日本における反公害運動の嚆矢(こうし、かぶらや)とされる。つまり田中正造は日本の反公害闘争史上、最初のリーダーだった。現代の感覚からすれば左翼的な人物という印象だが、むしろ典型的な明治人であり、熱烈な天皇主義者である。明治22年の日本帝国憲法(明治憲法)発布式には栃木県議会議長として参列し、後年回顧して「畏くも両陛下出御の御英姿を拝したる時、斯くてこそ我が日の本は無窮安泰なるべしと、えに言われぬ神秘の感に打たれたり」と、感激の様子を書き残している。
議会演説では常に鉱毒被害農民を「天皇陛下の赤子」にたとえ、鉱毒被害の無策は「帝国憲法に反する」と訴えた。なにより明治34年の天皇直訴は、天皇崇拝ゆえの行動だった。正造の分骨を祀った神社、栃木市藤岡町の田中霊祠(れいし)境内には、右翼の大物・頭山満が寄せた「義気堂々貫白虹」の石碑も建てられている。「白虹」とは日暈(ひかさ、にちうん)のこと。古代中国では「白虹、太陽を貫く」は反乱やクーデターの兆しを意味し、テロリスト荊軻(けいか)が秦の始皇帝を暗殺しようとした時、白虹が太陽を貫いたとの故事がある。
キリスト教への傾斜
左翼陣営も翁を支持した。『谷中村滅亡史』を書いた荒畑寒村、東京・神田での鉱毒反対演説会にたびたび参加していた堺利彦や河上肇、キリスト教社会運動家だった木下尚江や安部磯雄、天皇直訴文を草稿した幸徳秋水らである。キリスト教関係では安部、木下両氏のほか、晩年の翁が深く私淑したとされる新井奥𨗉(おうすい)、救世軍のブース大将、潮田千勢子ら日本キリスト教婦人矯風会のメンバーたちがいる。なかでも翁の臨終にも立ち会った木下尚江の存在は大きかった。
正造が初めて聖書を手にしたのは議員辞職後の明治35年春、いわゆる「大あくび事件」で41日間の禁固刑に処せられた時で、差し入れの聖書を熟読した(木下尚江『田中正造翁』)。62歳だったから意外に遅い。キリスト教へ改宗はしなかったが、2年後の谷中村入り以後の正造には、キリスト教の影響が色濃く見て取れる。大正2年9月、死の床に就いた翁の所持品は、菅笠と信玄袋で、袋の中身は帝国憲法と新約聖書、日記3冊、採取した川海苔と小石3個だった。
聖書を読むようになってからの正造翁は「政治のため20年、損をした」と周囲に語るようになった。同じ頃、基督教青年会に招かれて神田で講演した時は「真の平和というものは、聖人が出なければ、来るものではない。東洋久しく聖人が出ない。今度は日本から出る番である」とも述べている。栃木県議初当選から衆議院議員を辞すまでの20年間の政治活動を否定し、聖書を道標に鉱毒被害民救済への途を探ろうとした。
正造翁が目指したものと、谷中村村民たちが望んだもの
ここで谷中村農民たちの側から考えてみたい。正造みずから谷中村で自分たちと起居を共にし始めたことを農民たちは心強く思い、正造の誠実さを痛感しただろう。しかし一方で正造が国会議員を辞めたこと、すなわち政治力を失うこと、ないしは弱まることを歓迎したのだろうか。谷中村を廃村の危機から救い、谷中村復活の夢をかなえさせる方法があるとすれば、現実には政治の力以外にない。増額した議員歳費をもらっても構わないから、国会で農民の声を代弁し続けてくれることを願ったのではないか。
<谷中と銅山の戦いなり。官権之に加わりて銅山を助く。人民死を以って守る。何を守る。憲法を守り、自治の権を守り、祖先を守り、ここに死を以って守る>
よく知られている翁のコトバ。平田東助・内相に面会する前日、明治43年4月1日の日記にあるから、この通りのコトバで内相へ訴えたのだろう。旧谷中村で16戸の農民が残留し続ける理由は「憲法を守り、自治の権を守り」というのだから、まことに立派である。立派ではあるが、それでなくても疲労困憊した農民に「憲法と自治の権を守る」役割まで背負わせるようで、心苦しい気持ちになってくる。現実より理念優先、あえて言えばイデオロギー過剰である。
現実的な救済策の途はなかったか
地域住民が大規模な国家的プロジェクトにより移転を余儀なくされる例は昔も今もある。ダムの湖底に沈んだ例があり、空港滑走路予定地として先祖伝来の農地を手放さなければならなかったケースもある。だが、どの場合も、それなりに補償などの救済策が講じられた。この点、いかに日露戦争で財政逼迫の時代だったとは言え、栃木県と国とが谷中村民に提示した移転案は、あまりにも納得し難い。
まず鉱毒汚染を理由に買収予定農地の土地評価額を低く抑えた栃木県のやり方である。農地の鉱毒汚染に農民は何ら責任がないのに、汚染後の低い土地評価額で買収価格を決められてはスジが通らない。代替の移転地として県があっせんした那須高原も農地に不向きなうえ、昔からの地元農民が「よそ者は去れ」と、入植した旧谷中農民宅へ押し掛けて来る始末。事前の調査・調整不足は、ずさんな行政のゆえのこと。約束だった移転経費も県は支払わなかった。それでいて県の某高官は、代替地への移転経費を低く抑えた報奨として、国から当時の金額で数百円を与えられた。とんでもない話だ。
翁が政治家として国政の場で正論を吐き続けていた方が、農民たちの力になれたはずである。正造翁が国政の場から去り、旧谷中村内へ引っ込んでくれたおかげで、為政者たちが胸を撫で下ろしたことは間違いない。
政治と宗教、あるいは政治家と宗教家
政治家として生きることと宗教家として、あるいは宗教的倫理観を高く掲げた社会運動家として生きることとは、おのずと異なる。政治家として手を汚してでも、弱い立場の谷中農民を守り抜くことが、真に求められた姿だったように思う。鉱毒に生命を脅かされた渡良瀬川沿岸の農民たちが、帝国憲法や自治の崇高な理念に無関心で、素朴に「元の農地に戻せ」と主張するだけであっても、国民の共感を得られたことだろう。しかし翁の言説は、ますます理念で飾られるようになった。
田中正造翁に最後まで従った16戸の残留農民の「辛酸」も、翁が味わった「辛酸」に決して劣らなかったはずだ。翁の生き方に限りない敬意と称賛、共感を覚える一方で、リーダーとしての足跡には一抹の疑義を抱かざるを得ない。