斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

77 【東北、縄文時代の豊穣⑥完】

2020年08月02日 | 言葉
 奈良・曽我遺跡の琥珀(こはく)加工工房
 琥珀玉の完成品は各地の古墳から出土し、今では化学分析で産地が特定出来るようになった。化学分析法は1970年代に入って確立され、京都府城陽市の長池古墳や奈良県天理市の東大寺十二号墳、桜井市の脇本古墳出土の琥珀玉が、どれも久慈産であることが分かった。80年代になると奈良県斑鳩町の御坊山古墳のほか、茨城県牛掘町(現・潮来市)の観音寺山七号墳や神奈川県秦野市の広畑三号墳など、関東で出土した琥珀玉も久慈の原産であることが判明した。
 いずれも6世紀から7世紀にかけての遺跡であり、この時期に久慈から持ち込まれた琥珀である可能性が高い。特に奈良県橿原市にある曽我遺跡には玉作遺構群が確認されているので、久慈産の原石や半製品も曽我遺跡の加工工房に持ち込まれ、ここで都風のデザインに加工されていたと考えられる。久慈の加工技術者が奈良の地まで来ていた可能性は興味深い。

 曽我遺跡は、5世紀後半から6世紀前半まで営まれた、畿内最大の玉作集落跡である。琥珀玉に限らず水晶や滑石、壁玉、緑色凝灰岩、瑪瑙(めのう)の原石や未完成品、完成品などが出土し、玉を研磨するために使用した砥石や、玉に穴を開けるための木工具も見つかっている。畿内だけで20か所を超す玉作工房遺跡が確認されるが、琥珀の出土は曽我遺跡1か所に限られる点が興味深い。規模の大きさや内容の充実ぶりからすると、曽我遺跡は当時の畿内政権の直営工房だったのかもしれない。

 蝦夷社会の内部に交易のルート
 琥珀を始めとした宝石類は、中央や地方の実力者の手に渡っていた。全国の古墳跡から副葬品として出土したことで、それが分かる。琥珀に限れば青森県八戸市の丹後平古墳群や鹿島沢古墳群、岩手県西根町(現・八幡平市)の谷助平古墳、宮城県東松島市の矢本横穴古墳群など、多くの古墳で出土例がある。その事実は、蝦夷社会の内部に広く交易のルートが開かれ、琥珀玉が高価値の貨幣代わりだったことを示している。

 さらに曽我遺跡のような大規模加工工房の存在は、倭国が国家として中国大陸や朝鮮半島と海外交易する際にも、貨幣代わりに使われていたことを推測させる。書物や先進の品々を、曽我遺跡で仕上げた宝飾品と交換したのだろうか。みちのく久慈産の琥珀玉が、海を越えて遠く大陸にまで渡っていたことは、壮大なロマンかもしれない。

 ヒスイ玉が語るもの
 古代からの宝石といえば、久慈産の琥珀と並んで新潟県糸魚川産の翡翠(ヒスイ)が挙げられる。橿原の曽我遺跡からは出土していないようだが、青森市の縄文遺跡、三内丸山遺跡では多数のヒスイ玉が出ている。完成品だけでなく原石や未完成品も出土していることは、この地でヒスイが加工されていた事実を示す。35万ヘクタールという広大な面積から推測すると、同遺跡は縄文社会の中核「都市」を形成していたのだろう。小規模ながら橿原の曽我遺跡に似た加工工房が存在していた可能性が高い。
 ヒスイは糸魚川の姫川と青海川で採れる。戦前までヒスイはビルマ産と言われ、日本で採れることが広く知られるようになるのは戦後になってから。現在では蛍光エックス線分析法により、全国の縄文遺跡から出土するヒスイ玉は、すべて糸魚川産であることが分かっている。北海道日高地方で産出する「日高ヒスイ」は硬度が柔らかく、別種のようだ。

 日本海経由で運ばれた可能性
 岡田康博氏によれば、糸魚川と青森の中間に位置する山形や秋田では、ヒスイの出土例が少ない(『縄文時代の商人たち』)。これは何を意味するのか。岡田氏は、陸路でなく日本海経由の船で運ばれた可能性を指摘している。船便なら陸路より多量かつ多種に運搬出来るうえ、大規模な取引も可能になる。糸魚川から入るヒスイは三内丸山で海産物や毛皮に形を変え、糸魚川方面へ戻ったのかもしれない。畿内の「商人」が糸魚川でヒスイを仕入れ、三内丸山へ運ぶ三角貿易をしていた可能性も浮かぶ。重要なのは、琥珀と同じくヒスイも貨幣代わりに使用されていたことと、取引を仲立ちした「商人」の存在である。

 ちなみに三内丸山へ運ばれてきたと考えられる物には、他にも秋田産のアスファルトがある。鏃(やじり)を固定する接着剤として使われていたようだ。祭祀用に燃やすため使用されたという見方もある。長野や北海道からは黒曜石も運ばれてきた。こちらはナイフや包丁の日用品として使われた。ヒスイや琥珀ほど高価でなくとも、必要な日用品が移入されてくる様子に、東北古代人たちのダイナミックな活動ぶりが想像される。

 海外交易の可能性
 そこで視野に入ってくるのが、海外との交易の可能性だ。縄文時代を含め、蝦夷たちが当時中国大陸にあった渤海国と交易していた事実はなかったのだろうか。
 小嶋芳孝氏によれば縄文後・晩期、すでに東北北部や道南は大陸の青銅器文化や初期鉄器文化の洗礼を受けた可能性があり、続縄文期には鉄製品や銀製品が大陸から道央にまで伝来していたと推察されるという(『古代蝦夷の世界と交流1』から「蝦夷とユーラシア大陸の交流」)。九州北部を経て畿内へ至る南方ルートとは別の、北方ルートの存在である。鉄器が北方からも日本へ伝えられていたことは、堂内遺跡の出土品から考古学的に推察も可能だが、文献上も『日本書紀』や『続日本紀』などに、粛慎(みしはせ)や靺鞨(まつかつ)、高句麗、渤海(ぼっかい)といった大陸民族との交流や交易を示す記録が残されている。  

 『日本書紀』欽明天皇5年(544年)12月には粛慎人たちが佐渡島に流れ着き、春から夏にかけて漁をして暮らしたとの記事がある。国内では最初の粛慎人の活動記録という。この時は島民たちが「あれは人間でない。鬼かもしれない」と恐れて近づかず、やがて粛慎人たちは飲料水不足から死んでしまったらしい。
 この後、神亀4年(727年)9月には渤海国から高斉徳ら8人の使節が出羽国へ来着した。こちらは『続日本紀』に載っている。当初は24人の使節団だったが、蝦夷との間で紛争が起きて16人が殺され、残る8人が出羽国府を頼って命からがら逃げてきたという。大宰府へ向かう途中で強風に遭い、北へ流されたとも伝えられたが、使節団の目的地は最初から日本海側の東北であったことが、他の文献から判明した。この意味は重大である。

 日本海側が海外使節団の目的地
 小嶋芳孝氏によると、渤海国からの使節は神亀4年から延喜22年(922年)まで34回に及んでいる。およそ2百年間で34回だから多くはないが、使節がどこを目指していたかが注目される。大和朝廷の東北侵攻が活発になる9世紀以降、さすがに渤海船の東北来着はなくなるが、8世紀に渤海船が日本へ来着したのは計15回、うち過半数の8回が越後国以北だった。これらの数字は派遣使節のもの、つまり公的な渤海船のみのデータであって、7世紀の北海道・積丹半島のような交易地への来着はカウントされていない。
 もとより蝦夷(えみし)は国家を持たなかったから、渤海使節の目的は外交でなく、経済取引に比重が置かれていたはずだ。つまり当時の東北は、外国から見て魅力的な物産のあふれる取引市場だった。それは毛皮であったかもしれないし、琥珀やヒスイ玉だったかもしれない。いずれにしても蝦夷社会の豊かさを裏付ける。繰り返すが、縄文から弥生、古墳時代にかけての古代東北は、大陸諸国が目を付けるほど物質的にも豊かだったのである。(おわり)

76 【東北、縄文時代の豊穣⑤】

2020年08月01日 | 言葉
 朝廷を狂喜させた金の産出
 生活への影響という点では米作に及ばないが、陸奥国での日本最初の産金も、古代東北の豊かさを示すものだろう。『続日本紀』天平21年(749年)2月22日条に、陸奥国からの黄金貢進の記事が初めて載った。聖武天皇の喜びようはひと通りでなく、天皇は年号を天平勝宝元年と改めた。   
 記事の内容は、陸奥国守を務めていた百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)が、この地で採れたとして9百両分の黄金を献じた、というもの。産出した場所は現在の宮城県遠田郡涌谷(わくや)町黄金迫(こがねはざま)だった。1両41グラムで計算すると、9百両は約3・7キロに相当する。これだけの量の砂金を採取するには、相応の年月が必要だ。奈良まで運ぶ手間まで考えると、実際の発見は、9百両献上の2年くらい前までさかのぼると推測される。

 東大寺・大仏建立に使われた黄金
 折から聖武天皇は東大寺に大仏を建立中であり、当時メッキに使う金は中国大陸からの輸入に頼るほかに方法がなかった。そこへの突然の産金だったから、天皇にとっても日本国にとっても、天からの恵みになった。聖武天皇は仏教による鎮護国家を目指して全国に国分寺と国分尼寺を建立するほど信心深く、特に東大寺は全国国分寺の中心の寺として位置づけられていた。聖武天皇が突然の産金を奇跡的な出来事として受けとめ、神意ならぬ「仏の意志」と感じたのは当然だ。『万葉集』の編纂者である大伴家持は次のような歌を残している。
 <天皇(すめろぎ)の御代(みよ)栄えむと東(あづま)なる陸奥山(みちのくやま)に黄金(くがね)花咲く>     
 聖武天皇は奇瑞(きずい)を感謝する詔を発した。そのなかに大伴・佐伯の両氏を褒(ほ)める詞章があった。家持は感激して長大な長歌を作った。紹介したのは、その反歌の部分。聖武天皇を始め朝廷忠臣たちの喜ぶさまが、よく伝わっている。

 大仏製作で水銀中毒の余談
 ちなみに当時のメッキ技術では、金と水銀を1対5の割合で加熱して溶かし、アマルガムにして銅の大仏に塗り付けた後、再び加熱して水銀を溶かし落とした。再加熱の際に大量の水銀蒸気が発生するため、吸い込んだ工夫(こうふ)たちは、のちに奇病に苦しんだ。水銀中毒である。文献によると、使用された金は合計4千187両分。最初の9百両分だけでは不足だから、その後も長く採掘が続き、奈良へ送られたはず。ここで採れた金だけで奈良大仏の必要量すべてをカバーし得たのか、それとも一部を中国大陸からの輸入で手当てしたのかは不明である。
 時代が下って平泉の藤原氏、江戸期の伊達氏による金採掘が盛んになると、東北各地に金山が続々と誕生する。しかし、この時はまだ蝦夷たちの時代。伊東氏はその後の発掘調査の際に砂金を採集した経験を『古代東北発掘』で披露している。容易に採取出来るほど砂金が豊富だったうえ、大学に持ち帰って分析してもらうと、非常に高純度だった。だとすれば黄金迫の金はすっかり採り尽くされたわけでなく、さらに産出する余力の残していた可能性がある。夢のふくらむ大きな話だ。

 江戸時代、産金の地を黄金迫でなく宮城県石巻市の金崋山とする説が有力だった。しかし江戸後期の国学者・沖安海(やすみ)が神社の礎石や古瓦などを証拠に文化7年(1810年)、『陸奥国小田郡黄金山神社考』を著し、黄金迫の金産出説を唱えた。沖は伊勢白子(現・三重県鈴鹿市)の人。家は代々、染型紙の販売を業とし、沖も東北地方を行商して回ることが多かった。行商の傍ら史跡を巡り歩き、黄金迫にも立ち寄りって役所跡と瓦などを見つけ、産金地であることを確かめた。

 縄文の宝石、琥珀(こはく)
 さて、金と並ぶ古代東北産の宝物といえば、岩手県久慈産の琥珀である。松柏科植物の樹脂が化石化し、鉱物並みの硬度を持つに至ったものが琥珀だ。黄色から黄褐色、赤褐色まで、黄から赤への微妙な色調が美しく、古代には棗(なつめ)玉や丸玉、勾玉の形で装飾品として使われた。宝石には真珠やサンゴなど動物由来のものもあるが、大半は鉱物で、植物由来の琥珀は珍しい。中国では虎が死ぬと琥珀になるとの言い伝えがあり、琥珀の「琥」はそれに因(ちな)む。
 国内の琥珀産地は現在、久慈のほかに北海道石狩地方や福島県いわき市、千葉県銚子市、岐阜県瑞浪市、神戸市などが知られ、国内では10か所前後の地で産出が確認されている。とりわけ久慈は産出量が多く品質も良かった。久慈市教育委員会の千葉啓蔵氏がまとめたリポート『久慈市平沢Ⅰ遺跡の概要』によると、同市の平沢Ⅰ遺跡では縄文時代後期から平安時代にかけて琥珀加工工房(玉作遺跡)に使用された多数の竪穴住居跡が確認されているという。同じ久慈市長内の中長内遺跡と1キロほど離れた場所にあり、ともに加工工房跡が出土した。

 加工工房であると分かる理由は、出土する琥珀が発掘したままの塊や加工の際に生じる破片、さらに未完成品ばかりであるため。収集品の出土なら完成品が大半になるはずだが、完成品は出土していない。完成品はすべて出荷されたか、半製品の段階まで加工され、その後奈良などの消費地で最終的に加工されたのだろう。集落全体が加工業に携わっていたとすれば、小さな工場の様相を呈していたかもしれない。周辺遺跡からの琥珀出土が確認されていないので、両遺跡が独占排他的な加工専業集落だった可能性もあるという。縄文人が狩猟採集の民というだけでなく、カルテルの必要まで考えた工業の民だったとすれば、まさしく驚きである。(続く)