テロリスト荊軻
荊軻(けいか)は中国戦国時代の末期(紀元前200年代)、秦の始皇帝を刺殺しようとして失敗したテロリスト(刺客、しかく)である。日本人にも、おなじみだろう。<風蕭々(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し 壮士ひとたび去って復(ま)た還(かえ)らず>。暗殺へと旅立つ荊軻が、風寒い野で送別の人たちを前に吟じたフレーズだ。
『史記列伝』によれば、もとは衛(えい)の国の人で、読書と剣術を好み、諸国を巡るうち遊侠の徒と交わるほどに身を落とした。剣術論を戦わせた相手に睨みつけられると無言で去り、博打相手に怒鳴りつけられると逃げた。いつしか「荊軻は臆病者」の噂が立つようになる。燕(えん)の国の田光(でんこう)先生は、しかし、そんな荊軻を「見どころのある人物だ」と篤く遇した。荊軻の運命を決めたのは、燕の国が強国秦の脅威にさらされていたこと。燕の国の太子・丹(たん)は、秦に恭順しないばかりか秦王を激しく憎んでいた。
丹は田光先生に相談し、田光先生は丹に荊軻を紹介する。かくて荊軻自身が、始皇帝への刺客を引き受けることになった。結局、荊軻は始皇帝に面会するも、逃げ回る始皇帝に荊軻の短刀は紙一重の距離で届かず、暗殺は失敗に終わる。荊軻はその場で斬殺された。テロリスト荊軻の短刀がいま少し長ければ、歴史は変わっていたかもしれない。易水のほとりで荊軻を送別した者たちは、荊軻の無念を思って激しく泣いた。かつて剣術論を戦わせて荊軻を睨みつけた相手も、博打絡みで荊軻を怒鳴りつけた相手も、自分の前から逃げたのは荊軻が臆病だったからでなく、つまらぬ争いで傷つけ合う愚かしさを考えたからだと知った。
19世紀ロシア帝政末期、実際に爆弾テロに携わったサヴィンコフがロープシンの筆名で著した『蒼ざめた馬』も、テロリスト群像と時代状況をよく伝えている。テロの実働部隊を指揮する「私」に、若いワーニャが「総督の官邸へ爆弾を投げることは出来ない」と訴えた。それより前、ワーニャたちは街頭を行く総督の馬車へ爆弾を投げようと配置に付いたが、仲間の1人が目前の通過に気づかず失敗に終わっていた。そこで「私」が、馬車ではなく官邸でくつろぐ総督を狙うように作戦変更したのだった。
「出来ないって? なぜだ?」
「子供たちを殺すことには同意出来ない。聞いてくれ、それはしてはならないことだ」
馬車内の総督を狙うならともかく、官邸へ爆弾を投げれば総督の子供たちが巻き添えになる。仕方なく「私」は再び往来の馬車を標的とする作戦に変え、5日後、総督暗殺は成功した。ワーニャは逮捕され、日をおかず処刑される。似た話はロープシンがサヴィンコフの実名で書いた『テロリスト群像』にもある。カリーエフがセルゲイ大公の馬車に向かって爆弾を投げようとした瞬間、同乗する大公夫人や子供たちの姿を見て、爆弾をかざした手を下ろした。
「テロリズム」に2つの意味
「テロリズム」について『デジタル大辞泉』(小学館)は「政治目的を達成するために、暗殺・暴行・粛清・破壊活動など直接的な暴力やその脅威に訴える主義。テロ」と解説している。秦の始皇帝暗殺未遂事件や帝政ロシア末期の爆弾テロ事件は、要人に標的を絞った暗殺事件だ。選挙制度の確立した現代社会では卑劣極まりない暗殺だが、始皇帝やロシア皇帝が絶対権力をふるう時代には、政治を変える効果的な手段だった。現代と同次元では考えにくい。
幼な子の巻き添えを避けて爆弾投擲(とうてき)を思いとどまったテロリストとは対照的に、現代のテロリストは問答無用で不特定多数を狙う。標的の特定と不特定、最小限の1人と多数無差別。これだけ異なるものを「テロ」の1語でひと括りにしてしまうのには無理がある。ニューヨーク同時多発テロ以降、後者のタイプを「新テロリズム」と呼ぶ場合もある。
日本でも坂本竜馬暗殺や大久保利通、伊藤博文の暗殺、昭和の浅沼稲次郎刺殺など、みな政治的反対派を封じる目的のテロ事件だった。西郷隆盛は「なアに、短刀1本で片付く問題でごわす」が口癖だったと伝えられる。米国でも、リンカーン大統領の暗殺(1865年)やケネディ大統領暗殺(1963年)など大統領暗殺事件は4件を数える。
古典的暗殺型から無差別殺傷型へ。言葉は時代とともに変化し、激動の時代ほど意味のブレが大きい。このため現代の国際法にはテロリズムの語に関して統一した定義がない。そうしたなか古典的暗殺型と無差別殺傷型の両タイプで先行してきた米国では、ニューヨーク同時多発テロ後のブッシュ大統領令(13224号)や「愛国者法」制定(2001年)で、テロリズムについて「民間人を脅迫または威圧し、政府の政策に影響を与えること。大量破壊、暗殺、誘拐、人質行為により政府の行動に影響を与えること」と定義した。当然ながら暗殺型より無差別殺傷型に定義の重点が移っている。
「テロリズム」と戦争の境界
最後に「テロリズム」と戦争の境界という問題が残る。実はこれが厄介(やっかい)かつ最も重要なポイントだ。たとえばアルカイダによるニューヨーク同時多発テロと、米空軍によるイスラム過激派支配地域の空爆とでは、本質的に何が異なるのか。互いを戦争状態にある敵国(あるいはIS、アルカイダなど地域支配権力)と見るなら、どちらが仕掛けているのも敵国・支配地域の民間人(非戦闘員)を巻き込んだ攻撃である。北朝鮮の核武装化が「他国民を脅迫し威圧する」テロ行為であることに間違いはないが、であるなら全地球を一瞬にして破壊する米ロ中3国の大量核兵器保有も同質の行為だろう。要は、どちら側から見るか、の違いである。
ベトナム戦争時の米軍による枯葉剤散布は、化学兵器使用の明白なテロ行為だ。歴史をさかのぼれば第二次大戦中の英独両国の都市空爆合戦、なにより米国による日本全土への空爆と二度の原爆投下は、女性や子供などの非戦闘員を巻き込んだ無差別殺傷テロだった。まさしく「民間人を威圧し、大量破壊により政府の行動に(戦争終結を促すべく)影響を与える」(「愛国者法」)テロ行為にほかならない。イスラム過激派による無差別殺傷テロは近年の特徴だが、非戦闘員(民間人)への無差別殺傷テロ自体は新しいものではない。
つまるところ「テロリズム」とは何か。理解のヒントは、無差別殺傷型の「テロリズム」は米国人向けのコトバ、というか米国人が理解しやすいコトバ、という事実だ。理由は、第二次大戦中に空爆を経験した国々と異なり、米国本土では大規模な無差別殺傷テロの経験がなかったからである。米国人にとって民間人(非戦闘員)に対する無差別殺傷テロのイメージを描くには、自身が初めて被害者の立場に立たされたニューヨーク同時多発テロ事件のケース1つで十分なのだ。ところが第二次大戦の記憶が残る日本人には、米国人のような、すっきりした解釈は成立しにくい。「テロリズム」というコトバに関して日本人と米国人とでは受けとめ方に微妙な違いがあることを、少なくとも日本人の側は心しておくべきかもしれない。
荊軻(けいか)は中国戦国時代の末期(紀元前200年代)、秦の始皇帝を刺殺しようとして失敗したテロリスト(刺客、しかく)である。日本人にも、おなじみだろう。<風蕭々(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し 壮士ひとたび去って復(ま)た還(かえ)らず>。暗殺へと旅立つ荊軻が、風寒い野で送別の人たちを前に吟じたフレーズだ。
『史記列伝』によれば、もとは衛(えい)の国の人で、読書と剣術を好み、諸国を巡るうち遊侠の徒と交わるほどに身を落とした。剣術論を戦わせた相手に睨みつけられると無言で去り、博打相手に怒鳴りつけられると逃げた。いつしか「荊軻は臆病者」の噂が立つようになる。燕(えん)の国の田光(でんこう)先生は、しかし、そんな荊軻を「見どころのある人物だ」と篤く遇した。荊軻の運命を決めたのは、燕の国が強国秦の脅威にさらされていたこと。燕の国の太子・丹(たん)は、秦に恭順しないばかりか秦王を激しく憎んでいた。
丹は田光先生に相談し、田光先生は丹に荊軻を紹介する。かくて荊軻自身が、始皇帝への刺客を引き受けることになった。結局、荊軻は始皇帝に面会するも、逃げ回る始皇帝に荊軻の短刀は紙一重の距離で届かず、暗殺は失敗に終わる。荊軻はその場で斬殺された。テロリスト荊軻の短刀がいま少し長ければ、歴史は変わっていたかもしれない。易水のほとりで荊軻を送別した者たちは、荊軻の無念を思って激しく泣いた。かつて剣術論を戦わせて荊軻を睨みつけた相手も、博打絡みで荊軻を怒鳴りつけた相手も、自分の前から逃げたのは荊軻が臆病だったからでなく、つまらぬ争いで傷つけ合う愚かしさを考えたからだと知った。
19世紀ロシア帝政末期、実際に爆弾テロに携わったサヴィンコフがロープシンの筆名で著した『蒼ざめた馬』も、テロリスト群像と時代状況をよく伝えている。テロの実働部隊を指揮する「私」に、若いワーニャが「総督の官邸へ爆弾を投げることは出来ない」と訴えた。それより前、ワーニャたちは街頭を行く総督の馬車へ爆弾を投げようと配置に付いたが、仲間の1人が目前の通過に気づかず失敗に終わっていた。そこで「私」が、馬車ではなく官邸でくつろぐ総督を狙うように作戦変更したのだった。
「出来ないって? なぜだ?」
「子供たちを殺すことには同意出来ない。聞いてくれ、それはしてはならないことだ」
馬車内の総督を狙うならともかく、官邸へ爆弾を投げれば総督の子供たちが巻き添えになる。仕方なく「私」は再び往来の馬車を標的とする作戦に変え、5日後、総督暗殺は成功した。ワーニャは逮捕され、日をおかず処刑される。似た話はロープシンがサヴィンコフの実名で書いた『テロリスト群像』にもある。カリーエフがセルゲイ大公の馬車に向かって爆弾を投げようとした瞬間、同乗する大公夫人や子供たちの姿を見て、爆弾をかざした手を下ろした。
「テロリズム」に2つの意味
「テロリズム」について『デジタル大辞泉』(小学館)は「政治目的を達成するために、暗殺・暴行・粛清・破壊活動など直接的な暴力やその脅威に訴える主義。テロ」と解説している。秦の始皇帝暗殺未遂事件や帝政ロシア末期の爆弾テロ事件は、要人に標的を絞った暗殺事件だ。選挙制度の確立した現代社会では卑劣極まりない暗殺だが、始皇帝やロシア皇帝が絶対権力をふるう時代には、政治を変える効果的な手段だった。現代と同次元では考えにくい。
幼な子の巻き添えを避けて爆弾投擲(とうてき)を思いとどまったテロリストとは対照的に、現代のテロリストは問答無用で不特定多数を狙う。標的の特定と不特定、最小限の1人と多数無差別。これだけ異なるものを「テロ」の1語でひと括りにしてしまうのには無理がある。ニューヨーク同時多発テロ以降、後者のタイプを「新テロリズム」と呼ぶ場合もある。
日本でも坂本竜馬暗殺や大久保利通、伊藤博文の暗殺、昭和の浅沼稲次郎刺殺など、みな政治的反対派を封じる目的のテロ事件だった。西郷隆盛は「なアに、短刀1本で片付く問題でごわす」が口癖だったと伝えられる。米国でも、リンカーン大統領の暗殺(1865年)やケネディ大統領暗殺(1963年)など大統領暗殺事件は4件を数える。
古典的暗殺型から無差別殺傷型へ。言葉は時代とともに変化し、激動の時代ほど意味のブレが大きい。このため現代の国際法にはテロリズムの語に関して統一した定義がない。そうしたなか古典的暗殺型と無差別殺傷型の両タイプで先行してきた米国では、ニューヨーク同時多発テロ後のブッシュ大統領令(13224号)や「愛国者法」制定(2001年)で、テロリズムについて「民間人を脅迫または威圧し、政府の政策に影響を与えること。大量破壊、暗殺、誘拐、人質行為により政府の行動に影響を与えること」と定義した。当然ながら暗殺型より無差別殺傷型に定義の重点が移っている。
「テロリズム」と戦争の境界
最後に「テロリズム」と戦争の境界という問題が残る。実はこれが厄介(やっかい)かつ最も重要なポイントだ。たとえばアルカイダによるニューヨーク同時多発テロと、米空軍によるイスラム過激派支配地域の空爆とでは、本質的に何が異なるのか。互いを戦争状態にある敵国(あるいはIS、アルカイダなど地域支配権力)と見るなら、どちらが仕掛けているのも敵国・支配地域の民間人(非戦闘員)を巻き込んだ攻撃である。北朝鮮の核武装化が「他国民を脅迫し威圧する」テロ行為であることに間違いはないが、であるなら全地球を一瞬にして破壊する米ロ中3国の大量核兵器保有も同質の行為だろう。要は、どちら側から見るか、の違いである。
ベトナム戦争時の米軍による枯葉剤散布は、化学兵器使用の明白なテロ行為だ。歴史をさかのぼれば第二次大戦中の英独両国の都市空爆合戦、なにより米国による日本全土への空爆と二度の原爆投下は、女性や子供などの非戦闘員を巻き込んだ無差別殺傷テロだった。まさしく「民間人を威圧し、大量破壊により政府の行動に(戦争終結を促すべく)影響を与える」(「愛国者法」)テロ行為にほかならない。イスラム過激派による無差別殺傷テロは近年の特徴だが、非戦闘員(民間人)への無差別殺傷テロ自体は新しいものではない。
つまるところ「テロリズム」とは何か。理解のヒントは、無差別殺傷型の「テロリズム」は米国人向けのコトバ、というか米国人が理解しやすいコトバ、という事実だ。理由は、第二次大戦中に空爆を経験した国々と異なり、米国本土では大規模な無差別殺傷テロの経験がなかったからである。米国人にとって民間人(非戦闘員)に対する無差別殺傷テロのイメージを描くには、自身が初めて被害者の立場に立たされたニューヨーク同時多発テロ事件のケース1つで十分なのだ。ところが第二次大戦の記憶が残る日本人には、米国人のような、すっきりした解釈は成立しにくい。「テロリズム」というコトバに関して日本人と米国人とでは受けとめ方に微妙な違いがあることを、少なくとも日本人の側は心しておくべきかもしれない。