蝦夷は強き人の代名詞
「蝦夷」は都にあっても強き人の代名詞で、自分の名にこの字を使う人が少なからずいた。代表的なところでは絶対権力者として君臨したのち中大兄皇子(天智天皇)や中臣鎌足(藤原鎌足)との政争に敗れて、自害した蘇我蝦夷(そがのえみし)がいる。名の「蝦夷」は死後に諡号(しごう、おくりな)として侮蔑の意味から強制的に改名させられた、との説もある。時代が下がると、左大弁の要職ののち桓武天皇のもとで参議を務めた佐伯今毛人(さえきのいまえみし)がいた。この人は侮蔑の諡号を贈られる理由がなく、在世中も「今毛人」を名乗っていたようだ。筆者としては蘇我蝦夷の「蝦夷」も、強き人の意を込めて在世中から自ら名乗っていたと考えたい。
歴史書の中には「夷」の字を分解して「大きな弓を持つ民」と解説している例がある。「夷」という字を根拠に、弓人(ユミシ)や弓師(ユミシ)から蝦夷(エミシ)の語へ転訛した、というもの。本当らしく聞こえるが、大陸の東夷は知らず、日本の蝦夷についての説明であれば誤解の余地がありそうだ。日本の蝦夷たちは、倭人が使っていた倭弓(槻弓=つきゆみ)よりずっと短く、長さが半分ほどの猪弓(さつゆみ)を使っていた。ゆえに日本の蝦夷にあてはめるなら「大弓」でなく「小弓」のはずである。
ちなみに小さな弓の理由は森や林の中で扱いやすいためだ。蝦夷軍の兵士は山での狩猟を生業(なりわい)とする山夷(さんい)が多かった。山野で猪や鹿を狩る場合、長く大きな弓だと木につかえて使いにくい。大弓は射程距離も長く威力十分だが、蝦夷は狩りで鏃(やじり)に毒(アイヌ語でシュルク、スルク)を塗ったから、獲物に傷さえつければ十分だった。シュルクは対人戦でも使用しただろう。
変わる「化外(けがい)の民」の呼称
中国の「中華思想」は「華夏」という素朴な愛郷心から出発したが、時代の波の中で幾たびか変質した(5「中華思想と覇権主義」参照)。倭国が『日本書紀』の景行紀で描いた獣のごとき蝦夷像は、本国の中華思想を真似て極端な一面を拝借した結果である。そうした理由もあって大和朝廷の蝦夷に対する呼称は微妙に変化した。
谷川健一氏が『白鳥伝説』(集英社刊)の中で、言語学者・金田一京助氏の説を紹介している。金田一氏が大正12年に『考古学雑誌』へ発表した論文によると『日本書紀』の神武紀に「愛ミ詩」という語が登場し、このときは蝦夷を指す言葉だった。平安時代になるとエミシ、エビス、エビシのいずれも意味が広くなり、単に野蛮人を意味する語になった。この頃「エゾ」という語も登場する。エミシもエゾも語源はアイヌ語の「人」。谷川氏は「これを見る限り、アイヌ=エミシ説は自然である」と書いている。「蝦夷」は古代から「エミシ」と読み、平安時代末以降は「エゾ」と読むようになったようだ。
熊谷公男氏は8世紀以降、蝦夷のヒゲや多毛といった特徴を記す史料は見られなくなり、「異相性をヒゲもしくは体毛によって象徴するような観念は比較的早く消滅してしまうようである」と指摘する(『古代の蝦夷と城柵』)。9世紀以降は「蝦夷」や「蝦狄」といった語もあまり使われなくなり単に「夷」や「狄」の語で記された。理由について氏は、貴族、一般民衆の階層を問わず、征討戦や交易を通して蝦夷に接する機会が増えたことを挙げている。ここに至って、異国の書からの引き写しや編纂者の想像といった観念的蝦夷観から、やっと脱した、ということだろう。
「俘囚」や「夷俘」の登場
やがて蝦夷の呼称に「俘囚(ふしゅう)」や「夷俘(いふ)」が登場するようになる。まず8世紀前半に「俘囚」の語が生まれた。「俘」も「囚」も戦利品や捕虜の意だが、実際は必ずしも「俘囚」は捕虜を意味せず、積極的に帰化してきた蝦夷も含まれた。反抗的な蝦夷の呼称は「蝦夷」のままだったから、大まかに言って蝦夷は「俘囚」と「蝦夷」の二種類に分けられたと推測される。
8世紀も後半になると、反抗的な蝦夷の中から新たに「夷俘(いふ)」と呼ばれる人たちが登場し始める。東征が進み倭国軍が支配地を拡大した結果、帰化する蝦夷が増え、そのような人々が「夷俘」と呼ばれた。王権秩序の外側にいるのが「夷俘」で、内側にいるのが「俘囚」。どちらも捕虜の意味の「俘」や「囚」が付く。
『続日本紀』宝亀8年(777年)3月の記事に「是の月、陸奥の夷俘の来たり降(くだ)る者、道に相望めり」とある。投降者が多く道を埋め尽くすほど、と。歴史に名高い宝亀11年(780年)の「伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)の乱」では、伊治郡の大領(郡長)だった呰麻呂について「もと是、夷俘の種なり」と書いている。夷俘の出身である、と。「俘囚」も「夷俘」も違いがないように思われがちだが、当時の人たちにとれば峻別(しゅんべつ)すべき問題だった。
「夷俘と号するのを止めるべき」
桓武天皇の第二皇子で、桓武の次の次に皇位に就いた嵯峨天皇は、弘仁6年(815年)12月に次のような勅を発した。
〈帰順した夷俘は前後でかなりの員数になっている。そこで、適宜各地に居住させているが、官司(かんし)・百姓は彼らの姓名を称さず、常に夷俘と号している。すでに内国の風習に慣れているので(夷俘たちは)それを恥じている。すみやかに告知して、夷俘と号するのを止めるべきである。今後は官位により称するようにせよ。もし官位がなければ姓名を称せ〉(森田悌訳『日本後紀』中、講談社学術文庫)
移配地の夷俘に限られた措置ながら、蝦夷たちのプライドに配慮してのことだ。ただし翌弘仁7年には「夷俘の性、皇化に馴れるといえども野心なお存す」の文言も出てくる。せっかくの勅令にもかかわらず蝦夷蔑視の風潮が変わっていない実態が見てとれる。
蝦夷軍のリーダーだった阿弖流為(あてるい)の降伏後も、承和6年(839年)、斉衡2年(855年)と、陸奥の蝦夷は不穏な動きを見せた。元慶(がんぎょう)2年(878年)には出羽国・秋田城下で「元慶の乱」と呼ばれる大規模な蝦夷の反乱が起きた。前線の官人たちは、なお対蝦夷戦に懸命だったわけで、いくら嵯峨天皇が「夷俘と号するのを止めるべき」の勅を出したところで、実情には必ずしも合わなかったのである。(終わり)
「蝦夷」は都にあっても強き人の代名詞で、自分の名にこの字を使う人が少なからずいた。代表的なところでは絶対権力者として君臨したのち中大兄皇子(天智天皇)や中臣鎌足(藤原鎌足)との政争に敗れて、自害した蘇我蝦夷(そがのえみし)がいる。名の「蝦夷」は死後に諡号(しごう、おくりな)として侮蔑の意味から強制的に改名させられた、との説もある。時代が下がると、左大弁の要職ののち桓武天皇のもとで参議を務めた佐伯今毛人(さえきのいまえみし)がいた。この人は侮蔑の諡号を贈られる理由がなく、在世中も「今毛人」を名乗っていたようだ。筆者としては蘇我蝦夷の「蝦夷」も、強き人の意を込めて在世中から自ら名乗っていたと考えたい。
歴史書の中には「夷」の字を分解して「大きな弓を持つ民」と解説している例がある。「夷」という字を根拠に、弓人(ユミシ)や弓師(ユミシ)から蝦夷(エミシ)の語へ転訛した、というもの。本当らしく聞こえるが、大陸の東夷は知らず、日本の蝦夷についての説明であれば誤解の余地がありそうだ。日本の蝦夷たちは、倭人が使っていた倭弓(槻弓=つきゆみ)よりずっと短く、長さが半分ほどの猪弓(さつゆみ)を使っていた。ゆえに日本の蝦夷にあてはめるなら「大弓」でなく「小弓」のはずである。
ちなみに小さな弓の理由は森や林の中で扱いやすいためだ。蝦夷軍の兵士は山での狩猟を生業(なりわい)とする山夷(さんい)が多かった。山野で猪や鹿を狩る場合、長く大きな弓だと木につかえて使いにくい。大弓は射程距離も長く威力十分だが、蝦夷は狩りで鏃(やじり)に毒(アイヌ語でシュルク、スルク)を塗ったから、獲物に傷さえつければ十分だった。シュルクは対人戦でも使用しただろう。
変わる「化外(けがい)の民」の呼称
中国の「中華思想」は「華夏」という素朴な愛郷心から出発したが、時代の波の中で幾たびか変質した(5「中華思想と覇権主義」参照)。倭国が『日本書紀』の景行紀で描いた獣のごとき蝦夷像は、本国の中華思想を真似て極端な一面を拝借した結果である。そうした理由もあって大和朝廷の蝦夷に対する呼称は微妙に変化した。
谷川健一氏が『白鳥伝説』(集英社刊)の中で、言語学者・金田一京助氏の説を紹介している。金田一氏が大正12年に『考古学雑誌』へ発表した論文によると『日本書紀』の神武紀に「愛ミ詩」という語が登場し、このときは蝦夷を指す言葉だった。平安時代になるとエミシ、エビス、エビシのいずれも意味が広くなり、単に野蛮人を意味する語になった。この頃「エゾ」という語も登場する。エミシもエゾも語源はアイヌ語の「人」。谷川氏は「これを見る限り、アイヌ=エミシ説は自然である」と書いている。「蝦夷」は古代から「エミシ」と読み、平安時代末以降は「エゾ」と読むようになったようだ。
熊谷公男氏は8世紀以降、蝦夷のヒゲや多毛といった特徴を記す史料は見られなくなり、「異相性をヒゲもしくは体毛によって象徴するような観念は比較的早く消滅してしまうようである」と指摘する(『古代の蝦夷と城柵』)。9世紀以降は「蝦夷」や「蝦狄」といった語もあまり使われなくなり単に「夷」や「狄」の語で記された。理由について氏は、貴族、一般民衆の階層を問わず、征討戦や交易を通して蝦夷に接する機会が増えたことを挙げている。ここに至って、異国の書からの引き写しや編纂者の想像といった観念的蝦夷観から、やっと脱した、ということだろう。
「俘囚」や「夷俘」の登場
やがて蝦夷の呼称に「俘囚(ふしゅう)」や「夷俘(いふ)」が登場するようになる。まず8世紀前半に「俘囚」の語が生まれた。「俘」も「囚」も戦利品や捕虜の意だが、実際は必ずしも「俘囚」は捕虜を意味せず、積極的に帰化してきた蝦夷も含まれた。反抗的な蝦夷の呼称は「蝦夷」のままだったから、大まかに言って蝦夷は「俘囚」と「蝦夷」の二種類に分けられたと推測される。
8世紀も後半になると、反抗的な蝦夷の中から新たに「夷俘(いふ)」と呼ばれる人たちが登場し始める。東征が進み倭国軍が支配地を拡大した結果、帰化する蝦夷が増え、そのような人々が「夷俘」と呼ばれた。王権秩序の外側にいるのが「夷俘」で、内側にいるのが「俘囚」。どちらも捕虜の意味の「俘」や「囚」が付く。
『続日本紀』宝亀8年(777年)3月の記事に「是の月、陸奥の夷俘の来たり降(くだ)る者、道に相望めり」とある。投降者が多く道を埋め尽くすほど、と。歴史に名高い宝亀11年(780年)の「伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)の乱」では、伊治郡の大領(郡長)だった呰麻呂について「もと是、夷俘の種なり」と書いている。夷俘の出身である、と。「俘囚」も「夷俘」も違いがないように思われがちだが、当時の人たちにとれば峻別(しゅんべつ)すべき問題だった。
「夷俘と号するのを止めるべき」
桓武天皇の第二皇子で、桓武の次の次に皇位に就いた嵯峨天皇は、弘仁6年(815年)12月に次のような勅を発した。
〈帰順した夷俘は前後でかなりの員数になっている。そこで、適宜各地に居住させているが、官司(かんし)・百姓は彼らの姓名を称さず、常に夷俘と号している。すでに内国の風習に慣れているので(夷俘たちは)それを恥じている。すみやかに告知して、夷俘と号するのを止めるべきである。今後は官位により称するようにせよ。もし官位がなければ姓名を称せ〉(森田悌訳『日本後紀』中、講談社学術文庫)
移配地の夷俘に限られた措置ながら、蝦夷たちのプライドに配慮してのことだ。ただし翌弘仁7年には「夷俘の性、皇化に馴れるといえども野心なお存す」の文言も出てくる。せっかくの勅令にもかかわらず蝦夷蔑視の風潮が変わっていない実態が見てとれる。
蝦夷軍のリーダーだった阿弖流為(あてるい)の降伏後も、承和6年(839年)、斉衡2年(855年)と、陸奥の蝦夷は不穏な動きを見せた。元慶(がんぎょう)2年(878年)には出羽国・秋田城下で「元慶の乱」と呼ばれる大規模な蝦夷の反乱が起きた。前線の官人たちは、なお対蝦夷戦に懸命だったわけで、いくら嵯峨天皇が「夷俘と号するのを止めるべき」の勅を出したところで、実情には必ずしも合わなかったのである。(終わり)