斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

83 【古代朝廷のフェイク作戦・下】

2021年04月24日 | 言葉
 蝦夷は強き人の代名詞 
 「蝦夷」は都にあっても強き人の代名詞で、自分の名にこの字を使う人が少なからずいた。代表的なところでは絶対権力者として君臨したのち中大兄皇子(天智天皇)や中臣鎌足(藤原鎌足)との政争に敗れて、自害した蘇我蝦夷(そがのえみし)がいる。名の「蝦夷」は死後に諡号(しごう、おくりな)として侮蔑の意味から強制的に改名させられた、との説もある。時代が下がると、左大弁の要職ののち桓武天皇のもとで参議を務めた佐伯今毛人(さえきのいまえみし)がいた。この人は侮蔑の諡号を贈られる理由がなく、在世中も「今毛人」を名乗っていたようだ。筆者としては蘇我蝦夷の「蝦夷」も、強き人の意を込めて在世中から自ら名乗っていたと考えたい。

 歴史書の中には「夷」の字を分解して「大きな弓を持つ民」と解説している例がある。「夷」という字を根拠に、弓人(ユミシ)や弓師(ユミシ)から蝦夷(エミシ)の語へ転訛した、というもの。本当らしく聞こえるが、大陸の東夷は知らず、日本の蝦夷についての説明であれば誤解の余地がありそうだ。日本の蝦夷たちは、倭人が使っていた倭弓(槻弓=つきゆみ)よりずっと短く、長さが半分ほどの猪弓(さつゆみ)を使っていた。ゆえに日本の蝦夷にあてはめるなら「大弓」でなく「小弓」のはずである。
 
 ちなみに小さな弓の理由は森や林の中で扱いやすいためだ。蝦夷軍の兵士は山での狩猟を生業(なりわい)とする山夷(さんい)が多かった。山野で猪や鹿を狩る場合、長く大きな弓だと木につかえて使いにくい。大弓は射程距離も長く威力十分だが、蝦夷は狩りで鏃(やじり)に毒(アイヌ語でシュルク、スルク)を塗ったから、獲物に傷さえつければ十分だった。シュルクは対人戦でも使用しただろう。

 変わる「化外(けがい)の民」の呼称
 中国の「中華思想」は「華夏」という素朴な愛郷心から出発したが、時代の波の中で幾たびか変質した(5「中華思想と覇権主義」参照)。倭国が『日本書紀』の景行紀で描いた獣のごとき蝦夷像は、本国の中華思想を真似て極端な一面を拝借した結果である。そうした理由もあって大和朝廷の蝦夷に対する呼称は微妙に変化した。
 
 谷川健一氏が『白鳥伝説』(集英社刊)の中で、言語学者・金田一京助氏の説を紹介している。金田一氏が大正12年に『考古学雑誌』へ発表した論文によると『日本書紀』の神武紀に「愛ミ詩」という語が登場し、このときは蝦夷を指す言葉だった。平安時代になるとエミシ、エビス、エビシのいずれも意味が広くなり、単に野蛮人を意味する語になった。この頃「エゾ」という語も登場する。エミシもエゾも語源はアイヌ語の「人」。谷川氏は「これを見る限り、アイヌ=エミシ説は自然である」と書いている。「蝦夷」は古代から「エミシ」と読み、平安時代末以降は「エゾ」と読むようになったようだ。

 熊谷公男氏は8世紀以降、蝦夷のヒゲや多毛といった特徴を記す史料は見られなくなり、「異相性をヒゲもしくは体毛によって象徴するような観念は比較的早く消滅してしまうようである」と指摘する(『古代の蝦夷と城柵』)。9世紀以降は「蝦夷」や「蝦狄」といった語もあまり使われなくなり単に「夷」や「狄」の語で記された。理由について氏は、貴族、一般民衆の階層を問わず、征討戦や交易を通して蝦夷に接する機会が増えたことを挙げている。ここに至って、異国の書からの引き写しや編纂者の想像といった観念的蝦夷観から、やっと脱した、ということだろう。

 「俘囚」や「夷俘」の登場
 やがて蝦夷の呼称に「俘囚(ふしゅう)」や「夷俘(いふ)」が登場するようになる。まず8世紀前半に「俘囚」の語が生まれた。「俘」も「囚」も戦利品や捕虜の意だが、実際は必ずしも「俘囚」は捕虜を意味せず、積極的に帰化してきた蝦夷も含まれた。反抗的な蝦夷の呼称は「蝦夷」のままだったから、大まかに言って蝦夷は「俘囚」と「蝦夷」の二種類に分けられたと推測される。
 8世紀も後半になると、反抗的な蝦夷の中から新たに「夷俘(いふ)」と呼ばれる人たちが登場し始める。東征が進み倭国軍が支配地を拡大した結果、帰化する蝦夷が増え、そのような人々が「夷俘」と呼ばれた。王権秩序の外側にいるのが「夷俘」で、内側にいるのが「俘囚」。どちらも捕虜の意味の「俘」や「囚」が付く。

 『続日本紀』宝亀8年(777年)3月の記事に「是の月、陸奥の夷俘の来たり降(くだ)る者、道に相望めり」とある。投降者が多く道を埋め尽くすほど、と。歴史に名高い宝亀11年(780年)の「伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)の乱」では、伊治郡の大領(郡長)だった呰麻呂について「もと是、夷俘の種なり」と書いている。夷俘の出身である、と。「俘囚」も「夷俘」も違いがないように思われがちだが、当時の人たちにとれば峻別(しゅんべつ)すべき問題だった。

 「夷俘と号するのを止めるべき」
 桓武天皇の第二皇子で、桓武の次の次に皇位に就いた嵯峨天皇は、弘仁6年(815年)12月に次のような勅を発した。
〈帰順した夷俘は前後でかなりの員数になっている。そこで、適宜各地に居住させているが、官司(かんし)・百姓は彼らの姓名を称さず、常に夷俘と号している。すでに内国の風習に慣れているので(夷俘たちは)それを恥じている。すみやかに告知して、夷俘と号するのを止めるべきである。今後は官位により称するようにせよ。もし官位がなければ姓名を称せ〉(森田悌訳『日本後紀』中、講談社学術文庫)

 移配地の夷俘に限られた措置ながら、蝦夷たちのプライドに配慮してのことだ。ただし翌弘仁7年には「夷俘の性、皇化に馴れるといえども野心なお存す」の文言も出てくる。せっかくの勅令にもかかわらず蝦夷蔑視の風潮が変わっていない実態が見てとれる。
 蝦夷軍のリーダーだった阿弖流為(あてるい)の降伏後も、承和6年(839年)、斉衡2年(855年)と、陸奥の蝦夷は不穏な動きを見せた。元慶(がんぎょう)2年(878年)には出羽国・秋田城下で「元慶の乱」と呼ばれる大規模な蝦夷の反乱が起きた。前線の官人たちは、なお対蝦夷戦に懸命だったわけで、いくら嵯峨天皇が「夷俘と号するのを止めるべき」の勅を出したところで、実情には必ずしも合わなかったのである。(終わり)

82 【古代朝廷のフェイク作戦・中】

2021年04月17日 | 言葉
 
 あえて侮蔑的な表現
 時に集団同士の争いごとが起こるのは農耕民の社会も同じはずである。「不利と見れば退却」するのも農耕民と遊牧民に違いはあるまい。逃走も戦術のうちであって、卑怯云々といった次元の問題ではない。農耕社会では上下を問わず「個人的利益」に無関心かと問えば、「然り」と答える農耕民は皆無だろう。「礼儀とか道義とかを知らない」も同様で、古今東西どの社会にも程度の差こそあれ礼儀や道義をわきまえた人もいれば、わきまえない人もいる。

 草原の民は穀物を作らず、衣や食は動物に依存する。低温寒冷の地で身体を酷使する毎日では、肉や乳製品が効率的な活力源となり、皮革や毛織は防寒性にすぐれた服になる。広大な草原で激しく馬を駆る日常だから、目一杯に体を酷使して働く若者が食の面でも優先され、あまり働けない老人は二の次になっても仕方がない。遊牧民たちの厳しい自然環境を考えることなく、年長者を敬う儒教道徳を持ち出しても始まらない。
 
 要は遊牧民と農耕民とでは生活の条件や基盤が異なるのだ。『史記』は農耕民である漢民族の視点に立つ書だから、紹介したような表現になるのも当然だろう。留意すべきは『史記』と『日本書紀』との描写の違い、トーンの違いである。お気づきの方もおられようが、異なる民に対する侮蔑的な色合いは『日本書紀』の方が甚だしい。『史記』は北方遊牧民の風変わりな生活ぶりを、漢民族の一方的な視点で伝えてはいるが、意図的な侮蔑の念までは読み取れない。ところが『日本書紀』の蝦夷は最初から「撃(う)ちて取るべき」対象であったため、征討を正当化すべく、意図的に獣じみた存在として描いている。
 
 フェイク情報の意図するもの
 このように『日本書紀』に描かれた蝦夷像は「想像の産物」であり、『史記』の表現を真似ないし参考にした形跡が見て取れる。この時代にあって事実を捏造する(フェイクする)目的は、現代のように広く国民に流すことで世論を誘導し、選挙の一票に結び付けようとするためでは、もちろんない。大和朝廷の正当性とそれゆえの正統性とを、後世に長く主張するためのものだ。

 「毛人」から「蝦夷」へ
 「夷」は中華思想の「東夷」からとった。「蝦」については説が分かれる。「蝦」にはエビおよびガマガエル(ヒキガエル)の意味がある。蝦蟇(がま)の「蝦」。エビ(海老)説の方が有力で、エビには長いヒゲがあることから、多毛が特徴の蝦夷になぞらえた、と。江戸期の国学者・本居宣長も著書の『古事記伝』の中で、この説を支持している。
 どちらが本当だろうか。ガマガエルの連想は「蝦蟇」の字面(じづら)だけが根拠のようで、説得力は感じられない。体の特徴から言えば、多毛を根拠としたエビ説の方が納得しやすい。蝦夷と書く以前は「毛人」と書いて「エミシ」と読んでいた。高橋富雄氏は、『日本書紀』で「毛人」を使ったのは一例だけで、次の正史である『続日本紀』では「蝦夷」の表記のみとなり、「毛人」の使用はない、と指摘している(中公新書『蝦夷』)。工藤雅樹氏も、漢字表記が「毛人」から「蝦夷」に変わるのは7世紀後半からだと書いている(『古代蝦夷』、吉川弘文館刊)。なぜ「毛人」から「蝦夷」の表記へ変わったのか。戦闘を通じて接触の機会が増え、倭人側がエミシの真の姿を認識するようになった、とは言えまいか。

 「毛人」の表記も模倣?
 さらに「毛人」の起源については興味深い事実がある。中国の戦国時代から漢代にかけて成立した地理書の『山海経(せんがいきょう)』の中で、東の辺境に住む異民族に「毛民(毛人)」の字が使われていることだ。日本で当初「毛人」と表記された理由は、ここが起源とも考えられる。そして、この書が起源だとすれば別の疑問も生じる。大陸東方の辺境に多毛の異民族がいたとして、倭国の東北にも同じように多毛の「蝦夷」がいたというのは、話として出来過ぎではないか。偶然の一致か、それとも無理を承知の創作だったのか。
 ここに蝦夷は必ずしも多毛ではなかったと推測する余地が、あるように思われる。もともと体質的に多毛だったのではなく、顔などのヒゲを剃らずに伸ばしておく習慣によって多毛に見えた、ということだ。現代人でもヒゲを伸ばし放題にしている人は多毛に見える。まして北国の蝦夷と都の倭人とでは、接触機会が少ないぶん正確な認識は得にくい。この推測が成り立つなら、日中両国の古文献がともに東方の民を「毛人」と記した偶然(?)も『続日本紀』から「毛人」の表記が消えた理由も、どちらも納得がいく。

 蝦夷=エミシは当て字
 本題に戻ろう。蝦夷の「蝦」も「夷」も、どちらも本来「エミシ」とは読まない。広い意味の当て字、いわゆる熟字訓(じゅくじくん)である。海老をエビ、小豆をアズキ、桜桃をサクランボ、また銀杏をイチョウと読ませる類(たぐい)だ。『礼記』王制篇には「夷とは根本の意味である」と書かれいる。そのような良い意味がある一方で『後漢書』には「夷を以て夷を制す」(異民族を利用して異民族をおさえる=『大辞林』三省堂)の言葉もある。日本同様に「夷」が野蛮人や辺境の民の意味で使われる場合が多かった。
 日本では「東夷」を「あずまえびす」と読み、京の都を遠く離れた東国の田舎者や荒くれ者、東国武士などを指した。「夷」も「狄」も「えびす」と読むが、七福神の恵比寿様とは関係がない。「夷」は「妖夷(ようい)」の「夷」で、妖夷すなわち狢(むじな)の意。匈奴や蒙古を指した「北狄(ほくてき)」の「狄」には犬の意味もある。どちらもケモノヘンが付き、人間ではない。実態を見ることなく、字義だけから判断して倭国側が「東夷」を獣のごとく描写したのには、このような理由や背景があった。(続く)

81 【古代朝廷のフェイク作戦・上】

2021年04月09日 | 言葉
 貶(おとし)められた蝦夷(えみし)
 『日本書紀』によれば第12代天皇の景行(けいこう)天皇は、紀元71年に即位し、同130年に106歳で崩御した。同書の景行天皇紀に蝦夷(えみし)の生活ぶりを描いた、次のような一節がある。蝦夷(みえし)とは古代東北に暮らしていた人たちを指し、蝦夷(えぞ)とは意味するところが異なる。

<其〈か)の東の夷(ひな)は識性(たましい)暴(あら)び強(こわ)し。凌犯(しのぎおかすこと)を宗(むね)とす。村に長(おさ)なく邑(むら)に首(おびと)なし。各境を貪りて並びに相盗(あいかす)む。亦(また)山に邪(あ)しき神あり。郊(のら)に姦鬼あり。ちまたに遮り径を塞ぐ。多(おおい)に人を苦びしむ。其の東の夷の中に、蝦夷は是尤(はなはだ)強し。男女交わり居りて父子別なし。冬は穴に宿(ね)、夏は樔(す)に住む。毛を衣(し)き血を飲みて、昆弟(このかみおとと)相疑う。山に登ること飛ぶ禽(とり)の如く、草を行(はし)ること走(に)ぐる獣の如し。恩を承けては忘る。怨(あだ)を見ては必ず報ゆ。是を以って、箭(や)を頭髻(かみふさ)に蔵(かく)し、刀を衣の中に佩(は)く。或いは党類(ともがら)を聚(あつ)めて辺境を犯す。或いは農桑(なりわいのとき)を伺ひて人民を略(かす)む。撃てば草に隠る。追えば山に入る。故(かれ)、往古(いにしえ)より以来(このかた)、未だ王化(おうか)に染(したが)はず>(景行天皇四十年紀)

 景行紀の真の主役は第二皇子の小碓尊(おうすのみこと)こと日本武尊(やまとたけるのみこと)である。紹介した一節は日本武尊の東征に際し、討つべき東国蝦夷の生活実態を描写したものだ。蝦夷(えみし)と呼ばれた人たちがいかに劣等で悪しき民であるかを強調することにより、日本武尊の東征を正当化しようとした。服従させることが敵にとっても救済にもなるというのは、古今東西よく使われてきた征服者の論理。ポイントは、蝦夷と呼ばれた人たちが、かくも後進未開の民だったのか、である。

 描写された姿はいつの時代のものか。冒頭の景行天皇の在位期間からすると、紀元1世紀後半から2世紀前半にかけての蝦夷描写と考えるのが妥当だ。ただし当時の日本民族は文字を持たなかったから、文献に記された蝦夷情報ではない。『日本書紀』の成立は、はるか後の養老4年(720年)であり、普通に考えれば編者が見聞した同時代の蝦夷像を基に、想像力を6百年余前に遡らせて創作した、ということになる。要は想像力の産物なので誇張がひどくても不思議はない。
 折しも『日本書紀』の成立する頃あたりから、朝廷による東征が本格化した。当然ながら蝦夷たちの抵抗も活発になる。658年、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が東北各地へ遠征する。奈良時代初頭の709年には巨勢麻呂(こせのまろ)が東北の地で軍事行動を展開した。奈良時代も終わりに近い774年に至ると、蝦夷たちが桃生城(ものうのき)を攻めて「三十八年戦争」の発端となった。こういう時代であれば朝廷側からの蝦夷像が「撃(う)ちて取るべき」(二十七年紀)対象として、憎々しくも獣じみて描かれるのは当然だ。

 都の貴族たちは遠い北の地で暮らす蝦夷たちについて、描写通りに受けとめたに違いない。しかし現代なら、このような描写も一歩退いて客観的に見詰め直すことが出来る。にもかかわらず「四十年紀」のこの描写が文献に残る一番詳細な蝦夷情報であるため、現代に至るまで蝦夷をイメージする際に参考にされてきた。日本武尊が実在の人物かどうかさえ疑われているのに、想像の産物である蝦夷観が独り歩きしているとしたら、おかしなことだ。

 よく似た『史記』の描写
 中国・前漢時代に司馬遷がまとめた歴史書『史記』に、よく似た描写が登場する。

〈平和な時代には家畜について移動し、鳥や獣をとって生活の糧(かて)とした。危機が訪れると、人々は武器をとり侵入と略奪に出るのがふつうであった。かれらの兵器には遠距離用としては弓矢、白兵戦用としては刀と鉾(ほこ)があった。形勢有利とあれば進撃し、不利と見れば退却し、平気で逃走した。個人的利益だけに関心をもち、礼儀とか道義とかを知らなかった。酋長以下、みな家畜の肉を食べ、その皮革を着、毛織の上衣をまとった。若者たちがうまいものを食べ、老人たちはその残り物を食べた〉(世界古典文学全集『史記列伝』より、筑摩書房刊)

 北方遊牧民の英雄群像を内容とする「匈奴列伝」の冒頭部分である。農耕民族の目を以って北方遊牧民族の暮らしを見れば、一切は物珍しく映る。寒い北の地では定住せず「家畜について移動」することが遊牧民の理にかなう生活方法であっても、居を定めて農耕生活を送る漢民族の目には野蛮な生活に見えたはずだ。

 想像の産物、他書からの書き写し
 話は戻る。『日本書紀』に描かれた蝦夷像が「想像の産物」であることは、すでに述べた。それだけでなく『史記』の表現を真似、あるいは参考にした形跡が見て取れる。一定しない住居や皮革を材料とした衣装、家族関係、モラルの欠如、肉食、さらに戦闘における強さと俊敏さなどである。項目ばかりか、書き進める順序まで酷似している。『史記』を下敷きにしていなかったと考えることの方が不自然だろう。重要なのは『日本書紀』の蝦夷情報は編者の想像の産物というばかりでなく、他書からの書き写しでもあるという事実。蝦夷の実態に近い描写ではなく、意図的・政治的に歪(ゆが)められたフェイク情報なのである。(続く)