「武士道とは何か?」と考えて少しその方面の本を読むと、時代により武士道のイメージが異なることに気づく。新渡戸稲造の『武士道』は入門の書としておなじみで、筆者も若い頃に最初に手にした、この分野の本だった。当時は感銘を受けたが物足りなさも感じた。明治の時代、専門外の農業経済学者が、病気療養中のアメリカで、欧米人向けに英文出版した書である。新渡戸は序文で執筆のきっかけについて、ベルギーの著名な法学者に「日本に宗教教育がないなら、日本人はどのように道徳教育をするのか?」と問われたことだと明かしている。キリスト教的倫理観が生活全般に浸透している欧米人なら、当然抱くはずの疑問かもしれない。問われた新渡戸は、幼い頃からなじんだ盛岡藩士たちの倫理観、すなわち武士道の教えに思い至った。キリスト教的倫理観やヨーロッパ騎士道精神を念頭に入れつつ、武士の倫理観を論じれば、競わんとして理想化された内容になりがちだ。すでに武士階級の存在しない明治の世だから、往時を懐かしみ、美化しがちな気持にもなっただろう。
武士道なる言葉を初めて聞く外国人にとって平易で便利な解説書でも、多少の知識がある日本人には、武士社会がかくもシンプルで美しかったなどとは、きれい事に過ぎるように思える。同時代の書であれば筆者などは『阿部一族』など森鷗外の歴史小説に生き生きとした武士群像を見る思いがするが、これは単に小説好きであるせいかもしれない。
三島由紀夫が武士道の書として山本常朝の『葉隠』を盛んに論じ、推奨したのは1960年代の後半であった。岩波文庫のはしがきで古川哲史氏が「どこを切っても鮮血のほとばしるやうな本だと言へる」と解説している。確かに「気違ひ」や「死狂い」「思ひ死に」といった過激な表現が多い。言葉の過激さこそが、この書の特徴であり魅力である。
戦(いくさ)のなかった平穏な時代、刀は敵に対してより、おのれの腹を裂くために使われた。「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」は、すでに戦場での心構えが不要になってしまった時代の教えである。「武辺は敵を討ち取りたるよりは、主の為に死にたがるが手柄なり」は、忠を尽くすための心構えだ。主従関係に比重を置き過ぎると、武士道はこのように、主君に対する従者の忠君規範となる。言葉は良くないが幾昔か前のサラリーマン道である。
常朝はまた「命を捨つるが衆道の極意なり」とも「恋の至極は忍恋なり。思い死に極るが至極なり」とも書いている。衆道とは男色のこと。男色も恋も結構であるし、過激な表現は常朝の癖かもしれないが、こうも「死」の言葉が多用されると「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」の名文句も軽くなる。菅野覚明氏は『武士道の逆襲』という著書の中で「常朝の言葉が過激なのは、時代がまさに太平の世だからである。本当に合戦の日々を送っている者たちにとって観念修行も言葉による自覚も無用なもののはずだ。彼らは現に生死の境を事実として駆け抜けている」と指摘している。平和な時代に特有の、観念の先走りと過激化である。
常朝は、別のところでは「人間一生誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり。夢の間の世の中に、苦を見て暮らすは愚かなる事なり。我は寝る事が好きなり。寝て暮らすべしと思うなり」とユーモアたっぷりだ。また「時代の風と云ふものは、かへられぬ事なり。されば、その時代々々にて、よき様にするが肝要なり」と意外な柔軟性も見せている。
一方、戦国大名、武田信玄・勝頼2代の兵法書である『甲陽軍鑑』は、戦(いくさ)の時代の武士の姿と心構えをダイナミックに伝えている。死と向かい合わせの日常だけに現実的で厳しく、観念が先走りしている余裕はない。例えば「侍が武略をするときは、もっぱら虚言を用いるものなり。これを嘘偽りと申すは、合戦を知らない武士なり」「大将が国を奪うのも、昔が今に至るまで、切り取り、強盗、盗っ人とは申し難し。国を奪うにつきての虚言を計略と申して、苦しからずというは道理」といった、騙し討ち肯定の論である。平良文と源充が一騎打ちを演じたのは、はるか昔の出来事であり、正々堂々を重んじる風潮からは遠い。
興味深い言葉が「脇差心(わきざしごころ)」だ。ある時、信玄家中の侍2人が、口論から取っ組み合いの喧嘩になった。一方が他方を取り押さえて詮議の段になる。ここで信玄が怒った。「口論で終わったのならともかく、相手に手を出す事態になりながら、なぜ脇差を抜いて突くなり斬るなりしなかったのか」と。それでは侍が脇差を腰に差す意味がない。また、組み打ちで終わるのでは周囲が止めに入るのを期待するようなものである、という理由だ。「脇差心」を持たぬ侍への処断は厳しく、2人はともに斬首された。主従関係の忠誠より、実戦に役立つ心の在り方、考え方が重視された時代であった。
ちなみに「脇差心」の強調は喧嘩奨励のごとくに聞こえるが、そういうことではない。喧嘩は「是非に及ばず」両成敗にするのが原則で、厳しく禁じられた。一方で、手出しされても「堪忍」つまり我慢し通せば、罪に問われないのが『甲州法度之次第』の定めでもあった。
信玄の時代と同じ謀略と騙し討ちの時代ながら、畠山重忠の時代の「弓矢取る者」の道には不思議なおおらかさが感じられる。江戸期の武士道が藩主から末端藩士までの低く狭い関係で論じられるのに対し、重忠の時代のそれは、武家トップの頼朝と有力御家人との高い次元であることが、理由の一つだ。あえて江戸期へ置き換えるなら、徳川将軍(頼朝)と藩主(御家人)の間の武士道である。重忠に忠誠を尽くす郎党のあるべき姿といった話には、なりにくい。
各時代それぞれに武士(もののふ)の理想の姿がある。山本常朝の言うように、いつの世にも「かへられぬ時代の風」が吹いていた。ならば武士道の原点を見詰め直す必要がある。原点とは、歴史の表舞台へ武士が躍り出た時代の、重忠ら雄鷹たちの姿である。武士道論でなく、現にあった姿から武士道の原点を読み取っていただくことが、この小説の眼目である。
98歳で逝った母から「私は武士の娘だから」という言葉を何度か聞いた。大正4年の生まれなので正確には「孫」か「曾孫」だろう。旧式のガス風呂釜の事故で全身大やけどを負った時など、自分に死の影を見た折に漏らした言葉だ。元気な時に聞いた記憶はない。母にとれば自身を勇気づけるための言葉だったはずだ。
武士道の現実は、明治の知識人が欧米人にPRしようとしたほど美しい世界ではないが、人々を勇気づけた覚悟や誇りは、肯定し得る徳目かもしれない。一方、おのれの命に固執しない心構えは、他人の生命の軽視へと変転しがちだから、現代人には受け入れ難いだろう。畠山重忠の時代と同じように、現代には現代の「かへられぬ時代の風」が吹いているのである。武士道の崇高さとともに、その愚かしさを読み取ってもらえれば幸いだ。
(近刊、斉東野人『雄鷹たちの日々--畠山重忠と東国もののふ群伝』「あとがき」から抜粋)
武士道なる言葉を初めて聞く外国人にとって平易で便利な解説書でも、多少の知識がある日本人には、武士社会がかくもシンプルで美しかったなどとは、きれい事に過ぎるように思える。同時代の書であれば筆者などは『阿部一族』など森鷗外の歴史小説に生き生きとした武士群像を見る思いがするが、これは単に小説好きであるせいかもしれない。
三島由紀夫が武士道の書として山本常朝の『葉隠』を盛んに論じ、推奨したのは1960年代の後半であった。岩波文庫のはしがきで古川哲史氏が「どこを切っても鮮血のほとばしるやうな本だと言へる」と解説している。確かに「気違ひ」や「死狂い」「思ひ死に」といった過激な表現が多い。言葉の過激さこそが、この書の特徴であり魅力である。
戦(いくさ)のなかった平穏な時代、刀は敵に対してより、おのれの腹を裂くために使われた。「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」は、すでに戦場での心構えが不要になってしまった時代の教えである。「武辺は敵を討ち取りたるよりは、主の為に死にたがるが手柄なり」は、忠を尽くすための心構えだ。主従関係に比重を置き過ぎると、武士道はこのように、主君に対する従者の忠君規範となる。言葉は良くないが幾昔か前のサラリーマン道である。
常朝はまた「命を捨つるが衆道の極意なり」とも「恋の至極は忍恋なり。思い死に極るが至極なり」とも書いている。衆道とは男色のこと。男色も恋も結構であるし、過激な表現は常朝の癖かもしれないが、こうも「死」の言葉が多用されると「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」の名文句も軽くなる。菅野覚明氏は『武士道の逆襲』という著書の中で「常朝の言葉が過激なのは、時代がまさに太平の世だからである。本当に合戦の日々を送っている者たちにとって観念修行も言葉による自覚も無用なもののはずだ。彼らは現に生死の境を事実として駆け抜けている」と指摘している。平和な時代に特有の、観念の先走りと過激化である。
常朝は、別のところでは「人間一生誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり。夢の間の世の中に、苦を見て暮らすは愚かなる事なり。我は寝る事が好きなり。寝て暮らすべしと思うなり」とユーモアたっぷりだ。また「時代の風と云ふものは、かへられぬ事なり。されば、その時代々々にて、よき様にするが肝要なり」と意外な柔軟性も見せている。
一方、戦国大名、武田信玄・勝頼2代の兵法書である『甲陽軍鑑』は、戦(いくさ)の時代の武士の姿と心構えをダイナミックに伝えている。死と向かい合わせの日常だけに現実的で厳しく、観念が先走りしている余裕はない。例えば「侍が武略をするときは、もっぱら虚言を用いるものなり。これを嘘偽りと申すは、合戦を知らない武士なり」「大将が国を奪うのも、昔が今に至るまで、切り取り、強盗、盗っ人とは申し難し。国を奪うにつきての虚言を計略と申して、苦しからずというは道理」といった、騙し討ち肯定の論である。平良文と源充が一騎打ちを演じたのは、はるか昔の出来事であり、正々堂々を重んじる風潮からは遠い。
興味深い言葉が「脇差心(わきざしごころ)」だ。ある時、信玄家中の侍2人が、口論から取っ組み合いの喧嘩になった。一方が他方を取り押さえて詮議の段になる。ここで信玄が怒った。「口論で終わったのならともかく、相手に手を出す事態になりながら、なぜ脇差を抜いて突くなり斬るなりしなかったのか」と。それでは侍が脇差を腰に差す意味がない。また、組み打ちで終わるのでは周囲が止めに入るのを期待するようなものである、という理由だ。「脇差心」を持たぬ侍への処断は厳しく、2人はともに斬首された。主従関係の忠誠より、実戦に役立つ心の在り方、考え方が重視された時代であった。
ちなみに「脇差心」の強調は喧嘩奨励のごとくに聞こえるが、そういうことではない。喧嘩は「是非に及ばず」両成敗にするのが原則で、厳しく禁じられた。一方で、手出しされても「堪忍」つまり我慢し通せば、罪に問われないのが『甲州法度之次第』の定めでもあった。
信玄の時代と同じ謀略と騙し討ちの時代ながら、畠山重忠の時代の「弓矢取る者」の道には不思議なおおらかさが感じられる。江戸期の武士道が藩主から末端藩士までの低く狭い関係で論じられるのに対し、重忠の時代のそれは、武家トップの頼朝と有力御家人との高い次元であることが、理由の一つだ。あえて江戸期へ置き換えるなら、徳川将軍(頼朝)と藩主(御家人)の間の武士道である。重忠に忠誠を尽くす郎党のあるべき姿といった話には、なりにくい。
各時代それぞれに武士(もののふ)の理想の姿がある。山本常朝の言うように、いつの世にも「かへられぬ時代の風」が吹いていた。ならば武士道の原点を見詰め直す必要がある。原点とは、歴史の表舞台へ武士が躍り出た時代の、重忠ら雄鷹たちの姿である。武士道論でなく、現にあった姿から武士道の原点を読み取っていただくことが、この小説の眼目である。
98歳で逝った母から「私は武士の娘だから」という言葉を何度か聞いた。大正4年の生まれなので正確には「孫」か「曾孫」だろう。旧式のガス風呂釜の事故で全身大やけどを負った時など、自分に死の影を見た折に漏らした言葉だ。元気な時に聞いた記憶はない。母にとれば自身を勇気づけるための言葉だったはずだ。
武士道の現実は、明治の知識人が欧米人にPRしようとしたほど美しい世界ではないが、人々を勇気づけた覚悟や誇りは、肯定し得る徳目かもしれない。一方、おのれの命に固執しない心構えは、他人の生命の軽視へと変転しがちだから、現代人には受け入れ難いだろう。畠山重忠の時代と同じように、現代には現代の「かへられぬ時代の風」が吹いているのである。武士道の崇高さとともに、その愚かしさを読み取ってもらえれば幸いだ。
(近刊、斉東野人『雄鷹たちの日々--畠山重忠と東国もののふ群伝』「あとがき」から抜粋)