斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

3 【銃は人を殺さない。人が人を殺す】

2016年10月18日 | 言葉
 危険な国アメリカ
 かつてのアメリカは、世界の多くの人があこがれる国だった。中産階級の豊かな生活、詩情あふれる映画や音楽、明るく開放的な国民性。しかし現代のアメリカに、あの時代の面影を見ることは難しい。低所得者層の増大と治安の悪化、銃乱射シーンばかりの映画、ますます内向きに「ガラパゴス化」して行く国家と国民性。特にテロと銃器使用事件の頻発は、世界指折りの危険な国であることを印象付けている。

 日本人留学生の悲劇
 1992年10月17日夜、ルイジアナ州バトンルージュにAFS交換留学生として滞在していた愛知県の高校3年生、服部剛丈君16歳は、ハロウィンパーティーの会場と間違えて訪ねた家の主に、44マグナム弾の拳銃で胸を撃たれ即死した。2001年9月に起きた同時多発テロは十分に衝撃的だが、それにもまして筆者には服部君事件とその後の裁判の経緯の衝撃が大きかった。アメリカ社会の危険と愚劣を思い知らされたからだ。
「フリーズ(動くな)」の警告を服部君が「プリーズ(どうぞ)」と聞き間違えたこと、また、このような場合の対処方法に服部君が無知であったことも、家主に引き金を引かせた原因になったようだ。裁判の判決は無罪。判決理由は明らかにされず、正当防衛が認められたのか、殺人や過失致死の犯罪構成要件が欠けた結果なのかは不明のまま。12人の陪審員の1人(女性)はテレビのインタビューに「外国人が(銃規制などに関して)アメリカの制度をとやかく言うのが不快だった」と答え、法律論より感情論が優先した様子さえ察せられた。
 一方、服部君の両親が起こした民事裁判では地裁、高裁とも殺意が認定され、家主が銃を5丁も持つマニアで、発砲時に酒を飲んでいた事実が明らかにされた。支払われた賠償金は10万ドル分のみ。これを原資に両親は銃規制強化の署名活動を続け、170万人分の署名をビル・クリントン大統領の元へ届けた。銃規制のブレイデイ法案が米議会で可決したのは、両親がワシントンDCに滞在中のこと。アメリカの良心を感じさせる偶然でもあった。
 「外国人がとやかく言うのが不快」というプライドの高さ、いや傲岸不遜。判決理由を示さなくとも可の、被害者への配慮を欠いた裁判制度。救いは、両親に同情した米国民の署名の数と、クリントン大統領ら銃規制支持派政治家の存在だった。

 オバマ大統領の涙
 人口3億2千の国に3億丁の銃器が出回り、銃により年間3万人超の人が命を落とす。4割が殺人。アメリカ社会の実像だ。フロリダ州オーランドのナイトクラブで殺傷能力の高いアソールトウェポン(戦場用の半自動ライフル)が使用され、49人もの死者を出した事件(2016年6月)は記憶に生々しい。アメリカでは、このような最新鋭の戦場銃器でさえ手に入る。
  オバマ大統領は2016年1月のテレビ演説で、議会の承認を必要としない、大統領令による新たな銃規制強化策を発表した。12年にコネチカット州の小学校で児童ら26人が殺害された事件に触れると、両の目に涙があふれた。児童殺害に使われたのもアソールトウェポンで、オバマ大統領の主張は「せめてアソールトウェポンの規制を」というものだった。
「規制は逆効果だ。先生が学校でライフルを持っていれば、防げたはずだ」
 コネチカットの事件後、アメリカの国会で全米ライフル協会支持派の議員が主張した。オバマ大統領が銃規制の演説をすると、翌日には「今のうちに買っておこう」という駆け込み客が銃砲店へ殺到し、演説は逆に宣伝材料になるともいう。銃社会アメリカの病根は深い。

 全米ライフル協会
 全米ライフル協会は会員数400万人。市民団体というより圧力団体である。有力メンバーのスミス&ウェッソン社が南北戦争特需によって会社の基礎を築いたように、銃器メーカーは軍需産業として米国政界、特に共和党と深く結び付いてきた。共和党の力が強い現在の米議会では、銃規制強化は実現しにくい。
全米ライフル協会のスローガンも、米国民によく知られている。
<銃は人を殺さない。人が人を殺すのだ>
 「銃が人を殺すのではないから、銃に罪はなく、わが団体も殺人の手助けをしているわけではない」と弁解しているように聞こえる。第一に主張すべきスローガンが弁解というのでは情けない。それにしても「銃は人を殺さない。人が人を殺すのだ」は言葉のトリックだ。
 銃器団体の主張である以上、後半は正確に「人が(銃を使って)人を殺すのだ」と言うべきだろう。「銃を使って」を省略したところがミソだ。前半の「銃は人を殺さない」が「モノ自体は人を殺さない」という意味なら、やはりモノである原爆やミサイルも、それ自体は人を殺さないから、こちらも所持自由でよい、という理屈になる。とんでもない暴論である。

 迷言が通じる社会
 協会の副会長であるウェイン・ラピエール氏は次のような発言もしている。
「銃を持った悪人を止められるのは、銃を持った善人だけだ」
「中国で斧(おの)や刃物が学校の大量殺人に使われたからといって、それらが禁止されることはない。銃の誤用は、禁止の論拠とはならない」
 世の大半の人は自分を「善人」だと思っている。逆に「自分は悪人か」と反省しきりなら、むしろ「善人」かもしれない。イスラム過激派のテロリストたちは、正義は自分の側にあると確信しているだろう。善悪ほど主観的なものはなく、善人悪人の二元論ほど幼稚な人間観はない。
 中国の例えにしても、化石燃料を入手しにくい貧しい山村では、斧は薪を得るための生活必需品。銃は人を殺傷する、ただそれだけの目的で造られた道具だ。同じ次元では論じられない。

 
 銃器のはんらんが過剰防衛の元凶
 「みずから銃を持ち、みずから守るしかない」とアメリカ人はよく言う。かくして銃器は行き渡り、誰もが「相手も銃を持っているはずだ」と疑心暗鬼にかられる。服部君のカメラを銃と見間違え、おびえて発砲した家主のケースも然り。昨今頻発する米警察官の黒人射殺事件では、警官側の言い分は決まって「黒人側が銃を持っていたので、危険を感じた」だ。正当防衛ならぬ過剰防衛。「みずから守る」行為は、アメリカ社会を破壊する結果にしか、なっていない。

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