随分遅くなってしまいましたが、
先月の旅行で訪ねた宮城県沿岸地域の写真をアップします

南三陸町の合同庁舎、屋根がボロボロです
画面右側が海なので、引き潮の勢いが強いことがわかります

ここは3階は無事だったみたい

でも1階、2階はめちゃくちゃでした

海に向かって走ると、橋が見えて

欄干がすっかり流されていました

24歳の女子職員さんが最後まで避難を呼びかけたという、南三陸町防災センター
右手に見える外階段の、2階から3階に向かう階段の手摺は残っているけど
1階から2階に向かう手摺はボロボロになっていました

建物の前には祭壇が。。。
たくさんの人たちが訪れていて、東北地方や関東地方のナンバー以外にも
神戸ナンバー、尾張小牧ナンバーなどもあり
皆さん遠くから来ているのがわかりました
小学生のお子さんと一緒の親子連れもたくさんいました
みなさん、会話をすることもなく、ただ鉄骨だけになった防災センター跡を見上げ
それぞれの思いを語ることもなく、祭壇に向かい手を合わせて
近くから、遠くから、黙って眺めていました
そんなみなさんの静かに冥福を祈る気持ちが周辺に漂っている感じで
私も黙って、熱い思いになってました
でも実際、見上げてみると、3階まではとんでもなく、本当に本当に高くて
それを上回る津波が来たなんて、やっぱり信じられなくて
目の前にある現実を、やっぱり受け入れることが出来ませんでした

祭壇の下をふと見ると、自動扉の跡があることに気が付き
根こそぎなくなっていることにショックを受けました

海に向かうと、瓦礫と呼ばれる被災財が山積み
全国で受け入れ反対運動が起きているけど
反対している人たちは、実物をきちんと見るべきだよなぁ、と思いました

1960年に起きたチリ津波を偲ぶ石碑がありました
こうやって、津波の恐ろしさを忘れないよう、石碑を作ったのに
その当時の経験を上回る津波が来てしまったんでしょうね
被害にあう前の石碑はこんな感じだったようです

海に近づくほど、建物の被害がひどくなっています

立派な堤防も、嘘のように壊れていて、言葉を失いました

堤防に上ることにしましたが、海に向かって手摺が倒れていました
引き潮がいかに激しかったかを物語っていますね

堤防の上からの景色

改めて階段を見ると、ステンレスの手摺が根こそぎ壊されていました
南三陸町をあとにして、石巻へ向かいます

石巻市立大川小学校です
多くの小学生が亡くなったところです

ここにもたくさんの人が訪れていて、
祭壇にはたくさんのお花が手向けられていました
「お菓子などの食べ物はカラスが来るので、お参りの後は持ち帰ってください」
と書いてあったので、友達のもらったブルーベリーを祭壇に捧げ、
お祈りをしてから持ち帰りました

大川小学校の周り

「何故、裏山に逃げなかったのか」という意見もあるけど
こんな急で高い山に小さい小学生が登る、って無理だよなぁ、
と思いながら見上げてしまいました
以上、1年半経ってもまだまだ津波の深い深い傷跡が残る
宮城県の沿岸地域の写真です
写真には撮れなかったけど、川沿いの道をズ~ッと車で進んでいって
周り一面草が茂る緑の風景だった所があって
田んぼや畑が津波に洗われたんだろうと思っていたけど
草の茂った景色をよくよく見てみたら、草の隙間から
コンクリートの家の土台だけがそこここにあるのが見えて
『あぁ、ここらへんには全部家があったんだ』と愕然として
緑一面の畑の跡かと思った景色が、大きな街だったとわかり
なんとも言えない喪失感を味わってしまいました
昨年も仙台や石巻に行ったけど、海から遠く離れた所でも建物の1階が壊れ
とんでもない被害だったので、とても海の近くにまで行く気分になれず
途中で引き返してしまいましたが、実際に海の近くの地域を見て
どれだけ大変な被害だったのかと思うと、とてもとても、言葉では表せない
悲しい、辛い気持ちになりました
そして新たな気持ちで、
これからも被災地の人たちを応援して行こう、と思いました
頑張れ、東北のみなさん
1960年のチリ地震津波災害(50年目の現地調査・2010年2月)
東日本大震災(2011年東北地方太平洋沖地震)