ビラ上、汽車製造会社争議ストライキに反対する関東鉄工組合ビラ(1923.5.30)
ビラ下、同争議のストライキを支持する自由人社のビラ(1923.6.5)
錦糸町「楽天地」敷地にあった汽車製造会社争議 1923年主要な争議⑧ (読書メモ)
参照
「協調会」資料(汽車会社争議)
汽車製造会社争議
1923年、今の東京錦糸町「楽天地」の敷地にあった汽車製造会社東京支店(本社大阪)。この工場には千名近い労働者が働いていた。ここには機械労働組合聯合会系の「関東車両工組合(約800名)」と「誠睦会(約100名)」の二つの組合が存在していた。数では車両工組合側が圧倒していた。機械労働組合連合会と車両工組合はいわゆる反総同盟、アナ系の労働組合であり、ここ数年来、「自由連合」主義をもって総同盟とは対立を深めていた。東京の東部地域では同じアナ系の純労働組合の平沢計七らと結びつきを強めていた。一方誠睦会には総同盟系の戦闘的労働組合の先進で有名な南葛労働会の渡辺政之輔らが常日頃から援助していた。
4月22日、誠睦会は車両工組合に対して組織合同を申し込んだ。この時は不調に終わったが、5月15日には、南葛労働会の渡辺政之輔を介して改めて無条件での合同を申し入れ今度は車両工組合も受け入れた。
5月19日、誠睦会は、誠睦会の解散と車両工組合との組織合同を決めるため総会を開催した。ところが、この総会に、この時はまだ別組合の車両工組合と機械聯合会の組合員が多数、総会会場に入った。総会が始まり、渡辺政之輔が経過を報告し車両工組合との合同に至ったと述べるやいなや、車両工組合と機械聯合会の組合員が一斉に「合同ではないあくまで提携だ」等々と大声で叫ぶなど大騒ぎし議事の妨害を極めた。
これは、全国でのこの間のアナ・ボル論争、とりわけ前年1922年9月の全国的労働組合の組織統一を目指す画期的な日本労働組合総聯合創立大会が破綻した時の反総同盟と総同盟の衝突時の反総同盟側の発言や行動場面そのものであった。しかも今回は、汽車製造会社の東京支店の工場では車両工組合・機械聯合会が圧倒的多数で、その優勢とおごりのまま自らの主張を乱暴狼藉に押し通そうとしたのであった。総会の議事進行が不可能になりやむなく解散が宣言されると会場内の車両工組合らは「万歳」を叫んだのであった。
誠睦会は失望し、もはやこれでは車両工組合との合同は到底不可能と判断、ならば総同盟の関東鉄工組合へ加入し、関東鉄工組合の新支部を結成しようと関東鉄工組合や南葛労働会と相談して準備にかかった。総同盟側は汽車製造会社本社の大阪機械労働組合の了解を得て、誠睦会100名を「日本労働総同盟関東鉄工組合本所支部」として正式に受け入れることとし、誠睦会解散と総同盟加入・関東鉄工組合本所支部結成発会式を行った。発会式には大阪から来賓として本社の大阪機械労働組合代表3名が上京して出席した。
これを知った車両工組合は誠睦会に「裏切りだ」と激怒し、職場で誠睦会幹部安藤・向井に暴行を加えた。ついにはこの2人を車両工組合を弱体化させる目的の会社側の「スパイ」だと決めつけ、乱暴にも会社側に2人をクビにしろと要求した。アナ系の「組合自主論」「組合提携論」とはまるで正反対の他労組の幹部、同じ労働者のクビを会社に要求するという信じられない行動にでたのだ。しかも、会社はこの2人のクビの要求を拒絶し、逆に車両工組合幹部17名を解雇してきた。
誠睦会側は、もし車両工組合が安藤、向井のクビ要求を撤回するならば、同じ労働者として17名の解雇者の復職運動を行うことを表明した。しかし、車両工組合は、その後、再び会社に2人の解雇を要求した。
要求書
一、安藤、向井両名を解雇すること
一、解雇者17名を復職すること
大正12年5月28日
各工場作業手一同
汽車製造株式会社東京支店御中
この要求も会社から即座に拒絶されたことで車両工組合800名はストライキに移ったのである。日本労働総同盟関東鉄工組合本所支部(旧誠睦会)は、「同志の解雇を目的とするストライキに同ずることなどできない」、そればかりか労働者階級の信義の上から、このような無法な行動に断固反対すると声明し、完全に車両工組合とは袂を分かった。それ以来、日本労働総同盟関東鉄工組合本所支部(旧誠睦会員)を南葛労働会の渡辺政之輔、川合義虎らが守り応援した。旧誠睦会員らは工場に出勤(143名)し、以下の「宣言」ビラを配布した。
「宣言
・・我らは声明する。クビにされたる17名に対する復職運動のみならば当然行動を共にするものであるが、かかる労働者として兄弟を排斥する卑劣な運動には断固反対する。・・・資本家は我々兄弟の喧嘩のスキを狙っているのだ。兄弟よ! 今はストライキをすべき時ではない。お互い喧嘩をすべき時ではない。・・・兄弟同士を喧嘩させて組合を切り崩す資本家の手先が沢山いるのだ。・・・・愛する兄弟よ! 仲良くして組合を作ろう。 団結せよ!
旧誠睦会 日本労働総同盟関東鉄工組合本所支部」
一方車両工組合争議団側応援団として、平沢計七ら純労働組合、日本労枝会(機械連合加入)、機械労働組合聯合会ら反総同盟系の組合が続々駆け付け、毎日応援部隊を派遣しカンパを届けた。29日、同社深川分工場200名もストライキに入った。31日、車両工争議団はみなで会社に押し寄せたが会社は面会を拒否した。この日、同社川崎分工場でも27名がサボタージュ闘争に入り、そのままストに突入した。28日、大島労働会館に800名の労働者は到底入りきらず、そこで隣の空き地にな仮のトタン張りの大きい小屋を増築するここととし、早速その工事に取りかかった。29日早朝、争議団の80名が深川分工場へ向かおうとして亀戸署に阻止された。
6月3日、車両工組合は、「罷業真相発表演説会」を大島会館で開催した。午前8時日本労枝会は400名の組合員を隅田公園に集め、多くの会旗を押し立て徒党を組み大島会館へ向かおうとしたが寺島警察から阻止され、やむなく約100名で参加した。演説会会場は亀戸署が警戒体勢をひいた。演説会は、汽車製造会社スト労働者約400名と日本労枝会100名、芝浦労働組合、本芝労働組合、機械工組合、純労働組合約100名計600名が参加した。
車両工組合6.3決議
一、本争議の原因は、会社が「スパイ」政策を取り本組合に挑戦したことにある。
一、本組合は会社を徹底的に糾弾すると共に、会社の「スパイ」及び「スパイ」に利用され、スト破りを援助する日本労働総同盟南葛労働会らの幹部を労働運動の敵として撲滅する。
一、全国の労働階級に知らせその理解を徹底する。
右決議す
演説会
39名の労働者が弁士として次々と演壇に立った。4名が臨検警察官から「弁士中止」された。
山田作松
「我々の運動は正義の為の運動であるがゆえに何物にも拘束される理由はない。しかるに誠睦会の安藤、向井らはこの運動を阻害する我々の敵であるからあくまで制裁を加えねばならぬ。同じ労働者でありながら僅かな金のために資本家の手足となって我々の団結を切り崩さんとしたのである。我々はいかなる敵が来ても目的を達成するまで、あらゆる手段をもって破壊(弁士中止)」
大沼晴直
「我々兄弟が資本家に苦しめられている時には、我々労働者は馳せ集まって援助すべきであるのに、味方たるべき日本労働総同盟及び南葛労働会は我々を裏切る行動をしているとは実にけしからん。・・・今や職工は工場より工場へ、水平社は部落より部落へ、小作人は村落より村落へと流れて行くのである。必ずや(弁士中止)」
宇野信次郎(日本労枝会)
「現代の社会で俺たちが不平を抱く相手は権力と貪欲な資本家である。・・・我々は南葛労働会攻撃運動ではない。我々はただ団結の力をもって目的の開拓に努力しているのに、仲間よりスパイを出すなど遺憾に絶えない。仲間からスパイをだしたため17名の犠牲者をだしたのだ。われわれは大いに自覚してやる所までやらねばならない。」
高〇久造
「我々の運動の背後にはいつも会社の走狗である裏切者、切り崩し者がいる、誠睦会の安藤、向井、松本のごときがそれである。しかも我々兄弟が頼む労働組合にも反逆団体となる南葛労働会がある。今回のストライキは単なる労資間の問題ではない。労働者相互の問題としてあくまで慎重なる態度を持って目的を遂行することを望む。」
その他平沢計七らが次つぎと発言した。その夜の機械労働組合聯合会の幹部会は、汽車会社争議の真相を知らせるべきビラ1万枚を全国に発送すると決議した。
6月4日、南葛労働会の渡辺政之輔、川合義虎ら5名は、「昨日の車両工組合のビラは南葛労働会の名誉を棄損するもの」として告訴の準備をはじめた。弁護士布施辰治らを訪問し相談した。
5日、争議団は荒川堤で運動会を開催しようとしてが中止して車両工組合員藤井清蔵の病死による争議に400名が参列した。2名が大平警察署に検束された。
(第一次共産党弾圧事件で渡辺政之輔検挙)
1923年6月5日午前4時、警視庁特高課ら総数100数十名が、日本共産党員の一斉検挙を行った。いわゆる第一次共産党弾圧事件である。堺利彦・山川均・荒畑寒村・佐野学・徳田球一・野坂参三・市川正一ら約80名が検挙され、その中には南葛労働会の指導者渡辺政之輔もいた。亀戸事件で渡辺政之輔が殺されなかったのは、この弾圧で、その年の12月まで収監されていたからであった。
6日、争議団は家族を招き余興大会を開催。浪花節、義太夫など演じた。
10日、争議団デモ。争議団約300名と応援労組関東車両工組合、機械労働組合聯合会、日本労枝会、純労働組合、本芝労働組合、瓦斯電気枝友会、黒幽会、陸軍従業員組合、機械技工組合、芝浦労働組合などの労組旗25本を先頭にデモが出発した。メーデー歌を高唱し、吾嬬町葛西川所、雨宮保全合資会社敷地、中川堤防に出て明治製革株式会社工場内など隊伍を整えデモをし気勢を挙げた。
13日夜、争議団は神田青年会館で汽車会社罷工真相発表演説会を開いた。15日、車両工組合のストライキが続く一方で、総同盟系の鉄工組合は出勤を続けたため、両派の対立はますます激しくなった。21日夕方の退勤時、スト労働者と就労労働者の間で大きな乱闘騒ぎがおき、双方に数名のけが人が出た。
(関西で「日本労働総同盟撲滅演説会」開催)
東京の問題が汽車製造会社本社がある関西に飛び火した。21日午後6時、反総同盟の関西労働組合同盟会は堺大浜公会堂で「日本労働総同盟撲滅演説会」と銘打って、汽車製造会社争議報告演説会を開催したが、しかし、この演説会会場に総同盟系の組合員が大挙して押しかけ口々に抗議し集会は粉砕され、演壇を中心に殴り合いや乱闘がおき7名の検束者をだした。22日、総同盟側は「汽車会社の紛争と自由連合派の陰謀暴露」と題したビラを撤布した。24日夜、京都でも「日本労働総同盟撲滅演説会」を開催されたが、ここに参加しようとして京都に来た東京機械工組合員12名が洛東の街頭で突然襲撃され負傷者がでた。同演説会も総同盟側が多数押しかけ抗議したため、わずか40分で解散させられた。総同盟派10数名が検束された。26日夜、堺大浜公会堂で日本労働総同盟主催「汽車会社争議真相発表演説会」が開かれ多数の労働者が駆け付けた。
29日、夜9時半ごろ、東京の車両工組合のスト組合員40名がこん棒を手に、押上の日本労働総同盟本所支部事務所を襲撃し、事務所器具などを破壊する暴力をふるい、その場で10数名が検束された。
7月10日、突如、車両工組合が会社に無条件就業を申し入れた。翌11日から800名は復職し争議はあっけなく終結した。しかし、他の応援労働団体に事前に一言の相談もなく行ったことで、その後車両工組合と機械労働組合聯合会は他の多くの応援労組から非難抗議を受けた。
(感想)
この争議は、1923年労働運動の二大潮流(総同盟と反総同盟)がついに互いに絶縁を声明した年に起きます。1922年のアナ・ボル論争と9月の全国的労働組合の統一(日本労働組合総聯合創立)の破綻、総同盟対反総同盟の対立の激化の行きついた先でした。アナ系の労働組合、反総同盟労組が、この汽車製造会社だけで、800名以上もの組合員を擁していたという自らの勢力へのおごりや油断が招いた争議でした。全国でのアナ系の思想的リーダーは誰もが知る大杉栄です(この争議に直接関与していたかは不明)。一方、今回の汽車会社の総同盟側の直接の応援は、なんと戦闘的労働運動の先進、南葛労働会の渡辺政之輔や仲間たちです。そして、この争議終結からわずか2か月後に大杉栄が憲兵により虐殺された大杉栄一家虐殺事件、そして南葛労働会ら10名が亀戸警察で虐殺された亀戸事件が起きます(亀戸事件では、アナ系の車両工組合を全力で支援していた平沢計七も殺されています。渡辺政之輔は6.5第一次共産党弾圧で検挙・収監されていて偶然助かります)。権力は両方の思想的リーダーや先進的活動家を無残にも、しかも同時に虐殺しているのです。反総同盟であろうが総同盟系であろうが戦闘的労働運動への大弾圧・撲滅を虎視眈々と狙っていた権力がこの汽車製造会社争議をいかに注目したか、権力側が、この間の総同盟対反総同盟の対立の激化、とりわけ全国的労働組合の統一(日本労働組合総聯合創立)の破綻、そしてこの汽車製造会社争議の実に無益愚かな争いなど、今こそ戦闘的労働運動撲滅の好機と捉えたであろうことは現代の今の私たちから見れば容易に想像できます。この争議後のわずか2か月後の亀戸事件・大杉栄家族大虐殺は決して突発的な出来事ではないのです。
それにしても「楽天地」です。汽車製造会社争議が身近に感じます。