上、旭硝子牧山工場争議ビラ(1923年)
下、旭硝子牧山工場争議新聞記事(1924.1.28)
65日に及んだ三菱資本の旭硝子牧山工場争議 1923年主要な争議⑨ (読書メモ)
参照
「労働年鑑」第5集/1924年版 大原社研編
「協調会」資料(旭硝子牧山工場争議)
旭硝子牧山工場争議
福岡県下小倉市牧山の三菱資本のガラス製造会社、24時間操業交替勤務の旭硝子牧山工場。1923年5月会社の割増金制度の改悪で労働者の収入が著しく減少し生活に脅威を来たした為、約200名労働者は、かの八幡製鉄所争議で有名な浅原健三が活動している北九州機械鉄工組合を頼り、北九州機械鉄工組合牧山支部を結成した。あわてた会社は10月中旬に手当15圓加給を発表し、一方で11月19日突如10名の組合員を解雇するという高圧的弾圧で応えてきた。20日、労働者代表は90名が連署した「一、奨働割増金の値上げ、一、10名の解雇即時撤回、一、組合の承認」の要求を提出したが、会社の姿勢は変わらず、労働者は21日からサボタージュ闘争に突入した。
会社は「スパイ」を使い、労働者のサボタージュや欠勤者を密告させた。21日、会社は三交替勤務の夜勤勤務者の午後10時45分時に出勤した38名と午後11時に退勤する44名に対して、身体検査を行った後に、一人ひとり事務所に呼び出し「サボタージュをやるのか否か」を問い詰め、誓約書に署名をさせた。署名をしなかった14名にその場で出勤停止を命じた。翌日22日も朝6時45分に出勤してきた約120名に昨晩と同様に誓約書の署名捺印を迫り、署名を拒んだ20名に即座に出勤停止を命じた。その日、争議団は「スパイと密告」への処罰を決議し、会社に対しては185名の連署でさらに要求の受け入れを迫った。23日会社はさらに25名を解雇し11月26日からは工場を閉鎖をしてきた。
11月24日、会社は、労働者の要求を全面的な拒否回答を行い、その夜、門前の掲示板に「一、職工より提出された要求は不当なので全部これを拒絶せり、一、新たに職工男200名を至急募集す」と大書する一方で工場警備と称する人夫50名を新たに雇い入れ組合員と対峙させた。さらに25日、組合員25名を解雇してきた。
<北九州機械鉄工組合牧山支部から全国の労組への檄文>
全国の兄弟よ
過去幾年間、我々は三菱のために虐げられてきた。しかるにこの度会社側の挑戦的態度に対して我々200の同志は奮然として決起した
全国の兄弟よ
我々は眠れるこの北九州の天地に一大警鐘を乱打しつつあるのだ。・・北九州35万の代表として戦う
全国の兄弟よ
先に樹立した北九州機械鉄工組合の初陣だ 俺たちは必勝を期して戦うのだ
北九州のブルジョワ共は提携して、この初陣の俺たちに権力と暴力をもって組合を切り崩さんとしているのだ
実に俺たちの戦いは北九州35万の兄弟・・・・・
全国の兄弟よ
挙げて俺たち必勝のため熱誠応援たのむ
11月27日
北九州機械鉄工組合 牧山支部
旭硝子工場争議団
(争議団遠足)
会社の猛烈な組合切り崩し策動に対抗して、11月30日、争議団約120名は英彦山に労働歌を高唱しつつ遠足をした。浅原健三も争議団と二晩を共にした。12月1日英彦山山頂の上宮に争議団一同は争議勝利の祈願をした。
(裏切者集団)
12月4日会社は、労働者の中の軟派・裏切り者約60名による「正義団」という名の組織を作り、争議団と対立させた。5日、会社は「働きたいと申し入れてきた者が100名以上に達した」とウソを発表し、5日には「今まで休業中は賃金半額を支給してきたが、12月8日までに反省しない者には、9日から一切支払わない」と最後通告で脅してきた。
(田舎の全父兄を脅し呼びつける)
11日、最後通告でも効果がなく組合員がストを止めないため、会社は、岡山・鹿児島・広島・熊本・その他各地の組合員の父兄宛てに以下の卑怯・脅しの手紙を送付して父兄を工場に緊急に召集し、父兄を使っての組合切り崩し、スト破りを謀ってきた。
会社の手紙
「・・・貴下の子弟某は会社のためすこぶる忠実に働いていたが、近来社会主義者と交わり不穏な思想に感染し・・・、しかるに前述の通り社会主義を奉ずるため当地警察署側においてもその撲滅を期し、この輩は勿論彼らと交際する者に対しても今後尾行巡査をつけ厳重に警戒する方針の由にてこのまま放置するにおいては今後いかなる結果を招来するや全く懸念に堪えず・・・このままにすれば本人の将来は由々しき大事となるべきかくては御一家に・・・至急ご来社ご相談したい」
(父兄の決起!)
しかし事態は会社の汚らしい狙いとは正反対に動いた。会社の卑劣な脅迫手紙で驚いて駆け付けた父兄たちは会社に来て息子と会うやいなや、実際は会社の言い分とは真逆な事実であることを知り、なんと争議団の側についたのだ。12日父兄と労働者120名は会社を相手取り、毀損罪等で小倉検事局に告訴したのだ。また12月25日農民組合は会社が販売している肥料を全国の農民あげて不買運動を起こすと声明し、白米50俵を争議団にカンパした。水平社も争議団の応援をはじめた。父兄の決起と農民、水平社の支援で争議団の気勢が一層あがった。
(持久戦・行商隊)
1924年1月9日浅原健三ら幹部は、水平社と農民組合の応援を受けて行商隊を組織し持久戦体勢を整えた。
(争議解決)
会社のあまりにも高圧的労働者・組合攻撃に対して、労働者側は堂々と闘い、かえって冷静の態度を取り、これが世間の同情をひいたのである。1924年に至り市内の有力者や永井市長が仲裁の労をとったが、会社の頑迷な態度により空しく時はすぎ、市長も会社に怒った。1月13日、会社は60余名で工場を再開したが、争議団120余名はますます結束を固めた。1月22日永井市長の仲裁で65日に及んだ争議は、「割増金の値上げ、争議団全員に金2千圓の支給、別に永井市長より市長の自費2千圓を供与、35名の解雇者には退職手当支給」等の条件で解決した。1月23日労資は手打ち式を行い、26日最後まで闘い抜いた120余名は争議団勝利の意味を込めて市内を堂々と旗行進で練り歩いた。