先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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『山岸実司君』 亡き同志を憶う 渡辺政之輔 (読書メモー「亀戸事件の記録」)

2022年03月30日 07時00分00秒 | 1923年関東大震災・朝鮮人虐殺・亀戸事件など

『山岸実司君』 亡き同志を憶う  渡辺政之輔 (読書メモー「亀戸事件の記録」)
参照「亀戸事件の記録」(亀戸事件建碑実行委員会発行)

亡き同志を憶う  渡辺政之輔

山岸実司君
 山岸君は信州大屋在の寒村に二十一歳の果敢ない生涯の生声(うぶごえ)を挙げた。君の幼い時に一家は上京 し、十二歳になったばかりの君は深川の紙屑屋の小僧となった。毎朝々々洲崎遊廓に出入し女郎屋にご用を聞いて歩く事が当時の日課であったそうだ。然し将来の革命家であった君はその幼い時からすでに行鮮はひらめいていた。君には到底そんなクダラない仕事を真面目にやって行けるものではなかった。十五才の時には其処を飛出して或る小さな鉄工場に旋盤工見習として働らく様になった

 君自身は非常に悲惨な境遇の中に成育したものだが、労働者として君の周囲に居る人達も又、誰れも彼も皆血の涙がにじむ様な悲惨な境遇に成育した人達ばかりだ。そうして何程働いても稼いでも楽になれない貧乏な生活の繰り返しをしていると云ふ以外に何等意義がないと云ふ、労働者として君の体験した生活の事実は遂に君をして平成たらしめ得なかった。不平と不満、虐げられてゐる階級特有の反逆心は焔のように昂じて来た。しかし資本主義的環境の中に成育した君だ。不平と不満と反逆心の階級意識に付て勿論知る道理がなかった。
 ただ当時の君は不良少年の仲間に入って凶暴な行為によって逆流する血を静めていた。大正十一年の春、 川合君が吾嬬町の帝国輪業に働いてた時に君も同じく其所に働いていた。 川合君は例の通り何人を不問熱心に主義の宣伝をやっていた。 山岸君は段々と川合君に接近して行くようになり、 川合君の話を聞く度毎に今まで自分の持っていた無意識的な不平不満、そしてもゆる様な反逆心が何であったかを知って来た。十一年の夏であった。僕の家で一週間に二回位づつ研究会を開いてお互に議論を闘はしていた時、山岸君は川合君と共にやって来た。その最初の時にはステキもない美しい着物を着て俺は不良少年団の首領だと云ふ様な顔をしてすましてみたものだ。
 研究会の回数も重なった。そしていつも必ず出席した山岸君は別人の如く一変した。同年の秋南葛労働会が創立される時分にはあんな足繁く通った遊郭への歩みはピッタリと止まった。不良少年団の関係はキレイに絶った。美しい絹の着物や帯はヌギ捨てて質屋に放りこんだ。そうして得た金は皆な南葛労働会の創立の資金として提供した。油服一枚になった其後の君の活動は実に素晴らしいものだった。小学校二年しか修めなかったのでパンフレットを読むにも実に不自由であったらしいが、それでもたゆまず毎夜必ず一時、二時までは読書したり、又原稿紙に向って変な字をポツリポツリ書きながら自分の意見をまとめていた。そうして刻苦勉励の結果、殺される前の山岸君は立派なコンミニストの理論を持ってゐた。
 君はハチキレル様な元気の持主で何でも元気一方で押通す人であった。それで情に厚く涙にもろい青年であった。 南葛労働会の運動に於ては君は亀戸第一支部の支部長であり、同じ様な気質である近藤君とくつわを連ねて戦線に立ってゐた。 勇敢な闘士として南葛唯一の猛将であった。たしかに山岸君の存在はブルジョア階級を戦慄せしむるものであったにちがいない。

(『潮流』第五号(大正十三年九月)所載、「社会運動犠牲者列伝 (五)」)



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