資料紹介『亀戸労働者殺害事件調書』(2) 二村一夫著作集より
http://nimura-laborhistory.jp/kameidojikenchosho2.html
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川崎甚一の聴取書
『川合義虎は一日の震災当時、麻布区新堀町労働組合社に居り、震災後自宅へ帰る途中 上野附近で幼児三人を倒潰家屋から救い出し粉ミルク三個とビスケットとを買い、その夜はその幼児三人を抱いて自分の上衣を着せて上野公園で野宿し、翌日自宅が気になるので三人の幼児を附近の避難者に無理に托して』
〔13〕 聴取書
本籍 千葉県長生郡一ノ宮町横山町三千二百八番地
現住所 東京府下小松川町下平井九百四十七番地
鉄工 川崎甚一 二十七才
右ノ者左ノ通リ陳述致シマシタ
一、私ハ九月一日 震災当時府下吾嬬町小村井千二拾六番地中井商会製作部工場ニ居リマシタ 震災ノタメ自宅ノ安否ヲ気遣ヒ府下吾嬬町葛西川三百七十九番地ノ自宅ヘ帰リマシタ、自宅ハ二階家デスカ 全部倒潰シ、二階ニ居タ加藤高寿及ヒ同人妻たみノ両人カ破目カラ葡ヒ出シテ居ル所デアリマシタ ソレカラ裏ノ松浦型付屋ノ仕事場ヘ加藤夫妻ト自分ノ母ト四人テ避難シ夜ハ前ノ明キ地ヘ露営シテ昼間ハ倒潰シタ 自宅ノ跡片付ケ荷物堀出シニ努メマシタ
二、三日ノ午後六時頃加藤高寿ノ妻たみが川合義虎ノ府下亀戸町三五一九番地ノ家カ安全デアツタノデ ソコヘ避難シタイト言ヒダシタノデ加藤高寿ト私ノ所ヘ避難シテ来テヰタ山岸実司トニ送ラレテ行キマシタ
加藤高寿ハ午前八時頃自分ノ処ヘ一旦戻ツテ来テ自分モ川合ノ家テ泊ルムネヲ告ゲテ川合ノ家ヘ行キマシタ
三、四日ノ朝、藤沼栄四郎ガ私ノ宅ヘ来テ、川合、加藤、山岸、近藤広造、鈴木直一、北島吉造ノ六人ガ三日ノ午後十時頃川合ノ宅カラ亀戸署ヘ検束サレタト言フコトヲ告ゲテ行キマシタ
四、尚ホ其時ノ話ニヨルト川合義虎ハ一日ノ震災当時、麻布区新堀町労働組合社ニ居リ、震災後自宅ヘ帰ル途中 上野附近デ幼児三人ヲ倒潰家屋カラ救ヒ出シ粉ミルク三個トビスケットトヲ買ヒソノ夜ハソノ幼児三人ヲ抱イテ自分ノ上衣ヲ着セテ上野公園デ野宿シ翌日自宅ガ気ニナルノデ三人ノ幼児ヲ附近ノ避難者ニ無理ニ托シテ置イテ二日ノ昼頃母及ヒ妹ノ避難シテヰル川崎方ヘ着キ震災後始メテ食事ヲトリ休息シマシタガ二日ノ夜ハ鮮人騒ギノタメニ徹宵警戒シテネムルコトモ出来マセンデシタ
三日ハ川崎方デ川崎ト加藤ノ荷物堀出シテ手伝ヒ五時頃自宅ニ帰リマシタ、然ルニソノ臥テヰルトコヲ起サレテ其儘検束サレタノデシタ
五、加藤ハ八時頃川崎方カラ川合方ヘ行ツテカラシバラクシテ寝ヨウト思ヒ寝巻ヲ着換エテ紐ヲシメテヰル所ヲ寝巻ノマヽデ検束サレマシタトイフコトヲ藤沼カラキヽマシタ
六、尚ホ八月三十一日ニ亀戸町広瀬自転車工場デ職工ノ約半数ノ百五十人ヲ突然解雇スルムネ発表サレタノデ北島吉蔵、庵沢、小久保ノ三人ガ復職ニツイテ工場主ト交渉シテヰル時震災ニ遭ヒ 其儘交渉ヲ打切リ 北島吉蔵ハ工場ニ交渉シテ工場附近ノ罹災者ニ炊出シシタノデ附近ノ罹災者ハ北島ノ働キヲ非常ニ感謝シテヰマシタガ工場支配人ハ工場ノ米ヤ薪炭デ炊出シテクレト云フノハ脅迫罪ニ該ル不当ノ行為ダカラ若シ亀戸署ノ高等係ノ耳ヘ入レバ検挙サレルカモシレナイガソレデモイヽカト云ヒマシタ、シカシ罹災者達ハ北島ガ熱心ニ炊出シ等ノ働キヲシタノヲ感謝シテ居リ 後ニ北島ガ殺サレタ旨ヲキイテ北島ノ義侠的ナ献身的ナ努力ニツイテハ多数ノ人ガ 愛惜レテ居リマシタ
北島ノコトハ庵沢カラキヽマシタガナホ詳シイコトハ庵沢ガヨク知ツテヰマス
七、高寿ハ大正十二年六月頃カラ引続イテ大正鉄板鉱金合資会社ニ鉄板鉱金工トシテ精勤デアリマシタ ソレデ工場デモ模範職工トシテ表彰スルコトニナツテヰマシタ
其旨ハ何時デモ工場主ガ証明スルトイツテヰマス
参考ノタメ八月下半期勤怠表ヲ差上ゲマス
右 読聞ケタルニ相違ナイト承諾シマシタ
大正十二年十月十六日
川崎甚一
前同日 東京駅前丸ノ内ビルデイング第四百三十七室 片山法律事務所ニテ作成
弁護士 片山哲
同 細野三千雄
同 飯塚友一郎
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川合たま(義虎の母)の陳述書
『北見刑事は玄関に、蜂須賀は階段の中段に、そして 部長等は、家の中を隅から隅まで捜索しました。雑誌、パンフレット、手紙、机の中にあつた書類手帖、旗竿の央頭の短鋒、さびた小刀までさらへて行きました。一通り捜索し終つた後、部長は三回、繰返して捜索の跡を入念にしらべました。』
〔14〕 南葛労働会員検束当時の情況に干する川合たま(義虎の母)の陳述書
一、
△検束の場所
亀戸町三五一九、南葛労働会本部
△時日
大正十二年九月三日
△被検束者
川合義虎 加藤高寿
山岸実司 近藤広造
北島吉蔵 鈴木直一
△検束者
亀戸署
高等係刑事 蜂須賀
同 北見
巡査部長
外巡査数名
△検束当時本部に居合はせた者
川合たま(義虎母) 同さだ(同妹)
加藤たみ(高寿妻) 其他女二名
二、検束当時の情況を述べます前に、被検束者の検束当日の動静について私の知つている処を大略申します
川合義虎は葛西川なる加藤さんの潰れた家の後始末の手伝ひや、午後(昼すぎ)になつてからは私の知り合ひである津田、相馬氏等の家へ震災見舞に行つたりなどして昼間を過ごしました。夜に入つてから、山岸さん等の夜警した後、それに代つて夜警に出て行こうとしている所を検束隊に襲はれたのでした。
山岸、鈴木さん等も三日には、葛西川の川崎(甚一)さん(加藤君は此家に同居)の潰家の整理を手伝ひ、夜は、加藤さん(主計)等と一所に夜警しました。夜警から帰つて床に就かんとした時、検束隊に踏みこまれたのです。
加藤さんは、地震で自分の住家の潰れた後は、その近所で一日、二日の夜を野宿し、三日手伝ひに来ていた前記の人々等が本部へ行つて泊らうとすゝめたにも拘らず、近所の某といふ主婦さん等が夜に入つて心細がるので自分が近所にゐてやつた方がよいといつて本部へ行くのを拒みました。其夜、山岸さんがわざわざよびに行つて、加藤さんを伴つて本部へつれてきたのでした。そして、不幸にも暴虐な官憲の手にさらはれて行つたのです。
北島さんも、震災後は、或は友人の宅の手伝ひに、或は自分の勤めてゐる広瀬工場で、罹災者のためのたき出し等に従事し、三日の夜は他の(前記の)人々と一所に葛西川から本部へ帰つて来て、まさに夜警に出掛けんと川合よりも仕度がすこしおくれて仕度中を、警官に襲はれたのでした。
近藤さんは、一日には本部で、二日には友人の赤石さんのうちで泊り、三日夜は本部に帰つておりました。
二、三日の夜十時頃、夜警から帰つて来た山岸、鈴木さん等は、「交代だ、次の番の者は、夜警に出ろよ」と、川合、北島、近藤等をうながしました。私も義虎に夜警に出掛けることをすゝめ、義虎先づ仕度を終つて戸外に出るや否や検束隊にとっつかまったのであります。「貴様は誰だつ」と怒鳴りつけました。「川合義虎です」とおとなしく答へた。その声が、いまだに私の耳の底にのこつております。
部長、高等係、巡査等は、土足のまゝ家内に闖入、居合はせた者を、女を除く外、みな外戸に拉し去り、女については一人一人誰何しましたが誰もつれて行かれた者はありませんでした。
北見刑事は玄関に、蜂須賀は階段の中段に、そして 部長等は、家の中を隅から隅まで捜索しました。雑誌、パンフレット、手紙、机の中にあつた書類手帖、旗竿の央頭の短鋒、さびた小刀までさらへて行きました。一通り捜索し終つた後、部長は三回、繰返して捜索の跡を入念にしらべました。
被検束者には何等の抵抗的行為はありませんでした。従順にひかれて行きました。
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吉村光治の実兄、南 喜一(戦後ヤクルト本社会長)の聴取書
『一、九月十五日頃から光治はどうも警察で殺されたらしいとの風説が立ちましたが、十月十日の新聞で殺された事が書いてあったので、 私はその新聞を持って亀戸警察に行って署長に面会して新聞記事の実否を訊ねました。
一、而して新聞に発表してあるのは果して事実かと聞くと、実際そうだが遺族がわからなかったので、今迄通知しなかったのだと答えましたから、遺族がわからないはずがない、現に光治の家や私の家を知っている巡査が署に居るのに、遺族がわからぬとはひどいではないかと厳しく問いました。
その上に、殺したのは四日の晩である。それは鎮圧方を騎兵第十三聯隊に依頼した所が七百人から居た中から重立つものを殺したらしいと申したから、原因は何かと問うと、彼は、その原因は知らないが殺したことは知って居ると答えた。
一、署長は署長として、想像では多分抵抗したから殺したものらしく思うから、従って署長として殺した責任は無いが遺族には申訳がないと泣かんばかりに詫びました。
その上、署長は殺すのに発砲はしてくれるな、それは却って安寧を害するから、突いて殺して呉れとのことを私より軍隊に依頼したとのことを申しました。』
『一、私は然らば殺した者の遺骨はどうしたかと言うと、署長は骨は荒川放水路の四ツ木橋の少し下流で焼いたから自由に拾って呉れとのことであったから、私は、役所には機関銃が据付けてあって朝鮮人が数百人殺されたことは地方人に公知の実見事実であるから、あんな所に捨てた骨では誰の骨だかわかるまいと談した所が、兎に角、明日(十月十一日)午前九時に来て呉れ案内をするからとの事でしたからその日は私は帰りました』
〔15〕 聴取書 南 喜一
右ハ大正十二年十月十八日 四谷区永住町二番地宮島次郎仮法律事務所ニ於テ 吉村光治ノ殺害セラレタル件ニ関シ 左ノ供述ヲナシタリ
一、本籍
石川県石川郡三馬村字有松いノ二十八番地
一、住所ハ
南葛飾郡吾嬬町字請地千百三十七番地
一、年令ハ
三十一才
一、職業ハ
工場経営 但 目下休業中
一、私ハ光治ノ兄デス
一、私ハ光治トハ同居シテ居リマセン、九月一日ニハ午後四時頃光治ガ私ノ宅ノ安否ヲ訊ネニ来マシテ 病母ハ外ヘ出シタガ、兄サンノ所ハドウカト云ツテ来マシタ
一、九月十五日頃カラ光治ハドウモ警察デ殺サレタラシイトノ風説ガ立チマシタガ十月十日ノ新聞デ殺サレタ事ガ書イテアツタノデ 私ハ其新聞ヲ持ツテ亀戸警察ニ行ツテ署長ニ面会シテ 新聞記事ノ実否ヲ訊ネマシタ
一、而シテ、新聞ニ発表シテアルノハ 果シテ事実カト聞クハ実際サウダガ遺族ガワカラナカツタノデ今迄 通知シナカツタノダト答ヘマシタカラ、遺族ガワカラヌ筈ハナイ、現ニ光治ノ家ヤ私ノ家ヲ知ツテヰル巡査ガ署ニ居ルノニ遺族ガワガラヌトハヒドイデハナイカト吃問(ママ)シマシタ
其上ニ 殺シタノハ四日ノ晩デアル、其ハ鎮圧方ヲ騎兵第十三聯隊ニ依頼シタ所ガ七百人カラ居タ中カラ重立ツタモノヲ殺シタラシイト申シタカラ 原因ハ何カト問フト彼ハ其原因ハ知ラナイガ殺シタコトハ知ツテ居ルト答ヘタ
一、署長ハ署長トシテノ想像テハ多分抵抗シタカラ殺シタモノラシク思フカラ従ツテ署長トシテ殺シタ 責任ハ無イガ遺族ニハ申訳ガナイト泣カンバカリニ ワビマシタ
其上 署長ハ殺スノニ発砲ハシテ呉レルナ、其ハ却ツテ安寧ヲ害スルカラ突イテ殺シテ呉レトノコトヲ私ヨリ軍隊ニ依頼シタトノコトヲ申シマシタ
一、話ガ戻リマスガ、光治ガ殺サレタラシイトノ噂ガ立ツタノデ 私ハ老父ヲ 其事実ヲ聞クタメニ警察ヘヤリマシタ、実ハ私ガ行ケハ ヨイノデスガ、若イ者ダト 又警察ニ殺サレハセヌカトノ恐レガアツタノデ 老人ナラ イクラ警察デモ殺スマイト考ヘタノデ特ニ父ニ行ツテ貰ツタノデス、父ハ都合三回 参リマシタ、第一回ニ行ツタ時ハ亀戸警察ノ受付ノ巡査ガ 吉村ハ帰シタト言ツタサウデス、二三日置イテ二回目ニ行ツタ時ハ ソンナ事ハ知ラナイト怒鳴ラレテ 帰リ 三回目ニハ吉村ハ放シテ ヤツタガ 若イ者ダカラ中途テウロウロシテ居ルノダロウウト 突モホロヽノ言葉タツタト父ニ聞イテ居リマス
一、故ニ此時ニ私ハ署長ニ向ツテ右ノ父ノ話ヲシテ人ノ子ヲ殺シテ置キナガラ 其父ニ対シテ右ノ如キ言葉ト態度ヲ以テ対シタコトノ事実ヲ吃問シタ所ガ署長ハ 私ガサウ云ツテ 置ケト言フタノデ右様ニ答ヘタノダト言ヒマシタ
一、私ハ然ラバ殺シタ者ノ遺骨ハドウシタカ、ト云フト 署長ハ骨ハ荒川放水路ノ四ツ木橋ノ少シ下流デ焼イタカラ自由ニ拾ツテ呉レトノコトデアツタカラ 私ハ 役所ニハ機関銃ガ据付ケテアツテ朝鮮人ガ数百人殺サレタコトハ地方人ニ公知ノ実見事実デアルカラ アンナ所ニ捨テタ骨デハ誰ノ骨ダカワカルマイト談シタ所ガ兎ニ角 明日(十月十一日)午前九時ニ来テ呉レ案内ヲスルカラトノ事デシタカラ其日ハ私ハ帰リマシタ
一、私ハ労働会員デナク無関係ノモノデスガ十一日ニ行クニハ労働会本部ノ者デ他ニ殺サレタ者ハドウスルカト案ジタノデ 其足デ私ハ本部ニ行ツタ所ガ川合氏ノ母ガ居テ ソレデハ 明日皆シテ骨拾ヒニ行カウトノコトトナリマシタ
私ハ十二日ニ家ノ味噌ガメヲ特ツテ本部ヘ行ツタ所ガ労働総同盟ノ市村氏ガ居テ同氏ハ未ダ拘留サレテ殺サレズニ居ル三人ノ者ノ貰下ノ交渉ニ行クトノ事デ同氏ヲ共ニ総勢六七人シテ警察ニ行キマシタ
一、スルト警察デハ骨ノ事ガ問題ニナツタノデ今本庁(警視庁)ヘ聞キニ行ツテルカラ待ツテ呉レトノ事デシタカラ 本部ヘ帰ツテ午后三時頃ニ又警察ヘ行ツタラ 又明日(十三日)来イトノコトデ帰リマシタ
一、十日ニ署長ニ私ハ光治ハ何ノタメノ検束デアツタカト聞イタ時ニ 彼ハ保護検束デアルト答ヘマシタ
一、其後骨ノ事ハ親カ他人ノ骨ダカ何ダカワカラヌモノヲ致シ方ハナイト申スシ、私モ今日デハソンナモノハ致シ方ナイト考ヘテ居マス
一、尚 私ハ警察カラ別包ニアル懸章ト帽子トガマ口トヲ下ゲテ貰ヒマシタ、コレハ光治ノ遺留品デス
其懸章ハ光治ガ災害事故防止調査会ノ一人トシテ 其事ヲ赤字デ書イテ肩カラカケテ避難民ニ水ヲ呉レタリナゾシタ時ニ用ヰテ居タモノデ警戒先カラ引パラレタノデ其マゝ持ツテ行ツタモノデス他ノ二品モサウデス
一、朝鮮人ノ金、全ノ二人ハ保護ノタメ検束サレテ習志野ヘヤラレテ先日帰リマシタガ、金ノ話デハ自分達ノ居ル部室ノ外テ二日、三日、四日、五日ノ四晩ハ泣ク声ヤ、イヤナ悲シイ声カ続イテ居テ其上ニドスンドスント云フ 刺サレル音ハ聞エタガ其外ハ皆自分達ノ番ガ来ヤシナイカト 恐レテ誰モ声モ立テズニ静ツテ居タト申シマス 巡査ト兵士ノ歩ク音ダケシカナカツタト申シマス
四日ノ晩ニハ下デ殺サレルノヲ番ヲシテ居タ巡査ガ二階ノ窓カラ見下ロシテ居タシ、五日ノ朝ニ昨夜日本人ガ殺サレタコトヲ話シタソウデス、甚其レカラ兵士ハ四人位ヅツ揃ツテ人ヲ殺シタラシクアヽ足労レタト云ツテ兵隊ガ話シテ居ルノヲ聞イタソウデス
一、尚広瀬工場デハ北島、其他ガ殺サレタコトヲ知ツチ 居マシタ
四日カ五日ニ北島ノ直グ裏ノ人ガ北島ノ死骸ガ生々シク ピクピクシテ居タノヲ 見タ人ガアリマス
一、安島部長ハ四日ノ日ニ昨夜検束シタ連中ハ署ノ手ヲ放レテ本庁ニ廻ツタト言フタノヲ加藤ノ妻カラカ私ハ聞キマシタ
一、私ノ想像デハ私ノ恨ミノタメニ弟ハ警官等カ私憤ヲハラスタメニ 殺サレタモノデハナイカト思ハレマス
右読聞ケタル処 供述人ハ供述ニ相違ナキコトヲ認メ左ニ署名捺印シタリ
大正十二年十月十八日
供述人 南喜一
聴取人弁護士 宮島次郎
同 沢田清兵衛
同 藤田玖平
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吉村光治、南喜一の実弟、南 巖(南葛労働組合員)の陳述
『私は、九月十一日に家に居りますと刑事の蜂須賀、北見、小林外に正服巡査四名と兵卒が一名参りまして、私を拘引して行きました。峰須賀は、日本刀で私を喝しました。その外に来た刑事達は、「どうだ共産党の革命が始まった、物を持った人は焼いてしまって、君達の革命が来た、いい気持ちだろう、おれ達も思い存分のことをしてやるのだ」と言っておりまして随分打たれました。
私は随分苦しめられまして、九月十一日の午後八時頃に検束されて十月十六日の午后五時に放還され、前後三十五日、亀戸署の留置場に置かれました。その間に私の入れられた室には、多い日には十三人も打ち込まれた人が参りました。
前後を通じて、七十人位はあると思います。もっとも留置の室は私の入っていたもの以外に室があります』
〔16〕 聴取書 南 巖
右ハ大正十二年十月十八日、東京市四谷区永住町二番地 宮島次郎 仮法律事務所ニ於テ自分等ニ対シ、吉村光治ノ殺害セラレタル件ニ関シ左ノ供述ヲ為シタリ
一、本籍ハ
石川県石川郡三馬村字有松いノ二十八番地
一、住所ハ
府下吾嬬町字小村井一一六三番地
一、年令ハ
二十二才
一、職業ハ
帝国輪業株式会社ノ旋盤職工
一、吉村光治ノ弟デス
一、私ハ大正九年六月ニ郷里カラ出京シテ吾嬬町請地二百二十六番地ノ水野工場デエボナイトノ加工職ヲシマシタガ仝年十二月ニ現在ノ工場ニ入リテ今日ニ及ビマシタ
一、吉村光治ハ大正七年ノ夏ニ郷里カラ出テ来マシテ直グ本所区向島請地百三十番地ノ梶留蔵ノ工場ニ年季ヲシテ二十一才ノ六月迄二年間勤メテ ソレカラ 前記水野工場ニ入ツテ半年程勤メ、次デ兄南喜一ノ経営シタ吾嬬町大畑七百二十二番地ノ南工場デエボナイトノ加工ニ従事シテ居タノデアリマスガ、地震ノ弐ケ月許リ前ニ其工場ハ悲境ニ陥ツテ閉鎖シマシタノデ其後ハ野外ノ労働ニ従事シテ居リマシタ
其後ニ丸ノ内附近ノ鉄筋コンクリート建築ノ手伝ニ頼マレマシテ毎日通ツテ居リマシタガ地震ノ当日モ出カケマシタガ 九月一日ノ日ニハ午前十一時頃ニ其処ヲ帰ツテ来マシタ
地震ノ当時ニ光治方ヘ遊ビニ来テ居タ身動キノ出来ヌ母ハ戸外ニ出シマシタノデ兄南喜一ノ宅ノ安否ヲ気ツカツテ吾嬬請地ノ方ヲ訊ネテ安全ナコトヲ 知ツテ 直グ 帰ツテ来マシタ
一、其日ノ五時頃カラ友人ノ亀戸町三千五百十九番地ノ川合義虎(南葛労働会ノ本部)ノ所ヘ安否ヲ訊ネニ行キ午后七時頃帰リマシタ
一、其晩ハ家ノ近クニ居テ火ノ子ノ気ヲツケタリシテ居マシタ
一、光治ハ翌二日ニハ午后カラ災害事故防止調査会ノ仕事ニ従事シマシタ 此会ハ此事変以前ヨク鉄道事故等ノタメニアリマシタガ之ハ神田藤太郎等ト作ツタモノデ町内ノ有志七人ト共ニ当日柳島ノ電車終点デ避難者ニ水ヲ与エタリ道案内ヲシタリシテ其等ノ人ヲ救フコトヲ仕事トシタノデアリマス
一、光治ガ警察署ヘ連レテ行カレタノハ三日ノ夜ノ十一時半頃デアリマス、其時ニハ光治ハ町内ノ自警団ノ人ト共ニ自警ヲ勤メテ居タノデアリマス
此自警団ハ事変ノタメニ期セスシテ近隣ノ者同志ガ集マツテ作ツタモノデ 自警ニ出タ人大凡三十人アリマス 大体一軒一人宛位男子ガ出タノデ吉村ノ一軒置イテ隣リノ橋本工場ノ前ノ空地ニ本部ヲ置イテ、総員ガ二ツ組ニ分レテ一組ガ五人位宛歩硝ノヤウニ立ツテ辻ノ警衛ヲシテルト残リハ本部ニ居テ二時間位デ交代スルヤウニナッタノデスガ 其晩ニ光治ハ偶々本部ニ居ルコトニナッタ時ニ誰ト誰トガ歩硝デアルカ オ互ニ名ガ知レナイテハ困ルト云フノデ 其氏名点呼ノタメニ隣人ナル田村ト云フ人ト一緒ニ出カケタ所ガ 光治ダケ捕ヘラレタノデ田村サンハ吉村サンガ捕マッタト云ツテ飛ンデ驚イテ本部ヘ帰ツテ来タノデシタ。
一、話ハ前後シマスガ 此日(三日)光治ハ 神田、安田ナドノ諸君ト共ニ配給米ノコトニ就イテ町役場ヘ行ツタノデシタ、其ハ米ノ配給方法ノ打合セ等ダツタノデス、ソウスルト、役場ノ近クノ小村井ノ香取神社ニ知人ノ佐藤謙二(ママ)ガ捕エラレテ居タノヲ見タソウデス、此佐藤ハ同日 午前十時頃小村井ノ町役場附近ノ原公園アタリデ朝鮮人ト過ラレテ捕ヘラレテ兵隊ノ本部デアツタ香取神社ヘ連レ行カレタ形跡ガアルノデス
一、其デ光治ハ佐藤ノ貰ヒ下ゲヲ交渉シタ所ガ向フデハ 朝鮮人ダカラ捕エタノダ 日本人ナラ日本人ダトノ 証明ヲ持ツテ来イト云ハレタノデ 直グ役場ヘ来テ佐藤ガ日本人ダトノ証明ヲ呉レト云ツタ所ガ町長ハ君達ガ日本人ダト云フノナラ役場デ日本人ダトノコトヲ証明セナクトモ ヨカロウトテ 証明ガ出ナカツタノデ、又香取神社ノ所ヘ引返シテ再度交渉シタ所ガ 今調査中ダカラヤガテ帰スト云ツタノデ安心シテ又役場ヘ行ツテ 米ノコトヲヨク話シテ 帰ツタト私ニ話シマシタ
一、私ハ又 之ハ南葛ノ労働会本部ノ手カラ右ノ貰下ゲヲ願ハウト 頼ミニ行ツタ所ガ 本部デハ駄目ダラウガ マア行ツテ 見ヨウト 警察迄行ツテ 高等係ノ蜂須賀刑事ニ佐藤ガ軍隊ニヒツパラレタコトヲ 話シテ之ヲ放免シテ呉レルヤウ頼ミマシタガ 要領ハ得マセンデ 本部ヘ帰ツタ所ガ光治ハ余リ時間ガ カヽルノデ 或ハ私ガ又引パラレタノデハナイカト案ジテ 本部ヘ来テ 呉レマシタガ 私達ハ午后四時頃ニ家ヘ帰リマシタ
光治ハ 其後ハ配給米ノ世話ヲシテ居リ夜ニナツテ自警団ノ夜警ニ出タノデス
一、光治ノヒッパラレタノハ自分ノ家カラ十間許リ隔ツタ所デ 右述ベタ田村ト 一緒ニ歩イタ時ニ正服巡査ト私服ト五六人ノ者ガ居テ引パツタノデス、尤モ、ソレト前後シテ親ノ居ル所デ光治ノ家ハ家宅捜索ヲサレマシタ
一、話ハ横ニナリマスガ、前記ノ佐藤ガ ヒツパラレタ時ハ 軍人ガ、日本人デモ 朝鮮人ト連絡ガアルダロウナドト云ツテ 居タトノコトデアリマス
一、其後九日ニ 私ガ家ニ居ル時ニ兵士ガ二人乗馬デ家ノ前ヲ通リ光治君ハ居ナイカ 吉村光治君ハ居ナイカト 言ヒマシタカラ 私ガ警察ヘ引ツパラレタ ト答ヘルト何処ノ署ダト云ヒマシタカラ亀戸ラシイト答ヘタラ オ前ハ光治ノ何ダト 訊ネタカラ弟ダト答ヘマシタ
スルト光治ハ両親カアルカト訊ネマシタカラ半身不随ノ両親カアルト答ヘルトヨク家ノ中ヲ覗イテ帰ツタノハ 不思議ナコトダト思ヒマス
一、九月六日ニ軍服ノ大尉ガ光治ノ裏ノ家ノ橋本弁次ノ処ヘ来テ吉村ハ 連レテ行カレル時ニ抵抗シタンダロウナドト 弁解ノヤウナ言訳ノヤウナ事ヲ言フタノデ 其時ニドウモ光治ハヤラレタラシイト 之ヲ聞イタ神田ハ申シテ居リマシタ
一、私ハ九月十一日ニ家ニ居リマスト 刑事ノ蜂須賀、北見、小林 外ニ正服巡査四名ト尚兵卒ガ一名 参リマシテ 私ヲ 拘引シテ 行キマシタ 峰須賀ハ日本刀デ私ヲ喝シマシタ、其ノ外ニ来タ刑事達ハ ドウダ 共産党ノ革命ガ始マツタ、物ヲ持ツタ人ハ焼イテ仕舞ツテ 君達ノ革命ガ来タイヽ気持チダロウ、已レ達モ思ヒ存分ノコトヲシテヤルナドト 云フテ居マシテ随分打タレマシタ
私ハ随分苦シメラレマシテ 九月十一日ノ午後八時頃ニ検束サレテ十月十六日ノ午后五時ニ放還サレ前後三十五日 亀戸署ノ留置場ニ置カレマシタ、其間ニ私ノ入レラレタ 室ニハ 多イ日ニハ十三人モ打チ込マレタ人ガ参リマシタ
前後ヲ通ジテ 七十人位ハアルト思ヒマス、尤モ留置ノ室ハ私ノ這入ツタモノ以外ニ室ガアリマス
一、私ハ 何ノタメノ検束デアツタカ解シ兼ネテ居マス
右読聞ケタル処供述人ハ供述ニ相違無キコトヲ認メ右ニ署名捺印シタリ
大正十二年十月十八日
供述人 南巌
聴取人弁護士 宮島次郎
同 沢田清兵衛
同 藤田玖平
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佐藤欣治に関する南 喜一の陳述書
『その後、吉村及び佐藤等が亀戸署構内に於いて殺されたる旨新聞に掲記ありしを以って、十月十日正午頃自分が亀戸署長に面会し事実を確しかめたるところ、佐藤のことも吉村のことも遺族を一々呼び出して話す積りだったが、その住所が不明なりし為め、そのままに為り、居たりしか、当時の検束者は約七百名もあり、中には革命歌を高唱し、警官に抵抗して騒擾を極めたるを以って、習志野騎兵隊第十三聯隊に鎮圧方を依頼せるに、軍隊に対しても抵抗せるものと見え、軍律に依り殺害せられたり、諸君には甚だ気の毒なるも、事実右の通りなるを以って、その積りで居て貰いたい、死体は荒川放水路四ツ木橋附近にて火葬に附したるを持って案内すべきにより、遺骨を拾はれ度き旨 話したり、尤も同所には数百人の遺骨が一緒に存在する訳なるを以って、何れか誰れの骨やらわからず、けれども兎も角、翌日拾いに行くことに談合の上、帰宅せり』
〔17〕 被殺者佐藤欣次ニ関スル聴取書
南葛飾郡吾嬬町請地千百三十七番地
供述者 南喜一 三十一才
一、佐藤欣治ハ巖手県人(ママ)ニシテ年令二十歳当時ハ自分ノ実弟ナル吾嬬町小松井(ママ)千百六十三番地吉村光治方ニ寄寓セリ
一、佐藤ハ被害当時ハエボナイト工ノ職ニ在リ、大日本自転車株式会社ニ勤務シ居リタリ
佐藤ハ苦学ノ目的ニテ一昨年郷里ヨリ上京セルモノニシテ未ダ都会ノ悪風ニ染ミタル所ナク性質温良、他ト争闘スルガ如キ習癖毫モナカリシ
一、佐藤ハ早稲田ノ講義録ナトヲ購入シ勉学シ居タルヤ近来労働問題ニ付キテモ他ヨリ勧告ヲ受ケ之ヲ研究中ナリシ、佐藤ノ寄寓セル吉村方ハ南葛労働会ノ支部ナリ
一、自分ハ佐藤カ上京セル際自分ノエボナイト工場ニ使役セル関係及ビ被害当時佐藤ノ寄寓セル吉村ハ自分ノ実弟ナル関係上佐藤ヲ熟知シ居ル訳ナリ
一、自分ハ労働問題ノ如キニハ未ダ曽テ何等ノ関係ヲモ為ナシタルコトナシ
一、地震ノアリタル九月一日ニハ佐藤ハ不服(ママ)ニテ会社ヲ欠勤シ居リタルカ地震ノ為メ吉村方ノ手伝ヲ為シ居レリ
一、九月二日ハ午前中吉村方避難ノ準備ニ手伝ヒ居タルヤ延焼ノ危険モ無カルヘキ様見受ケラレタルヲ以テ午後ハ町中有志ニ依ツテ組織セラレタル災害防止調査会ノ柳島電車終点ニ出掛ケ避難ニ対スル給水、道案内等ニ尽力シテ帰宅シ帰宅後ハ右調査会員間ニ此ケル配給米等ニ関スル協議ニ加ハリ居レリ
一、九月三日友人ノ安否ヲ訪ハンカ為メ午前中外出セルカ其ノ儘帰宅セサルナリ
然ルニ仝日午后ニ至リ香取神社前ニ設置セラレタル大隊本部ニ連レ行カレタリトノ噂ヲ聞クニ至レルカ二時カ三時頃カト思フ吉村及ビ神田藤太郎等町内有志カ配給米ニ関スル交渉ノ為メ町役場ニ出向キタル途中香取神社境内ニ於テ軍隊ノ為メニ拘束セラレタル多数ノ鮮人ニ交リテ佐藤ノ居ルヲ認メタルヲ以テ吉村ハ軍隊ニ対シ夫レハ鮮人ニ非ス内地人ダカラ返シテ呉レト交渉シタルニ隊テハ内地人ナラ内地人ナリトノ役場ノ証明書ヲ持参セヨトノコトナリシテ以テ役場ニ行キテ話シタ処町長ハ自分ノ証明モ諸君ノ証明モ別ニ変リナキ筈ナルヲ以テ其必要ナカルヘシトノコトナリシニ依リ再ヒ軍隊ニ行キ其ノ旨申シ出タルニ調ベタル後内地人ナラハ返スカラトノ事ナリシヲ以テ吉村ハ帰宅シテ佐藤ノ帰ルヲ待チ居タリシモ遂モ其儘帰ラサリシナリ
一、大日本自転車株式会社職長布上庄兵衛ノ妻ヨリ聞知セル所ニ依レバ同人ハ九月三日午后二時頃佐藤カ鮮人ト共ニ軍人ニ引致サレルヲ目撃セル由ニテ尚鮮人ハ皆手ヲ縛ラレテ引致セラレタルモ佐藤ダケハ縛ハラレズ先頭ニ立チ徒歩ニテ行ケル由ナリ
一、佐藤ハ色白ク丈高イ一見鮮人ト見違ハレ易キ容姿ヲ備ヘ居リシヲ以テ鮮人ト誤認セラレ殺害セラレヘシトノ噂其後知人間ニ高カリシヲ以テ自分ハ其ノ安否ヲ聞キ合スヘク警察ニ行カンカトモ思料セルモ被殺者ノ一人タル吉村光治ノ実兄タル関係モアリ若シ其ノ儘拘禁セラル様ノコトアリテハ大変ナリト知人ヨリ注意アリタル為メ多分噂ノ通リナラントハ想像セルモ自ラ警察署ニ出頭シテ聞キ合スコトハ見合セ置キタリ
一、其ノ後九月十五日頃カト思フカ吉村及ヒ佐藤ノ安否ヲ問合ス為メニ吉村ノ父即チ自分ノ父ヲ亀戸署ニ出頭セシメタルニ警察署ニテハ「帰シタ」ト云フ返事ナリシヲ以テ何処ニ帰シタカト反問セル処「若イ者タカラ何処カヲウロツイテイルダロウ」トノコトナリキ
一、其後再ビ父ヲ警察署ニ行カシメタル際ハソンナ者ハ知ラヌトテ大ニ威嚇セラレテ帰リ九月廿二三日ノ頃カト思フカ三度出頭セシメタル際モ「知ラヌ」ノ挨拶シテ拠所ナク空シク帰リ来レリ
一、其後吉村及ビ佐藤等ガ亀戸署構内ニ於テ刺殺セラレタル旨新聞ニ掲記アリシヲ以テ十月十日正午頃自分カ亀戸署長ニ面会シ事実ヲ確カメタル所佐藤ノコトモ吉村ノコトモ遺族ヲ一々呼ビ出シテ話ス積リナリシモ其ノ住所カ不明ナリシ為メ其ノ儘ニ為リ居タリシカ当時ノ検束者ハ約七百名モアリ中ニハ革命歌ヲ高唱シ警 官ニ抵抗シテ騒擾ヲ極メタルヲ以テ習志野騎兵隊第十三聯隊ニ鎮圧方ヲ依頼セルニ軍隊ニ対シテモ抵抗セルモノト見エ軍律ニ依リ殺害セラレタリ、諸君ニハ甚ダ気ノ毒ナルモ事実右ノ通リナルヲ以テ其ノ積リテ居テ貰ヒ度シ、死体ハ荒川放水路四ツ木橋附近ニテ火葬ニ附シタルヲ以テ案内スヘキニヨリ遺骨ヲ拾ハレ度キ旨 話シタリ 尤モ同所ニハ数百人ノ遺骨カ一緒ニ存在スル訳ナルヲ以テ何レカ誰レノ骨ヤラワカラス ケレドモ 兎モ角翌日拾ヒニ行クコトニ談合ノ上帰宅セリ
一、翌日十一日労働総同盟幹部市村氏ガ当時検束中ナリシ自分ノ弟南巌外二人ノ釈放方等ニ付キ警察ニ交渉ニ 赴ケル際同時ニ被殺査側ヲ代表シテ遺骨引取方ニ付キ交渉シタル処遺骨ノ引渡ガ間題ニナリ居ルヲ以テ本庁ニ聞合セタル上改メテ措置スル由ナリシカ更ニ翌日午前九時ニ来テ貰ヒタヒトノコトナリシヲ以テ自分ハ遺骨拾ヒハ見合セタ警察ヨリ其儘帰ツタ。
一、翌十二日市村氏カ処置方ニ付知合ノ弁護士ニ相談ニ行キ居ル間警察ニ行クコトヲ見合セ置キシ処高等係リヨリ直グ遺骨ヲ引取リニ来イトノ督促アリタリ市村氏カ帰ツテノ話ニ依レハ警察ニ対シテハ遺族ノ者ヨリ誰ノ骨カワカラヌモノヲ貰ツテモ仕方カナイカラトノ申出テアリタリトノ理由ヲ附シ引取ニ行クコトヲ見合セ置キテ今日ニ及ヘリ
右ハ大正十二年十月十五日午后東京弁護士会館楼上ニ於イテ聴取リ作成セルモノトス
聴取人 東海林民蔵
事実右供述ノ通リ相違無之候也
供述人 南喜一
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南 喜一の陳述
『南葛労働会は地方にて十分の信用あり、何れよりも悪評を聞きしことなし。会員は皆精勤者にして、仕事を休みて労働運動に従事するような者は全くなく、私の弟なる南巌の如きも同会に加入し、小村井の帝国輪業会社の職工として勤務し居りしが、同会社にては巖を模範職工と推奨と居りし次第なり。
故に 私として私の親族が同会に加入し居ることを忌み嫌いたることなかりし。或いは警察にては、青年の生一本なることや総べての労働団体を嫌忌する考えより南葛労働会員に迫害を加えたるものかと想像する』
〔18〕 聴取書
供述人 南 喜一
一、住居ハ南葛飾郡吾嬬町請地千百三十七番地原籍ハ石川県石川郡三馬村出生地モ同上年令二十一才震災前ハエボナイト加工工場ヲ経営シ職工徒弟ヲ使用シ自ラモ加工ノ職ニ従事セリ震災ニ依リ工場倒潰セシヲ以テ目下失業ノ姿ナリ追テ旧職業ニ従事スル積リナリ
二、私ハ原籍地ニテ高等小学校ヲ卒業後明治四十五年三月(十九才ノトキ)上京シ麹町紀尾井町明治薬学校ニテ一ヶ年半修業シ爾来工業薬品ノ製造或ヒハエボナイトノ製造加工ニ従事シ来リタリ
三、私ハ思想団体又ハ労働団体等ニ加入シタルコトナキハ勿論一切関係シタルコトナシ
四、私ノ弟吉村光治カ南葛労働会ニ加入シ居レリ
五、佐藤欣治ハ二年以上モ交際シテ熟知セリ、其性質トシテ現ハレタル所ハ郷里(岩手県江刺郡田原村石山)ヨリ上京シタル儘ノ姿ニシテ全ク田舎者ノ質朴丸出シニシテ何等ノ習癖ニ染ミタルノヲ見サリシ、言語モ 少ナキ方仕事ニハ極メテ忠実ナリシ今年ノ春頃南葛労会ニ加入シタリソレハ佐藤ノ寄宿ナル私ノ弟吉村光治カ同会ノ支部トシテ関係セルモノト思フ
六、南葛労働会ハ地方ニテ十分ノ信用アリシ何レヨリモ悪評ヲ聞キシコトナシ会員ハ皆精勤者ニシテ仕事ヲ休ミテ労働運動ニ従事スルヨウナ者ハ全クナク私ノ弟ナル南巌ノ如キモ同会ニ加入シ小村井ノ帝国輪業会社ノ職工トシテ勤務シ居リシカ同会社ニテハ巖ヲ模範職工ト推奨シ居リシ次第ナリ
故ニ 私トシテ私ノ親族カ同会ニ加入シ 居ルコトヲ忌ミ嫌ヒタルコトナカリシ
或ヒハ警察ニテハ青年ノ生一本ナルコトヤ総ベテノ労働団体ヲ嫌忌スル考ヨリ南葛労働会員ニ迫害ヲ加ヘタルモノカト想像スル
七、私ハ二日ノ夜自衛会ヲ組織シ救護ニ尽シ青年団ト連絡シタル末後ニハ自衛会ト青年会ト合併シタリ
八、猶佐藤ハ給金ヲ貰ヒタルマヽ、未ダ下宿代モ払ハズ金二十三円ハ是非懐中シ居リシ筈猶新調ノ洋服モ着用セシニ遺留品ハ一切下渡サス
右ハ大正十二年十月十九日東京市赤坂区青山南町一丁目三十二番地聴取人事務所ニテ聴取リ作成セルモノトス
聴取人 牧野充安
事実右供述ノ通リ相違無之候也
供述者 南喜一
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南 巌の陳述
『自分は亀戸署にて兵卒及警官より、甚だしく撲られ或いは暴虐を受け、或は死刑宣告だ等と脅かされつつ三十有余日を過ぎて十月十六日午后五時放還せられたり』
『佐藤の初め引致せられたときは、朝鮮人と誤認さられたる故と思い居たるも、後に殺されたことか、自分に対する軍隊、警官の処置より考えれば南葛労働会に加入し居りし故と思はるる、理由は無しと信じる。何故か了解し難し』〔19〕 聴取書 供述者 南 巌
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立花春吉の聴取書
『四、四日の朝六時頃便所に行きたる処、便所に行く道の入口の処に兵士が立番し其処に七八人の死骸や半殺しの鮮人に莚を被せてありました。而して其の横手の演武場には縛せられたる鮮人が血だらけになりて三百人位居りました。而して演武場の外側には支那人が一列になり軒下に五六十人位、座って居りました。
五、四日の晩、暗くなってから銃の音がポンポン夜明迄聞こえました。その銃声は自分の居た二階の下の方に聞こえました。即兵隊が立番して居て七八名の死骸のあったあたりであります。その夜は只銃声計りで、人が騒ぐ音なぞは少しも致しません。又一人だけ泣き叫ぶ声を聞きましたが、その他には泣声、叫び声等は致しません。
右の泣き叫ぶ声は鮮人の声で夜明方でした。そしてその鮮人は自分が悪いことをせぬのに殺されるのは国に妻子を置いて来た罪だろうか、貯金はどうなっただろうというようなことを言うて泣き叫びました。
七、その立番の巡査は、又昨夜は日本人七八名、鮮人共十六名殺された。それは鮮人ばかり殺すのではない、日本人も悪いことをすれば殺されるのだ。君等も悪いことをすれば殺されるから従順にせよと言いました。
八、この時巡査が三人で立ち話しをしているのを何気なく聞いていた処、南葛労働組合川合という言葉だけ漏れ聞こえました。自分が川合とは知り合いであったため、特に聞こえたので自分は恐ろしくなりました。』
『十、それから暫く便所へ行きますと、便所に行く道に日本人らしき三十五六才の男が二人、裸で手を縛り立たせてありました。その男は頭に創があり、半死半生の状態でありました。
一一、その日の晩方 三人の立番巡査が窓から覗いて殺されるところを見て、一人の年寄の巡査は剣で刺す手附をして「あの刺す音はズブーと云うて何という音だろう」と言い、音の発音の「マネ」をしていました。
殺すのは銃ばかりではなくて、剣でも刺殺したものと思われます。
一二、その晩も多数殺された様子です。それは巡査の話や便所へ行くことを止められたことや、四隣の気配で知れました。自分の考えでは、四日の晩迄は銃で射殺し、五日よりは剣で刺殺したものと思われます』
〔20〕 聴取書
府下亀戸町三千三百七十八番地
福島由太郎方
立花春吉 二十二才
一、私ハ九月三日 亀戸署ニ四時頃保護ヲ願出デ仝署ニ六日午前五時頃迄居リマシタ、而シテ自分ハ奥二階ノ広キ間ニ居リマシタ、其二階ハ井戸ノ隣ニアリマシタ、自分ノ居タ部屋ニハイリタル時ハ二十人位居リマシタ、ソシテ其二十人ハ皆鮮人計リデシタ、入ツタ時ニハ自分ノ住所氏名年令職業等ノ取調ガアリ署長ヨリ「オトナシク」スレバ飽迄モ保護スルト云ハレマシタ
二、食物ハ玄米ノ握リ飯一ツ、一日二食デアリマシタ 皆ガ腹カ減ルダローカ鮮人ガ米ノ倉庫ニ爆弾ヲ投入シタカラ 米カナイ為少シシカ当ラヌト立番ノ巡査ガ云ヒマシタ
三、私ガ入リタル三日ノ晩ハ別ニ何事モナク寝入リマシタ 然ル処 四日朝カラ鮮人ガ多数入レラレ百十六名位ニナリマシタ 夫レテ狭マクテ足ヲ伸スコトスラ 出来マセンデシタ
四、四日ノ朝六時頃便所ニ行キタル処 便所ニ行ク道ノ入口ノ処ニ兵士カ立番シ其処ニ七八人ノ死骸ヤ半殺シノ鮮人ニ莚ヲ被セテアリマシタ 而シテ其 横手ノ演武場ニハ 縛セラレタル鮮人ガ 血ダラケニナリテ三百人位居リマシタ 而シテ 演武場ノ外側ニハ支那人カ一列ニナリ 軒下ニ 五六十人位 座ツテ居リマシタ
五、四日ノ晩 暗クナツテカラ 銃ノ音カ ポンポン夜明迄キコヘマシタ 其ノ銃声ハ自分ノ居タ二階ノ下ノ方ニ聞コヘマシタ 即兵隊カ立番シテ居テ七八名ノ死骸ノアツタアタリテアリマス、其夜ハ只銃声計リテ人カ騒ク音ナゾハ少シモ致シマセン 又一人丈ケ泣キ叫フ声ヲキヽマシタカ 其他ニハ泣声 叫ヒ声 等ハ致シマセン、
右ノ泣キ叫ブ声ハ鮮人ノ声テ夜明方デシタ ソシテ其鮮人ハ自分カ悪イコトヲセヌノニ殺サレルノハ国ニ妻子ヲ置イテ来タ罪ダロウカ 貯金ハドウナツタロウト云フ様ナコトヲ云フテ泣キ叫ビマシタ
七、其立番ノ巡査ハ又昨夜ハ日本人七八名 鮮人共十六名 殺サレタ 夫レハ 鮮人計リ殺スノデハナイ 日本人モ悪イコトヲスレバ殺サレルノタ君等モ悪イコトヲスレバ殺サレルカラ従順ニセヨト云ヒマシタ
八、此時巡査カ三人テ立話ヲシテ居ルノヲ何心ナクキイテ居タ処 南葛労働組合川合ト云フ言葉丈ケ漏レキコヘマシタ 自分カ川合トハ知合テアツタタメ特ニキコヘマシタノデ自分ハ恐ロシクナリマシタ
九、五日ノ昼頃自分等ノ居ル部屋カ狭キ故 自分等及階下ノ温順ナ鮮人ヲ連レテ 安全ナ場所ヘ行クト云ヒ 騎兵ニ守ラレ附近ノ自転車工場ヘ行キマシタカ危険タト云フノデ更ニ 署ニ帰リマシタ
十、夫レカラ暫ク 便所ヘ行キマスト 便所ニ行ク道ニ日本人ラシキ三十五六才ノ男カ二人 裸テ手ヲ縛リ立タセテアリマシタ 其男ハ頭ニ創ガアリ半死半生ノ状態デアリマシタ
一一、其日ノ晩方 三人ノ立番巡査ガ窓カラ覗イテ殺サレル処ヲ見テ 一人ノ年寄ノ巡査ハ剣デ刺ス手附ヲシテ「アノ刺ス昔ハズブート云フテ何ト云フ音ダロウ」トイヒ 音ノ発音ノ「マネ」ヲシテ居マシタ
殺スノハ銃計リテナク剣デモ刺殺シタモノト思ハレマス
一二、其晩モ多数殺サレタ様子デス 夫レハ巡査ノ話ヤ便所ヘ行クコトヲ止メラレタコトヤ、四隣ノ気配デ知レマシタ
自分ノ考デハ四日ノ晩迄ハ銃デ射殺シ五日ヨリハ剣デ刺殺シタモノト思ハレマス
一三、右ノ次第デ三日ノ晩ヨリ五日ノ夜明迄ハ静カデ騒グ様ナコトハアリマセン 夫レハ一人デモ話デモスレバ他ノ者ガ迷惑スルシ且恐ロシク皆縮ミ上ツテ居リマシタ 夫レハ巡査ノ注意モアリ 御互ニ注意シ合ヒ 静カニシマシタ
一四、右ノ状況デアリマシタカラ隣室デ騒グ様ナコトガアレバ 直チニ 分ル筈デシタガ 極メテ静カデ騒ギマセンデシタ
労働歌ヲ歌フ声ハ絶体ニ聞キマセン
一五、六日ノ朝五時頃 習志野ヘ五百人位一緒ニ兵隊ニ送ラレテ行キマシタ ソシテ習志野ニ二十六日迄居リ其后 青山鮮人収容所ニ廻ハサレ 二十九日 自分ノ家ニ帰リマシタ
一六、右ノ通リ相違アリマセン
大正十二年十月十六日午后七時
東京市芝区新桜田町十九番地、松谷法律事務所ニ於テ
立花春吉事
全 虎岩
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川崎甚一の聴取書
『一、九月三日午前十二時頃、突如として五発の銃声を耳にしてので、諸岡さんは近所に居た避難民と共に鮮人騒ぎだと思って銃声した方面へ急いで馳けつけました。銃声の発せられた場所は第四小学校の敷地の南飯田自転車工場の南側の塵芥の埋立地で、亀戸警察署から程遠からぬ(約二丁余りの距離)所でありました。
一、附近から集った群集に交って現場に着くと、すでに四名の人が咽喉を銃丸で貫かれて、四人共東枕にしてウツ伏せにしたまま倒れて居ました。四人の服装はシャツ、モヽシキにタビ、ハダシの人が二人、霜降りの作業服を着たのが一人、その人は頭髪がやや伸びて居ました。今一人は浅黄色の寝巻を着ておりましたそうです。
一、私はこの話を聞いて霜降りの作業服を着て、頭髪を延ばしていた者が北島吉蔵君であり、浅黄の寝巻を着ていたのは加藤高寿君であったと確信します。二君等の検束前の服装が、諸岡さんの目撃した者の服装と一致してるからであります。他の二人は南葛労働会本部から検束されていった六名の内の前記二名を除く他の四人の内の二人だと思います。
一、話はもとに戻りますが、諸岡君等が現場に着いた時は、作業服(霜降リ)を着た者は、また死に切れずに居たと見えて、肩先のあたりや背中をピクピクさせて居たそうです。
尚その時、その処に集ってきた群集の内の一人は、そのピクピクして居る者に向かって『この野郎は銃丸を食らっても、まだ生きて嫌がる、卑怯な奴だ』と言いながら携えていた短刀の鞘を払って霜降の者の肩先深く切りつけました。群衆中の他の者等も死体に向ってかなり乱暴をしたそうです。』
『亀戸署の人事相談部に居る伊藤とかいう肥えた丸顔の巡査部長が、死屍の見張りをしていて、群集に向って次の様に話したそうです。 演説口調で「皆さん、私は朝鮮人の肩を持つわけではありませんが、朝鮮人と云えば皆悪者だと思うのは間違いで、悪い者もおるに違いないが、また善良な者もおる。今の殺した四人は朝鮮人ではなくて日本人である。日本人であるが社会主義者で悪い奴だ。そんな奴が朝鮮人を煽動したために、今度の様な騒ぎが起ったのです。云々。」
なお巡査部長は続いて次の様なことを言ったそうです。「まだもう二人殺すのであるのだが、皆んなが寄り集って来たので、日本人を皆んなの前で殺すのもどうかと思うから、他の場所で殺すことにした。もうここでは何事もないから帰ってくれ」と。
一、その時、巡査部長は四人の内、北から二番目に倒れていたいた霜降りの作業服の男を指して「こ奴はあまり暴れたから、銃丸を二発喰らっている」と言ったそうです。群集も「こ奴らが朝鮮人を煽動したのか」と言って、死屍に侮辱を加えたそうです』
〔21〕 聴取書
東京府南葛飾郡小松川町下平井九百四十七番地
川崎甚一 二十七才
一、私ハ大正十二年十二月二十日頃、亀戸町水神森ノ自転車商ノ諸岡トイフ人カラ次ノ様ナ話ヲ聞キマシタ
一、諸岡サンハ 九月一日ノ震災後近隣ノ人々ト共ニ亀戸町ノ第四小学校敷地ニ避難シテオリマシタ。
一、九月三日午前十二時頃、突如トシテ 五発ノ銃声ヲ耳ニシタノデ、諸岡サンハ近所ニ居タ避難民ト共ニ鮮人騒ギダト思ツテ銃声シタ方面ヘ急イデ馳ケツケマシタ 銃声ノ発セラレタ場所ハ第四小学校ノ敷地ノ南飯田自転車工場ノ南側ノ塵芥ノ埋立地デ亀戸警察署カラ程遠カラヌ(約二丁余ノ距離)所デアリマシタ
一、附近カラ集ツタ群集ニ交ツテ現場ニ着クト既ニ四名ノ人ガ咽喉ヲ銃丸デ貫カレテ、四人共東枕ニシテウツ伏シタマヽ倒レテ居マシタ 四人ノ服装ハシヤツ、モヽシキニタビ ハダシノ人ガ二人霜降リノ作業服ヲキタノガ一人、ソノ人ハ頭髪ガヤヽ伸ビテ居マシタ 今一人ハ浅黄色ノ寝巻ヲ着テオリマシタソウデス
一、私ハ此ノ話ヲキイテ霜降リノ作業服ヲ着 頭髪ヲノバシテ居タ者ガ北島吉蔵君デアリ浅黄ノ寝巻ヲ着テ居タノハ加藤高寿君デアツタト確信シマス。二君等ノ検束前ノ服装ガ 諸岡サンノ目撃シタ者ノ服装ト一致シテ居ルカラデアリマス。他ノ二人ハ南葛労働会本部カラ検束サレテ行ツタ六名ノ内ノ前記二名ヲ除ク他ノ四人ノ内ノ二人ダト思ヒマス。
一、話ハモトニ 戻リマスガ、諸岡君等ガ現場ニ着イタ時ハ作業服(霜降リ)ヲ着タ者ハマダ死ニ切レズニ居タト見ヘテ、肩先ノアタリヤ背中ヲピクピクサセテ居タサウデス。
尚其ノ時、其処ニ集ツテ来タ群集ノ内ノ一人ハ其ノピクピクシテ居ル者ニ向ツテ『此ノ野郎ハ銃丸ヲクラツテモ マダ生キテ ヰヤガル 卑怯ナ奴ダ』ト言ヒナガラ携ヘテヰタ短刀ノ鞘ヲ払ツテ霜降ノ者ノ肩先深ク切リツケマシタ。群衆中ノ他ノ者等モ死体ニ向ツテカナリ乱暴ヲシタソウデス
一、諸岡サン等ガ現場ヘ馳ケ付ケタ時、其処ニハ亀戸署ノ人事相談部ニ居ル伊藤トカイフ肥エタ丸顔ノ巡査部長ガ死屍ノ見張リヲシテ居テ群集ニ向ツテ次ノ様ニ話シタソウデス 演説口調デ
『皆サン 私ハ朝鮮人ノ肩ヲモツワケデハ アリマセンガ、鮮人ト云ヘバ皆悪者ダト思フノハ間違ヒデ悪イ者モオルニ違ヒナイガ マタ善良ナ者モオル。今ノ殺シタ此ノ四人ハ朝鮮人デハナクテ日本人デアル。日本人デアルガ 社会主義者デ悪イ奴ダ。斯ンナ奴ガ鮮人ヲ煽動シタタメニ今度ノ様ナ騒ギガ起ツタノデス云々』
ナホ仝巡査部長ハ続イテ次ノ様ナコトヲ言ツタソウデス。『マダモウ二人殺スノデアルノダガ皆ンナガ寄リ集ツテ来タノデ、日本人ヲ皆ンナノ前デ殺スノモドウカト思フカラ 他ノ場所デ殺スコトニシタ。モウ此処デハ何事モナイカラ帰ツテクレ』ト
一、其ノ時、仝巡査部長ハ四人ノ内北カラ二番目ニ倒レテ居タ霜降リノ作業服ノ男ヲ指シテ
『此奴ハアマリアバレタカラ銃丸ヲ二発クラツテ居ル』ト云ツタソウデス
群集モ『此奴等ガ鮮人ヲ煽動シタノカ』トイツテ死屍ニ侮辱ヲ加ヘタソウデス。
一、部長ノ説明ガ終ツテ間モナクシテ 剣ヲハズシタ白服ノ巡査ガ警察ノ方カラヤツテ来テ 二人ヅツデ死屍ヲ戸板ニノセテ警察ノ中ヘ持チ運ンダソウデス
一、其ノ後シバラク経ツテカラ又モヤ警察ノ方カラ二発ノ銃声ガキコエテキタノデ前記ノ場所カラ避難所ヘ帰ツテ居タ諸岡サン等ハ再ビ銃声ノシ夕方ヘ馳ケツケマシタガ 今度ハ警察署ノ内部デヤツタラシク群集ハ署外デ(警察署ノ裏側ノ)内部ヲ覗ツタニ止マリ 死体ハ到々見ルコトガ出来ナカツタソウデス
一、諸岡サンハ 二度目ノ二発ノ銃声ハサツキノ巡査ガ『マダ殺スノガ二人残ツテ居ル』トイウタソノ二人ヲ銃殺シタ時ノ銃声ダト思フト言ツテ居リマシタ。
一、諸岡サンハ 初メノ五発ノ銃声ヲ キヽツケテ前記ノ個所ヘ馳ケツケル途中デ四人ノ兵卒ニ逢ツタガ同氏ノ推察デハ ソノ四人ノ兵卒ガ初ノ四人ヲ銃殺シタ者ラシク思ハレルト云ツテオリマシタ。ナホ 諸岡サンガ 銃声ヲキイタ時カラ 現場ニ到着シタ時マデニハ約五分足ラズノ時間ガ経ツテ居タソウデス。
一、四人ノ死屍ヲ目撃シタモノハ 諸岡サン以外ニ同刻其ノ地ノ近所ニ居タ多クノ人ガアリマス。
一、私ハ諸岡サンノ話シタ二回ニワタル合計六人ノ銃殺ガ 三日ノ晩 亀戸署員ニヨツテ拉致サレタ(南葛労働会本部カラ)、六名ノ銃殺デアツタト思ヒマス。
右ノ通リ相違アリマセン
大正十二年十二月二十三日
東京府南葛飾郡小松川下平井九百四拾七番地 川崎甚一方テテ(ママ)作成
供述人 川崎甚一
聴取人
弁護士 黒田寿男
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藤沼栄四郎の聴取書
『伊藤巡査部長は、突然左の頬を打って掛り、「今度ノコトハ貴様等ノ仕業ダロウ」と言いながら、私を打った。なお「俺も今度は焼け出され、プロ(レタリアート)になったから、プロとプロとの力競べをやろう」と言って、私を打ちましたが、稲垣刑事が傍から、「藤沼は南葛労働会の理事長だから折檻せぬが好いだろう」と注意しました。伊藤は「こんな奴が理事長だから碌な事はせぬ」と言って、又殴りました。それで伊藤についてきた五六人の制服巡査も手を出し、遂に私は腰掛から突倒されました。すると伊藤は私の左の手をねじ上げ、そのねじ上げた手を腰掛けに掛け、その上を足で踏もうとしたので、私は体をねじって手は離れました。その中に口中の何此かが切れたものと見え、私の口中から血が流れ出たので、安島がこれを見て、ここでやってしまっては仕様がない。彼方へ持って行って呉れと云う事を二度ばかり伊藤に向って言いました。すると五六名の正服巡査中の誰かが「大丈夫だ、外にも一人待たしてある大丈夫だ」と言って居るのを聞きました。この時は目もくらみ、人の顔は判らず、ただ言葉だけを記憶しています。それからは一切記憶がありません。 正気附いた時には、井戸のポンプの音がまず、耳に入リ、気が付くと水を掛けられて居ました。』
(〔22〕 聴取書 東京府亀戸町亀戸二九八七番地 鋳物工 藤沼栄四郎 四十三才)
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南 巖の聴取書
『(2)検束当時のことを之から述べます。
七、十一日夜八時過ぎ 亀戸警察署高等係 蜂須賀、小林及び深沢とか云ふ若い高等係等に巡査を合せて七八名 其の外兵卒一名が同行して私の家へ参りました。
其の時 蜂須賀だったと思ひますが、私に向って次の様な暴言を吐きました。外の同行者も之に和して同様なことを言つたと記憶してゐます。『オ前の熱望してゐた革命がやって来たぞ。東京は全部焼けた。金持も貧乏人もなくなった。オ前等の理想通りになった。オ前等の満足の行くやうにしてやる』と。
斯様な言葉の終らぬ内に 私の手は 後手に縛り上げられてゐました。帝国輪業会社を少し過ぎた所にある交番まで引張つて行かれ 其処から自動車で亀戸署迄運ばれました。
(3)次に署内での虐待について述べます。
八、検束された日は、九時半から十一時近くまで少時の間隔を置いて連続的に撲られました。
撲られた箇所は顔面でした。
その日以後、約十日間は私の顔は人から見まちがわれる程膨れ上がつて居りました。
九、其の後十八日と、それから三日ばかり終つて後と前後三回撲られました。後の二回は高等係室でやられました。』
〔23〕 亀戸署の被検束者に対する虐待に関する聴取書
東京府南葛飾郡吾嬬町小村井一一六三
旋盤工 南 巖 二十二才
(1)先づ地震後から検束前迄の私の行動を述べます。
一、九月一日には帝国輪業会社で勤務中地震にあひました。
二、二日には今は亡き友なる佐藤欣治君と共に本所緑町三丁目で火災の為めに盲になって困ってゐた人三十人ばかりを 亀戸行きの舟に乗すべく船頭に交渉し彼等を同方面に避難させました。
三、仝日午後二時頃から、佐藤君と共に震害事故防止調査会(安田為太郎、神田氏等之を指導す)に参加し、市電柳島終点附近で罹災者の為めに飲料水を給配などに従事しました。
四、夜に入るや流言蜚語が盛んに行はれ出しました。私は近所の人々の常規を脱した興奮振を鎮める為めに流言蜚語の馬鹿らしい点や、無根と思はれる点を確信を以て否認しました。鮮人襲来の流言に対しては『彼等が暴行をしない限り、此方から暴力を以て臨んではならない』と極力主張しました。
五、三日からは昼は配給米の運搬の手伝ひ等に従事し、夜は夜警しました。三日夜、兄(吉村光治)が検束されたことを聞きました。兄は、別に不穏なことも悪いこともしてゐたと思つて居りませんので、警察のよくやるいつものやうな検束だらうと思って居りましたので大して気にかける事もなく 其のまゝ うつちやつて置きました。
六、十日迄は別に変ったこともなく過ぎました。
(2)検束当時のことを之から述べます。
七、十一日夜八時過ぎ 亀戸警察署高等係 蜂須賀、小林及び深沢とか云ふ若い高等係等に巡査を合せて七八名 其の外兵卒一名が同行して私の家へ参りました。
其の時 蜂須賀だったと思ひますが、私に向って次の様な暴言を吐きました。外の同行者も之に和して同様なことを言つたと記憶してゐます。『オ前の熱望してゐた革命がやって来たぞ。東京は全部焼けた。金持も貧乏人もなくなった。オ前等の理想通りになった。オ前等の満足の行くやうにしてやる』と。
斯様な言葉の終らぬ内に 私の手は 後手に縛り上げられてゐました。帝国輪業会社を少し過ぎた所にある交番まで引張つて行かれ 其処から自動車で亀戸署迄運ばれました。
(3)次に署内での虐待について述べます。
八、検束された日は、九時半から十一時近くまで少時の間隔を置いて連続的に撲られました。
撲られた箇所は顔面でした。
その日以後、約十日間は私の顔は人から見まちがわれる程膨れ上がつて居りました。
九、其の後十八日と、それから三日ばかり終つて後と前後三回撲られました。後の二回は高等係室でやられました。
十、其の時の有様を述べますと
高等係等の私に対する行動は、全然個人的反感で終始し、私が労働組合に加盟してゐて、メーデーや失業者防止運動や過激法案反対運動等に参加したことなどを述べ、あの時は斯々であつた。その時は斯々だつた。と取締に手古摺つた私憤を洩らしました。
彼等は『俺達もブロ(プロレタリア)になつたのだ。プロとプロとの力較べをしやう』などと暴言を吐き乍ら 高木とか云ふ警部補、北見、安島、蜂須貿等の高等係、伊藤巡査部長等は、樫の木の棒で肩頸の辺を所嫌はず撲り付けました。蜂須賀はビンタを撲り靴で蹴る等しました。私は目がくらみ、耳は遠くなり、苦痛に堪え難くして遂に昏倒しました。
十一、意識を取戻した時、私は真裸にされて井戸端で頭から冷水をぶつかけられてゐました。水を汲み上げるために朝鮮人らしい者を使つて居りました。汲み上げられた水を頭からバケツでぶつかけるのでした。側には例の伊藤巡査部侵が樫棒を振り上げて逃げるのを防ぐらしい身構えをして居りました。何分彼等は酔つぱらつてゐることだし 私は只彼等の為すがまゝにするより外ありませんでした。私の顔には血が流れ伝はつて居ました。其の夜は真裸のまゝで監房内にぶち込まれました。
藤沼栄四郎、森谷天洞氏等も同様な虐待を受けたことは 後に知りました。私自身の場合に付ては勿論 酷い目にあはされた人々の話によると大概は酔つぱらつた勢でやられてゐるやうであります。
十二、尚 監守同志の会話によって知つたのでありますが、当時は事項録の記入は全然閑却されてゐたそうであります。
十三、其の後は(三回目に撲られた後は)監房内で労働運動に関係してゐると睨まれてゐる人々等と同じ監房内で日を過しました。藤沼栄四郎 伊比律栄君等も同室でありました。
十四、十月十三日頃呼び出されて調べられました。
南葛労働会の内容 設立事情等を聞かれました。
十五、十月十六日釈放せられました。其の時聴取書をこしらへさせられました。本籍現住所、賞罰、工場勤務期間、南葛労働組合との関係、仝組合の運動方法等について訊ねられました。尚震災に際して 組合のとった態度についても訊ねられ『南葛労働組合は震災に乗じて何事か社会主義的の運動をしたか』との問に対しては私は『否断じて左様なことはありません。組合員は個人的に或は夜警をしたり、炊出を手伝つたり、配給米の運搬、配水、組合員中の倒壊家屋の整理手伝等に従事して居ました。其れ以外に組合としては何事をも為しませんでした』と答へました。
尚奸商排斥に関する私の意見を近所の人々の前で語ったことをも述べました。
十六、監房内で見たり、聞いたりした 他の人々の事については細野弁護士に述べて置きました。
供述人は右の通り相違なきことを認めて署名捺印しました。
大正十二年十月十六日
供述人 南 巖
聴取人弁護士 黒田寿男
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南 巖の聴取書
〔24〕 聴取書
東京府南葛飾郡吾嬬町小村井千百六十三番地
旋盤工 南 巖 二十二才
一、私が亀戸署へ検束せられましたのは、九月十一日でありました。九月十一日から九月十八日迄は、監房が満員のために房外にゐました。九月十七日から監房に入れられました。同じ房内には十人位の人が入れられてゐました。それは森谷天洞、藤沼栄四郎、村田兄弟、伊比律栄等であります。村田兄弟は丁度私が検束されて監房の前へ行った時に頭から手や胸にかけて血で真赤になって医者から手当を受けてゐる所でした。其れについて『此奴は大島製鋼の争議などで警官を要らない様に警官を攻撃してゐたのでやられたのだ』と看守が云つてゐました。尚村田(弟)からは、『軍隊がこれは労働の方だと云ふことを巡査から聞いてそれでやられたのだ』と云ふことを聞きました。『其の時は反抗もした訳でもなく警官や軍隊の云ふがまゝにしてゐたのだ』とも村田(弟)は云つてゐました。
二、尚 房外にゐた時分にも多分九月十三日頃だと記憶しますが、房外にゐた通称平公事、後藤平吉や通称定公事、西谷定雄から『平沢もやられた。社会主義者は皆やられた。請地の柔道の先生も監房の前で看守と争ってゐて 看手では手に余つたので軍隊が二人で突いて発砲してやつつけ、その弾丸を『サカイ』と云ふ看守が持ってゐる。此の柔道の先生は酒に酔つてゐて『サカイ』といふ看守は柔道で投げられたのだと云ふ事を聞きました。
三、尚前記の平公等の仲間の島田浩太郎の話によると『大久保といふ髪の毛の長い人が連れて来られたが 此の男は大島争議に来た時などには看守に対しても大きな事を云つて居たが、今度はまるで態度もかわつておとなしく、殺されることを覚悟してゐたものか殺されても心残りはないが 家には年老いた親がゐるのて気がかりだと云つてゐたから多分殺されたらう』と云つてゐました。此の島田と云ふ男は大島争議の時に丁度喧嘩をしたと云ふ廉で監房に入れられて 大久保の事を知つてゐるのだと云ってゐました。
四、監房の前に居た兵卒(歩兵二等卒)二人が九月十三日頃の夜 監守と雑談してゐましたが、その兵卒は『今晩あたり肉附のいゝ奴が来ないかなあ』と云つてゐたのを聞きました。
五、尚房外に居た時看守が房内に居る者と話をしてゐた言葉に『九月六日頃 在郷軍人が酒に酔つぱらつて来て酒に酔つた気嫌で看守に向つて 俺は在郷軍人だ。それだのにこんな監房へ入れたと云つて怒つてゐたのを軍隊が胸を銃剣で一寸位突いた所がその在郷軍人は生命だけは助けてくれと云つてゐた』と云ふことを聞きました。
右の通り相違なし
大正十二年十月二十三日
南 巖
右同日東京弁護士会館楼上にて
弁護士 細野三千雄