写真は「労働争議の行商隊」(年、団体名不詳細)
8時間労働制を求めて闘い勝利した小田電機争議の2カ月 1923年主要な争議⑥
参照
「協調会資料」(小田電機争議)
「労働年鑑」第5集/1924年版 大原社研編
東京月島にある個人会社、小田電機工場。労働者78名(内女性3名)の一日の労働時間は10時間であった。組長も含む全員が職場内組合「親交会組合」を結成していた(組長らを除く約50名は純労働者組合にも加入している)。
1923年3月14日、労働者一同は現在の賃金のままでの一日8時間労働制の実施を要求した。職場ではサボタージュ闘争が始まった。20日にも親交会組合として新たな要求書「現在の賃金のままでの8時間労働制の即時実施、傷病手当の支給、解雇及び退職手当、勤続手当、衛生設備の改善(洗面所、食堂の設置、毒劇薬使用箇所の設置)、今争議で解雇者を出さないこと」を小田工場主に提出した。
しかし、会社は「つねづね、我が社は温情主義を持って職工に接し、この20年数年間なんら問題が起きなかった模範工場として知られている。小田工場主が来る5月の府会議長改選に立候補を準備中なるを見て、労働者側が、争議になると会社の信用を失うことを怖れ、大概のことは要求を呑むだろうという下心がでたものだ」として21日会社は労働者の要求をことごとく拒絶したばかりか、工場内に「怠業は欠勤とみなす」との脅しの貼り紙を掲示したため、労働者はますます怒ってサボタージュ闘争は以前より激しくなった。月島労働会館に集合した労働者は、結束を強くしあくまで要求の貫徹を期すと申し合わせた。25日、会社は臨時休業を発表した。午前11時労働者一同が工場に押しかけ小田工場主との面会を要求した。
(墨田川水上からデモンストレーション)
3月27日、労働者は三々五々佃島と月島の境界である無難堀の墨田川口に集合し、船7隻に分乗し、「小田電機工場争議団運動会」と書いた約2尺5寸の大きな旗を各船に掲げ、また純労働者組合第一・第二支部の旗も掲げた。午後1時頃出発し墨田川を漕ぎ下り、月島の水路に入り、いよいよ会社に向かったが、新島橋付近で水上警察署に阻止され、解散を命じられた。
29日、機械労働組合聯合会と純労働者組合支部は、平澤計七ら5名の代表団を小田電機工場長と談判すべく工場に向かわせたが、会社は「職工以外の第三者とは絶対に会わない」と拒絶してきた。争議団は工場付近一帯に宣伝ビラを配布し、夜演説会を開催し、約130名の労働者が集まった。中には地域住民十数名もいた。30余名の弁士が次々と立ち、「資本家の横暴、官憲の圧迫を攻撃し、団結してあくまで目的を貫徹しよう」と訴えた。弁士13名に「中止」命令を乱発する警官に対し、聴衆は大声で「横暴! 横暴!」と一斉に叫び会場は騒然となった。
3.29小田電機演説会の労働者のアピール
斉藤忠利
「小田工場はご飯を食べる時間を15分差し引き、1割の仕事をしても5分の賃金しかもらえない。残りは小田工場主が取ってしまう。このような不平が今回の争議を起こしたのだ」
俵次雄(純労働者組合)
「小田電機の争議の根源は今起きたのではない。資本家に対する不平欺瞞があらわれたのだ。資本家は栄華を夢見て要求を蹴ってきた。小田は議員で自動車などを持ち塩原には広大な別荘もありながら、労働者の生存権を制限し8時間制、傷病手当、衛生設備など当然やらなければいけない事をせず、逆に労働者が資本家に要求するとは生意気だと工場の閉鎖を行ってきた最も憎むべき動物である。これをほっておけば、月島の労働者の恥辱ではないか。であれば社会を新しくする手段、彼らがもっとも嫌がる方法をもって打ち破らなければならない(弁士中止!)」
杉浦啓一(関東機械工組合)
「私は昨年5月に小田電機に解雇された。俺たちがパンを求める。小田は100万という財産があるのも皆労働者のおかげである。しかるに10時間も働かせるのは横暴極まる。資本家は労働者をいくら(長時間)使ってもいいというのである。都合の悪い時は圧迫で応え、都合の良い時は、労働者が健康を害しようが、そんなことは頭の中に置かないのである。われわれが解決せんとするならば彼らに大損害を加えるべきである(弁士中止!)」
安村〇治(出版従業員組合)
「・・・無産階級は団結して突進されんこと(弁士注意!)、小田争議は諸君の知っている通り(労働者の)連合軍だ。ここで負ければ全国労働者の敗北であるから各無産階級の為に戦ってもらいたい」
3月31日、純労働者組合月島支部幹部が検束された。
4月4日、小田工場長は労働者10名に解雇通知をだしてきた。労働者側は6日、「解雇の拒絶」を決め、内容証明書で解雇通知を送り返した。
7日、午後4時半約45名が工場に押しかけ、不当解雇を詰問した。
8日、工場付近にビラ「戦いはこれからだ」、「俺たちは労働者だ。そしてすべての生活資料を生む生産者だ。俺たちは社会のすべての生産を握っている以上、俺たちの力は偉大だ。俺たちの力は正義だ。・・・俺たちは今、俺たちの力を信じている。そしてこの力をもって勝たねばならないのだ。・・・いよいよ最後の決戦だ。本当の解決はこれからだ!! 小田電機争議団 機械労働組合聯合会」を配布した。
10日、小田電機工場争議団決議文「決議文 我々がこの争議が我々の意志の下に解決をしない限り絶対工場に入場しないことをここに決議す。 大正12年4月10日 小田電機工場御中」
会社は11日より操業を再開した。しかし、当日スト破りをする労働者は一人もいない。労働者約40名が工場周囲でデモをはじめた。応援一人が検束された。
12日、夜11時30分ごろ争議団は工場前に集合し、デモンストレーションや労働歌を高唱した。4名が検束された。
14日午前10時、千葉の野田連合会代表2名が争議団本部に来訪し、『機械労働組合連合会の野田争議支援のお礼と小田争議の最後の勝利』の挨拶をした。この日2名が検束された。
16日、午後3時約35名は三々五々工場前に集結し、小田工場長に面会を求めたが、ここでも4名が検束された。
18日、争議団は周辺の数か所の工場を巡り、支援の訴えをした。カンパ約45圓が寄せられた。
19日、争議団約40名が工場前に。工場主と争議団代表11名の交渉が実現した。明日も交渉を続けると労資合意。野田聯合会見舞金を届ける。
20日、争議団約40名が工場前に。工場主と争議団代表11名の交渉再開。主に8時間労働制実施について交渉した。
21日、争議団約40名が工場前に。午後3時工場主と争議団代表11名の交渉再開。
22日、午前11時頃争議団約40名全員が工場応接室に押し入り、直接工場主との面会を要求したが、最後には代表11名が工場主と交渉を続けたが不調に終わった。この日、面会強要等で8名が月島警察署に検束された。
この日以来争議団は連日争議団本部に集合し協議をした。この間争議団はなんの行動もしていないのに、月島警察署は、23日3名、24日2名の労働者を不当に検束した。
26日、争議団は「持久戦」を決定。直ちに菓子類の販売する行商隊を組織した。
29日、会社が書面にて非公式に回答をしてきた。その内容は
一、8時間労働制。現在の10時間を9時間労働とし、内30分の昼食時間。残業は3時間以上の場合15分の晩食時間を与える。
二、傷病手当。公傷で欠勤の場合は日給一日分を支給する必要は認めるが、工場法に従い日給の二分の一以上を支給する。
三、疾病手当。共済組合を設置し、その規定に従う。
四、解雇手当。工場の都合で解雇した場合は、民法に従い2週間分の日給を支払う。ほか勤務年数による加算など。
五、自己退職手当。支給しない。
七、解雇者復職。不可能。
八、休業中の日給。支払う。ただし、今後速やかに就労し作業に専心した者には、後で相当便宜をはかるので念のため。
以上は非公式な提案であるから、労資の交渉が不調に終わった場合は各項共自然消滅するものとする。
5月13日、会社は解雇された労働者に対し、金600圓を与えると発言した。
14日、争議解決
覚え書き
一、9時間制を即時実行すること。ただし毎日30分間の定期残業をなすこと
一、公務上の疾病の欠勤は本人の日給の全額を支給する。
一、解雇手当。工場の都合で解雇したばあいは、日給60日分を支給する。
一、退職手当。退職する事情によりその都度職長・組長と協定の上、至急する。
一、勤続手当の支給。
一、衛生設備を工場側が誠意をもって設備する。
一、今回の解雇者には家族への慰問金600圓を支給し、解雇理由は事業縮小とする。
3月14日に始まった争議は、2カ月にしてついに解決した。
労働年鑑は、最後に「この争議は小さい争議であったけれども、争議期間が長かったこと、争議勃発時の会社経営側の態度等小工場における争議の一特徴と語るものと見得るであろう」とまとめています。