るるの日記

なんでも書きます

道元禅・禅の概念を学ばず始めから坐禅する

2020-09-25 16:24:15 | 日記
道元禅 ひたすらの坐禅(只管打坐)。そこに仏道を得る道が生ずる

仏道を習うとは自己を習うなり
自己を習うというは自己を忘るるなり
自己を忘るるというは万法に証せらるるなり
万法に証せらるるというは自己の心身および自己の心身を脱落せしむるなり(正法眼蔵)

身も心も軽くなり、脱落心身するに至りさらに軽くなった身と心
心身脱落した目によってすべての生活、世界へと目を向けることになる。無心と同じ状態

儒教で唱える「心の欲するところに従って法を越える」境地に至る😆

課せられた問題は、心(主体)と対象(客体)との間をいかにして統合することができるのか?

2020-09-25 15:49:48 | 日記
旗が動いてる?
風が動いてる?
心が動揺している!

いろいろな機縁通し、対立する主・客2つの世界に、機縁熟した者は目を開かされ、2つの世界の統一を体得できる

それは説明し尽くせるものではなく、人間の表面的理知とか合理的理性で理解しようとするのは困難だ。文字や言葉には限界がある

無説の説・無聴の聴・無聞の聞・無示の示について「説かない方がよい、という説だ」と言われ、ハッと気づくか否か。機が熟しているか否か

すべてに、2つの体と用がある。1つは本体、1つは本体を通して動かしうるもの

檻に入れられている猿から人間を見れば、人間が広い檻の中に入れられているようなもの。檻の中が安心できる場所となればなおさら

禅の公案

2020-09-25 15:20:39 | 日記
人に真理をよく説いてあるものは未だかつて見たことがない。ある事に喩えて表現してあるだけである。祖師たちのその真意を学びとろうとした僧たちは苦心を重ねて悟りの喜びを得た

釈尊がある日霊鷲山で、弟子たちや大衆を前に説法をなさろうとした時、一本の花を献じて目を閉じられた。一同は何のことだかポカーンとしていたが、その中で弟子の摩訶迦葉が師の意を知ってニッコリ微笑された。そこで釈尊はその法を彼に与えた。このように直観の悟りをいかに伝えていくかを第一義の精神として禅の公案は作られてきた

それぞれの人が、それぞれの立場と生に立脚し、それぞれ性格に見合った得悟の仕方を考えねばならない
同じことを師から教わって、各人それぞれ異なった風に受けとることもある

その受け取ったものが悟りへ如何に近づいたか、つまり機が熟したかを知るのが禅師匠たちの手腕でもある

坐禅をする者

2020-09-25 13:46:56 | 日記
坐禅をする者は体を正しく、着物をゆったりと着て、自由に楽な気持ちになって、胸のあたりにある気(炭酸ガス)を一杯吐き出してしまいましょう

すると気持ちよーくなり、大らかな気になる。心の内も外も明るく感じられるようになる

そうすれば仏の教えを聞いても、聞かなくても、悟ることができる(悟ることができるものは悟れる)

学問というのは、ただその人の性を導きだすための方法

まず坐禅を目標として、そして日常生活はその坐禅の悟入のための実践とする。学問も坐禅の悟入のための実践とする

道に入る途は2つの方法がある。。理から入る方法と、行から入る方法。今回は行から入る方法を書きます。行には4つ方法があります

2020-09-25 09:16:13 | 日記
【行入】

♦️報冤行♦️
道を修行している人に悩みができたならば、次のように考えよ

みな本を捨て末のことばかりしていて、恨み心を起こさせてきた。心を害することばかりしてきた。
こういった過去の罪の報いが、今出来涌いているのだ

それは天のわざわいではない、それは人に与えられている罪ではない。喜んでその報を受けなければならない。誰も恨むことはない

お経も「苦しみにあっても憂うことはない、それは道理を極めるとちゃんと解るから」と書いてある

こんな心になると、その行いは何となーく真理にかなっていくようになる。恨みを甘んじて受けることによって、自然と道に進みます

♦️随縁行♦️
人の本質というものは元来無い(衆生無残)から、原因結果ということから離れているが、業によって運ばれている。そこから苦楽を感じるのです。それはみな立場によっての縁から出る

苦楽なことがあっても、自分の過去に宿された原因によって感じているので、縁が無くなれば何も無くなってしまうものであるから、苦しくもなく、楽しくもないもんだ

得失はどれも縁から出るものだから、心に喜びや憂いを抱かず泰然自若としていれば、それぞれの立場が道に順う(したがう)

♦️無所求行♦️
人々は長い間迷ってきたので、至るところで惨めさが目立ち、焦っている
その迷いから脱却を求めなければならない

智者は真をさとっているので、心が安定し、何かと焦ることはない。そしてその場において立派に処置している

すべての者が本質は変化=空であるから、何も楽を願うこともない。(どうせ変化してくもんね)

功徳も闇黒も常に形に従う影。三界に永住することは、燃えた火の家にじっとしているようなもの。身があればみな苦の種子になって安心できなくなる

こうゆうことが解ってくると、形あるものに拘束されず、強い欲望もなくなる

経にも「求めるところあれば、みな苦となり、その心無くなれば楽」といっている。「求めるところ無し」ということが解れば、それが「本当の道を行う」ということ

多分道を求めるじゃなく、目の前の道を歩くって、自由自在な心境になるのかも🤔

♦️称法行♦️
真実の姿(性)は本来浄らか(きよらか・性浄の理)という法

この理を解って信じれば、諸々の形相の姿は空であることが観える。1つのことに囚われず悩むこともない

経にも書いてある
「法には相(姿形・衆生)がない。衆生の垢を離れているからだ。法には我(自分に囚われる)というものがない。我の垢を離れているからだ」

この理を承知していたならば、法の理にかなった行為をすることができるだろう

人間らしく行えばいい。思いなくして🤔