【行入】
♦️報冤行♦️
道を修行している人に悩みができたならば、次のように考えよ
みな本を捨て末のことばかりしていて、恨み心を起こさせてきた。心を害することばかりしてきた。
こういった過去の罪の報いが、今出来涌いているのだ
それは天のわざわいではない、それは人に与えられている罪ではない。喜んでその報を受けなければならない。誰も恨むことはない
お経も「苦しみにあっても憂うことはない、それは道理を極めるとちゃんと解るから」と書いてある
こんな心になると、その行いは何となーく真理にかなっていくようになる。恨みを甘んじて受けることによって、自然と道に進みます
♦️随縁行♦️
人の本質というものは元来無い(衆生無残)から、原因結果ということから離れているが、業によって運ばれている。そこから苦楽を感じるのです。それはみな立場によっての縁から出る
苦楽なことがあっても、自分の過去に宿された原因によって感じているので、縁が無くなれば何も無くなってしまうものであるから、苦しくもなく、楽しくもないもんだ
得失はどれも縁から出るものだから、心に喜びや憂いを抱かず泰然自若としていれば、それぞれの立場が道に順う(したがう)
♦️無所求行♦️
人々は長い間迷ってきたので、至るところで惨めさが目立ち、焦っている
その迷いから脱却を求めなければならない
智者は真をさとっているので、心が安定し、何かと焦ることはない。そしてその場において立派に処置している
すべての者が本質は変化=空であるから、何も楽を願うこともない。(どうせ変化してくもんね)
功徳も闇黒も常に形に従う影。三界に永住することは、燃えた火の家にじっとしているようなもの。身があればみな苦の種子になって安心できなくなる
こうゆうことが解ってくると、形あるものに拘束されず、強い欲望もなくなる
経にも「求めるところあれば、みな苦となり、その心無くなれば楽」といっている。「求めるところ無し」ということが解れば、それが「本当の道を行う」ということ
多分道を求めるじゃなく、目の前の道を歩くって、自由自在な心境になるのかも🤔
♦️称法行♦️
真実の姿(性)は本来浄らか(きよらか・性浄の理)という法
この理を解って信じれば、諸々の形相の姿は空であることが観える。1つのことに囚われず悩むこともない
経にも書いてある
「法には相(姿形・衆生)がない。衆生の垢を離れているからだ。法には我(自分に囚われる)というものがない。我の垢を離れているからだ」
この理を承知していたならば、法の理にかなった行為をすることができるだろう
人間らしく行えばいい。思いなくして🤔