釈迦は人間生活の苦しみを知り、生老病死より逃れるため出家入山した。そして多くのバラモンたちより学問と修行道を教わったが、それらの苦行で満足できなくて、ついに中道の法を知って大覚成就するに至った。悟って後さらに人々に仏の慈悲を広めるために山を下りられた。もし釈迦が出世間(入山)の釈迦のままであったなら、あるいはこの偉大な釈迦の法は歴史の彼方にかすんでしまったであろう。しかし山を下りられた釈迦はその一事のため、人の心を動かし、やがて歴史を変える程の大きな力を蓄えていったのであった
インドで芽ばえ、アジアから中国、日本へ根は広がった。特に禅はインドの禅定の観念より発して中国人の心をとらえて大きな変化をきたした
禅はどのような変換をされていったのか振り返ってみる
達磨から3代目僧さんまでは、自ら頭陀行を行って乞食して歩き、かつ仏の教えを講じて歩いた。まだインド的な観念があった
4代目道信のとき廬山に定住して、500余人の道者を教育するに至って、以後その生活は禅に大きな問題となった
6代目慧能は「定住生活」と「禅の行」を一致するものにした。
生活する以上は食べなければならない。自給自足などを行う生産活動が開始された。
それまでのインドの禅は、僧は生産から離れた階級であった。また生産することは修行の邪魔でもあった。ところが中国に入った禅は生産活動を主眼目の1つとした。したがって働くということは、もっとも重大な作務であって、働く陰徳によって悟りに至るという具体的な中国思想を生み出した。いわば仏教の一大転換なのである。もちろん田畑は豪族などから布施によって寄進されたものである
インドには頭の中で自由に想像し、それを合理的にあてはめてみる空間的、観念的思惟がある
中国には自分を主として、空間的なものを近よせるという思惟がある
禅は自己をいかにして客観的なもの(自然の真理)の中に融けこませ、自由になることができるか、ということを考えぬこうとする
天地自然の真理の中に没入し、「無心」「没我」「無我」という境地に入ることによって自己と対象との区別をなくし悟ろうとする。あくまで体験が主体となっている
この体験を主とする智慧がわかるまでに、禅が中国にもたされてから200年もの長い期間が必要だった。インド禅は体験まで必要としない。中国禅はあくまで体験を供わなければ理解しにくい。そのため知識の伝達、発展には遅速が生じてきた
禅の思考は分析されたものをいかに統合して知るかに智慧があり、西欧では、いかにして分析してゆくかに智慧があった