るるの日記

なんでも書きます

一事は万事に通じる

2020-09-28 16:34:46 | 日記
禅を学んで自我意識が強くなり、奔放な態度がかえって世人の顰蹙をかう場合もある。

中国に留学した道元は寺での生活を見てびっくりした。朝は早かった。4時にはもう起きて朝のお勤めをする。しかし驚いたことに僧侶が食事をしても楊枝を使うことを知らない。全国の貴族も知らない。これは仏法が地に堕ちてしまったということなのか?または生活の相違だろうか。このような有り様だったので、天下の僧侶といえど口の中の臭気がはなはだしくて嫌になってしまう

と述べている

これではどんなに「仏法とは清浄心なり」と云ってみたところで、体が臭くて仕方ないようではどうしようもない。道元はまず「体を清らかにしなくて、何の清浄心ぞや」ということに気づいた

道元は体をととのえて、それから禅の心に入ることをすすめた。楊枝を用い、洗面し、手を洗い、口を灌いだりすることをまず集団生活の第一の規制にした

一事が万事に通ずる。朝の出だしは貴重である。こうゆうことを考えて日時の日課を行い、そして座禅にて正しい思念にうちこむ。このような生活態度が座禅で無心の心に昇華され、はじめて具体的に自他のためとなり新しい世界に至るのである



真理は1つ 永遠も一刻も1つ

2020-09-28 15:59:48 | 日記
歴史は本当に正しく公正に書き表すことは無理である。なぜなら歴史は限定された概念の文字で表現された主観だからだ
合理的な資料そのものだけでも、それは現象の影だけのようなもので本体を表していない

極言すれば、歴史の体験も禅の体験も公正を知り、本体を知るということで一致する。どちらも1つの真実を求めて追求するが、この真実の概念上の捉え方の相違によって誤解を生み争いをおこす

歴史学表現の主観の持ち味というのは、培われた叙述者の体験、知恵をさして言う
歴史は整然として割り切れるものではない。表れた事柄にたいしては分析することができても、最後にその統合的な資料に表れた理由を知るということになると、それは扱った人の主観的な心に委ねられてしまう。歴史は古き時代の心を知る学問ということにもなろう

禅で悟ったり、知ったりする感覚もまたその人によって違っている。物の中にその心を見いだし、心の中でそのものの形を描き出す、ここに物心一如の融合世界がある

禅の心と歴史学の心とが不思議に相通ずるということを考えるとき、真理はやはり1つであることに思いを致さざるをえない

歴史の心を知れば(体験感応か)歴史は生きている。禅の心を知れば禅は生きてくる。生きていることは現在である。過去と現在が一致するところに未来への生きがいを感ずるのである。その生きがいは一刻も無駄に思わず、一刻も無駄に過ごさずに居するということは、永遠も一刻も同じ次元に立って観察しているというときで、そうゆう永遠一刻に立ち観察してこそ本当の禅、そして歴史を知ることができるのである

歴史が変化の流れであるなら、禅もまたその変化の流れという真理から逃れることは難しい。変わらざるものを維持することは難しい

そのため機会のタイミングを見る目ということも必要なのである。その機会がいつ来るか、それは誰にもわからないけれども、普段の変わらない真理に対する態度を守ることによってそれは養われる

歴史は歴史の原因から結果に至る必然性を問題とするに対して、禅は無心の偶然性を問題としているところに相違があるだけである

影は離れず

2020-09-28 14:35:14 | 日記
鳩摩羅什という僧は「十二門論」という経を訳した。これは華厳経の中心となる教え。華厳経の思想は実に素晴らしい

世界を、現象界(事法界)と現象本体(理法界)分けるも、事と理は一体であって別のものではないと説く

現象はそのまま本体の動き
現れ見えることは本体
現れたことの背後に真理あり
人の影をとることはできないと同じ
四季は変化するが自然の本体は変わらない
これを理事無礙法界観(りじむげほうかいかん)という

中国の僧たちはその本体を知りたいと思った。インドのように観念的、空想的にとらえることはできない。中国人は生活の上でぜひとも知りたいと願っていた。それが禅の生活上の体験となって現れてきた

インドの禅と中国の禅

2020-09-28 14:01:04 | 日記
釈迦は人間生活の苦しみを知り、生老病死より逃れるため出家入山した。そして多くのバラモンたちより学問と修行道を教わったが、それらの苦行で満足できなくて、ついに中道の法を知って大覚成就するに至った。悟って後さらに人々に仏の慈悲を広めるために山を下りられた。もし釈迦が出世間(入山)の釈迦のままであったなら、あるいはこの偉大な釈迦の法は歴史の彼方にかすんでしまったであろう。しかし山を下りられた釈迦はその一事のため、人の心を動かし、やがて歴史を変える程の大きな力を蓄えていったのであった

インドで芽ばえ、アジアから中国、日本へ根は広がった。特に禅はインドの禅定の観念より発して中国人の心をとらえて大きな変化をきたした

禅はどのような変換をされていったのか振り返ってみる

達磨から3代目僧さんまでは、自ら頭陀行を行って乞食して歩き、かつ仏の教えを講じて歩いた。まだインド的な観念があった

4代目道信のとき廬山に定住して、500余人の道者を教育するに至って、以後その生活は禅に大きな問題となった

6代目慧能は「定住生活」と「禅の行」を一致するものにした。
生活する以上は食べなければならない。自給自足などを行う生産活動が開始された。

それまでのインドの禅は、僧は生産から離れた階級であった。また生産することは修行の邪魔でもあった。ところが中国に入った禅は生産活動を主眼目の1つとした。したがって働くということは、もっとも重大な作務であって、働く陰徳によって悟りに至るという具体的な中国思想を生み出した。いわば仏教の一大転換なのである。もちろん田畑は豪族などから布施によって寄進されたものである

インドには頭の中で自由に想像し、それを合理的にあてはめてみる空間的、観念的思惟がある
中国には自分を主として、空間的なものを近よせるという思惟がある

禅は自己をいかにして客観的なもの(自然の真理)の中に融けこませ、自由になることができるか、ということを考えぬこうとする
天地自然の真理の中に没入し、「無心」「没我」「無我」という境地に入ることによって自己と対象との区別をなくし悟ろうとする。あくまで体験が主体となっている

この体験を主とする智慧がわかるまでに、禅が中国にもたされてから200年もの長い期間が必要だった。インド禅は体験まで必要としない。中国禅はあくまで体験を供わなければ理解しにくい。そのため知識の伝達、発展には遅速が生じてきた

禅の思考は分析されたものをいかに統合して知るかに智慧があり、西欧では、いかにして分析してゆくかに智慧があった