るるの日記

なんでも書きます

日本風俗史 「熊野信仰」

2022-09-17 17:21:36 | 日記
■熊野信仰
紀州の熊野三山(本宮・親宮・那智)に対する信仰

管理者は山伏であったため、修験道的信仰であった。したがって祭祀は、仏教によることが多く、祭神の奉斎も、本地仏への法楽という形で行われた

本地仏
本宮→阿弥陀如来
新宮→薬師如来
那智→千手観音

【本宮】の祭神は、熊野坐神(くまのにいますかみ)とも、家津御子神(けつみこのかみ)ともいわれながら、その神統ははっきりせず、中世以前は、もっぱら阿弥陀如来として信仰された。
その拝殿は証誠殿といって、死後の往生を証明する神といわれ、一方では現世の長寿と栄福を護る神とされた。
その旧社地は、熊野川、音無川、岩田川の三川合流の砂丘にあった。山岳信仰の熊野信仰としてはまことに異例である

【新宮】も熊野川河口に近い砂州に立地し、熊野速玉大神を主神とするが、これも那智のイザナミ神に対して、イザナギ神とする説がある

【那智】は主神を熊野夫須美神とするが、これをイザナミ神とする説がある
ここは現在は那智滝が信仰の中心になっているけれど、古くは那智山(妙法山)に信仰の中心があった。法華経信仰から修験道が出発したのである

【熊野三山勧進組織】
鎌倉時代末から、比丘尼を主体とするようになり、熊野比丘尼とよばれ、牛王配札とともに歌比丘尼から、売春比丘尼となった

★王子信仰
熊野詣の道筋にあった多数の祠への信仰で、のちに九十九王子として組織された

★入峯拝所信仰
熊野本宮を起点とし、大峰山の峯峯をつらぬいて、吉野にいたる七十五靡(なびき)という入峯拝所信仰



日本風俗史 「鎮魂」

2022-09-17 16:37:38 | 日記
■鎮魂
霊魂を振起こす、充足する、鎮静する、呪法・祭儀

〈古語〉
おほむたまふり
みたまふり
おほむたましづめ
みたましづめ

「遊離の運白を招き、身体の中府に鎮む」
「たましいを振り起こす、ゆらゆらと起こすなり」

鎮魂・充足のほかに、衰微する霊魂を振り起こす魂振
あるいは、威力ある霊魂との接触による、魂振など、
霊魂の増殖の鎮魂がある

■皇室の鎮魂祭
685年(天武天皇14)11月の招魂
「みたまふり」
新嘗祭、大嘗祭の前提としての重要な祭儀となった。中世末期、朝廷の衰微によって鎮魂の祭儀も廃れ、後花園天皇の代から中絶したが、1798年に復興された。





日本風俗史 「道祖神」

2022-09-17 16:09:03 | 日記
■道祖神
路に祀られる、行路守護の神
自然石、文字を刻むもの、像を掘るものなど、多くの形式が認められる
道祖神とは、中国からの渡来語

★日本では、佐倍乃加美
さへのかみ、さいのかみ、と読み
塞神、幸神、妻神などの文字をあてた
塞→遮るの意味
悪霊などが侵入しないように、遮り防ぐために祀られた

★祀られる場所
村境
山坂
橋のたもと
など

★信仰内容
境を護る
厄難除け
縁結び
和合
など混沌とし、中国のように行路守護の信仰は希薄

★猿田彦、アメノウズメ
天孫降臨の先導役だったことから、境の神としての、塞の神に連想された

★道祖神=塞の神の形態
※文字を刻んだもの
※自然石(あらわな陰陽石が多い)
※男女の抱擁・握手像
※祝言像(男子が徳利、女子が盃を持つ)
※神祇像(しゃく、幣束を持つ)
※合掌像

男女和合の様子を、示すことによって、外部から入り込む邪悪なものを斥けるという、原始的呪術である

日本風俗史 「地蔵信仰」

2022-09-17 15:40:12 | 日記
■地蔵信仰
地蔵菩薩に対する信仰
地蔵は釈迦没後、弥勒が出世するまで、無仏世界の衆生の救済をまかされた菩薩
とくに地獄で苦しむ人々の救済を本願としている

地蔵信仰は、貴族社会ではあまり見られないのに対して、平安時代の民間説話を集成した「今昔物語集」は、庶民を主人公とした多数の地蔵説話を収めている

浄土往生の功徳を積めぬため、地獄の恐怖にさらされる民衆の間で、地蔵信仰は発達したのである

■法然・親鸞の出現で、他力易行の【浄土教】が民間に弘まると、地蔵は現世利益的な面で信奉されるようになった
「浄土にすまず、人々に交わり、大悲をもって、罪人の苦を代わりに受ける」という地蔵の利益は、【身代わり地蔵】の信仰へ発展した

■民衆信仰の底辺として存続する地蔵信仰
亡者を裁断する閻魔の本身、
地獄の鬼から亡者を護る慈悲の菩薩、
あるときは道祖神と習合し、
あるときは神託と習合し、
民衆信仰の底辺として、生命を維持している

日本風俗史 「修験道」

2022-09-17 15:13:47 | 日記
■修験道
山岳などで修行によって、超自然的な験力を獲得すること。およびその力を用いて呪術宗教的な活動を行うことを旨とする宗教

古来、山岳は、神霊・魔物・異様な山人のすむ霊地とされていた。
奈良時代に、仏教の頭陀行や道教の入山修行の影響を受けて、山岳に入って山人たちと交わり修行する宗教者が現れた
彼らは陀羅尼を呪し、法華経を読誦し、呪術宗教的な活動を行った
修験道の開祖・役小角
平安時代に入ると、密教僧が熱心に山岳修行を行ったが、彼らのうち、特に修行によって験を修めた者が修験者と呼ばれた
修験者は全国各地の山岳寺院を拠点とした

■吉野の金峰山、熊野三山が、道場【大峰山】への拠点として、多くの修験者を集めた

★熊野の修験者
1090年、三井寺の増誉が、熊野三山検校に任ぜられたのを契機に、三井寺と結びつき、三井寺の末寺である聖護院に統括され、本山派と呼ばれる宗派を作り上げた

★金峰山
大和地方の36の社寺の修験者(36先達)の修行拠点であったが、室町時代頃から、醍醐の三宝院に所属して、当山派と呼ばれる宗派を作り上げた

★大峰山峰入り
熊野の金峰から大峰山に入って修行する峰入りは、鎌倉・室町時代には盛んに行われた
水汲みの作法、護摩木採集の作法、など峰入りの作法が細かに定められ、切り紙によって伝授された。これらの切り紙を集成した教義書も作られた

★修験道法度
江戸時代に入ると、修験道法度により、本山派と当山派の教団体制が確立し、修験者はこのいづれかの派に属して、もっぱら呪術宗教的活動に従事した

★明治5年、修験道廃止
多くの修験者は、天台・真言の僧侶や、神職になった

★第二次大戦後、修験道は独立を許され、10余の修験教団が誕生した。