るるの日記

なんでも書きます

日本風俗史 料理の流派

2022-09-18 16:04:54 | 日記
料理の流派が確立したのは、足利政権の東山時代の頃。

光孝天皇は884年に即位、887年に58歳で崩御。在位は短いが、即位前から料理に興味を持ち、自ら庖丁をとって、薪を炊いて煮炊きを試み、煙のために家が黒くなったので、「黒戸の宮」の異名があった。

この天皇に仕えていた四条中納言藤原政朝山蔭も、天皇の趣味と同じく料理道に入り、秀でた腕前をもっていた。
今に伝わる四条流の原型は、この人の創始である。しかし当時四条流の名はなかった。
料理が著しく躍進したのは、室町時代の東山時代の頃である。

流儀名としては、京都足利将軍の料理人・大草三郎右衛門公次を祖とする【大草流】の方が早い。
【進士流】、【生間流】も武家料理を扱う流派だ。

四条流は、公家の料理であり、庶民の料理でもあったが、12世紀初めに武家料理に入ることになった。
それが【四条園流】である。
その創設者は、園別当入道基氏という優れた庖丁技術者である。

江戸時代初期に、園部新兵衛によって、四条園部派が生まれ、江戸将軍家の料理を担当してきたが、明治維新に際して、当時の京都四条流と合流し、江戸派がリーダーシップをとった。

当時、四条園部派の7代目石井治兵衛が事実上の四条流継承者となり、以後、宮中式臣民式料理家元の名で、8代石井治兵衛、9代石井秦次郎に及び、10代石井御水子(秦次郎長女)、11代秦次郎妻さき、12代門人山下茂となっている。

大草流は、熊本県人宇佐美一舟により復興され、生間流は、京都の料亭方亀楼にその系統が伝えられている。

日本風俗史 「笑い」人間以外の動物は笑わない

2022-09-18 15:16:28 | 日記
笑い
快感や喜びを表す表情
人間以外の動物は笑わない
古事記には、天照大神が天岩戸に隠れたとき、アメノウズメノミコトが岩戸の前で舞い、「八百万の神、共に笑いき」と記される
神前で人々がともに笑うということが、神意を慰め、また怒りを鎮める

山村では、山の神がオコゼという海魚を好み、オコゼを見ると笑う

笑うという感情は優越感を伴うことであるが、逆に笑われるということは屈辱感を味わうことである
「来年のことを言うと、鬼が笑う」

愚か者、そこつ者などを題材にした笑い話も古くから喜ばれ、民話の中にも多い

人を笑わせることが職業化して、狂言が生まれ、お伽衆や咄家が生まれた

日本風俗史 「祈祷師」

2022-09-18 12:28:00 | 日記
祈祷師
祈祷を、特技や職業とする人

巫女は神に仕え、神との媒介や祈祷、神楽などを行い、祈祷師の源流の1つ

仏教経典には「偈」や「呪」があり、古代から祈祷に採用されたが、養老の「僧尼令」では僧や尼は、病の治癒以外に、祈祷に偈や呪を用いることを禁止された

平安宮廷では、国政・個人ともその欲求充足には、祈祷が万能とし、真言を擁して正式な祈祷の座を設けた

祈祷は陰陽道と関連しながら民衆に浸透していった。修験者はもっとも祈祷・護摩・護符を尊重した。これは江戸時代には高次宗教から離れ、祈祷だけで、得福、息災、治病を媒介した
庶民の要望によって、巫女、神人、祈祷僧、修験者、行者、山伏などから職能的祈祷師を発生させた

祈祷師は立場の高低をとわず、神聖観念を背景にして、現世利益のみを追求する民間信仰としてはたらいた




日本風俗史 「加持祈祷」

2022-09-18 10:41:52 | 日記
■加持祈祷
加持→相応し関り合う

※仏・菩薩が不可思議な力で、衆生を護る
※密教では、
仏の大悲大智が、衆生の機に応ずる→加
衆生がこの仏力を受持する→持
印契を結び
真言を唱え
心をこめて仏に加護を求める(祈祷)ならば、仏と衆生の三密は相応し、種々の妙果を得る

■修法は四種
★息災
★増益
★敬愛
★降伏(調伏)

■加持祈祷は、道鏡が宿曜秘法で、孝謙天皇の病を治したなどの伝承をみれば、奈良時代に発生している
空海の真言密教確立を契機として、大いに発達した

空海は「経典購読を主とする従来の護国法会は、病原を論ずるだけで効験を期しがたいが、密教の陀羅尼の秘法は、薬を調合し食し病を除くようなものである」と主張した
この説明は、密教修法の内要を直に示すものとして貴族たちに歓迎され、以後貴族仏教は真言宗、天台宗をとわず、現世利益を求める加持祈祷が中心となる

平安時代の加持祈祷は、天皇の玉体安穏、反乱鎮圧、祈雨など、国家的祈祷から、安産、除病、延命など貴族個人の祈祷まで多様であるが、玉体安穏、鎮護国家を祈念する国家的修法がまず発達し、年中行事化した

古代貴族仏教を批判する鎌倉新仏教諸派は、加持祈祷に対して批判的であったが、教線を拡大してゆく過程で、日蓮宗をはじめ加持祈祷的色彩を深めていった

近世以後の民間加持祈祷にもっとも影響を与えたのは修験道である。修験道では呪術宗教的儀礼が中核をなしているが、江戸時代になると、修験者は村や町に定住し、占いや加持祈祷を行った

現代においても、社会不安の下で、呪術宗教への民衆の期待は衰えず、加持祈祷は盛んに行われている



日本風俗史 「陰陽道」安倍氏は土御門家

2022-09-18 09:59:27 | 日記
■陰陽道
古代中国固有の思想「陰陽五行説」と、それに基づく諸技術を含む易。天文道と密接に関係し、日月星の運行や位置を考え、そこから吉凶の判断を導き、複雑な禁忌を設け、さまざまな祭祀、祓い、その他の行法を営む

★日本書紀では、継体天皇の時、百済から五経博士・段揚示が派遣されたとあり、五経は「易経」を含むから、これが陰陽道に関する最古の記録

★602年、百済僧・勧勒が、
暦本、天文地理書などの書を献上し、朝廷は書生3~4人を選び、勧勒からこれらの書を学ばせた

一方、僧旻(そうみん)も留学生として、直接唐に学び、百済伝来とは異なる陰陽道を伝えた

★聖徳太子は、国史編纂にて、陰陽五行説や、それに基づく政治的予言を導入

★645年、大化の改新
天智天皇は、はじめて大化の元号を建て、その後、瑞兆とみられる現象が出ると、新しい年号に変えた。これは陰陽的政策である

★天武天皇になって、陰陽道の国家管理は積極化した
陰陽寮を置き、中務省の機関とした
〈陰陽寮職員〉
頭(かみ)→1人
助・允・大属・少属→各1人
陰陽師→6人
陰陽博士→1人
陰陽生→10人
暦博士→1人
暦生→10人
天文博士→1人
天文生→10人
漏刻博士→2人
守辰丁→20人

この制度は唐に比べ、卜占的分野に重点が置かれ、後世、陰陽道が迷信化する方向を示した

★平安時代、藤原氏が政権を握ると、盛んに陰陽思想を鼓吹し、禁忌を重んじ、天皇・公家を拘束し、災厄あれば天皇の咎めであるとし、年号を改め(災異改元)、天皇一代に改元を乱発し、宮廷政治を中身のない形だけのものにした
こうして、藤原氏に奉仕する宮廷陰陽道の時代となる

★10世紀、安倍晴明あらわる
陰陽頭・賀茂保憲、
その子、光栄(みつよし)、
賀茂保憲の弟子、安倍晴明、
非凡な人材が出る

賀茂保憲は光栄に暦道、
安倍晴明に天文道を伝え、
これより陰陽道は、賀茂・安倍両家に分掌されることになった

★12世紀、陰陽家は朝廷を離れ、鎌倉幕府や民間社会に進出して、民衆生活に陰陽思想や行法を浸透させていった

★中世以降は、修験者が陰陽師的活動をなした
室町時代、賀茂氏は断絶
安倍氏は土御門家として、代々陰陽頭を継ぎ、近世を通じて、陰陽師を支配した