料理の流派が確立したのは、足利政権の東山時代の頃。
光孝天皇は884年に即位、887年に58歳で崩御。在位は短いが、即位前から料理に興味を持ち、自ら庖丁をとって、薪を炊いて煮炊きを試み、煙のために家が黒くなったので、「黒戸の宮」の異名があった。
この天皇に仕えていた四条中納言藤原政朝山蔭も、天皇の趣味と同じく料理道に入り、秀でた腕前をもっていた。
今に伝わる四条流の原型は、この人の創始である。しかし当時四条流の名はなかった。
料理が著しく躍進したのは、室町時代の東山時代の頃である。
流儀名としては、京都足利将軍の料理人・大草三郎右衛門公次を祖とする【大草流】の方が早い。
【進士流】、【生間流】も武家料理を扱う流派だ。
四条流は、公家の料理であり、庶民の料理でもあったが、12世紀初めに武家料理に入ることになった。
それが【四条園流】である。
その創設者は、園別当入道基氏という優れた庖丁技術者である。
江戸時代初期に、園部新兵衛によって、四条園部派が生まれ、江戸将軍家の料理を担当してきたが、明治維新に際して、当時の京都四条流と合流し、江戸派がリーダーシップをとった。
当時、四条園部派の7代目石井治兵衛が事実上の四条流継承者となり、以後、宮中式臣民式料理家元の名で、8代石井治兵衛、9代石井秦次郎に及び、10代石井御水子(秦次郎長女)、11代秦次郎妻さき、12代門人山下茂となっている。
大草流は、熊本県人宇佐美一舟により復興され、生間流は、京都の料亭方亀楼にその系統が伝えられている。