遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

「異土」17号  「上海そんなに遠くない」―林京子の上海―

2019-06-11 12:33:08 | エッセイ
      「異土」17号  「上海そんなに遠くない」―林京子の上海―

 上海という場所は火野葦平を読んだ時から、気になる場所であった。日中戦争においても、満洲事変、日支事変が中国北方で謀略的に起こされたにもかかわらず、主戦場は上海となっている。第一次上海事変、第二次上海事変である。とくに第二次上海事変は、蒋介石が上海郊外に大軍を集め、日本との決戦に打って出た。日本も主戦場が上海になると想定していたが、海軍と陸軍の対立もあって、当初は中国軍を甘くみていたため守勢一方で多大の犠牲をだした。
中国軍はドイツ軍事顧問団によって近代化されていたのである。であるのに日本は中国軍に対して「一撃」で勝利できると考えていた。上海で守勢に回った日本軍は、対峙していた海軍陸戦隊にかわって、陸軍の増派を決定する。このときも、日本得意の(?)軍の逐次投入になるのだが、中国北方に展開していた師団を上海に集め、日本からも三個師団を派遣し、上海南方の杭州に敵前上陸することによって戦局を打開することに成功する。この杭州作戦に火野葦平が参加していた。
 この杭州作戦においては、中国は杭州に兵を展開していなかったので、日本軍は抵抗なく上陸に成功した。実際に上陸した日本軍は十万人だったが、上海市内に「日軍百万上陸杭州北岸」というアドバルーンが上げられた。上海は遠いように感じるが、当時の長崎からの連絡船は一昼夜(二十四時間)で到着できる距離であった。日本軍も動員準備ができれば輸送にそれほど時間がかからなかったと思われる。
 この「日軍百万上陸杭州北岸」という情報によって、中国軍は退路を断たれることを恐れて南京方面へ撤退することになる。この中国軍の撤退をみて現地軍は追撃を独自に決定し、敵の首都・南京を攻略することによって、あの広大な中国を支配することができると考えたのだった。しかし、日本軍は、兵隊を輸送する車両、補給のための車両を持っていなかった。まだ自動車産業は緒についたばかりだったのである。補給は馬、人による大八車によっていたのである。このため、日本軍は補給のないまま徒歩で上海から三百キロ先の南京を目指したのである。このためもあって後に南京事件とよばれる混乱を引き起こすことになる。蒋介石は最初、南京で抵抗するつもりであったが失敗し重慶に退くことになる。
 このような上海に、林京子は父が三井物産に勤務していた関係から、一歳で移り住んでいた。『上海・ミッシェルの口紅』(講談社文芸文庫)には少女の眼を通してこのような時代の上海が見事に活写されている。『祭りの場』という長崎の「原爆小説」でデビューした林京子だったが、彼女のルーツは上海にあったのである。「異土」17号の『「上海そんなに遠くない」―林京子の上海―』はこのような視点で、日本と中国の関係を考えてみたものです。
                         松山愼介
              (興味のある方は「文学表現と思想の会」のホームページからお申込み下さい)

山﨑プロジェクト・関西イベントに参加して

2016-11-03 12:50:29 | エッセイ
 京都精華大学では、山﨑プロジェクトの関西イベント「ベトナム反戦闘争とその時代」展(山本義隆監修)が10月19日から24日まで一週間にわたって行われた。山﨑博昭君が亡くなった一九六七年十月八日の羽田弁天橋上の闘いの写真、十月九日の「京大新聞号外」の拡大コピーも展示された。佐世保闘争、三里塚闘争、王子野戦病院闘争の写真もあった。展示会場は一九六〇年代末にタイムスリップしたような空間であった。特筆すべきは、三里塚空港反対同盟委員長、故戸村一作氏の制作になる、オブジェ「真理と自由」、「闘う大木よね」が千葉から輸送され初めて展示されたことであろう。



 山﨑プロジェクト・関西イベントは発起人と、多くの賛同人、京都精華大学に手弁当で駆けつけて協力してくださった人たちによって成功裏に終った。今回、山﨑プロジェクトにスタッフとして参加して、このイベントが山崎博昭君の同級生や、同じ党派に属していた人たちだけでなく、多くの人々によって支えられていることを痛感した。山﨑プロジェクトは闘う組織ではない。一九六七年十月八日に羽田弁天橋で何が起こったのかを広く伝えると同時に、自分があれから五十年になろうという年月を如何にして生きてきたのかを問われるものでもあった。
来場者の中には、保存しておいた当時の新聞、雑誌を持ってきて頂いた方もあった。わずか五十年前の資料でも、放って置くと散逸してしまうであろう。また、東京、関西だけでなく、その他の地域や、韓国等においても展示会を開いてほしいという声もあった。来年の五十周年で終わるのでなく、それ以後も続けてほしいという要望もあった。「ベトナム反戦闘争とその時代」を広く伝えて行くことは重要だ。困難な条件もあるが、それを乗り越えて山﨑プロジェクトが進行していくことを望まずにはいられない。



 この山﨑プロジェクトのメインは、山本義隆氏による講演「科学と戦争をめぐって」であった。
 十月二十一日、京都精華大学で山本義隆氏の講演「科学と戦争をめぐって」が行われた。明治からの日本の歴史を科学という視点から見直したものだった。日本は一貫して科学に力を入れる政策をとっており、第二次大戦の敗戦後も、GHQによって内務省は解体されたものの戦争中、軍事研究に尽力した科学者はそのまま生き延びた。しかし、日本の大学における理工系学部の整備は遅れていた。大学での理工系学生の割合は一九六〇年代において、先進国では四十パーセントに達していたのに日本では二十パーセント程度でしかなかった。
 一九六六年頃から早稲田を始めとした学費値上げ反対闘争が各大学で起こった。私はこの学費闘争は貧しい人々から教育の機会を奪うものであるから反対したのだろうとしか考えていなかった。ところが山本氏によると、これは各私大と国が理工系学生を増やすための学費値上げであった。理工系学部は教育に金がかかる。そこで学費値上げをし、かつ文系学生を多く入学させる。文系学部は設備もいらず、大教室でマイクを使って講義をすればすむ。そのようにして学生から収奪したお金で科学教育を強化し、理工系学生を国策として増やすものであった。これが結局、原子力研究、軍事研究につながっていく。
 原子力発電所や自然と人間の関係についても言及された。原発の理論は科学で推し進めることができる。ところが科学と技術という問題がある。いくら科学が発展しても、それに伴う技術が同時に発展するわけではない。原発においては、もはや技術で制御不能ではないかという話であった。現実的に五年以上たっても、福島原発の汚染水は制御できていない。凍土壁は技術的に無理なようである。
私はこれを、山本氏の口からは出なかったが吉本隆明の科学論、自然論批判として受け取った。周知の通り吉本隆明は、原発は科学で制御出来ると考えていたし、自然が破壊されたら、人工的に自然を作れと『ハイ・イメージ論』に書いていた。
 吉本隆明の科学は発展するというのはその通りである。ところが科学が発展しても、それを実現する技術の発展は別問題である。原子核の理論が解明されても、それが原爆、原子力発電という形に技術を伴って実現されるのには十年以上の時間がかかっただろう。核分裂による原爆は核融合による水爆へと途方もない発展を遂げた。最盛期にはアメリカとソ連で七万発以上の核兵器を保有し、現在でも世界中で一万五千発以上の核兵器が存在している。世界の趨勢は核兵器の縮小へと動いているが、その処理に膨大な費用がかかっているとみられる。
 原子力発電は福島原発の事故に見られるように、そのシステムに技術が追いついていない。技術が追いつかないことを実証したのが高速増殖炉〈もんじゅ〉である。〈もんじゅ〉の炉心にはプルトニウムを十八パーセントも含んだMOX(ウラン・プルトニウム混合酸化物)燃料が使われている。〈もんじゅ〉は消費した以上の燃料を生み出す夢の原子炉とされている。ところがこの〈もんじゅ〉は、現在では技術的にほぼ不可能とされ、廃炉が検討されている。
 放射性廃棄物の処分も困難である。現在では再処理せず、そのままガラス固形体に封じ込めて地下に埋める方法が検討されているが、日本国内にはその候補地さえ見つかっていない。〈もんじゅ〉や六ケ所村の再処理工場は原子力技術を温存し、潜在的な核兵器製造能力を維持するためのものといえよう。
 科学と技術は相関関係にあり、技術に次いで当然、コストの問題が発生する。原子力発電はコストが低いことが利点とされていたが、放射性廃棄物や廃炉費用まで考えれば、将来的に途方もないコストが発生するであろう。確かに科学は吉本隆明の言うように後戻りはしないだろう。ただ吉本には科学と技術の関係、コストの意識はなかったのではないか。
自然についても、人類は自然から多くの恵みを受けてきた。科学の進歩を無際限に認めることは、自然を壊してまでも、自然を人類のために役立てようとするものとなろう。
 今年の夏、北海道の礼文島に行く機会があった。利尻、礼文は昆布の産地である。この昆布も自然が守られているからこそ生育するのだ。下北半島では、北側に原子力船〈むつ〉のための港が造られたため、昆布の生育環境が破壊された。沖縄で、辺野古に新しい米軍基地が造られたら自然環境は激しく破壊されるだろう。人間はそろそろ自然と調和しながら生きる道を模索すべき時期にきていると、山本義隆氏の講演を聞いて考えているところである。
 
 

NHKEテレ『サリドマイド事件・50年』を見ての感想

2015-04-02 10:25:54 | エッセイ
 サリドマイド事件は、わたしのにとって忘れられた事件であった。被害者が青春時代の物語が映画になったのは知っていたが。
 このドキュメントを見て、サリドマイドの被害者たちが、五十年後の今日も懸命に生きていることを知らされた。両腕、両足に障害があったため、それを補完して日常生活を送らねばならない。そのため五十年後の今日、背中や首などにいろんな障害が現れているという。ある女性は乳がんの摘出手術をしたそうだが、血管が普通の人の半分の太さしかなかったそうだ。このような、身体の内部の障害は今までわからなかったらしい。
 事件は訴訟になり約四千万円支払うことで事件後十年目に国、製薬会社と和解した。これを積立年金にして、毎年お金を受け取っている人もいるが、ある家族はの父親は、それを元手に商売を始めたが失敗し、両親は離婚してしまったという。
 ある男性は乳児院の前に捨てられた。現在では腎臓障害で人工透析を行っている。腕がないので、太腿の血管を使うのだが、その血管も弱くなっていて、人口血管にしているという。この人工血管置換術も大手術だそうだ。彼が筋ジストロフィーの患者を見て、自分より大変な人がいるということで、自分を励ましているのには心を打たれた。彼は決して和解すべきではなかったという。患者側には必要なお金が入るのだが、その半面、加害者の国と製薬会社を許してしまうのだから。こうした和解制度があるために、その後も薬害が続いたというのは的確な指摘であった。
 サリドマイドは西ドイツで開発された。やがて薬害が明らかになり販売が中止された。ところが、日本が中止に踏みきったのはその十カ月後であった。このような日本の厚労省の行政の遅れは薬害エイズでも同じである。西ドイツと、ほぼ同時期に販売中止をしていたら被害者はかなり減っていただろう。日本人の認定被害者は三百九名、西ドイツでは三千人以上にのぼるという。
 ある被害者は、親が子の姿を恥じて、子供を外に出さなかったという。御用聞きがくると、あわてて被害者の前に立ちはだかって、姿を見せないようにしたという。
 最後に、サリドマイド被害者の母から生まれた子供が薬学部に入り、薬剤師を目指しているということが紹介された。この学生は薬の、効果と薬害を研究したいという。二人はサリドマイドについて、これまで親子で対話してこなかった。無意識に避けていたのだろう。しんみりした対話で親子の愛情が感じられた。
 最近、スーパーである母と子の姿を見た。五、六歳の子供が、かくれんぼ遊びのつもりで姿を隠したのだ。しばらくして、お母さんが見つけたのだが泣いていた。本当に誘拐でもされたのではないかと、母親は必死に探していたのだった。スーパーの片隅で母親はキョトンとする子供を泣きながら抱きしめていた。このように母子の愛情は、父親にはわからないところがある。
 サリドマイド事件の被害者は五十歳を越えた。これ以後も彼らは懸命に生きていくだろう。その生き方とともに、親子の愛情についても考えさせられた番組であった。
                              2015年4月2日
 

  松井博之『<一>と<二>をめぐる思考――文学・明治四十年         前後』について

2014-08-03 20:57:05 | エッセイ
 
 二年前に四十五歳で、脳出血により急死された松井博之さんの遺稿集『<一>と<二>をめぐる思考―文学・明治四十年前後』が乾口達司氏の編集により文芸社からこの程、出版されました。彼の死を知らされて、とりあえず同人誌「春風」に書いた追悼文を掲載します。(Amazonで購入することができます。)    



 松井博之さんの思い出        松山愼介

 松井博之さんは『<一>と<二>をめぐる思考―文学・明治四十年前後』で「新潮」評論部門の新人賞を受賞された。明治期の文学をあまり読んでいない私にとって、この論文は難解であった。私が彼を知ったのはその前後のことである。確か「文学表現と思想の会」に友人の紹介で出席された時のことだったと思う。
 新人賞受賞後の第一作は「<観点>について――吉本隆明論」(『新潮』二〇〇五年十二月号)であった。私はその頃、吉本隆明に関する勉強会をしていたので、松井さんに勉強会に来ていただき、この論文をテキストに論議したこともあった。私達の世代の吉本隆明の読み方は、「吉本と対幻想の関係にならなければ吉本を理解できない」といわれたこともあったように、吉本の姿勢といったものに対する共感を第一としていた。しかし私よりも十五歳位若い松井さんの論考は、吉本の多くの著作のなかでも、ポイントをとらえ、吉本の使う概念の揺れを鋭く指摘したものであった。
 その頃、私もうまく松井さんに反論ができなかったが、今は反論できるような気がしている。吉本の使う概念は、一つの言葉に一つの意味が対応していない。たとえば「自己表出」という概念があるが、これは人間が、始めて言葉を発しようとしたとき、沈黙から出てくるうめき声のようなものである。ところが吉本は論を進めて、文学作品を「自己表出」と「指示表出」の織り成すものであるという。「自己表出」は人間内部から表出されるものであり、「指示表出」は意味として使用されているものである。最初の「自己表出」は言葉としてよりも、言葉が出る前の段階、沈黙に重点が置かれている。ところが後者の「自己表出」は文学作品に使われている言葉のなかの自己表現、自己表出の割合の尺度として使われている。松井さんは、この吉本の使用する言葉の概念の揺れを鋭く見抜かれたのであったが、しかしそれを私のように、概念の発展として捉えずに<観点>の揺れとして読まれたのであった。
松井さんの吉本論は丸山真男の<観点>「民権と国権という要素が『対立しながら統一している』明治時代」あるいは「<民権/国権>/国権というレヴェルの異なる二項図式を前提とした<観点>」から、吉本を「自身の<観点>を決して持とうとしない。逆にいえば、一つの固定的な<観点>に立脚することを拒むために、考え得る全ての<観点>を抱え込もうとしているようだ」と批判している。私はこう言われても、吉本の「全ての<観点>を抱え込もう」とする情念を込めた姿勢に共感する。思想は論理ではなく、情念を含めた全体的なものではないのかと。しかし、このような論議を松井さんとする機会はもはや失われてしまった。
                                2012年10月11日

全共闘について

2014-07-31 11:40:42 | エッセイ
       全共闘について       松山 愼介
『叛乱者グラフィティ』(宮崎学)の中に著者の友人の語った言葉がある。「党はすべてを要求する」「会社は私の人生のすべてまでを要求しない。党は全人生まで求める。党はそれほど絶対なものなんだろうか。お前、どう思う」この場合の党は日本共産党である。宮崎学はグリコ・森永事件で「キツネ目の男」として疑われた人物である。私は宮崎学の著書は他に『突破者』しか読んでいないが、今度この本を読んで彼がいまだに連合赤軍事件について考え続けていることについては敬意を表するものである。反代々木系の党派からみれば緩やかな組織と思われる共産党員にして、こういう意識である。反代々木の党派では全人格的忠誠が求められた。この党に対する全人格的忠誠と、銃による武装闘争が結びついた時、連合赤軍の誤りは必然だったのではないだろうか。
私は一九六〇年代後半から一九七〇年代初めにかけて学生時代を過ごした、いわゆる「全共闘」世代である。入学は一九六七年四月である。角材とヘルメットでの闘争は一九六七年十月八日の佐藤首相の南ヴェトナム訪問を阻止しようとした羽田闘争に始まる。この「武装」闘争に入ってからは党派への忠誠はもちろんであったが、個人の生活自体も物理的に、精神的に規制されていった。この規制は党からというより、個人の党への志向が、個人の内面を内から規制するものであった。私の場合パチンコをしながら、心の中で「俺は〇〇派だ。俺は〇〇派」とつぶやいていたことがある。私はこの年(一九六七年)の九月頃に〇〇派の学生組織に加盟した。それからの二年余りは向うから闘争の波がやってきた。私としては理論的な勉強をしつつじっくりと闘争に取り組むつもりであった。しかし、続いて佐藤首相の訪米、原子力空母エンタープライズの佐世保寄港、ヴェトナムの負傷兵を収容する王子野戦病院開設、成田三里塚に新空港建設決定と闘争課題には事欠かなかった。
ここで「全共闘」について考えてみたい。一九六〇年代後半から一九七〇年代初めにかけての学生を中心とした社会叛乱闘争を「全共闘運動」と一括して呼んでいる。しかしこれは便宜的なもので正しい呼び方ではない。「全共闘運動」は三つの段階に分けることができる。第一期は一九六〇年代半ばの慶応、早稲田、明治等の各大学における学費値上げ阻止の闘いで組織された「全共闘」である。しかしこの段階ではまだ全員参加型の学生自治会を前提としていた。次が日大全共闘、東大全共闘の時期であり、第三期は一九六九年春から、秋にかけて全国に拡がった学園闘争における「全共闘」である。この各大学の闘いと別の流れが三派系全学連の闘いである。
六〇年安保全学連崩壊後、全学連執行部は社会主義学生同盟(社学同、通称ブント)から、マルクス主義学生同盟(マル学同)に移行し、その後マル学同のカクマル派と中核派の分裂の結果、カクマル系となった、カクマル系以外の反代々木系諸派は、日韓条約反対闘争、原子力潜水艦寄港阻止、国際反戦闘争を経過するなかで勢力を回復しつつあった。この中で、分裂していた社学同系は統一社学同を結成し、マル学同中核派と社会主義青年同盟(社青同)解放派と共に一九六六年十二月に三派系全学連を結成した。三派系全学連は安保全学連のような大衆的闘争機関を目指していたため、社学同ML派、社青同国際主義派(第四インター)やプロレタリア軍団のような党派も結集した。前述の一九六七年十月八日の佐藤首相の南ヴェトナム訪問を阻止しようとした羽田闘争に始まる激しい闘いは三派系全学連が主導したものである。これらの闘いと並行して、日大、東大において学園闘争が開始され、その闘いの組織として全学共闘会議(全共闘)が結成された。
日大全共闘は大学理事会による巨額の使途不明金を追求する運動として開始された。そもそも日大では左翼の学生運動は、大学当局、右翼体育会による弾圧のため成立していなかった。そのため巨額の使途不明金を追求する運動は一般学生による運動として開始されざるを得ず、全共闘という形式をとったのである。東大闘争は青年医師の待遇改善運動が大学の閉鎖性と衝突し全学的な運動となった。この運動を理論面でリードしたのは、山本義隆、最首悟といった、安保全学連の生き残りであった。東大では代々木系が多くの自治会で多数派を占めていたため、自治会は闘う組織とはなり得ず、闘う組織として全共闘が結成された。
このような流れで、三派系全学連の街頭闘争と、学園闘争が結合する。普通この間の学生運動を「全共闘運動」と呼んでいる。一九六九年一月の東大安田講堂を中心とした攻防戦で、学生運動は一つのピークをむかえる。実は各大学における全共闘運動は、東大落城の後、一九六九年四月から始まり、あだ花の如く、半年間程続き、大学立法の成立、警察機動隊の導入により終焉する。私はこの一九六九年春から、秋にかけて全国に拡がった学園闘争こそ、本来の全共闘運動と呼びたいのである。
三派系全学連は党派間のヘゲモニー争いの結果、闘いの行動と目標については一致しつつも、一九六七年十月八日の直前には中核派系と反帝系(社学同と社青同解放派)に分裂気味であった。このような中で東大闘争において「全共闘」は三派系全学連に代わって、カクマル系、フロント系をも包摂するところの、ノンセクト、各党派の統一協議機関の役割を果たした。このような事情もあって、「全共闘」という言葉は広い意味で使われた。
東大全共闘は、形式的には、いわばノンセクトと党派のせめぎ合いであった。最終的な警察権力との闘いでは、ノンセクトだけでは無力であり、各党派の組織力に頼らざるを得なかった。

  「よく言われることだが、六〇年安保の全学連運動、六六年以来の三派全学連の闘いがあったからこそ全共闘運動は学生運動史上空前の規模で爆発した。そのことは間違いない。だが全共闘運動が必然的に戦術をエスカレートしていく中で、三派全学連をはじめとする革命党派の指導力が追いつかなくなったのもまた、とくに日大闘争などでは冷厳たる事実だったと思う。とくにブントにとっては、全共闘の気分にのった大学自治会の自立化により、党派としての指導力がますます脆弱になることが深刻な問題になった。」
                                     (荒岱介『破天荒伝』)

これは当時社学同委員長だった、荒岱介の回想である。全共闘運動の高揚と党派の指導力の問題がすな
おに語られている。私の場合でいえば、ある地方大学にいたのであるが、一九六九年の四月には、理由もなくとにかく学園闘争を起こすということが自己目的化されていた。闘いは入学式から始まった。教養部を中心としたノンセクトの部隊がいきなり入学式の会場となった体育館を封鎖したのである。諸党派の方針は入学式において壇上を占拠して新入生に対して政治的なアピールをするというものであった。諸党派はこのノンセクトの行動を黙認するしかなかった。諸党派の部隊と、ノンセクトの部隊が実力で対決するというわけにはいかなかったからである。代々木系といわれていた学長はこの体育館封鎖に対して「ナチスのようなファショ的行為である」という声明を発表した。ところがこの声明が、学生大衆を憤激させ、一挙に大学全体に闘いがひろがったのである。私はこのような学園闘争をこそ、本来的な全共闘運動と呼びたいのである。日大や東大のように個別の課題に対して闘うのではなく、この私が本来的なという全共闘運動は大学の位置、学生という身分そのものが闘争課題となったのである。私はこの一九六九年春に〇〇派を離脱している。ノンセクトで過激な運動ができるのであれば、何もわざわざ党派に縛られることはないという気分であった。この年私は大学三年生であったが、新一年生の大半は、教養部闘争委員会というノンセクトの組織で活動するようになっていた。全共闘は、党派に縛られないという利点のゆえに、多くの学生の結集軸になった。例えば、それまでは反代々木系の運動をしようとすれば、まずどれか党派を選択しなければならなかった。その必要がなくなっただけでなく、いつでも活動をやめられる組織でもあった。全共闘運動は、党派からみれば、弱者の運動、無責任な運動、党派に入る覚悟のないものの運動、すぐ止めるかもしれない学生の運動であった。
 全共闘運動は、大学立法の成立にともない、相次いで各大学が警察力を導入し、校舎の封鎖を解除することにより終結した。一方党派のほうも、カクマル派と中核派、解放派の死者をだすまでの内ゲバ、社学同内の赤軍派の結成により、大衆的基盤を失い凋落した。このようにして一九六〇年代後半から一九七〇年代初めにかけての学生を中心とした社会叛乱闘争は終った。一般的にいって党派の運動は悲壮感がただよっていて、全共闘運動は明るかった。党派の運動においては、組織に加盟した時から、頭の中に革命という文字がどっかと腰をすえてしまう。しかし全共闘運動は違った。全共闘運動はその闘い自体が楽しかったのである。闘いの方針はもちろんみんなで検討するのであるが、自分の考えと違う方針が決まれば、その個人は黙って、闘いの場面から退場すればよいのである。そしてまた自分の考えに合致する場面になれば参加すればよい。このようにして闘いに参加する個々人は入れ替わりつつも全体として運動が続けばよいのである。
 今、考えてみると、全共闘運動の退潮にともなって、党派の側からその否定面ばかり強調されてきた。しかし、全共闘運動の否定面の強調は、究極の組織、連合赤軍を生んだにすぎなかった。もし連合赤軍的な極端な軍事方針がだされたとしても、全共闘的な組織であれば、方針を実行する前に組織が解体したであろう。現在、一年前の同時多発テロ以来、平和運動やNGOの運動があるようである。私はその運動の現在における存立基盤に対しては、疑問であるが、運動の組織形態に関しては三十年以上前のことになってしまったが、全共闘運動が見直されるべきだと考えるものである。 
                          2002年9月16日