城山三郎『辛酸』 松山愼介
田中正造については、教科書的な知識を持ってはいたが、詳しいことは知らなかった。天皇に直訴する時に、躓いて近くまで行けなかったこと、またそのために警備の騎馬警官が方向を変えようとして落馬したことも初めて知った。
この本に関連して、以前から気になっていた立松和平『毒 風聞田中正造』も読んだ。立松和平の曽祖父は「兵庫県の生野銀山から足尾銅山に渡り坑夫として移住し、足尾の鉱山開発の先頭にたっていた」(『毒』「後記」)という。母方の祖父も一時、足尾銅山の飯場を経営していた。足尾には叔父がいたので、立松は子どもの頃から鉱山の風景に馴染んでいたという。二十四歳の時に、足尾銅山の閉山や、最後まで谷中村に残留しやむなく北海道のサロマに開拓移民していた人たちの子孫の帰郷運動などがあり、立松は「谷中村強制破壊を考える会」を作ることになる。『鉱毒悲歌』というドキュメンタリー映画にもかかわり、その過程で嶋田宗三郎翁に出会い、『田中正造翁余録』も知ることになり、『毒』の執筆資料としても使っている。現在(一九九七年)でもほぼ東京山手線の内側ほどの谷中村跡地が渡良瀬遊水池と呼ばれ荒涼たる原野になって広がっているということだ。
この谷中村の闘いで最後まで残ったのは、堤内十六戸、百十六名ということだ。これだけ悲惨な状況のなかで、これだけの人数が残ったのは田中正造と嶋田宗三郎の力によるのだろう。
私はこの本を読んで、成田空港建設のための立ち退きに反対した三里塚闘争をおもわざるを得なかった。私が参加したのは、わりと初期で一回だけである。さんざん機動隊に殴られて泥まみれになり、その夜は三里塚の農家に泊めてもらって、食事と名産の落花生をご馳走になった。
映画『三里塚のイカロス』(代島治彦監督 二〇一七年)によれば、撮影時点で立ち退きに応ぜず農業を続けている人達もいた。女性活動家で青年行動隊員と結婚した人もいるし、十年以上にわたって三里塚の団結小屋に住み続けた活動家も多くいたようだ。田中正造はもちろんだが、これらの活動家にも頭が下がる思いである。
三里塚闘争は一九六六年ごろから始まった。ベトナム戦争の真っ最中だった。そのため私の所属していたセクトでは、三里塚闘争の位置づけは、空港はいつでも軍事転用できるのだからということで「三里塚軍事空港建設反対」だった。私はこれは安易な位置づけだと思ったが他にいい考えも思いうかばなかった。整然としたデモしかしない党は、実力闘争が不可避だとわかると姿を消した。小ブルジョワの財産(土地)を守る闘いには参加しないと明言する「新左翼」党派もいた。後に知ったのだが、国家権力の横暴に反対する農民の意気に感じて共に闘うという党派の考えに共感した。
三里塚でも、谷中村でも国家が良い代替地を用意するから立ち退きに応じるように説得にくるのだが、結局、ろくな土地は用意されなかったようだ。足尾銅山の鉱毒は現在でも残っているようである。NHKの朝ドラ『虎と翼』によると、公害裁判は被害者が因果関係を立証しなければならないそうだ。水俣病もチッソの水銀垂れ流しが原因だと確定するのに随分時間がかかっている。寝る場所も食べるものも保証されない中で反対運動を死ぬまで続けたことは誰にもできることではない。
2024年9月14日
田中正造については、教科書的な知識を持ってはいたが、詳しいことは知らなかった。天皇に直訴する時に、躓いて近くまで行けなかったこと、またそのために警備の騎馬警官が方向を変えようとして落馬したことも初めて知った。
この本に関連して、以前から気になっていた立松和平『毒 風聞田中正造』も読んだ。立松和平の曽祖父は「兵庫県の生野銀山から足尾銅山に渡り坑夫として移住し、足尾の鉱山開発の先頭にたっていた」(『毒』「後記」)という。母方の祖父も一時、足尾銅山の飯場を経営していた。足尾には叔父がいたので、立松は子どもの頃から鉱山の風景に馴染んでいたという。二十四歳の時に、足尾銅山の閉山や、最後まで谷中村に残留しやむなく北海道のサロマに開拓移民していた人たちの子孫の帰郷運動などがあり、立松は「谷中村強制破壊を考える会」を作ることになる。『鉱毒悲歌』というドキュメンタリー映画にもかかわり、その過程で嶋田宗三郎翁に出会い、『田中正造翁余録』も知ることになり、『毒』の執筆資料としても使っている。現在(一九九七年)でもほぼ東京山手線の内側ほどの谷中村跡地が渡良瀬遊水池と呼ばれ荒涼たる原野になって広がっているということだ。
この谷中村の闘いで最後まで残ったのは、堤内十六戸、百十六名ということだ。これだけ悲惨な状況のなかで、これだけの人数が残ったのは田中正造と嶋田宗三郎の力によるのだろう。
私はこの本を読んで、成田空港建設のための立ち退きに反対した三里塚闘争をおもわざるを得なかった。私が参加したのは、わりと初期で一回だけである。さんざん機動隊に殴られて泥まみれになり、その夜は三里塚の農家に泊めてもらって、食事と名産の落花生をご馳走になった。
映画『三里塚のイカロス』(代島治彦監督 二〇一七年)によれば、撮影時点で立ち退きに応ぜず農業を続けている人達もいた。女性活動家で青年行動隊員と結婚した人もいるし、十年以上にわたって三里塚の団結小屋に住み続けた活動家も多くいたようだ。田中正造はもちろんだが、これらの活動家にも頭が下がる思いである。
三里塚闘争は一九六六年ごろから始まった。ベトナム戦争の真っ最中だった。そのため私の所属していたセクトでは、三里塚闘争の位置づけは、空港はいつでも軍事転用できるのだからということで「三里塚軍事空港建設反対」だった。私はこれは安易な位置づけだと思ったが他にいい考えも思いうかばなかった。整然としたデモしかしない党は、実力闘争が不可避だとわかると姿を消した。小ブルジョワの財産(土地)を守る闘いには参加しないと明言する「新左翼」党派もいた。後に知ったのだが、国家権力の横暴に反対する農民の意気に感じて共に闘うという党派の考えに共感した。
三里塚でも、谷中村でも国家が良い代替地を用意するから立ち退きに応じるように説得にくるのだが、結局、ろくな土地は用意されなかったようだ。足尾銅山の鉱毒は現在でも残っているようである。NHKの朝ドラ『虎と翼』によると、公害裁判は被害者が因果関係を立証しなければならないそうだ。水俣病もチッソの水銀垂れ流しが原因だと確定するのに随分時間がかかっている。寝る場所も食べるものも保証されない中で反対運動を死ぬまで続けたことは誰にもできることではない。
2024年9月14日