加藤周一『ある晴れた日に』 松山愼介
この作品の時期は、ドイツの敗北、アメリカ軍の沖縄上陸とあるので昭和二十年六月頃のことであろう。話はいきなり中国における日本軍の内部における拷問の話から始まる。あき子の弟・関哲哉は思想問題で拷問にあう可能性がある。そのため姉、弟の間で取り決められていたある種の暗号で、哲哉は拷問で死ぬよりも、青酸カリによる自殺を選びたいとして、姉に青酸カリを送って来るように頼んでくる。そのためにあき子は医師である土屋太郎に青酸カリの調達を頼む。結果的には、もし青酸カリが調達できたとしても、それを軍隊にいる哲哉に送るのは難しいという結論に達する。このような背景であき子は「軍人が支配する日本が残るよりは、連合軍が日本を占領した方がずっといいと思うわ」と話す。
母親が疎開しているO村で、太郎は同じく結核で疎開している画家と、その家に出入りしている吉川青年と空襲で被害を受けた東京の状況や、日本の工業の生産力が極端に落ち、農村も動員の影響で労働力が少なく、十分な肥料もないので食糧の増産もできないという悲観的な話をする。
あき子は、南方で病を得て現役を退いた、義父・緒方中将と戦争の現状について話す。元軍人であった緒方中将も「真珠湾の攻撃にはおどろいたが、攻撃に成功しても、アメリカが又艦をつくるぐらいのことは、わかりきっている」と話し「馬鹿が勝った」と日本が戦争を始めたことを批判する。
太郎もこの戦争には批判的である。太郎は山道を歩きながら、五年前のナチスから亡命してきた、若いポーランド人の女性ピアニストのショパンの演奏を想い出す。彼女は《ナチスに奪われた祖国のために、ショパンを弾いた》。その音楽会では、《ここには音楽があり、彼方ではナチスはポーランドの大学生たちを虐殺しているということを、亡命のピアニストばかりでなく、すべての人々が感じていた》。その音楽会は《ポーランドのために東京の人々が営んだ葬式》でもあった。病院の同僚の岡田は外科学会雑誌の報告については慎重に吟味する男だが、沖縄戦についてこう語る。《沖縄は天王山だ。連合艦隊は君、無瑕だっていうじゃないか。五万トンの戦艦があるんだ。敵の補給線も伸び切っているからね》と。そんな岡田に批判的な、太郎も遠く東の空に見える空襲の焔を《二時間前には、そこに阿鼻叫喚の世界があったはずだが、そのことと、この焔の美しさとの間にはどういう関係があるのだろうか》と思いを馳せる。このところは『花ざかりの森』の三島由紀夫を思わせる。
加藤周一が『旅愁』を書いていた横光利一を第一高等学校に呼び講演会を行い、その後の座談会で、学生らが、近代の物質文明 =近代の毒から日本を清める、それが《みそぎ》であり《みそぎ》の精神は民族の心だ、という横光利一をやっつけたのは有名な話しだ。ではなぜ、加藤周一は日本の精神主義に取り込まれず、戦争に批判的であったのだろうか。加藤周一の決定的な体験は中学生の時の二・二六事件である。蹶起部隊とよんで称賛していた陸軍の指導者たちが、蹶起部隊を一転して反乱軍と呼び弾圧した。彼はここに《政治的な権力というものの言語道断な冷酷さを見た》。その結果、《政治に近よるべからず。そこでは誠意が裏切られ、理想主義が利用され、役に立たなくなれば昨日の忠誠が今日の謀反とされるだろう》(『羊の歌』)と考えるようになった。
医学部に入学してから加藤周一は仏文科の授業を聞き、研究室にも行くようになる。そこで辰野隆、鈴木信太郎、中島健蔵という人たちを知るようになるが、最も影響を受けたのは渡辺一夫助教授であったという。加藤は《(渡辺助教授が )絶えず「狂気」を「狂気」とよび、「時代錯誤」を「時代錯誤」とよびつづけるということがなかったら、果して私が、ながいいくさの間を通して、とにかく正気を保ちつづけることができたかどうか、大いに疑わしい》(『羊の歌』)と書いている。
加藤周一については、海老坂武『加藤周一』(岩波新書 )が要点を衝き、コンパクトにまとめてあって面白い。例えば加藤周一は昭和十六年十二月八日、開戦の報を聞き、到底この戦争に勝つ可能性はないので、結果は敗戦であり、すべてのものは滅びさるだろうと思ったという。ただその夜に新橋演舞場に人形浄瑠璃の引越興行を見に行き、そこで義太夫と三味線の世界、古靭太夫の世界に浸ったという。ところが戦後、加藤は《四年の間、一度も映画館、劇場等凡そ人の集まるところに足を入れず、一冊の雑誌も読まなかった》(『知識人の任務』)と書いているばかりでなく、鷲巣力の調査によると加藤周一の十二月八日の日記に、この新橋演舞場の記述がないという。その前後の日記にも、この記述はなく戦後になってからの加藤の創作の可能性があるかも知れないとしている。
海老坂は加藤の広島の原爆についての態度に疑問を呈している。『続 羊の歌』には、「広島」の章がある。加藤は戦後二カ月してから、東京帝国大学医学部と米国の軍医団との共同の「原子爆弾影響合同調査団」の一員として広島へ行っている。この調査団は純粋に学問的なものであるということで、加藤はアメリカ軍の爆撃機 B25に乗り込んで、立川から広島へ入っている。このとき加藤はこの調査団に対して疑問を思わなかったのであろうか。海老坂は《当時の加藤は、一時期の共産党と同じく、占領軍は解放軍と考えていたふしがある》、またアメリカによる占領を全面的に肯定した文章を書いているという。
『ある晴れた日に』の終末部で《B二九がつくった焼跡には、自由を奪うためにではなく、自由を保護するために民主主義の軍隊が来るのだ》と土屋太郎が想っているのは、戦後すぐの加藤周一の本音が出ているのではないか。この場面の直前の、玉音放送を聞いての画家との議論で「しかし、勅語なかったら、おさまりがつかないでしょう」、「天皇の責任は、別の問題として、今天皇制をこわしたら混乱する。天皇がなければ、何がはじまるかわからないでしょう」、「戦争がこういう形で終わったのは、一人でも無駄に死ぬ人間を少なくするために、よかった。ここでゲリラ戦がはじまってはどうにもならない。勅語は役立つでしょうし、天皇には役立つかぎり役立ってもらわなくては困るんじゃないですか」と太郎は話している。日本を混乱させないために天皇制の必要性を強調しているようである。
海老坂武によれば、加藤周一は政治的アンガージュマンを避けている知識人だという印象を持っていたという。二・二六事件を見て「政治に近寄るべからず」と思い込んだからであろうか。 一九五八年に加藤はアジア・アフリカ作家会議に参加している。この作家会議は主として社会主義国と中立国の作家からなり、日本ではマルクス主義者の作家(野間宏)、左翼の作家(堀田善衛)が主導権を握っていた。タシケントで開催された会議であらわれた加藤の政治的姿勢は《それぞれの(社会主義)国の短所を見定めながらも社会主義に希望を見いだそうとする姿勢が歴然としていること。民主主義の徹底化を欲しつつ、社会主義への希望を――あのハンガリーへのソ連軍の介入(一九五六年十~十一月)の後であるにもかかわらず――保持し続けていること》であった。六〇年安保闘争では、加藤は何もしないと同然であった。「世界」の一九六〇年六月号、七月号に『永井荷風論』を書いた後、《海外〈亡命〉》のようにして、日本を去りカナダの大学で職に就いた。このような加藤が再び政治的発言を行うのは、一九六八年のソ連軍のチェコ侵入の後であった。
2016年8月13日
加藤周一、中村真一郎、福永武彦らの〈マチネ・ポエティック〉のグループは、戦後すぐ「近代文学」の荒正人、本多秋五らと論争している。近代文学派は戦前のプロレタリア文学や私小説を踏まえて戦後の文学を考えようとしたのに対して、〈マチネ・ポエティック〉のグループは市民社会の構造を知ろうとし、つまり、西欧近代社会に範を求めようとした。というと何かかっこいい文学的論争のようだが、この根底には共産党をどう見るかという根本的な対立があったのではないか。この対立を講談社文芸文庫『1946・文学的考察』の鈴木貞美の解説を参考にしながら考えてみる。
加藤周一の文章には、「明治維新以来の封建的軍国主義政府」、「封建的支配階級」という言葉が出てくる。中村真一郎には「絶対君主制」が出てくる。鈴木は《このような政治分析はコミンテルンの一九三二テーゼ、もしくは『日本資本主義発達史講座』の歴史観を戦後も引き継いだ日本共産党のそれにほかならない》と書いている。近代文学派のグループはこのような講座派的歴史観に批判的であった。加藤らのグループはこのような講座派的歴史観を受け入れつつ、《反戦感情は、戦争を必然的にした社会体制そのものの批判と政治的左翼への共感へ、私たちをみちびいた。他方、新しい文芸は、無から作りだすことができない。私たちは戦時中に親しんだ西洋殊にフランスの近代文学と日本の古典文芸をよりどころとして、私たちの文学を考えようとしていた》と『1946・文学的考察』の「あとがき三十年後」に書いている。つまりはフランス文学の直輸入によって、戦後文学を出発させようとしたのである。
このような中で、加藤の社会主義国を評価する姿勢は変わらなかった。私が加藤周一や堀田善衛、大江健三郎にうさん臭さを感じるのは、社会主義国が旗を振った文学運動に追随したからである。それがアジア・アフリカ作家会議である。一九五六年のアジア作家会議には堀田善衛が出席し、一九五八年のアジア・アフリカ作家会議には加藤周一が出席した。この作家会議は中ソ論争が激しくなった一九六〇年代には分裂の様相を呈した。おそらくこのような時期に中国派の松岡洋子らと大江健三郎は一九六〇年の六月に訪中したのであろう。一九六七年ごろからは文化大革命のために中国が脱落した形となった。アジア・アフリカ作家会議では、ロータス賞を設定し、一九七三年には野間宏が『青年の環』で、一九七九年には堀田善衛が『ゴヤ』で、一九八八年には小田実が『HIROSHIMA』で受賞した。これでは適当に仲間内で賞のやり取りをしているようではないか。
一九七四年三月には日本アジア・アフリカ作家会議の準備会が結成され、参加の呼びかけがおこなわれた(『新日本文学』1974年5月号掲載)。呼びかけ人には、大江健三郎・小田実・中野重治・野間宏・堀田善衛たちが名を連ねた。五月二十五日、東京で結成総会が開かれ、野間宏議長、堀田善衛事務局長が決まった。本来なら政治から独立すべき文学が、社会主義イデオロギーをもとにして文学団体を作ったのである。野間宏はともかくとして、堀田善衛は一貫してこのような運動に大きな役割を果たした。
加藤周一は一九六八年のソ連軍のチェコ侵入を非難したが、我が尊敬すべき中野重治はこの時期に及んでもソ連支持の姿勢を変えなかった。ソ連邦が崩壊した現在では、おとぎ話のようだが社会主義国が存在していた時代には、文学者たちも、政治と文学をめぐって右往左往していたのである。
この作品の時期は、ドイツの敗北、アメリカ軍の沖縄上陸とあるので昭和二十年六月頃のことであろう。話はいきなり中国における日本軍の内部における拷問の話から始まる。あき子の弟・関哲哉は思想問題で拷問にあう可能性がある。そのため姉、弟の間で取り決められていたある種の暗号で、哲哉は拷問で死ぬよりも、青酸カリによる自殺を選びたいとして、姉に青酸カリを送って来るように頼んでくる。そのためにあき子は医師である土屋太郎に青酸カリの調達を頼む。結果的には、もし青酸カリが調達できたとしても、それを軍隊にいる哲哉に送るのは難しいという結論に達する。このような背景であき子は「軍人が支配する日本が残るよりは、連合軍が日本を占領した方がずっといいと思うわ」と話す。
母親が疎開しているO村で、太郎は同じく結核で疎開している画家と、その家に出入りしている吉川青年と空襲で被害を受けた東京の状況や、日本の工業の生産力が極端に落ち、農村も動員の影響で労働力が少なく、十分な肥料もないので食糧の増産もできないという悲観的な話をする。
あき子は、南方で病を得て現役を退いた、義父・緒方中将と戦争の現状について話す。元軍人であった緒方中将も「真珠湾の攻撃にはおどろいたが、攻撃に成功しても、アメリカが又艦をつくるぐらいのことは、わかりきっている」と話し「馬鹿が勝った」と日本が戦争を始めたことを批判する。
太郎もこの戦争には批判的である。太郎は山道を歩きながら、五年前のナチスから亡命してきた、若いポーランド人の女性ピアニストのショパンの演奏を想い出す。彼女は《ナチスに奪われた祖国のために、ショパンを弾いた》。その音楽会では、《ここには音楽があり、彼方ではナチスはポーランドの大学生たちを虐殺しているということを、亡命のピアニストばかりでなく、すべての人々が感じていた》。その音楽会は《ポーランドのために東京の人々が営んだ葬式》でもあった。病院の同僚の岡田は外科学会雑誌の報告については慎重に吟味する男だが、沖縄戦についてこう語る。《沖縄は天王山だ。連合艦隊は君、無瑕だっていうじゃないか。五万トンの戦艦があるんだ。敵の補給線も伸び切っているからね》と。そんな岡田に批判的な、太郎も遠く東の空に見える空襲の焔を《二時間前には、そこに阿鼻叫喚の世界があったはずだが、そのことと、この焔の美しさとの間にはどういう関係があるのだろうか》と思いを馳せる。このところは『花ざかりの森』の三島由紀夫を思わせる。
加藤周一が『旅愁』を書いていた横光利一を第一高等学校に呼び講演会を行い、その後の座談会で、学生らが、近代の物質文明 =近代の毒から日本を清める、それが《みそぎ》であり《みそぎ》の精神は民族の心だ、という横光利一をやっつけたのは有名な話しだ。ではなぜ、加藤周一は日本の精神主義に取り込まれず、戦争に批判的であったのだろうか。加藤周一の決定的な体験は中学生の時の二・二六事件である。蹶起部隊とよんで称賛していた陸軍の指導者たちが、蹶起部隊を一転して反乱軍と呼び弾圧した。彼はここに《政治的な権力というものの言語道断な冷酷さを見た》。その結果、《政治に近よるべからず。そこでは誠意が裏切られ、理想主義が利用され、役に立たなくなれば昨日の忠誠が今日の謀反とされるだろう》(『羊の歌』)と考えるようになった。
医学部に入学してから加藤周一は仏文科の授業を聞き、研究室にも行くようになる。そこで辰野隆、鈴木信太郎、中島健蔵という人たちを知るようになるが、最も影響を受けたのは渡辺一夫助教授であったという。加藤は《(渡辺助教授が )絶えず「狂気」を「狂気」とよび、「時代錯誤」を「時代錯誤」とよびつづけるということがなかったら、果して私が、ながいいくさの間を通して、とにかく正気を保ちつづけることができたかどうか、大いに疑わしい》(『羊の歌』)と書いている。
加藤周一については、海老坂武『加藤周一』(岩波新書 )が要点を衝き、コンパクトにまとめてあって面白い。例えば加藤周一は昭和十六年十二月八日、開戦の報を聞き、到底この戦争に勝つ可能性はないので、結果は敗戦であり、すべてのものは滅びさるだろうと思ったという。ただその夜に新橋演舞場に人形浄瑠璃の引越興行を見に行き、そこで義太夫と三味線の世界、古靭太夫の世界に浸ったという。ところが戦後、加藤は《四年の間、一度も映画館、劇場等凡そ人の集まるところに足を入れず、一冊の雑誌も読まなかった》(『知識人の任務』)と書いているばかりでなく、鷲巣力の調査によると加藤周一の十二月八日の日記に、この新橋演舞場の記述がないという。その前後の日記にも、この記述はなく戦後になってからの加藤の創作の可能性があるかも知れないとしている。
海老坂は加藤の広島の原爆についての態度に疑問を呈している。『続 羊の歌』には、「広島」の章がある。加藤は戦後二カ月してから、東京帝国大学医学部と米国の軍医団との共同の「原子爆弾影響合同調査団」の一員として広島へ行っている。この調査団は純粋に学問的なものであるということで、加藤はアメリカ軍の爆撃機 B25に乗り込んで、立川から広島へ入っている。このとき加藤はこの調査団に対して疑問を思わなかったのであろうか。海老坂は《当時の加藤は、一時期の共産党と同じく、占領軍は解放軍と考えていたふしがある》、またアメリカによる占領を全面的に肯定した文章を書いているという。
『ある晴れた日に』の終末部で《B二九がつくった焼跡には、自由を奪うためにではなく、自由を保護するために民主主義の軍隊が来るのだ》と土屋太郎が想っているのは、戦後すぐの加藤周一の本音が出ているのではないか。この場面の直前の、玉音放送を聞いての画家との議論で「しかし、勅語なかったら、おさまりがつかないでしょう」、「天皇の責任は、別の問題として、今天皇制をこわしたら混乱する。天皇がなければ、何がはじまるかわからないでしょう」、「戦争がこういう形で終わったのは、一人でも無駄に死ぬ人間を少なくするために、よかった。ここでゲリラ戦がはじまってはどうにもならない。勅語は役立つでしょうし、天皇には役立つかぎり役立ってもらわなくては困るんじゃないですか」と太郎は話している。日本を混乱させないために天皇制の必要性を強調しているようである。
海老坂武によれば、加藤周一は政治的アンガージュマンを避けている知識人だという印象を持っていたという。二・二六事件を見て「政治に近寄るべからず」と思い込んだからであろうか。 一九五八年に加藤はアジア・アフリカ作家会議に参加している。この作家会議は主として社会主義国と中立国の作家からなり、日本ではマルクス主義者の作家(野間宏)、左翼の作家(堀田善衛)が主導権を握っていた。タシケントで開催された会議であらわれた加藤の政治的姿勢は《それぞれの(社会主義)国の短所を見定めながらも社会主義に希望を見いだそうとする姿勢が歴然としていること。民主主義の徹底化を欲しつつ、社会主義への希望を――あのハンガリーへのソ連軍の介入(一九五六年十~十一月)の後であるにもかかわらず――保持し続けていること》であった。六〇年安保闘争では、加藤は何もしないと同然であった。「世界」の一九六〇年六月号、七月号に『永井荷風論』を書いた後、《海外〈亡命〉》のようにして、日本を去りカナダの大学で職に就いた。このような加藤が再び政治的発言を行うのは、一九六八年のソ連軍のチェコ侵入の後であった。
2016年8月13日
加藤周一、中村真一郎、福永武彦らの〈マチネ・ポエティック〉のグループは、戦後すぐ「近代文学」の荒正人、本多秋五らと論争している。近代文学派は戦前のプロレタリア文学や私小説を踏まえて戦後の文学を考えようとしたのに対して、〈マチネ・ポエティック〉のグループは市民社会の構造を知ろうとし、つまり、西欧近代社会に範を求めようとした。というと何かかっこいい文学的論争のようだが、この根底には共産党をどう見るかという根本的な対立があったのではないか。この対立を講談社文芸文庫『1946・文学的考察』の鈴木貞美の解説を参考にしながら考えてみる。
加藤周一の文章には、「明治維新以来の封建的軍国主義政府」、「封建的支配階級」という言葉が出てくる。中村真一郎には「絶対君主制」が出てくる。鈴木は《このような政治分析はコミンテルンの一九三二テーゼ、もしくは『日本資本主義発達史講座』の歴史観を戦後も引き継いだ日本共産党のそれにほかならない》と書いている。近代文学派のグループはこのような講座派的歴史観に批判的であった。加藤らのグループはこのような講座派的歴史観を受け入れつつ、《反戦感情は、戦争を必然的にした社会体制そのものの批判と政治的左翼への共感へ、私たちをみちびいた。他方、新しい文芸は、無から作りだすことができない。私たちは戦時中に親しんだ西洋殊にフランスの近代文学と日本の古典文芸をよりどころとして、私たちの文学を考えようとしていた》と『1946・文学的考察』の「あとがき三十年後」に書いている。つまりはフランス文学の直輸入によって、戦後文学を出発させようとしたのである。
このような中で、加藤の社会主義国を評価する姿勢は変わらなかった。私が加藤周一や堀田善衛、大江健三郎にうさん臭さを感じるのは、社会主義国が旗を振った文学運動に追随したからである。それがアジア・アフリカ作家会議である。一九五六年のアジア作家会議には堀田善衛が出席し、一九五八年のアジア・アフリカ作家会議には加藤周一が出席した。この作家会議は中ソ論争が激しくなった一九六〇年代には分裂の様相を呈した。おそらくこのような時期に中国派の松岡洋子らと大江健三郎は一九六〇年の六月に訪中したのであろう。一九六七年ごろからは文化大革命のために中国が脱落した形となった。アジア・アフリカ作家会議では、ロータス賞を設定し、一九七三年には野間宏が『青年の環』で、一九七九年には堀田善衛が『ゴヤ』で、一九八八年には小田実が『HIROSHIMA』で受賞した。これでは適当に仲間内で賞のやり取りをしているようではないか。
一九七四年三月には日本アジア・アフリカ作家会議の準備会が結成され、参加の呼びかけがおこなわれた(『新日本文学』1974年5月号掲載)。呼びかけ人には、大江健三郎・小田実・中野重治・野間宏・堀田善衛たちが名を連ねた。五月二十五日、東京で結成総会が開かれ、野間宏議長、堀田善衛事務局長が決まった。本来なら政治から独立すべき文学が、社会主義イデオロギーをもとにして文学団体を作ったのである。野間宏はともかくとして、堀田善衛は一貫してこのような運動に大きな役割を果たした。
加藤周一は一九六八年のソ連軍のチェコ侵入を非難したが、我が尊敬すべき中野重治はこの時期に及んでもソ連支持の姿勢を変えなかった。ソ連邦が崩壊した現在では、おとぎ話のようだが社会主義国が存在していた時代には、文学者たちも、政治と文学をめぐって右往左往していたのである。