色川武大『百』 松山愼介
この作品集には『連笑』、『ぼくの猫、ぼくの猿』、『百』、『永日』の四編で構成されている。『連笑』で弟との関係を、『ぼくの猫、ぼくの猿』、では自分の精神状態を、『百』では父親のことを、『永日』では自分と、父親の生活をえがき、この作品集を読めば、一応、まんべんなく色川武大のことがわかるというようにまとめられている。
『狂人日記』を読んでいるので、幻覚の猫や猿が出てきても驚くことはない。『狂人日記』も作者自身をモデルにした小説だという記憶があったが、『狂人日記』は、その「単行本あとがき」を読むと、有能な飾職人で四十二歳で早逝した有馬忠士をモデルにしたフィクションだということだ。『狂人日記』の装幀の絵は有馬忠士の作である。『狂人日記』の中でも主人公は昭和十年生まれで、父親は薬屋ですでに亡くなったことになっているので、色川武大の実人生とは異なっている。ただ次のような精神病に関する記述は共通のものだろう。
狂人とは、意識が健康でない者の総称であって、千差万別、度合の差があり、また間歇的に一定時間のみ狂う者あり、部分的に一つの神経のみ病んでいる者あり、完全に正常な意識を失っている者などごくわずかだ。ほとんど度合いの差であるにすぎず、しかもその度合いはレントゲンにもCTスキャンにも映るわけではない。もともとどこまでが正常でどこからが狂疾か、度合の問題がほとんどである以上、この線がはっきりしているべきだが、それも明確になっていない。
作者のこの精神の不安定さは、戦後すぐの無頼の生活から来ているのだろう。私は幻覚は見ないが、電車の駅で、なんとなく飛びこみそうな気持ちになったことがある。しかし、美馬翔さんに、精神科医の話として、飛びこみたくなる気持ちは誰にもあるという話を聞いてから、そのような気持ちはややふっ切れた。つまり誰にでも狂気の素質はあるということだ。色川武大は高所恐怖症で、私もそうだったが、これも最近ではましになっている。パリの凱旋門の屋上や、ピサの斜塔のてっぺんでも割と平気だった。これは慣れか、年齢による鈍感さかはわからない。
色川武大には阿佐田哲也名で『麻雀放浪記』などの作品があるが、これは真田広之主演で映画になったのを見ている。ただ真田広之がイケメンすぎて、あまり現実感がなかった。ちなみに阿佐田哲也というペンネームは「朝だ!徹夜だ!」からきているという。
私は末っ子なので、弟に対する気持ちはあまりわからない。ただ弟というのは兄の顔色や機嫌に敏感である。兄の方も、可愛いがりたい気持ちと、兄たらなければならないという気持ちがあって、それなりに大変だったろうというのは『連笑』を読んで感じた。
この作品集のメインは父親との関係をあつかった『百』と『永日』だろう。最近、大学の同級生の恩師が米寿の祝をするという連絡がきたが、こちらは白寿というからすさまじい。このような作品を読めば、どうしても自分の父母のことを考えてしまう。『狂人日記』を読んだ頃は作者(息子)の視点で読んでいたが、今回は父親の立場の方に身を寄せてしまう。私の親は、奇しくも二人とも九十一歳で亡くなった。私の母親は、認知症があり、偶然、うまく特別養護老人ホームに入れてもらうことができた。それまでは介護に苦労したが、ほぼ寝たきりだったので、この作品の父親に比べれば楽だったと思う。介護の等級を決めるために来た区役所の係の人に「今の季節は?」とか「これから寒くなりますか?暑くなりますか?」と質問されて答えに窮していた時は、こちらもまごついてしまった。老人で認知症があり、体力があれば、徘徊とか暴力とか、それは苦労するだろうと思う。『永日』に出てくる百戦練磨の付添婦の、老人の扱い方は微笑ましかった。
この作品集の『百』とか『永日』というタイトルは、読む前には意味がわからないが、読み終えるとこのタイトルの意味が身にしみて上手いと思った。
2018年5月12日
この作品集には『連笑』、『ぼくの猫、ぼくの猿』、『百』、『永日』の四編で構成されている。『連笑』で弟との関係を、『ぼくの猫、ぼくの猿』、では自分の精神状態を、『百』では父親のことを、『永日』では自分と、父親の生活をえがき、この作品集を読めば、一応、まんべんなく色川武大のことがわかるというようにまとめられている。
『狂人日記』を読んでいるので、幻覚の猫や猿が出てきても驚くことはない。『狂人日記』も作者自身をモデルにした小説だという記憶があったが、『狂人日記』は、その「単行本あとがき」を読むと、有能な飾職人で四十二歳で早逝した有馬忠士をモデルにしたフィクションだということだ。『狂人日記』の装幀の絵は有馬忠士の作である。『狂人日記』の中でも主人公は昭和十年生まれで、父親は薬屋ですでに亡くなったことになっているので、色川武大の実人生とは異なっている。ただ次のような精神病に関する記述は共通のものだろう。
狂人とは、意識が健康でない者の総称であって、千差万別、度合の差があり、また間歇的に一定時間のみ狂う者あり、部分的に一つの神経のみ病んでいる者あり、完全に正常な意識を失っている者などごくわずかだ。ほとんど度合いの差であるにすぎず、しかもその度合いはレントゲンにもCTスキャンにも映るわけではない。もともとどこまでが正常でどこからが狂疾か、度合の問題がほとんどである以上、この線がはっきりしているべきだが、それも明確になっていない。
作者のこの精神の不安定さは、戦後すぐの無頼の生活から来ているのだろう。私は幻覚は見ないが、電車の駅で、なんとなく飛びこみそうな気持ちになったことがある。しかし、美馬翔さんに、精神科医の話として、飛びこみたくなる気持ちは誰にもあるという話を聞いてから、そのような気持ちはややふっ切れた。つまり誰にでも狂気の素質はあるということだ。色川武大は高所恐怖症で、私もそうだったが、これも最近ではましになっている。パリの凱旋門の屋上や、ピサの斜塔のてっぺんでも割と平気だった。これは慣れか、年齢による鈍感さかはわからない。
色川武大には阿佐田哲也名で『麻雀放浪記』などの作品があるが、これは真田広之主演で映画になったのを見ている。ただ真田広之がイケメンすぎて、あまり現実感がなかった。ちなみに阿佐田哲也というペンネームは「朝だ!徹夜だ!」からきているという。
私は末っ子なので、弟に対する気持ちはあまりわからない。ただ弟というのは兄の顔色や機嫌に敏感である。兄の方も、可愛いがりたい気持ちと、兄たらなければならないという気持ちがあって、それなりに大変だったろうというのは『連笑』を読んで感じた。
この作品集のメインは父親との関係をあつかった『百』と『永日』だろう。最近、大学の同級生の恩師が米寿の祝をするという連絡がきたが、こちらは白寿というからすさまじい。このような作品を読めば、どうしても自分の父母のことを考えてしまう。『狂人日記』を読んだ頃は作者(息子)の視点で読んでいたが、今回は父親の立場の方に身を寄せてしまう。私の親は、奇しくも二人とも九十一歳で亡くなった。私の母親は、認知症があり、偶然、うまく特別養護老人ホームに入れてもらうことができた。それまでは介護に苦労したが、ほぼ寝たきりだったので、この作品の父親に比べれば楽だったと思う。介護の等級を決めるために来た区役所の係の人に「今の季節は?」とか「これから寒くなりますか?暑くなりますか?」と質問されて答えに窮していた時は、こちらもまごついてしまった。老人で認知症があり、体力があれば、徘徊とか暴力とか、それは苦労するだろうと思う。『永日』に出てくる百戦練磨の付添婦の、老人の扱い方は微笑ましかった。
この作品集の『百』とか『永日』というタイトルは、読む前には意味がわからないが、読み終えるとこのタイトルの意味が身にしみて上手いと思った。
2018年5月12日