遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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葉山嘉樹『海に生くる人々』を読んで

2016-07-13 10:55:30 | 読んだ本
          葉山嘉樹『海に生くる人々』        松山愼介
 万寿丸は三千トンの石炭を積んでいるというから、かなり大きな船である。ちなみに私が学生時代によく利用した青函連絡船は八千トンである。昔、テレビでオホーツク海を冬に航行する漁船か何かのドキュメントを見たことがある。そこでは、マストにかかった波が凍りついていた。これを放おっておくと、その氷の重みで重心が上にいって船が不安定になるので、凍る波を手作業で砕き落としていた。この作品の季節は十二月末である。北海道で一番寒いのは二月である。この十二月末ごろに、室蘭沖で合羽が即時に凍ったり、トイレが凍ったりするかどうかは疑問である。その点を除けば、善悪がはっきりしているが、船員の船上での生活がリアルにえがかれた、力強い作品だと思った。
 年譜をみると葉山嘉樹は波乱万丈の生活をおくったようだ。二十六歳で山井ヒサとの間に二人の女の子が生まれるが二人とも早くに亡くなっている。二十八歳で塚越喜和子と結婚、後、長男喜和、次男民雄が生まれる。三十二歳で名古屋共産党事件で巣鴨刑務所に服役、五カ月後(未決通算六十日)に出獄したときには妻子が行方不明になっていた。その年にその二人の子を亡くしている。この一年前にも妻は男と出奔していた。つまり四人の子どもを亡くしているわけである。三十三歳で西尾菊江と岐阜から東京へ駆け落ち結婚している。
 名古屋共産党事件というのは年譜から推測すると、二十八歳の時に名古屋新聞の記者として神戸、三菱、川崎造船所の同盟罷業に派遣されながらも、この争議を応援することになった。また愛知時計電気の争議で拘禁され、懲役二カ月の判決を受ける。これらの実績で名古屋労働者協会の執行委員長となり、山本懸蔵、野坂参弐らと赤色労働組合国際連盟に加盟すべく「レフト」を組織し名古屋地域から中央委員に選出された。「レフト・プロレタリア会」を組織、これが治安警察法違反となったようである。後に、このメンバーの酒井定吉と妻が出奔している。名古屋共産党事件は堺利彦、山川均らの第一次共産党とは無関係のようだ。この服役中に『資本論』の差し入れを受け、『淫売婦』が書かれ、『海に生くる人々』が起稿された。
 以後『文芸戦線』によって文筆活動を行う。『文芸戦線』と表裏一体の関係にあったプロレタリア芸術連盟は、青野季吉の『自然生長と目的意識』という論文をきっかけに、林房雄、葉山嘉樹らが脱退し労農芸術家連盟を結成し、福本イズムの影響下にあった中野重治らと袂を分かった。この後、中野重治らは蔵原惟人らと共に、プロレタリア文学者も革命運動の先端をいくべきであるとしてナップ結成へと突き進んでいく。昭和七年労農芸術家連盟は解体し、葉山嘉樹はプロレタリア作家クラブを創立するが、いわば終始、穏健派であった。昭和八年二月の小林多喜二虐殺、三月、中野重治ら逮捕、四月、蔵原惟人逮捕でプロレタリア文学運動が壊滅する中で、葉山嘉樹は昭和九年天竜河畔で三信鉄道工事に従事するが、終始、特高の監視下にあったようである。このことが大政翼賛会に協力し、満州へ開拓団として行く要因になったとも考えられる。
 面白いのは中野重治が運動の反対側にいた葉山嘉樹をとても評価していることである。昭和十年の『村の家』の「よう考えない。我が身を生かそうと思うたら筆を捨てるこっちゃ。……里見なんかちゅう男は土方に行ってるちゅじゃないかいして。あれは別じゃろが、いちばん堅いやり方じゃ。またまっとうな人の道なんじゃ。土方でも何でもやって、その中から書くもんが出てきたら、その時に書くもよかろう。それまで止めたアお父ちぁんも言やせん」という勉次と孫蔵の会話の中の里見は葉山嘉樹のことである。
  中野重治は昭和二十九年の『むらぎも』でも葉山嘉樹にふれている。

   田口の芸術は安吉に理窟なしに魅力だった。長編の「海の上の男」が出たのはついこのあいだだった。はじめて「波止場裏
  の女」を発表して から丸一年ほどで、田口という作家は頭から安吉をとらえていた。「波止場裏の女」というのは、ひとく
  ちに朗読できるほどの単純な短編だった がそれが安吉を脊髄で捕えるようにして捕えていた。悪が悪であることで正義が叫
  びだしたといったようなものがそこにあった。いったいに田口には、生活のやりきれないひどさを、それの特殊な断面、もつ
  れて結節になってきた点で捕える癖があって、火箸なら火箸を切ると、その断面は、平生の火箸という観念、その鉄という観
  念とは違った感じで人に見えてくる。さわってみて違う。――ちょうどそんな具合に、労役者の生活の悲惨さが、その悲惨さ
  でよりは悲惨の輝かしさで人を打つというところがあった。

 ここで「海の上の男」は『海に生くる人々』、「波止場裏の女」は『淫売婦』であろう。《労役者の生活の悲惨さが、その悲惨さでよりは悲惨の輝かしさで人を打つ》というような評価の仕方は中野重治、独特のものだろうが同感である。また友人の土井に《芸術とマルクス主義とそうお手軽に結び付けられると不愉快になるよ。つまりネ、僕の言いたいのはネ、文学についての見識ってことは独立さして扱ってもらいたいってことなんだ》と語らせ、昭和初年のプロレタリア文学運動の過激さを反省しているようである。
 現在では『海に生くる人々』のような、労働条件は法的には無くなったであろう。マルクスが『資本論』でえがいた十八世紀中葉の資本主義の無法性はなくなった。資本主義の発展とともに労働者の賃金は向上し、国家による福祉政策が曲がりなりにも実行されている。かつて資本主義のもとでの不安は肺結核という形であらわれ、現在は精神疾患という形で現れている。資本主義のもとで生活は一定程度、改善されたとはいえ、不安は残っている。この不安を明らかにするのが文学の役割ではないか。そう考えると葉山嘉樹の『海に生くる人々』より、『淫売婦』という作品の方が現代にも通用する力を持っているように思った。
                           21016年7月9日

 葉山嘉樹が万寿丸のモデルになった万字丸に乗り込んだのは五月のことであった。年月により気温差があるが室蘭沖で十二月に甲板に打ち寄せた波が凍るというのは、少し誇張であろう。この作品が典型的なプロレタリア小説という読み方があったが、それは言いすぎであろう。この作品での反乱は個別的なもので、階級闘争とまではいえない。典型的なプロレタリア小説は小林多喜二の出現を待たねばならないだろう。
 葉山嘉樹は巣鴨刑務所に入獄するときに「政治活動をしない」と誓ったが、出獄後も政治活動を行っているので、これは表面的なものだろう。いわゆる偽装転向である。大正末年にはまだ権力の弾圧はゆるくてこのようなこともあったのであろう。
 葉山嘉樹は「戦旗」の人々からは社会民主主義者、同伴者作家と非難されたが民衆を主人公とした小説を書き続けた。しかし、戦争期にはいるにつれて、戦争賛美の小説を書き、最後には満州に渡った。昭和十五年に長野県西筑摩郡山口村(現、木曽郡)に移住した。ここでも特高の監視下にあり、村民からはアカ、スパイという目でみられたこともあったようである。『慰問文』とい作品では中国との戦争を聖戦と書き、戦争に協力しているようにも受け取られた。農村で特高の監視下にあり、村人の噂にのぼる生活で、止む無く体制に迎合する作品を書いたのかどうかは分からない。ただ、この当時、いわゆるプロレタリア作家たちは、作品の発表の場を失い、生活が苦しかった事は事実である。
 長野県は貧しく多くの満州開拓団を出した。昭和十八年三月には、満州建国勤労奉仕班の班長として、渡満したが、肝臓病のため九月に帰国している。以後、長野県で満州拓土送出運動の嘱託となった。昭和二十年六月に再度、満州に向かった。最後の満州開拓団ではないかといわれている。この時期、軍関係者は独自の情報のもとに、満州を逃げ出し帰国しようとしていた時期である。葉山は情勢が不安定なため新潟で二週間、船を待たされた。おそらく送り込む方も満州の情勢がわかっていての、無理矢理の送り出しであったろう。到着後まもなくソ連の参戦があり、引き揚げる途中、10月十八日、死去。ハルピン南方、徳恵駅の近くに埋葬された。
 プロレタリア文学者と戦争と生活は、非常に難しい問題である。名のある作家は、戦地に送られ、戦意高揚の文章を書かされた。それを断ることは生命に関わる問題であった。最初は偽装転向ですんだかもしれないが、戦争が苛烈になるにつれて、権力は葉山嘉樹というかつての一プロレタリア作家を、単なる農業者として放っておいてくれなかった。戦争協力を求められたのである。民衆の側の立つと思っていても、やることなすことが戦争協力になってしまったのではないだろうか? そのような困難な時代を生きたのが葉山嘉樹であった。





野上弥生子『海神丸』を読んで

2016-07-13 10:36:28 | 読んだ本
          野上弥生子『海神丸』            松山愼介
 日本でラジオの天気予報が始まったのは大正十四年だそうだ。この作品のモデルとなった高吉丸事件は大正五年十二月二十五日から、二月十九日にかけてである。当然、天気も船長の空を読む感に頼っていたと思われる。そうなれば、思いがけない低気圧に巻き込まれれば遭難はあり得る話である。野上弥生子は弟・小手川武馬から「毛筆で巻紙一丈(三、三メートル)あまり」の事件の詳細を書いた手紙を大正九年頃受け取り、それを材料に『海神丸』を書き上げた。小手川武馬は高吉丸の船長・渡辺登久蔵から他言無用という条件で話を打ち明けられたのだが、それを姉の役に立とうと長文の手紙にしたのであろう。野上弥生子は《南九州の故郷の町に近い下ノ江と呼ぶ漁村から出航した六十トンのスクーナー船が、漂流の間に引き起こした恐ろしい出来事を、生家の弟が伝えてきたメモにもとづいてわずか虚構化したに過ぎず、船長、若い甥、それを食おうとして殺した二人の船頭、すべてが実在の人物である意味で、私にはたった一つのモデル小説である》と書いている。
 渡邉澄子はこの船長・渡辺登久蔵に直接取材し、その内容を『野上彌生子 人と文学』に書いている。それによると船長は当時、三十歳、三吉は対堂で十七歳、五郎助は若林勝吉で二十五歳、八蔵は渡辺志華太で十九歳であった。船は四千三百円で買い、千五百円の船体保険をかけたという。小手川の家の味噌醤油を小倉に運ぶ仕事をしていたということで、野上弥生子の実家との繋がりがあった。その日は下ノ江から日向の油津までの航海で、朝発てば午後二時に着くほどだったので、米も新たに積み込まず、前の航海の余りだけの一俵だけしか積んでいなかった。志華太は家でぶらぶらして金を使うばかりだったので、性根を叩き直してほしいと頼まれて連れて行ったという。この取材の核心は三吉を二人の船員が殺した理由である。この殺人事件は港を出て二十日目くらいにおこった。残った八升の米を分けた直後だったということで、食糧も尽きてはおらず、船長は三吉を殺すことによって、彼らの分け前を増やすことが目的だったとしている。船長が三吉の姿を探した時には、すでに海になげこまれていたという。船長はカニバリズムを否定しているわけである。これが船長が取材に応じた理由であろう。もちろん、真実は神のみぞ知るということになる。
 新潮日本文学アルバム『野上弥生子』でこの作品が、一九六二年に近代映画協会、新藤兼人監督で『人間』というタイトルで映画化されていることを知った。新藤兼人は一九六〇年のセリフのほとんどない『裸の島』で多くの賞を獲得している。船長に殿山泰司、五郎助に乙羽信子、八蔵に佐藤慶、三吉に山本圭という出演であった。この作品は殿山泰司の唯一の主演作と言われているがクレジットは乙羽信子が一番先であった。五郎助が女性であるということに違和感があったが新藤兼人作品なら止む得ないだろう。五郎助は救助されてから慶津丸の船倉に転落して死に、八蔵は三吉の殺人がばれるのを恐れて、ナイフで腹部を刺して海に飛び込み、自殺する。映画を見ていて気がついたのだが、金毘羅様を観世栄夫が演じている。
『海神丸』はカニバリズム小説の先駆けとされているが、実は海の男達の金毘羅信仰の物語ではなかったか。船長の渡辺登久蔵は体力を回復して歩けるようになるまで三年以上かかったという。彼は自分が助かったのは金毘羅様のおかげと信じており、歩けるようになってからは年二回の例祭には十年間欠かさずお参りにいったという。当時は、板一枚底は海で金毘羅信仰にすがるしかなかったのであろう。この『海神丸』のモデルになった高吉丸は物産を運ぶ船だった。これが漁船だったならば、簡単ではないだろうが魚を捕って食料にすることもできたのではないか。
 最後に野上弥生子がこの高吉丸事件を小説化するに際して題名を海の神の『海神丸』とつけたのは見事である。これが平凡な題名なら世の注意をひかず、野上弥生子の出世作とはならなかっただろう。
                         2016年6月11日

『海神丸』は大岡昇平『野火』や武田泰淳『ひかりごけ』を読んだあとではあまり感銘を受けなかった。発表順は逆なのだが。
野上弥生子はギリシャ神話の翻訳なんかもやっていたので、海神(ネプチューン)という題名がすぐ浮かんだろう。あと『ひかりごけ』の登場人物が八蔵、五助となっていて『海神丸』を意識しているらしい。ただこのような実話を小説にすることの困難さを感じた。

三浦哲郎『白夜を旅する人々』を読んで

2016-07-10 09:59:19 | 読んだ本
          三浦哲郎『白夜を旅する人々』         松山愼介
 三浦哲郎の作品を読むのは初めてだが、映画『忍ぶ川』は見ている。加藤剛と栗原小巻の出演だった。若いころは栗原小巻のファンだったので、割と熱心に見た記憶がある。森崎和江『からゆきさん』の関連で、栗原小巻、田中絹代の『サンダカン八番娼館 望郷』も見なおした。
 今回の『白夜を旅する人々』は、読んでみると何か懐かしい気持ちがして、スムーズに作品の世界に入っていけた。最初の馬橇が走る場面がそうさせたのか、あるいは助産婦と清吾の会話がそうさせたのかも知れない。ただ清吾は土地の言葉で話しているのに、この助産婦さんは標準語であった。文章にも適度なリズム感があった。
 れんが飛び込み自殺をした青函連絡船には何度も乗ったことがある。青森駅はプラットフォームが、とても長くなっていて、列車を降りて真っ直ぐに歩いていくと青函連絡船の乗り場となる。青函連絡船は十分定員に余裕があるのに、なぜか皆が小走りになってしまうのが常であった。乗る前に自分の名前を書いて乗船することになる。もし、この船が沈んだらこの名簿をもとに自分の名前が明らかにされるのだと考えながら、カードに名前を記入する。この作品中にあるように、青森湾を一時間かかって津軽海峡に出ると揺れが激しくなる。椅子席と座敷があるが、座敷に陣取ると、身体がゴロゴロ転がっていくような気がして面白かった。私の学生時代でも青森から函館まで四時間かかったので、戦前と同じ時間がかかったことになる。現在も連絡船は、青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸として残してあるようだが、一九八八年に青函トンネルができて、連絡船がなくなってしまったのは寂しいことである。それにしても、飛び込み自殺をするときに履物を揃えて飛び込むという心理はわからない。
 アルビノについてはテレビで見たような気がするが詳細は知らなかった。川名紀美の『アルビノを生きる』によれば「白皮症」といい、一万人から二万人に一人の割合で生まれるというから六人兄弟のうち、二人がアルビノというのは、かなり異常な割合である。見世物になっている白蛇もアルビノだそうだ。この本の例によると、アルビノの子供を見て、祖父が太陽に当てれば黒くなるだろうということで、日焼けさせたら治癒するまでに四カ月もかかる大やけどになったという。三浦きみ子(ゆう)は箏を教えることで一家の生活を支え、八十九歳まで生きたそうなので、弱視とか身体的ハンデはあるものの寿命には影響なそうだ。三浦哲郎は『白夜を旅する人々』の続編として、不幸の白夜が明ける時を告げる『暁の鐘』という作品を考えていたそうであるが、それを書くことなくこの世を去った。
 この作品に関連して『忍ぶ川』、『初夜』、『妻の橋』を読んだ。これらは自伝的作品である。『初夜』によれば、新聞社の就職試験で、《克明な家庭調査》を書かされることになって、正直に兄弟のことを書けなくて、それ以来、就職を断念したという。『妻の橋』によれば、二人の姉が自殺したと他人から聞いたのは小学校の高学年だったという。『忍ぶ川』には《六歳の春、よりによって私の誕生日に、二番目の姉が自殺しました。愛してはならぬ人を愛して、煩悶の末、津軽の海へ入水しました》という記述がある。自分でも死ぬなら自殺だと決めていたが、《終戦が、彼から死神を追い払ってくれた》。死ぬことに心をそそられなくなり、逆に《自分たちの血のなかに自滅をそそのかす奴がいる》、《この先、どんな事態になっても自分は逃げも隠れもするまいと心に決めた》という。この決意の集大成が『白夜を旅する人々』であろう。六歳の時に自死した姉〈れん〉が、生物学のメンデルの法則を克明にノートを取り、羊吉の中に生まれ変わるべく、羊吉の誕生日に死ぬことを決意するのは作者の創作ということになるが、その描写は見事と言う他はない。
 秋山駿編の『私小説という生き方』に『忍ぶ川』が収録されているので、三浦哲郎は私小説系の作家ということになるが、私は私小説系の作家の方が安心して読める。『白夜を旅する人々』を読み終えて、周辺の作品、エッセイを読むことで、より理解が深まるからである。『ねばる』というエッセイには、三浦哲郎の母はほぼ一年ごとに子供を五人生んでいる。母はもう金輪際、子供を産むまいと決意したのだが、どうしたことか十年目に三浦哲郎を身籠ったのである。三浦哲郎は自分を取り上げた助産婦の晩年に直接話しを聞いている。それによると、母は流産しようと、あらゆる事を試みたうえ、鬼灯の根で堕ろそうと決意したのだが、この助産婦に説得されて産むことを決めたという。この助産婦と三浦哲郎の母のおかげで、我々は今回、『白夜を旅する人々』を読むことができたわけである。                2016年5月14日

 この作品はアルビノ(「白皮症」)という身体の色素が不足し、日光に弱く、弱視となる先天性の疾患が六人兄弟姉妹のうち二人に生まれるという物語である。三浦哲郎はこれを遺伝性疾患として、作中にメンデルの法則を学ぶ場面を入れているが、果たして単純に遺伝性疾患と言えるかどうか疑問である。遺伝は関連しているであろうが、他の要因もあるだろう。三浦哲郎の他の作品では自殺した、れんと兄とのインセストを暗示する作品もあるとのことである。その意味でこの作品は、病気を遺伝性のものとし、それに立ち向かう健気な兄弟姉妹という美化した物語になってしまったのではないだろうか?