遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

楽しく読める、村上春樹の『騎士団長殺し』

2017-06-19 22:56:58 | 読んだ本
    楽しいく読める、村上春樹『騎士団長殺し』
 題名はとっつきにくいが、「騎士団長」はモーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』、リヒャルトシュトラウス『薔薇の騎士』からきているという。
 第一部の三分の一くらいまでは、話に入りきれずにいたが、それからはトントン拍子に読み進めることができた。結局、三日間くらいで読んだのではないだろうか。正直言って、『1Q84』はパラレルワールドで話の展開が難しかった。その点、今回の『騎士団長殺し』はこれまでの作品のパターンが踏襲されている。妻との別れ話、深さ三メートルの井戸のような穴、時空間を越えた妻とのセックス、そして妊娠といった、『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』のパターンがいかされている。そのため、読者は安心して村上ワールドに入ることができる。前半の井戸の中から、鈴の音が聞こえてくるというのは、ミステリータッチでわくわく読み進めることができる。
『海辺のカフカ』では、カフカ少年は、四国の高松にいて、東京にいるジョニーウォーカーを殺すことになる。村上作品を読む鍵は、読者も作者と同じように時空間を越えられるかだ。『海辺のカフカ』では『源氏物語』の六条御息所の「生き霊」をヒントにしているが、この作品も同じである。ただ、終盤の〈私〉が死期を迎えている雨田具彦の老人ホームから、「顔なが」を引きずり出した穴を通って井戸に至ることと、秋川まりえが免色渉の家に無断で入り込み、そこから如何に脱出するかという話とがパラレルに展開されているが、これがうまくかみあっていない。
「現在」の高度資本主義社会を捉えるためには、平面的な物語では手に負えない。小説も時空を越えることによって、この社会システムと対決できると村上春樹は考えているのだろう。ただ、雨宮具彦の絵から身長六〇センチの「騎士団長」がイデアとして出現することは納得できない。よしもとばななの作品を私が読まなくなったのは、作中に妖精のような小人が出てきてからである。
 気になったのは、村上春樹のブルジョワ趣味である。免色渉の車は高価なジャガーだし、彼の家ではシェフを招いて〈私〉に料理を振る舞ってくれる。しかも、この免色渉という男は、相当な金額で家を、住人を追い出すようにして購入している。資本主義システムに反対しているはずの村上春樹がこのようなブルジョワ趣味をひけらかすのはどうだろう。またかつて小谷野敦が批判していたように、主人公の〈私〉が、妻と別居状態になっても、難なく絵画教室の奥様と性的関係を、いとも簡単にむすんでいる。しかも、ベッドで常に二回戦に及ぶというのはどうだろう。
 もう一つ気になったのは村上春樹が歴史を取り込んでいることである。『ねじまき鳥クロニクル』ではノモンハン戦争が無理なく取り込まれていれたが、この作品では南京大虐殺や、捕虜の斬首という処刑を持ち込んでいる。最後では東北大震災のシーンも出てくる。文学は現実と一定の間隔を取って、それを越えなければならない。南京大虐殺や東北大震災を作品に導入する気持ちは分からないではないが、いささか安易ではなかったか。このような不満もあるが、全体としてワクワクして村上ワールドを楽しむことができた。
                                   2017年6月19日


遠藤周作『わたしが・棄てた・女』を読んで

2017-06-06 15:44:14 | 読んだ本
       
          遠藤周作『わたしが・棄てた・女』        
                                 松山愼介
 映画『私が棄てた女』(監督 浦山桐郎)は見ている。一九六九年の作なので、学生時代であるので、おそらく映画館で見たのであろう。原作もその後、読んだような気がするが覚えていない。映画ではハンセン病については全く触れられていない。学生時代で、女性の友達もいなかったので、この映画に出てくる森田ミツのような、男のいいなりになってくれる女性がいればと、思ったことはある。森田ミツ役の小林トシエがそういう女性にピッタリだった。森田ミツは浅田さんによると反対から読めば「罪たりも」となって、キリスト教の意味を含んでいるという。またミツは《聖女》とされているので、手首のアザは、腕の手首に《ある日、突然、ここに赤黒い銅貨大のしみができた》と書かれている。これは「聖痕」を暗示しているかも知れない。映画では、河原崎長一郎は覚えているが、三浦マリ子を浅丘ルリ子が演じていたのは覚えていない。それほど、小林トシエの印象が強かったのだろうか。
 森田ミツが「ソープ」に勤めていた事になっていて、「ソープ」という言葉が何回も出てくるが、これは「トルコ風呂」を書き換えたとのことである。「トルコ風呂」を「ソープランド」というようになったのは一九八四年だそうだ。当初の「トルコ風呂」はビキニスタイルの女性が、主にマッサージをする所であった。別料金を払えば、男性の身体の一部分に対するハンドサービスもあった。まだ赤線があった時代である。ところが、「トルコ風呂」は一九七〇年頃から、女性が性的サービスをする店になっていった。これらは、一九九六年の遠藤周作の死後、書き換えられたのだろうか。ミツが「トルコ風呂」に勤めていたとなると、マッサージサービスを主にしていたことになるが、「ソープ」に書き換えてしまうと、ミツは身体を売って性的サービスを行っていたことになる。作品の意味が変わってしまう書き換えである。「ソープ」よりむしろ「サウナ」が適当ではなかったか。「トルコ風呂」も開業が一九五一年なので、戦後三年目という、この作品の時代と合わないという小谷野敦の批判があるという。
 このような時代背景の中で、ハンセン病が取り上げられる。「癩病」という病名は、一九五九年にハンセン氏病になったが「氏病」=「死病」を連想させるので「氏」が削除され、一九八三年からハンセン病となったということである。この作品の発表が一九六八年だから、発表時もハンセン病になっていたのかどうか気になったので、『わたしが・棄てた・女』の単行本、文藝春秋新社版(昭和三十九年)、講談社版(初版昭和四十四年 昭和五十七年第二十八刷)の二冊を調べてみた。内容は同一であった。「ハンセン病」という記述はなくすべて「癩病院」になっていた。「ボクの手記(四)」で、会社の慰安旅行で御殿場の病院の横を通る場面がある。ここも相当、変えられている。「癩病院」と書かれ、大野が「カッタイの病院かい。天刑病の……」というところが、「伝染病の病院かい。」とされている。〈ぼく〉が「癩病院なんて」と呟いて続けて「どこかの離れ島においときゃ、いいんだ。断種して、子孫もできないようにするほうがいい。」は、後半の部分が全面削除になっている。つづく「吉岡さん、それ、本気。」は「吉岡さん。」だけになり、「あゝ、本気だよ、別に悪い考えじゃないだろう。」は削除されている。「手の首のアザ(二)」での大学病院では、医師は「ハンゼン氏病」と言っている。
 前半に出てくる、「エノケソ」(「エノケン」ではない)のポスター貼りをというアルバイトを紹介してくる、金さんのところも、変更が加えられている。金さんのことを、「第三国人」といっているのだが、これは削除、又は「外国人」、「この人」、「彼」とされている。金さんの朝鮮なまりの日本語は、朝鮮なまりをなくして、普通の日本語に変更されている。例えば、「タイチョプか」→「ダイジョウブか」、「ウソ思うか」→「ウソと思うか」、「こくろ……こくろ」→「ごくろう……ごくろう。」となっている。
 小説というものは、時代の証言でもある。この作品でも、シャンソンの「銀巴里」、歌声喫茶の「どん底」、「地下生活者」というような風俗を伝えるのも文学の役割であろう。しかし、ハンセン病は長い差別の歴史があり、その差別的表現と文学の歴史的役割を、どう折り合いをつけるのかは、非常に難しい。文庫出版部による「前書」の《やむをえざる部分のみ、それをそのままに致しました》ということわりは不親切で、もう少し、「ふさわしくない部分は削除、訂正しました」というぐらいの断りは必要だろう。

 浅田高明さんの『「生命」と「生きる」こと ハンセン病を巡る諸問題を視座として』に詳しいが、モデルとなったハンセン病施設、神山復生病院は一八八九(明治二二)年に創設開院している。一九〇七(明治四〇)年、「癩予防ニ関スル件」が公布されたが、パリ外国宣教会レゼ―神父は、早くもこの年に、癩菌は伝染力が弱く、結核の方がはるかに伝染力が強く危険だとのべ、患者を犯罪者の如く扱うのに反対している。この作品のヒントになったといわれる井深八重が入院してきたのは一九一九(大正八)年のことだという。
 私がハンセン病を意識したのは、何回目かに映画『ベン・ハー』を見たときである。ベン・ハーの母が「レプラの谷」に押し込められるが、キリストの死による奇蹟により快癒するという場面である。外国人宣教師の活躍をみても、キリスト教にとってハンセン病は昔からのテーマだったのかも知れない。ハンセン病の患者に奉仕するという森田ミツの姿は、キリスト教の理想の女性像かもしれない。それに男性の性の欲望を満たしてくれる女性像というのも森田ミツに重ねられている。このような、遠藤周作の意図は理解できるが、キリスト教イデオロギーが先行しており、物語の展開もいささか安易ではないだろうか。雑誌の文通欄による交際の始まり、吉岡が偶然、立ち寄った「ソープ」で応対した女性が森田ミツのロザリオを持っていたという展開も、不自然だし、森田ミツが御殿場に降り立った時、三浦マリ子と出会うのも不自然であった。
                         2017年5月13日


タイ、バンコク・アユタヤを訪れて

2017-06-06 15:08:54 | 旅行
 息子夫婦が一年前に、バンコクに赴任したので、今回、バンコクを訪れた。
 一日目はバンコクから一時間半くらいのところにあるアユタヤへ行く。
 アンコールワットのような、小さく薄いレンガを積み上げた遺跡群、仏像群があった。日本の仏教とは
また異なる東南アジア特有のものであろう。
 木の根の中に仏像の顔だけがある。これは仏像の顔を木の根の中に入れておいたら、根がその周りを
覆ってしまってこんな形になったという。


 アユタヤからの帰りは、河をクルーズ船に乗ってバンコクまで。途中で、三島由紀夫の『豊饒の海・暁の寺』で有名な
暁の寺が見えた。塔は工事中であった。
 次の日はバンコク郊外の、黄金の仏陀で有名なワット・ポーへ。

 バンコクは雨季にもかかわらず、天気には恵まれた。ただ日差しがあると、やはり暑い。気温は34度の27度というところか。
 湿度は高い。そのため、冷房の効いた場所から外に出るとメガネが曇るほどである。一瞬だが。
 タイの国際空港内の、飾り。
 タイまでは関西空港から5時間ほど。街はエネルギッシュであったが、貧富の差はかなりありそうだった。
 次回は、タイ北部のチェンマイあたりへ足をのばそうと思っている。


 


 

堀辰雄『風立ちぬ・美しい村』を読んで

2017-06-06 15:06:28 | 読んだ本
        堀辰雄『風立ちぬ・美しい村』          
 松山愼介
 芥川龍之介の自死する一カ月前、中野重治は室生犀星の紹介で芥川と会っている。そこで芥川は「才能として認められるのは、堀君と君だけでしょう」と中野重治に語ったという。これは中野重治、窪川鶴次郎、堀辰雄、西沢隆二らで発行していた東京帝大生を中心とした同人誌「驢馬」を意識してのことであった。「驢馬」は中野と窪川のように金沢の第四高等学校以来の僚友だったり、関東大震災後一時金沢に帰省していた室生犀星を通じて知り合ったりした文学グループであった。カフェーの女給をしていた佐多稲子がこの「驢馬」の同人と知り合ってから創作活動を初めたのは有名な話である。「驢馬」には中野重治らのマルクス主義文学の方向と、堀辰雄の西ヨーロッパの前衛文学の方向が同居しており、既成文学を乗り越えようとしていた。
「驢馬」の後、中野重治はプロレタリア文学の中心メンバーとなり、堀辰雄は富永太郎、小林秀雄、らの「山繭」を経て、川端康成、横光利一らの「文学」にくわわり、昭和八年から九年にかけて三好達治、丸山薫らの「四季」に参加することになる(「四季」の中心メンバー三好達治が、戦争中、その抒情詩の感性的秩序が、国家の支配体制と構造的な対応を示していったという点については、吉本隆明が『「四季」派の本質』で鋭く分析している)。この時期はプロレタリア文学の解体期、ナップ、コップが権力によって解散させられた時期であった。中野重治は昭和七年に検挙され、昭和九年五月に出獄し、昭和十年には転向五部作を書くことになる。中野重治は「堀さんとはどの辺で道が分かれましたか」と聞かれて、「ぼくと堀君との間で、道が分かれたというようなことはなかったな」と即座に答え、堀辰雄に対する親愛の情を示していたという。
 芥川龍之介については中野重治が『むらぎも』で触れ、堀辰雄は『聖家族』で触れている。『聖家族』の冒頭「死があたかも一つの季節を開いたかのようだった」は芥川龍之介の自死をさしている。『風立ちぬ・美しい村』の舞台は軽井沢だが、堀辰雄は東京の下町(本所向島小梅町)育ちであった。関東大震災で母を失い(火に追われて隅田川で溺死)、自身も竜巻に投げ上げられて隅田川に落ち、辛うじて舟に引き上げられたという(中村真一郎『堀辰雄』)。中村真一郎は「震災体験が、凡ゆる流血的なものに対する激しい嫌悪となって生き残り、それが堀文学の世界をあのように古典的明徴さに純化させるのに決定的な役割を果たしたのかも知れない」と書いてる。中村真一郎に言わせれば軽井沢は堀辰雄が書いているような「妖精的雰囲気」の場所ではない。堀辰雄によって「生活の詩化」されたものであるという。
『風立ちぬ・美しい村』は戦争の気配もない軽井沢を思わせる町で、「渓流のほとりの、蝙蝠傘のように枝を拡げた、一本の樅の木の下」で画架を広げ絵を描いている、肺を患っている少女との恋愛物語である。この題材を映画化したのが宮崎駿の映画『風立ちぬ』である。宮崎駿はこの恋愛物語の一方の男性に、零戦の設計技師である堀越二郎をすえることによって、物語に戦争を導入した。サナトリウムのベランダで十人前後の患者が、小雪のちらつく中で分厚い毛布に包まって外気療法をしているシーンは印象的であった。映画には外人が満州事変について語ったり、『魔の山』について語ったりするシーンもある。
「果てしのないような山麓をすっかり黃ばませながら傾いている落葉松林の縁を、夕方、私がいつものように足早に帰ってくると、丁度サナトリウムの裏になった雑木林のはずれに、斜めになった日を浴びて、髪をまぶしいほど光らせながら立っている一人の背の高い若い女が遠く認められた」(文庫版 一五九ページ)という個所は村上春樹の『ノルウェイの森』の直子を思わせる。村上春樹は漱石とよく比較されるが、作品の底に流れる抒情は堀辰雄のものかも知れない。
 作品とは直接、関係ないが、堀辰雄は完全に文学だけで生活できたのだろうか。年譜をみても働いた形跡はない。生活費、結核の治療費などをどう工面したのかという疑問が残った。
                          2017年4月8日