遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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外山恒一『良いテロリストのための教科書』を読んで

2017-11-05 22:09:42 | 読んだ本

 タイトルに「テロリスト」と書いてあるので、驚くかも知れないが、内容は「ファシスト」を自称する外山恒一による、新左翼の運動から、右翼、左翼を含む現在までの反体制運動史を、自身の活動歴と合わせて語ったものである。
 私は一九四九年生まれであるが、一九七〇年生まれの著者に教えられることが多かった。全共闘運動についても、よく捉えられている。自身が経験していないのに、ここまで理解されているのは驚きである。
 外山恒一はもともと、左翼だったのだが、左翼の運動がPC的になっていったことに反発している。PCとは「ポリティカル・コレクトネス」ということだが、「反差別」、「言葉狩り」のことである。この「反差別」運動は、一九七〇年頃に、津村喬による『われらの内なる差別』(三一新書)という本が出たことも大きな契機になっている。私はマルクス主義党派に属していたので「反差別」運動に興味はなかったが、党派に反発を持っていたノンセクト・ラジカルといわれる大学の下級生たちにおおいに読まれた。
 これは一九七〇年七月七日の華青闘告発も大きな影響を及ぼしている。華僑青年同盟という、中国人の団体が日本人は中国を侵略した歴史について無自覚だとして、会議の場を退席したのである。これに対して中核派は「自主的に退席したのだからいいじゃないか」という態度をとった。この発言はノンセクト、他党派から一斉に非難を浴び、中核派は自己批判し「反差別」運動、入管闘争、差別反対闘争などに力をいれていくようになる。
 
《“差別問題”というのはキリがありません。差別に反対し、実際に反差別運動に熱心に関わり、自らの無自覚な差別性をも克服する努力をどこまで続けても終わりがないんです。》

《華青闘告発を普通の意味で受け入れて反省してしまうと、「反日武装戦線」に志願するか、中途半端なところで妥協してPC左翼になるしかないんです。》

《怒られるかもしれませんが、私は今では彼らをむしろ“特殊な右翼”だったと考えています。というのも、彼らは自分が“日本人であること”に徹底的にこだわり抜いた結果として“反日闘争”に踏み切ったからです。》

 華青闘告発を引き継いだのは「東アジア反日武装戦線」であるというのは正しい。彼らの三菱重工ビル爆破事件ばかりが批判されているが、彼らが最初に爆破したのは、伊豆にあった興亜観音・殉国七士之碑爆破事件(一九七一年十二月十二日)である。東京裁判によって処刑された、いわゆるA級戦犯を祀った碑を爆破したのである。さらに触れておかなければならないのは、当時の新左翼が全く問題として取り上げなかった、昭和天皇の戦争責任問題を追求し、成功しなかったが御召列車を鉄橋ごと爆破することを計画したことである。立命館大学の「わだつみ像」破壊についても、明快に説明している。

《全共闘の中でも突出した一部は、大学まるごと共産党の拠点だった立命館大学の構内に建てられていた「わだつみ像」を、被害者目線でしか反戦を主張できない戦後民主主義の欺瞞の象徴だとして破壊する事件まで起こしています。》

 なお、戦後、ベストセラーになった、『きけわだつみのこえ』という岩波書店から出版された戦没学生の手記というのがあったが、これも戦後民主主義に合致した文章だけが取り上げられた小林秀雄が書いていた。戦争を賛美してお国のため、天皇のために死ぬという手記は排除されたらしい。
 外山恒一は「一九六八年」以後の闘争を、欧米との比較で検討している。欧米では 68年を肯定的に継承する文脈でポストモダン思想やサブカルチャーの運動が展開された。ドイツやイタリアではノンセクト・ラジカルの連中が空き家を勝手に占拠、改造し運動の拠点として利用した。しかし日本では、この当時、日本の左翼運動は内ゲバの最盛期であった。各党派は互いに内ゲバを繰り返し、大学構内を暴力で支配していたため、ノンセクトの活動家は身動きが取れなかった。そのため日本のポストモダン思想は新左翼の運動を継承することなく、左翼総体を批判する思想のように受け取られてしまった。
 日本のポストモダン左翼の連中は 68年を、戦後民主主義批判を継承していないので、「九条を守れ」というようなことを平気で言っている。

《とにかく“お勉強”だけはできる連中ですから、欧米のポストモダン派が“ 68年の思想”を盛んに云々していることは知識として知っていて、しかし日本の“ 68年”の全共闘運動については相変わらずよく知りもせずにバカにして、欧米の“ 68年の思想”から“マイノリティーの権利拡大”とか、自分のリベラルな感性にも受け入れやすい都合のいいところだけつまみ食いしつつ、実態としては日本の “68年”のノンセクト・ラジカルたちが徹底的に批判した共産党と大差ない戦後民主主義者にすぎないのが、日本のポストモダン左翼です。》

 日本のポストモダン左翼というのはよくわからないが、浅田彰や小熊英二のことだろうか。私は「九条を守れ」ということには反対である。まずこれがはっきりと共産党のスローガンだからである。共産党は政治宣伝として、大衆受けする、甘い言葉を連ねている。民主主義を守れだとか、戦争は嫌だという、誰も反対できないキレイな言葉を並べている。ところがよく考えてみると、共産党内で委員長選挙をやったということを聞いたことがない。
 新左翼の面々も運動をやめてから。護憲運動にかかわっているものがいるが、新左翼の時代には、赤軍派の「世界党―世界赤軍―世界同時革命」というスローガンに賛意を示していたはずである。それでなくても、軍(赤軍)を建設することは、あの当時の新左翼党派にとって自明のことだったはずだ。それが連合赤軍事件の結果、軍事を否定するだけでなく、護憲派になってしまったのは嘆かわしいことである。
 この本で面白いのは外山恒一の原発論である。彼によれば、共産党も福島の原発事故までは原発推進派だったということだ。進歩史観で人類の科学、生産力が進歩していくと信じていたのである。これは新左翼の運動も、水戸巌などの一部の研究者を除いて原発には無関心であった。考えてみれば 1967年ごろから原発の建設が開始されていたが、それが東京から遠い地方であったこともあって新左翼の党派にとって原発が闘争課題にはならなかった。
 外山恒一によれば原発必要論のかなめは核武装である。外山の主張は「原発反対、核武装賛成」である。彼の説明によれば、そもそも原発はアメリカにおいてプルトニウムの製造装置である原子炉として開発された。そしてそれだけのために動かすのは無駄なのでそのうえにヤカンを乗せて、それを沸騰させてその蒸気で発電にしようというものなのだった。それが何らかの過程で原子力の平和利用ということで、原発がこれだけ広まってしまったのである。現在ではその危険性や、廃炉の費用を含めてコスト的にも採算が合わないということが明確になっている。核武装派の外山恒一にとって、原発は必要である。そのために彼の主張は、国家管理の原子炉を2、3基残し、原発としての外見を保っておき核武装能力を保っておくことである。なかなかユニークな意見である。
 この本は最後で現在の運動状況についても触れている。しかし私にとって「パヨク」、「ヘサヨ」、「ドブネズミ派」というのはよくわからなかったし、あまり興味もなかった。ただそういう少数者の運動が現在もあるらしい。
 結論的に言えば、現在では右翼も左翼も、その境界はなく体制的であるか、反体制的であるか、革命的であるか、反革命的であるかというのが運動を判断する基準となるのであろう。
                     2017年11月5日

石川達三『生きている兵隊』を読んで

2017-11-05 21:57:44 | 読んだ本
           石川達三『生きている兵隊』    松山愼介
 石川達三『生きている兵隊』に気付かされたのは、田崎さんの『堀田善衞は南京事件をどう描いたか』(「異土」6号、2012年12月)であった。その評論では南京における日本軍兵士の残虐行為の部分が引用されていて、それなりに驚いた。ところが「異土」14号に『甦る火野葦平の戦争と文学』を書くにあたって、『生きている兵隊』を読み、同時代人による、その評価を読む機会があった。代表的なのは『昭和文学史』の平野謙である。ちなみに中野翠の『あのころ、早稲田で』(文藝春秋 2017)によれば、平野謙は1966年頃、早稲田大での講義にこの『昭和文学史』を使っていたそうだ。平野謙の評価は冷静である。《ただ「生きてゐる兵隊」はその筆力旺盛の裏に一種の類型性を含んでいた。戦場の残酷がいわば常識的な残酷として、制作以前に前提されている趣きがあった。この程度の残酷が戦争につきものであるのは知れきったことだ、とともすれば簡単に割りきりたがるこの作者の「逞ましさ」を、ここから抽きだしたとしても、あながちに牽強附会の説ではないのである》と書き、《一種の戦争風俗小説以上にぬけでることができなかった》とした。
 有名になった、従軍僧がショベルで敵敗残兵の頭を叩き割ってシーンは衝撃的だったが、平野謙だけでなく中野好夫も『筑摩現代文学大系 石川達三』の「解説」で《それらとて別に特定の意図をもって日本軍隊の残虐性を暴露しようというのではなかった。おそらくただ見たか聞いたかした事実を、そのまま書いただけにすぎまい》と、書いている。
 また一方で、戦後すぐこの作品を筐底(きょうてい)から取り出して、伏字部分を復元して石川達三が発行したことについても小田切秀雄の批判があった。《石川達三が「生きてゐる兵隊」をこんにち再刊することで自分がもとから民主主義者だつたやうな顔をするあのむきつけなあつかましさを、たとえむきつけでない形でも自身がつゆ持つていないと斷言できるか》というものであった。
 今回、第一回芥川賞受賞の『蒼氓』を参考作品として読んでみた。石川達三は昭和5年に「国民持論社」を一旦、退職しその退職金600円をもらいブラジルへ渡航している。サン・パウロから汽車で15時間の奥地と、サン・パウロ市に一カ月ずつ滞在した後、結婚のためということで帰国し、「国民持論社」に戻っている。永住するつもりだったかどうかは不明だが、農業移民として渡航している。『蒼氓』に書かれているように、農業移民としての渡航ならば、旅費、道中の食費は日本政府持ちであった。中野好夫は『生きている兵隊』は《一読してわかるように、これは、「蒼氓」における移民という集団のかわりに、ある小部隊の軍隊という集団群像をおきかえた作品にすぎない。方法もほぼ同じなら、作者の意図もそう変わりなかったに相違ない。皇軍賛美の作品でないことはいうまでもないが、さればとて何かある特定のイデオロギーに裏づけされた暴露ものでもない》、《要するに一貫しているものは、直接石川の眼に映った戦う兵隊の真実の姿であったに相違なく、その点「蒼氓」で移民の姿を描いた作者の眼と少しも変りはない》。
 ところが、『生きている兵隊』は軍の忌諱にふれ発禁になったことで、戦後、作者の意図を越えて反軍小説ということで争って読まれることになったが、石川達三はただ事実を事実として書いたのであろう。そうすれば、この作品をどう読むかで、我々の戦争認識が試されるのではないだろうか。久保田正文によれば「生きている兵隊」とは《死を目前にひかえて生き残っている兵隊》という意味と、《真実の人間らしき兵隊》という意味を石川達三は込めているということだ。
石川達三は小田切秀雄の批判があるように、同時代の作家にはあまりよく見られていないようだ。『生きている兵隊』の後、すすんで従軍し『武漢作戦』など、やや当局におもねった作品を書いているからかもしれない。巖谷大四は『生きている兵隊』の載った「中央公論」を発売当日に買って読みむさぼり読んだという。ただ、石川達三は《なんとなくすれすれの抵抗をしたくなるところがあるらしい》と書いた後、河上徹太郎の「ああ、あいつは、交番のうしろでしょうべんをするような奴だよ」という発言を紹介している。

 最近、ナチスのホロコーストの映画をよく見ている。例えば、『サウルの息子』、『顔のないヒトラーたち』、『アウシュビッツ行最終列車』とかである。『バンド・オブ・ブラザース5』に収録されている、「第9話」のユダヤ人収容所の描写は衝撃的である。この『バンド・オブ・ブラザース』という作品は河原理(みち)子の『フランクル『夜と霧』への旅』で知った。石川達三に関する『戦争と検閲』(岩波新書)を書いた朝日新聞編集委員である。ある意味、ドイツは戦争責任を自死したヒトラーに負わせ、ナチスを「絶対悪」とした。そのため、ハンナ・アーレントの仕事や、最近のBSドキュメンタリー『アイヒマン・ショック』などはあるが、何故、ホロコーストがあったのかについては、追求することが避けられているようである。ドイツはホロコーストについては人類に謝罪したが、戦争責任について謝罪したのだろうか?
 複雑なのは日本の天皇制である。昭和天皇が戦争責任をとって「死」という形をとっていたなら問題はもう少し簡単だっただろう。日本の戦争責任は「憲法9条」で果たされたのだろうか?
 幣原喜重郎がマッカーサーに「戦争放棄」を申し入れたということであるが、幣原内閣の松本烝治の新憲法案はGHQに一蹴されるものであった。この「戦争放棄」を含む新憲法も天皇制の維持と抱き合わせであったという。日本国民もあれだけの戦争をし、多くの死者、被害を出したにもかかわらず、戦後の昭和天皇の地方行幸を熱狂して迎えた。火野葦平も天皇の戦争責任については否定している。皇国史観によると、明治、大正、昭和天皇は一身に祭祀の長としての天皇と、軍の最高指揮官の大元帥とを担ったという。敗戦によって、大元帥は否定されたが、祭祀の長としての天皇の身分には全く変わりがなかった。
 韓国は「慰安婦」問題にこだわっているが、日本がアメリカに原爆投下について謝罪を求めたということは聞いたことがない。田中真澄『小津安二郎と戦争』によれば、南京事件の後に慰安所ができたらしいが、小津安二郎の部隊の近くの慰安所には《朝鮮人三名中国人十二名》がいたということである。安倍政権と朴槿恵政権との間に慰安婦問題の合意ができたが、政権が変わって、この合意を見直すという。この合意の結果「和解と癒し財団」ができ、元慰安婦46人のうち29人が一億ウォンの受け取りを表明したという。受け取らない人は安倍首相が謝罪の手紙を書くことを拒否したかららしい。ただ政権交代の結果この財団の理事長は辞任している。
 中国のネットには、日本の戦争責任について「私たちがすべきは、恨みを記憶することではなく、なぜ侮辱されたのか反省することだ」という書き込みがあるという。それにならえば、我々、日本人もただ中国への戦争、韓国への植民地支配について謝罪するのではなく、日本がなぜあの戦争に突き進んでいったのかを解明することではないだろうか? この問題については加藤典洋の『敗戦後論』の問題提起を受け継いだ伊東祐吏の『丸山眞男の敗北』、『戦後論 日本人に戦争をしたという「当事者意識」はあるのか』が参考になる。
                            2017年8月12日