遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

松山愼介『「昭和」に挑んだ文学』(不知火書房)

2022-05-14 00:42:56 | お知らせ
 松山愼介『「昭和」に挑んだ文学』(不知火書房)が発刊されました。
 「昭和」は戦争と検閲の時代でした。この波に、翻弄され、闘った三人の文学者がいました。
 横光利一、江藤淳、火野葦平です。
 彼らの闘いと文学を論じました。是非、書店で手に取ってください。
          2022年5月

梅崎春生『狂い凧』を読んで

2022-05-14 00:00:49 | 読んだ本
         梅崎春生『狂い凧』          松山愼介
 梅崎春生の父は陸軍士官学校出の歩兵少佐で、昭和十三年に脳溢血により五十八歳で死亡している。長男の光生は陸軍中尉としてフィリピンへ行き、ルソン島で捕虜となり、昭和二十一年帰国した。三男の忠生は中国で戦死(後、睡眠薬自殺と判明)、春生(次男)は昭和十七年、召集を受けるが気管支カタルを肺疾患と誤診され即日帰郷、十九年、再度召集され佐世保海兵団に入隊、暗号特技兵となる。弟(四男)の栄幸は高専にいっていた。春生は内田百閒に傾倒していた。春生は敗戦の日から十日ほどで帰郷、母の前で正座し、両手をつき、「戦争に負けて、申し訳ありません」と頭を下げた。
『狂い凧』は次男・栄介が語る、双子の弟・城介の物語である。栄介と春生、白介と忠生が対応している。『狂い凧』では、長男・竜介は赤化して捕まり、監獄で肺病を悪化させて死んだことになっている。
 城介の死は、城介の戦友・加納から聞いた話という体裁をとっている。城介は昭和十七年八月十七日に病死している。中田という部隊長から「内地帰還を旬日に控えて、矢木城介は急に病死した。我々も残念に思うし、肉親の方々には気の毒に思う」という手紙が来たのだった。また、終戦から五年ほどしてから、戦友・加納からハガキが来た。返事を出すと、蒙古地区の厚和(綏遠)という所で写した〈故陸軍衛生曹長矢木城介之墓〉という木の墓標の写真と、睡眠薬による自殺という文面の手紙が送られて来た。曹長は召集兵がなれる最高の地位・下士官である。
 矢木栄介は大学の講師だが、夫人は美容院を経営しているので生活には余裕がある。栄介はある日、バスの階段からズリ落ちて腰を痛めて伏せっている。見舞いに「私」が行くと、栄介は今、自分は動けないから加納を探して欲しいと頼まれる。新聞社へ行って、尋ね人欄に掲載してもらいたいという、勤めている大学の関係で栄介の名前は出したくないので「私」の名前で出して欲しいということだった。
 加納は養子になっていて姓がかわっていたが、三カ月後に返事がきた。加納は釣船の船宿を経営していて、客が置いていった古新聞で、偶然、尋ね人欄を見たということだった。
 加納によると、城介は中国奥地の乾燥した気候のため喘息の発作をおこすようになり、それを抑えるためにパビナールを射ち、中毒になったとのことであった。パビナールやモルヒネは麻薬の一種でケシから作られる。日本軍が満州で組織的に、大杉栄虐殺に関与した甘粕らによって組織的に栽培されていたことは周知の事実である。城介の自殺はベロナールという睡眠薬によるものだった。この自殺の原因はよくわからない。戦争という状況下では何が起こっても不思議はないが。
 終戦時に日本陸軍は中国大陸に百五十万人の兵隊がいたという、確か犠牲者も五十万人くらい出しているはずである。更に内地には総動員すれば百万人くらいの兵力があったのではないか。そうだとすれば、陸軍の一部が鈴木貫太郎による、昭和天皇の「聖断」という形でポツダム宣言を受諾したことに対して、畑中少佐らが玉音盤の奪取によるクーデターを策略しても不思議はない。
黒木和雄の映画『美しい夏キリシマ』で、宮崎にアメリカ軍の上陸に備えて兵を訓練しているシーンがあった。日本軍は宮崎又は、房総に十月頃、アメリカ軍の上陸作戦があると考えていた。
 鹿児島県の知覧は陸軍の特攻隊が出撃した基地であるが、海軍は鹿屋に基地があった。そこからも海軍の特攻機が出撃したようである。大岡昇平と同じ年生まれの私の父は、幸い海軍に召集され鹿屋基地にいた。普通、召集は陸軍になるらしいが、梅崎春生も陸軍が肺疾患と誤診され召集解除となった後、海軍に暗号手として召集されている。私の父も、もし陸軍に召集されていたら南方送りとなり、私が生まれていたか微妙である。
                             2022年4月9日

古井由吉『仮往生伝試文』を読んで

2022-05-13 23:58:44 | 読んだ本
      古井由吉『仮往生伝試文』         松山愼介
 古井由吉が『仮往生伝試文』を書いたのは、一九八六(昭和六十一)年からであり、四十九歳の時である。「仮往生」とは、生きている間に往生することを意識することであろうが、五十歳前後に死を意識するのは少し早すぎる気がする。確か、以前、テレビに古井由吉が出ていて、ドイツをキリストの磔刑像を見ながら縦断するという話をしていたのを見たことがある。日本でも随分、仏像に関心があったようである。
 古井由吉の『半自叙伝』を読んでいると、子供の頃に戦災にあい、その頃から、死を意識せざるを得なかったようである。三月十日未明の本所深川の大空襲は、敵機の爆音と赤く焼けた空を不気味に眺めただけだったが、下町の惨状が伝わってくるにつれ、空襲というものに対する観念が一変したという。この時、古井由吉は八歳前だったが、空襲で死ぬということは、なぶり殺しに近いものと実感することになる。
 実際に古井由吉の東京郊外の自宅が焼かれたのは、五月二十四日未明で恐怖、屈辱、羞恥を感じながら「敗走」したという。その後、大垣の父の実家を頼るが、そこも七月末に焼かれ、それを見ながら慄え地獄図を見たような気持ちになる。それから母の実家の美濃町に落ち着き敗戦をむかえ、十月に迎えに来た父親と東京に戻っている。この戦災の中での生死をさまよった体験が古井由吉の文学の根底にあるのだろう。 
『仮往生伝試文』は、平安末期から鎌倉初期に書かれた、『今昔物語』、『宇治拾遺物語』、『明月記』などを読みながら、その当時の死生観と現実の自分を交差させながら書かれている。仏教では一〇五二年から末法の世になると伝えられていた。比叡山横川の恵心院に隠遁していた源信が、九百八十五年に、浄土教の観点から『往生要集』をあらわしている。
『宇治拾遺物語』の多武峰の増賀上人の往生の話から始まる。上人は往生の間際に、囲碁を十目ほど置き、泥障を頸にかけさせ苦しいのをこらえて、ヨタヨタ踊ったという。これを、古井由吉は単に死の間際にやり残したことをやりたくてやったとまで考えなくも、今まで忘れていたことを、ふと思い出してやっただけのことであって他意はないと考える。
 他にも面白い逸話が紹介され、古井由吉はそれに自分の考えを重ねていく。ある僧は、阿弥陀仏からの手紙を自分で書いて大晦日の後夜に小僧に届けさせたという。それを毎年、繰り返すうちに小僧のほうが、位があがってしまったりする。この僧はいつしか戸を叩く音に這い出てそこで死んでしまう。それこそ往生ではないか。
 上町台地には藤原家隆の夕陽庵跡がある。織田作之助の関連で口縄坂に行ったときに、その史跡を見たのだが、昔の人の死生観が偲ばれた。極楽往生を願った、ある貴族は死の間際に、菩薩像と手を細い布で繋いで死んでいったという。
 末法の世とされた時代には、人々はとにかく極楽往生したかったに違いない。現代の我々はそもそも極楽そのものを信じてないのであるが。
 古井由吉の結論は、「何事かを境に、物が喉を通らなくなり、日に日に痩せおとろえて、寝ついてほどなく臨終に至る。これが人にとって、もっともなだらかな、どうにか折り合える、仕舞いの運びではないか」というものである。
 このような往生に関する物語に終止符を打ったのは親鸞だろうか? 親鸞は周知の通り絶対他力で、一言「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽往生できるとするものである。吉本隆明は『最後の親鸞』で、「正定聚」について述べている。「至心に信楽して、念仏を称えるという状態にはいったとき、弥陀の摂取不捨の願力の圏内にはいる」。この考えをすすめれば、生きている間に極楽往生できる地位へ横超できることになる。つまり生きている間に極楽往生が保証されることになる。王が浄土であるとすれば、「正定聚」は皇太子に比肩されるとした。
 古井由吉の『仮往生伝試文』は読みにくいが、一度、作品世界に入ることができれば、取り上げられた極楽往生に関する物語を味わうことができるだろう。
                              2022年3月12日

藤沢周『ブエノスアイレス午前零時』を読んで

2022-05-13 23:54:34 | 読んだ本
   藤沢周『ブエノスアイレス午前零時』      松山愼介
 カザマは、日本橋にある広告代理店で働いていたが、東京から故郷にユーターンして新潟と福島の県境にある、みのやホテルで働いている。実家は豆腐屋だがそれを継ぐ気はない。本文中に五泉市という言葉が出てくる。私が学生の頃、姉の夫がここに転勤になっていて、北海道から帰省する時、回り道をして五泉市に寄ったことがある。雪を被った山々が近くに見える風光明媚なところだった。
 カザマはホテルで温泉卵を作っているので、身体に硫黄の臭いが染みついている。スキー客は十キロ先の旅館に泊まる。このホテルには百十坪のコンベンションホールがある。それがこのホテルの唯一のうりで、モダンダンスを都会から踊りにくる団体客が頼りである。
 この日も神奈川からのサルビア・ダンス会がやってくる。五十人の団体だが、年配の人が多い。その中に網膜症でほとんど眼が見えない、サワタリミツコが妹に連れられてやって来る。彼女は本牧の港の専属のパンパンであったとか、眼が悪いのも梅毒のせいではないかと、噂されている。少し認知性の傾向もある。
 地名か、人名かわからないが、サン・ニコラスに「送金が遅れる」という電報を打ちたいというが、どうも過去の妄想のようである。
 カザマは踊り手が足りない時は、ダンスの相手もするのが仕事のうちらしい。物語はカザマとミツコを中心に展開する。所在なげに座っているミツコを、カザマはダンスに誘う。ミツコは「遠くから見ると、気が触れた人形作家が作った、老女の西洋人形のようにも見えた」。ダンスはタンゴである。若いときのミツコは、かなりの踊り手だったようであるが、年齢、眼のこともあり、テンポを遅らせて踊る。カザマはウォークとターンの組み合わせだけでリードしようとする。
 カザマとの会話のなかで、ミツコは本牧での、アルジェンチーナとの思い出を語る。眼が見えない状態で踊ると、真っ暗ではなく青く見えるという。ミッドナイトブルーである。ブエノスアイレスの人のことをポルテーニョといい、その親しかった男の話をする。その男は本牧のカフェから埠頭の明かりを見ると、ローチャの夜の話をする。それがミッドナイトブルーである。
 藤沢周はテレビにも出ていたので、顔はよく知っている。この作品はアストラル・ピアソラの曲『ブエノスアイレス午前零時』から着想を得たらしい。この芥川賞受賞作は、当時、読んだ覚えがあるが、内容は全く記憶していなかった。その後、彼の小説は話題に登らないので、大学教授に収まって執筆活動をしていないのかと思ったが、図書館で検索すると、コンスタントに作品を発表している。この作品ついて触れた藤沢自身の文章がある。

 確かに、文章のあちこちで噴出していた暴力や狂気が以前よりは影を潜め、パラグラフに奇妙な果実がぶら下がっているような歪つなディーテイルも少なくなった。もはや若さなるものが失せて、いよいよ中年へと傾き始めたのだろうか、とも思う。/それもまた良しではあるが、実際にはさらに毒やら狂気やら救いのない事実という奴を抱え込んで、暴発の鼓動のようなものを押さえているというのが本当のところだ。それをじっと抱いたたままいられる自分を発見したのは、個人的な意味で大きいと思っている。

 小説の方法について書いているのだが、カザマの心の内を語っているようでもある。狂気を抱え込んで、その暴発を抑え込んでいるというところである。この藤沢独特の感覚が評価されたのであろう。他に少し短編等を読んだが、古典や武道にも造詣が深かそうで、なかなか興味深い作品も多かった。
                           2022年1月8日

堀田善衞『時間』を読んで

2022-05-13 23:51:33 | 読んだ本
       堀田善衞『時間』             松山愼介
 この作品を語るには、日中戦争についての最低限の知識が必要である。満洲事変以来、北支は陸軍、上海周辺は海軍の管轄になっていた。陸軍は主に鉄道を使用するためであり、海軍は楊子江、上海では揚子江に繋がる黄浦江を移動するからである。
 蘆溝橋事件に端を発する支那事変は、最初に銃撃を発したのかは、どちらかわかっていないが、中国側の方のようである(共産党軍という説もある)。どちらにしても現地では両軍とも不拡大方針で一致していた。ところが、この戦線が上海に飛火する。これは国民党軍が上海で戦争を起こすことによって、英米仏の介入を期待したからである。
 中国は広大な土地であり、辛亥革命後も、北部は軍閥が割拠していた。蒋介石が北伐を始め、統一をはかるが、軍閥、共産党との関係もあってすぐには達成できるものではなかった。そこに日本が介入してきたのである。蒋介石は国民党軍だけでは、日本軍に勝てないと考え、英米軍の介入を期待し、上海で戦端をひらいたのである。この第二次上海事変では、国民党軍は後方の部隊をいれると数十万人規模であり、日本軍は海軍特別陸戦隊の二千数百名に加え、増派された部隊を入れても四千名程度であった。上海には欧米の租界があったので、国民党軍も英米仏に配慮しながらの戦闘であった。海軍陸戦隊は多大の犠牲を出しながらも重火器で応戦したため、国民党軍も一気に日本軍を追い落とすことができなかった。
 日本は急遽、国内から陸軍の二個師団を上海北方に、また北支から一個師団を上陸させたが、待ち受けていた国民党軍の激しい抵抗にあった。続いて三個師団が上海南方の杭州湾にさしたる抵抗もなく上陸に成功した。この杭州湾派遣部隊に火野葦平がいた。日本軍が「日軍百万上陸杭州北岸」(実際は十万)というアドバルーンを上海市内に掲げたため、上海を包囲していた国民党軍は退路を断たれるのを恐れ、一気に崩れ南京方面に撤退していった。
 日本は松井石根大将を指揮官とする中支那方面軍を編成し、傘下の部隊は一斉に南京をめざした。当時、南京は中国の首都であり、ここを攻略し、国民党軍を撃滅できれば日中戦争を終結に持ち込めると考えたのであろう。上海から南京は約三百キロ、東京から名古屋くらいの距離がある。日本軍には十分な自動車(トラック)がなく、補給は馬が引く大八車であった。つまり、第一次世界大戦を経験しなかった日本軍は日露戦争の装備で戦っていたのである。
 このため、南京を目指す日本軍部隊に補給が追いつくわけもなく、兵士は四十キロ(?)の装備を担いで、三百キロを行軍し、南京戦に挑まざるを得なかった。蒋介石軍は日本軍に食糧を与えないため、また守備の観点から南京近郊を焼き払った。蒋介石は南京死守を命じながらも早くに脱出し、総司令官の唐生智も前日に南京から脱出し、国民党軍は指揮系統が崩れ、混乱の極にあった。
 極端にいえば、飲まず食わずで、日本軍兵士は南京戦を戦い、このような状態の南京に入城したのである。脱出する蒋介石軍も、民家から掠奪し、入城した日本軍兵士も食糧を求めて掠奪したのだろう。悪いのは日本軍兵士ではなく、広大な中国を手に入れるとことができると考えた日本国家であり、「蒋介石を対手とせず」と嘘ぶいた近衛文麿及び、戦争指導者ではないだろうか。
 南京事件の犠牲者は、中国は当初二十万人としていたが、現在では三十万人としている。ジョン・ラーベは五、六万人、秦郁彦は三万八千から四万二千人と推定し、笠原十九司は十数万から二十万人としている。日本軍は事変であったせいもあって、捕虜の扱いについても徹底されていなかった。そのため、自分たちの食糧もないため、捕虜を殺してしまった。これは明確な戦時国際法違反であった。
 この南京事件を題材にして、堀田善衞は中国人を主人公としてこの作品をえがいた。辺見庸は「げんみつには中国人の目でみた日本人ではなく、作家が作中の〈わたし〉=陳英諦に仮託してかたらせたニッポンジンの姿なのである」として、日本兵を「〈中国人はどうみたか〉という視点からえがき、大惨劇を織りこんだ滔々たる時間を対象化しようとしたのだった」(137・イクミナ)と書いている。
 平野謙が石川達三の『生きてゐる兵隊』を戦争小説のパターンから抜け出せていないと、批判したように、堀田善衞も主人公を中国人にするという斬新な視点を取りながらも、衝撃的な南京事件をジャーナリスティックな枠を越えてえがくことはできなかったのではないだろうか。
                        2021年12月11日