遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

有島武郎『或る女』を読んで

2020-01-21 20:14:22 | 読んだ本
  有島武郎『或る女』           松山愼介
 よく考えれば有島武郎は、札幌農学校の出身で、一応、私の先輩ということになり、札幌農学校校歌「永遠の幸」の作詞者だった。彼が二十二歳、一九〇〇年頃の頃ということだ。「豊平の川 尽せぬ流れ 友たれ永く友たれ」という歌詞の一部は覚えている。 ちなみに、石狩川は札幌市を流れていず、札幌市の南側に豊平川がある。北大は札幌駅の北側にあるので、南にある豊平川はあまり縁がない。有名な「都ぞ弥生」は恵迪寮寮歌である。
 有島武郎には関心があったが、通読した作品はない。俳優の森雅之が彼の息子であるということも初めて知った。白樺派の空想的社会主義のながれで、狩太村の有島農場を開放するが、土地が抵当に入っていて、農民は借金返済に長期間かかったという。
『或る女』だが、前半はいくらか冗長なところが多く読みにくかった。残り三分の一くらいの、葉子と倉地との愛の破綻や、妹の貞世が腸チフスにかかって入院するところから、話が面白くなる。貞世を看病しつつ、葉子も子宮の手術をすることになり生死の境をさまようことになる。
 前半の冗長さが解消されて、テンポよく話が展開するのだが、貞世の回復、葉子の生死はどうなるのかと、やきもきしながら読み進めるのだが、そこが明らかにされないまま、突如という感じで物語は終わってしまう。私としては、貞世は回復し、葉子も持ち直して退院して新たな生活を始めると思いたい。葉子の性に対する奔放さや、倉地との性描写はこの時期の作品としては相当、画期的だったと思える。ただ、葉子が退院したとしても、葉子たち三姉妹の生活は男に頼らざるを得ないようである。倉地は「軍事上の秘密を外国に漏らす商売に関係」し行方不明、木村はアメリカでの商売が壁にぶつかっているようなので、頼るのは岡、古藤あたりのなるのだろうか。この作品の展開からは葉子が看護婦などをして働くとは考えにくい。
 後半の展開で気になるのは、葉子の精神状態の異常さである。あまりにも被害妄想が嵩じて、妹を殺そうとしたり、看病に来てくれている男につかみかかったりしている。

 貞世の眠るのと共に、何とも云えない不気味な死の脅かしが卒然として葉子を襲った。部屋の中にはそこら中に死の影が満ち満ちていた。眼の前の氷水を入れたコップ一つも次の瞬間にはひとりでに倒れて壊れてしまいそうに見えた。物の影になって薄暗い部分は見る見る部屋じゅうに拡がって、総てを冷たく暗く包み終るかとも疑われた。死の影は最も濃く貞世の眼と口の周りに集まっていた。そこには死が蛆のようににょろにょろと蠢いているのが見えた。それよりも……それよりもその影はそろそろと葉子を目がけて四方の壁から集まり近づこうと犇めいているのだ。葉子は殆んどその死の姿を見るように思った。

 この部分になると、被害妄想が嵩じているだけでなく、幻視を見ている。色川武大の小説の壁から猿が出てくる場面を連想させる。『婦人公論』記者波多野秋子と、この作品の完成の四年後、心中することになるのだが、この作品での葉子の精神状態が有島武郎の精神の不安の反映ではなかっただろうか。
 ともあれ、明治期の自我に目覚めた女性像として葉子を造形したことは評価されるべきだろう。この作品はモデル小説ということで、古藤が有島武郎とされているが、そのあたりはあまり良くわからなかった。
 なお、柄谷行人と結婚していて、早逝した冥王まさこに未読だが『ある女のグリンプス』という作品がある。
                     2019年6月8日

大原富枝『アブラハムの幕舎』を読んで

2020-01-21 20:10:52 | 小説
          大原富枝『アブラハムの幕舎』           松山愼介
 高知県にある大原富枝の顕彰碑には、「―わたしはこの作者こそ『1人居て喜はば2人と思うべし。2人居て喜はば3人と思うべし。その1人は』わたしです、と言える人ではないかと思った」という吉本隆明による碑文が刻まれており、作品を通して富枝の人間性を見極めている。遺言により吉本隆明の著書『最後の親鸞』と共に富枝はここに眠っているという。大原富枝と吉本隆明の交流は、富枝の著書『アブラハムの幕舎』を機に深まった。富枝が唯一信頼したのが吉本隆明。吉本が作家として高く評価したのが富枝である。遺言により吉本の著書『最後の親鸞』と共に富枝はここに眠っているという。吉本隆明が大原富枝の碑文を書くほど評価していたとは全く知らなかった。あるいは、クリスチャンの大原富枝が吉本隆明に依頼していたのか。
『1人居て喜はば2人と思うべし。2人居て喜はば3人と思うべし。その1人は』わたしです、というのは、親鸞の言葉だそうだ。
「私の寿命もいよいよ尽きることとなった。阿弥陀仏に救い摂られている私は、臨終と同時に弥陀の浄土に往生させていただくが、和歌山の片男波海岸の波が、寄せては返し、寄せては返すように、親鸞も一度は浄土に往生するが、すぐこの娑婆世界に戻ってきて、苦しむ人々に弥陀の本願、お伝えするぞ。だから一人で仏法を喜んでいる人は、二人だと思ってもらいたい。二人で仏縁を喜ぶ人あれば、三人だと思ってもらいたい。そのもう一人とは親鸞だ。私が死んでも仏法は永久に尽きることがない。苦しみ、悩む衆生がいる限り仏法は永遠に尽きない」
 つまり、吉本の碑文が言いたいことは、大原富枝は親鸞のような人だったということだろう。吉本の『大衆としての現在』では、「‶イエスの方舟〟と女性たち」という章があり、千石イエスの「方法の中心は何かっていうとね、受動性ってことです。集団の組み方が、来るんなら来てもいい、もちろん出ていってもいい、つまり、おもしろくなくなったら離れていいっていう受け身ですね」、「僕のわりに好きな思想家の親鸞と似てて、親鸞っていうのはやはり受動性ですね」、「親鸞になると、人は煩悩具足の凡夫にすぎないんだからって、まったく強制しないし、念仏を信じられようがられまいが、面々のおはからいだというふうにいいますし、僕はわりと好きなんです」と、述べている。
 芹沢俊介の『「イエスの方舟」論』によれば、「イエスの方舟」は昭和五十三年四月から約二年間にわたって逃避行を行うが、その資金は二十年間かかって貯めた一千万円と、信者が家を売った千五百万円の二千五百万円だった。一行は総勢二十六人(若い女性十一名、中年婦人八名、中年男性四名、青年一名、子ども二人)である。移動にはキャンピングカーを使ったということだ。最終的には彼女らはテレビのワイドショーに登場した。結果、「イエスの方舟」は千石剛賢という聖書の読み手のもとに救いを求める若い女性が集まったということで、マスコミが期待した淫祠邪教ではなかった。
 大原富枝が「ただここには学問のある者や、有能な人間や、社会的地位のある者はおりません。そういうものを何一つ持っていない者たちだけが集まっているのです。いわば信仰の落ちこぼれが集まってくるのです」と書いているのを受けて、芹沢俊介は「イエスの方舟の女性たちが落ちこぼれであるということは、彼女らが社会や家庭で女性であることが不可能な状態をさしている。女性であることが不可能であると感じているのに、女性であることを強いられた、それゆえ彼女たちは社会や家庭を離脱しようとしたのである」と書いている。
 祖母を殺して自殺した少年、イエスの方舟を訪れたが救われず自殺した婦人というのは実話だということだ。ただ、田沢衿子がアブラハムの幕舎の信者となって、物語が展開していくのかと思ったら、久万葉子だけがアブラハムの幕舎へ行き、衿子は一人、「負の世界」で生きる決意をするのだが、偶然「グループ・風」の中で生きることになる。ここの展開はうまくいきすぎると感じた。榊原が絵を買うのも出来すぎている。関志奈子と名乗って生きるのも大変だろう。住民票がなくては働くこともできない。作者が衿子を「負の世界」で生きさせようとする意図はわかるがあまり現実感がない。
 小川国夫に『エリコへの道』という作品があるので、衿子は「死海から続く地溝帯、ヨルダン大峡谷帯にあるエリコ」から取っているのかと思う。
                     2019年5月11日

梅崎春生『ボロ家の春秋』を読んで

2020-01-21 20:05:05 | 読んだ本
     梅崎春生『ボロ家の春秋』             松山愼介
 梅崎春生の父は陸軍士官学校出の歩兵少佐で、昭和十三年に脳溢血により五十八歳で死亡している。長男の光生は陸軍中尉としてフィリピンへ行き、ルソン島で捕虜となり、昭和二十一年帰国した。三男の忠生は中国で戦死(後、睡眠薬自殺と判明)、春生(次男)は昭和十七年、召集を受けるが気管支カタルを肺疾患と誤診され即日帰郷、十九年、再度召集され佐世保海兵団に入隊、暗号特技兵となる。弟(四男)の栄幸は高専にいっていた。春生は内田百閒に傾倒していた。
 春生は敗戦の日から十日ほどで帰郷、母の前で正座し、両手をつき、「戦争に負けて、申し訳ありません」と頭を下げた。その後、五男の勤めていた大学の研究室から持ち出してきたエチルアルコールを飲むようになった。「山の中で無為な日々を送りながら、兄は海軍で見たり聞いたり経験したことを、静かに分留し、熟成させようとしているのではないかと思わせた。やがてバッテリーに充電させたような表情をして東京に出かけて行った」(『現代の文学』月報 梅崎栄幸)。
『ボロ家の春秋』だけを読むと、カフカ的な不条理小説のようにも、単なるユーモア小説のようにも感じられる。しかし、梅崎春生の経歴を見ると、戦争が大きな影を落としている。戦後すぐ『桜島』を書き、昭和二十二年には『日の果て』を発表、昭和四十年には『桜島』の続編とも考えられる『幻化』を書き、五十歳で亡くなっている。『ボロ家の春秋』を理解するには、最低、この三冊を読んでおいた方がいいだろう。
『桜島』は自身の体験である。この作品の舞台は坊津である。坊津は遣唐使が船出をしたところであり、鑑真和上が上陸した地でもある。江戸時代には薩摩の琉球支配の拠点であり、密貿易もおこなっていたらしい。『日の果て』はフィリピンへ送られた兄の戦場体験に仮託したのか、ルソン島が舞台になっている。私は、この作品で初めて意識的に戦線を離脱する兵士の物語を読んだ。『幻化』は精神病院から逃げ出した主人公が、かつて兵隊の体験をした鹿児島を訪れる物語である。いずれも梅崎春生の戦争体験をもとにしているが、徐々にその抽象(異化)度があがってきている。いわば戦争を茶化している。この過程にあるのが『ボロ家の春秋』と考えられる。
『ボロ家の春秋』では、家主らしい不破数馬に「僕」と野呂旅人は二重に権利を売りつけられ同居することになる。そのうえ、不破数馬に金を貸しているという陳根頑からも、代理返済を要求される。胡散臭い固定資産税の徴収員も出てくる。普通に読んでいると、不破数馬が家の権利を持っていたというのも疑問で、不破数馬が他人の家の権利を売りつけた詐欺師のようである。実際、戦後の住宅難の時代には、不動産に関する詐欺師が横行していたという話を聞いたことがある。
 最後の方でボロ家の崩壊を願っている地主が出てくるので不破数馬がこの家の権利を持っていたというのは本当だろう。不破数馬が借金の返済に困って、家の権利を、二重、三重に売った挙句の果て夜逃げしたというのが真相だと思われる。しかし、「僕」が、この不破数馬と知り合ったのは、スリに財布を盗られようとしていた不破数馬を「僕」の方から助けて、スリから財布を取り返したのである。しかし、その財布はごついだけで、ほとんどお金は入っていなかった。考えてみると、このスリも不破数馬と、ぐるだったと考えられないこともない。
 梅崎春生は『桜島』や『日の果て』のような初期の戦争小説でも、大岡昇平のような緊張感はない。読んでいて、どこか緩いのである。それは梅崎春生の戦争感なのだろう。どこかで、こんな馬鹿げた戦争は真面目にやってられないという雰囲気がある。そういう意味で後日譚になるが『幻化』は優れた戦争小説といえる。
 このような戦争感で、戦後の日常をえがいたのが『ボロ家の春秋』に収められた作品群なのだろう。日常をえがいているが、主人公にとっては「平和のうちにある戦争」だったのではないか。
 ともあれ、軍隊時代からエチルアルコールを飲み、その後も深酒をしていたというから肝硬変で亡くなったというのは納得できるが、これはある種の戦争の後遺症だったのではないか。
                          2019年4月13日

松本清張『象徴の設計』を読んで

2020-01-21 19:58:01 | 読んだ本
          松本清張『象徴の設計』        松山愼介
 初期の明治政府は徳川幕府を倒したものの、新しい国家をどのように建設していくかとう点に関しては明確なプランを持っていなかったようである。それは薩長藩閥政府の汚職という形で現われた。山県有朋が関わった山城屋事件である。山県有朋が陸軍省の公金を、同郷で親交があった陸軍御用達の商人である山城屋和助に勝手に無担保で貸し付け、その見返りに金銭的な享受を受けていたとされる事件であるが、 事件発覚後、和助は証拠書類を焼却して自害したため、詳しいことはわかっていない。和助は生糸相場に失敗したらしい。山県も陸軍大輔を辞任した。 山城屋の借り出した公金は総額約六十五万円、当時の国家歳入の一パーセントという途方もない額であった。この時、西郷隆盛が山形をかばったらしい。
 西南戦争後でも、北海道官有物払い下げ事件がある。明治十四年に薩摩の五代友厚に、北海道の官有物三千万円相当を十分の一の三十万円で、しかも三十年賦償還というタダ同然の条件で払い下げようとしたものであった。この時の開拓使長官が薩摩の黒田清隆であったが、これに大蔵卿の佐野常民が反対し、彼の背後に大隈重信がいた。大隈は国会解説の急進派だったためもあって、大隈が参議を罷免され、官有物払い下げも中止となった。この五代友厚も明治十八年に亡くなった時、仲間の面倒を見すぎて債務がたくさん残っていたという。大阪でおこなわれた葬儀には四千人以上が出席した。
 山県有朋は、長州での奇兵隊の経験から、軍は平民(農民)の徴兵制によって建設されるべきだと考え、薩摩、特に西南戦争の中心人物、桐野利秋は戊辰戦争の経験から、軍は士族で構成されるべきで、農民に戦はできないと考えていた。明治政府の最初の軍隊は各藩から、差し出された士族で構成された。西南戦争では、結局、平民の軍隊が勝利した。田原坂の戦いで、山県は援軍を待って攻撃しようとしたが、その間に西郷軍は防御陣地を固めたため政府軍は苦戦した。そのため警視隊からなる抜刀隊を投入せざるを得なかった。この抜刀隊は会津士族が先頭に立ったと思っていたが、実際は、西郷軍の城下士に対して、外城士といわれる薩摩士族で構成されていた。この抜刀隊に山県有朋は反対であったが、戦況からやむなく認めた。
 西南戦争では山県が政府軍の事実上総指揮を取った。政府軍は西郷の周辺の不穏な動きを感知すると、先手をうって熊本鎮台を強化し、船による兵力、補給を行った。西郷軍が決起してからは、電信を有効に使い、すばやく情報を収集した。また鹿児島を占領し、西郷軍の補給を断った。城山にこもった西郷に、最後通牒を書いたのも山県である。この西南戦争の経験から、山県は強固な信念に基づく日本軍の必要を考えるようになっていく。
 竹橋事件では、給料の減額と恩賞が実施されないことに不満を持った近衛砲兵が反乱を起こした。近衛兵は士族から構成されていた。この反乱を抑えた山県は、士族の乱よりも、貧民化した農民が自由民権運動と結びついて反乱を起こすことを恐れた。山県の考えは「「帝国の独立」は軍隊が支柱である。軍隊が強くなくては国家の独立は出来ない」というものであった。しかし、この作品を読んでいると、自由民権運動や、自由党の過激派の取締は徹底して密偵の活用だった。
 山県が「軍人訓誡」と「軍人勅諭」を作成し、軍の忠誠の中心に天皇を据えようとした。しかし、「象徴」、「現人神」の設計の役割は岩倉具視とされ、天皇の巡幸も岩倉の戦略とされている。戦後の昭和天皇の行幸は、この明治天皇の巡幸を踏まえたのだろうか。
 山県、伊藤、西郷らは「天皇を自分たちの力でここまで押し上げたと思っている」。「幼冲の天皇を押し上げた先輩はもとより、それを引き継いだ彼自身(山県)をはじめ、すべての人間が天皇を持つことによって今日に及んでいる。/在来の「忠義思想」は別として、誰もが天皇に感謝しなければならないのだ。頼りなかったこの天皇に象徴されるように、政府自体が薄氷を踏んで成長したようなものだった」と山県は述懐している。つまり「象徴の設計」の基礎を山県がつくり、岩倉が完成させたということになるのだろうか。
 山県が「軍人勅諭」を完成させ、軍人の忠誠の対象に神格化した天皇を持ってきたのは理解できるが、広く国民に天皇の神格化を徹底したのは明治憲法と教育勅語ではないだろうか。明治憲法は伊藤博文、井上毅が中心となって作り上げた。また「象徴」という概念は現行憲法のものであって、明治憲法にはない。それ故に、この「象徴の設計」というタイトルには疑問が残った。
                        2019年3月9日



 ダイナマイトのように点火しなくても、投擲するだけで爆発する「爆裂弾」を使った、加波山事件や秩父事件の経過を読んでいると、どうしてもピース缶爆弾や連合赤軍の戦いと二重写しになってしまった。また、山県が反政府勢力を徹底的に弾圧し、軍を強化していく過程は、ロシア革命におけるトロツキーと似ている。トロツキーも軍事人民委員として、社会革命党左派やアナキストを弾圧し、装甲列車に乗り、マフノの指揮する農民軍や白軍と戦い、赤軍を確立したのだった。
                                2019年3月9日