有島武郎『或る女』 松山愼介
よく考えれば有島武郎は、札幌農学校の出身で、一応、私の先輩ということになり、札幌農学校校歌「永遠の幸」の作詞者だった。彼が二十二歳、一九〇〇年頃の頃ということだ。「豊平の川 尽せぬ流れ 友たれ永く友たれ」という歌詞の一部は覚えている。 ちなみに、石狩川は札幌市を流れていず、札幌市の南側に豊平川がある。北大は札幌駅の北側にあるので、南にある豊平川はあまり縁がない。有名な「都ぞ弥生」は恵迪寮寮歌である。
有島武郎には関心があったが、通読した作品はない。俳優の森雅之が彼の息子であるということも初めて知った。白樺派の空想的社会主義のながれで、狩太村の有島農場を開放するが、土地が抵当に入っていて、農民は借金返済に長期間かかったという。
『或る女』だが、前半はいくらか冗長なところが多く読みにくかった。残り三分の一くらいの、葉子と倉地との愛の破綻や、妹の貞世が腸チフスにかかって入院するところから、話が面白くなる。貞世を看病しつつ、葉子も子宮の手術をすることになり生死の境をさまようことになる。
前半の冗長さが解消されて、テンポよく話が展開するのだが、貞世の回復、葉子の生死はどうなるのかと、やきもきしながら読み進めるのだが、そこが明らかにされないまま、突如という感じで物語は終わってしまう。私としては、貞世は回復し、葉子も持ち直して退院して新たな生活を始めると思いたい。葉子の性に対する奔放さや、倉地との性描写はこの時期の作品としては相当、画期的だったと思える。ただ、葉子が退院したとしても、葉子たち三姉妹の生活は男に頼らざるを得ないようである。倉地は「軍事上の秘密を外国に漏らす商売に関係」し行方不明、木村はアメリカでの商売が壁にぶつかっているようなので、頼るのは岡、古藤あたりのなるのだろうか。この作品の展開からは葉子が看護婦などをして働くとは考えにくい。
後半の展開で気になるのは、葉子の精神状態の異常さである。あまりにも被害妄想が嵩じて、妹を殺そうとしたり、看病に来てくれている男につかみかかったりしている。
貞世の眠るのと共に、何とも云えない不気味な死の脅かしが卒然として葉子を襲った。部屋の中にはそこら中に死の影が満ち満ちていた。眼の前の氷水を入れたコップ一つも次の瞬間にはひとりでに倒れて壊れてしまいそうに見えた。物の影になって薄暗い部分は見る見る部屋じゅうに拡がって、総てを冷たく暗く包み終るかとも疑われた。死の影は最も濃く貞世の眼と口の周りに集まっていた。そこには死が蛆のようににょろにょろと蠢いているのが見えた。それよりも……それよりもその影はそろそろと葉子を目がけて四方の壁から集まり近づこうと犇めいているのだ。葉子は殆んどその死の姿を見るように思った。
この部分になると、被害妄想が嵩じているだけでなく、幻視を見ている。色川武大の小説の壁から猿が出てくる場面を連想させる。『婦人公論』記者波多野秋子と、この作品の完成の四年後、心中することになるのだが、この作品での葉子の精神状態が有島武郎の精神の不安の反映ではなかっただろうか。
ともあれ、明治期の自我に目覚めた女性像として葉子を造形したことは評価されるべきだろう。この作品はモデル小説ということで、古藤が有島武郎とされているが、そのあたりはあまり良くわからなかった。
なお、柄谷行人と結婚していて、早逝した冥王まさこに未読だが『ある女のグリンプス』という作品がある。
2019年6月8日
よく考えれば有島武郎は、札幌農学校の出身で、一応、私の先輩ということになり、札幌農学校校歌「永遠の幸」の作詞者だった。彼が二十二歳、一九〇〇年頃の頃ということだ。「豊平の川 尽せぬ流れ 友たれ永く友たれ」という歌詞の一部は覚えている。 ちなみに、石狩川は札幌市を流れていず、札幌市の南側に豊平川がある。北大は札幌駅の北側にあるので、南にある豊平川はあまり縁がない。有名な「都ぞ弥生」は恵迪寮寮歌である。
有島武郎には関心があったが、通読した作品はない。俳優の森雅之が彼の息子であるということも初めて知った。白樺派の空想的社会主義のながれで、狩太村の有島農場を開放するが、土地が抵当に入っていて、農民は借金返済に長期間かかったという。
『或る女』だが、前半はいくらか冗長なところが多く読みにくかった。残り三分の一くらいの、葉子と倉地との愛の破綻や、妹の貞世が腸チフスにかかって入院するところから、話が面白くなる。貞世を看病しつつ、葉子も子宮の手術をすることになり生死の境をさまようことになる。
前半の冗長さが解消されて、テンポよく話が展開するのだが、貞世の回復、葉子の生死はどうなるのかと、やきもきしながら読み進めるのだが、そこが明らかにされないまま、突如という感じで物語は終わってしまう。私としては、貞世は回復し、葉子も持ち直して退院して新たな生活を始めると思いたい。葉子の性に対する奔放さや、倉地との性描写はこの時期の作品としては相当、画期的だったと思える。ただ、葉子が退院したとしても、葉子たち三姉妹の生活は男に頼らざるを得ないようである。倉地は「軍事上の秘密を外国に漏らす商売に関係」し行方不明、木村はアメリカでの商売が壁にぶつかっているようなので、頼るのは岡、古藤あたりのなるのだろうか。この作品の展開からは葉子が看護婦などをして働くとは考えにくい。
後半の展開で気になるのは、葉子の精神状態の異常さである。あまりにも被害妄想が嵩じて、妹を殺そうとしたり、看病に来てくれている男につかみかかったりしている。
貞世の眠るのと共に、何とも云えない不気味な死の脅かしが卒然として葉子を襲った。部屋の中にはそこら中に死の影が満ち満ちていた。眼の前の氷水を入れたコップ一つも次の瞬間にはひとりでに倒れて壊れてしまいそうに見えた。物の影になって薄暗い部分は見る見る部屋じゅうに拡がって、総てを冷たく暗く包み終るかとも疑われた。死の影は最も濃く貞世の眼と口の周りに集まっていた。そこには死が蛆のようににょろにょろと蠢いているのが見えた。それよりも……それよりもその影はそろそろと葉子を目がけて四方の壁から集まり近づこうと犇めいているのだ。葉子は殆んどその死の姿を見るように思った。
この部分になると、被害妄想が嵩じているだけでなく、幻視を見ている。色川武大の小説の壁から猿が出てくる場面を連想させる。『婦人公論』記者波多野秋子と、この作品の完成の四年後、心中することになるのだが、この作品での葉子の精神状態が有島武郎の精神の不安の反映ではなかっただろうか。
ともあれ、明治期の自我に目覚めた女性像として葉子を造形したことは評価されるべきだろう。この作品はモデル小説ということで、古藤が有島武郎とされているが、そのあたりはあまり良くわからなかった。
なお、柄谷行人と結婚していて、早逝した冥王まさこに未読だが『ある女のグリンプス』という作品がある。
2019年6月8日