遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

庄野潤三『夕べの雲』を読んで

2015-12-17 22:01:29 | 読んだ本
         庄野潤三『夕べの雲』          松山愼介
 庄野潤三の名は「第三の新人」としてはよく知っていたが、作品は読んだことがなかった。「第三の新人」には、島尾敏雄、庄野潤三、吉行淳之介、遠藤周作、安岡章太郎、小島信夫、三浦朱門らが挙げられる。第一次戦後派が、マルクス主義の洗礼をくぐって、戦争を冷ややかに見ていたのに対して、「第三の新人」は戦争を批判的に見る機会もなく戦後を迎えた。そのため、彼らは社会よりも、家庭、個人をテーマにしたといわれている。今回のテキスト『夕べの雲』も家庭小説のごとくである。
 庄野潤三は大正十年生まれで昭和二十一年に結婚し、二十二年に長女、二十六年に長男、三十一年に次男が生まれている。私は二十四年に生まれているので、世代的には庄野家、大浦家の家族であっても不思議ではない。読んでいて懐かしい場面がたくさんあった。例えば「山芋」の章である。私も母が山芋を摺るのを手伝って、すり鉢を抑えていたことがある。摺るのに結構時間がかかり、その上に出し汁を入れた覚えがある。子供にはおいしいものではなかったが。私が小学校の頃、住んでいた家の近くには田圃や畑があった。林もあった。その細い道には蛇がいたこともある。シマ蛇と呼んでいて、ガキ大将が尻尾を持って地面に叩きつけ殺したことがあった。トンボもまだ町中に銀ヤンマ、オニヤンマなどが飛んで来ていた。「ムカデ」の章にあるように、紐の両端に小石を括りつけ、それを空に投げあげてトンボを取ろうと試みたこともあった。これを「ぶり」というらしいが、トンボが取れたためしはなかった。
 このように私には懐かしい場面があった作品であったが、もう少し詳しく庄野潤三を知ろうと思って『プールサイド小景』、『静物』を読んでみた。『プールサイド小景』は会社の金を使い込んで会社を馘首になったサラリーマンの家庭の話である。夫が失業して家にいることになり、夫婦の会話がうまれる。その結果どうも夫が浮気をしていたらしいことが判明する。『静物』は『夕べの雲』の前段のような作品である。老人の医師が「い、い、い、い、い、いちどやると」、「何度もやるようになる」と云う。ある休みの日、妻がいつまでたっても起きてこない。《「おい、起きないか」彼はそう云って、妻の肩に手をかけようとした。すると、この時初めて彼女が妙なものを着ているのに気が附いた》というような場面がある。この作品ではこれ以上の説明はなく、男の子が蓑虫をとってきて箱のなかで飼おうとしたり、女の子と映画へ行ったりする、一見すると単なる家庭小説のようであり、タイトルの「静物」の意味もわからない。ところが川西政明の『新・日本文壇史 第十巻』を読むと、この作品では妻が夫の浮気を苦にして(それだけではないだろうが)自殺をはかったのだった。一度やると何度もやるというのは自殺未遂のことであり、妙なものを着ているというのは死に装束のことであった。「静物」というのは、睡眠薬を大量に飲んで静かに眠っている妻のことなのであった。
 実際に庄野潤三の妻が自殺をはかったのは昭和二十三年十二月二十五日の朝のことであった。《この妻の不意打ちの自殺未遂を経験した潤三は、妻が求める愛を確立することが、なによりも大切だと気づいた。潤三は「最も日常的な世界である家庭を私の文学のテーマとして、一人の夫と一人の妻とがそこでいかに生活するかを描いてみようという気持ちを起した」(「わが文学の課題」)のであった。(中略)ここに第三の新人の文学の大きな骨組みとなる「家庭」を描く視点が定着する》と川西政明は前掲書で書いている。
 なにげなく書かれている『夕べの雲』の前にはこのような出来事があったのである。このため『夕べの雲』の主人公大浦は妻を含む家庭を守ることが第一義となり、これを評して江藤淳が『成熟と喪失』で「治者の文学」といったのであろう。「治者の文学」とは「被治者の文学」の対立概念である。「被治者の文学」とは『日本文学の進路をめぐって』(「群像」一九六五年六月号)という小田切秀雄との対談で話されたものである。ここで江藤は《明治以来の近代文学の発想はというものは被治者の発想である》と断定し、戦前のプロレタリア文学運動も、党を頂点とするヒエラルキーのもとの文学でしかなかったと批判した。このような江藤淳にとって、第一次戦後派の文学は批判すべきものであり、第三の新人の文学こそが、これからの文学と思われたのである。しかし、『夕べの雲』の標高九十メートルの家が団地(多摩ニュータウン)の造成によって脅威を受けるように、第三の新人の文学も日本資本主義の高度成長によって、その基盤を揺すぶられていったのである。     2015年12月12日



 江藤淳は 『成熟と喪失』に《『夕べの雲』に描かれている大浦家の日常は、もちろん作者が細心につくりあげた虚構である。その虚構に一種抗しがたい現実感が含まれているのは、私小説的な模写の手法で的確に描写されているからではなく、むしろ表面にあらわれた虚構と主人公の背後に隠された作者の心理的現実とのあいだに、きわめて緊密かつ重層的な照応関係が存在するからにほかならない》と書いている。この場合、「表面にあらわれた虚構」というのは、一見すると幸せな家族生活であるが、「主人公の背後に隠された作者の心理的現実」というのは『夕べの雲』を読むだけではわからない。そこで江藤は『静物』と『夕べの雲』を比較する。『静物』において妻は「眠り続」け、そのまま「次第に冷たくなって」いく。江藤も書いているように、曖昧な表現であるが、これは妻の自殺未遂である。この自殺未遂は『静物』の主人公にとって寝耳に水である。主人公・「彼」には妻が自殺未遂するようなことは全く思いあたらない。もちろん、作品中に書かれていないことで、「彼」が仕事で妻が思っていたように家庭を顧みないとか、ありふれた話だが浮気がばれたとかという事実が考えられる。しかし、「彼」の思ってもみなかった妻の自殺未遂は生活の中での恐怖である。この恐怖が「主人公の背後に隠された作者の心理的現実」ということになるだろう。
 読者が『静物』から『夕べの雲』へ読み進めば、『夕べの雲』の細君に『静物』の妻の自殺未遂を重ね合わせるのは自然な成りゆきである。しかし作者の庄野潤三はそんなことにお構いなく平和な家庭生活を描いているようにみえる。よく読んでみると、次のような場面がある。日の暮れかかる頃に杉林の谷間で息子たちの遊ぶ声が聞こえている。大浦はもし息子たちが帰らないで、声だけ聞こえているこの時を、先で思いだした時どう思うだろうか考える。彼はふと自分の眼前で起きている事が現実かこの世に無いものか分からなくなるという不安に襲われる。
『静物』の不安は妻の自殺未遂という不安であった。『夕べの雲』の不安は日常性の中にある不安である。江藤淳は、小説の課題は戦争などの社会的現実を仰々しく書くのではなく、同じような事件が日々日常の中にあることを強調してきた批評家である。その江藤淳にとって、『成熟と喪失』で取り上げた、安岡章太郎の『海浜の光景』、小島信夫の『抱擁家族』、遠藤周作『沈黙』、吉行淳之介の『星と月は天の穴』そして庄野潤三の『夕べの雲』はこの日常性にひそむ、不安、恐怖を描いたものであった。ところが『夕べの雲』にいたってこれは「治者の文学」だと書いている。つまり大浦家の主人が家庭の平和を維持する責任を負っていることを「治者」と考えたのである。ところが江藤の『成熟と喪失』の副題は「母の崩壊」である。この「母の崩壊」の前提には江藤の中で、明治以来の父親像が崩壊していることが前提となっている。江藤は《近代の政治思想が実現すべき理想として来たのは、近代以前の「被治者」を一様に「治者」にひきあげようとすることである》と書いている。しかし、日本のような先進資本主義国では農耕文化は崩壊している。そうであれば『夕べの雲』の主人公大浦は《いったい何を、何の権威によって治めようとしているのだろうか?》と疑問を呈さざるを得ない。大浦は定住の意義を発見したから丘の上に家を建てたのではない。家族を一時的に守りうるものとしての家であったに過ぎない。大浦が「治者」になるには「父」から権威を与えられねばならない。しかしこの小説の中のポパイの挿話のように、ポパイの父は夜遊びをしたがって仕方がないので、ポパイは父をベッドにぐるぐる巻きにするのだが、どのようにしてか父は縄を振りほどき遊びに出かけてしまうのである。とても大浦は父から「治者」の権威を引き継ぐことはできない。
 これは先進国においては高度資本主義が発展して、農耕社会が崩壊していくのでやむを得ない現象である。そもそも江藤の「治者の文学」とは、明治以降の文学、第一次戦後派の文学を「被治者の文学」として批判するために取り入れられた概念であった。この庄野潤三の『夕べの雲』に「治者の文学」を当てはめることは初めから無理だったのである。『夕べの雲』とは「治者たらんとして治者になれなかった治者の文学」だったのである。
                                       2015年12月17日

永井路子『北条政子』を読んで

2015-12-17 21:57:36 | 読んだ本
           永井路子『北条政子』             松山愼介
 北条政子については、テレビの大河ドラマなどでお馴染みである。昔では岩下志麻(一九七九年 『草燃える』)、最近では杏(二〇一二年 『平清盛』)が演じていたが、イメージとしては岩下志麻の北条政子がピッタリする。
男性の書いた歴史小説では、どうしても戦いの戦略、戦術が中心となり、鎌倉時代では頼朝、義経、後白河院の三人をめぐって展開するのが普通であろう。永井路子の『北条政子』はこれら三人の男は背景となる。頼朝も武士としてよりも、女好きの男の側面が強調される。頼朝と政子の閨の場面があるが、ここは読んでいてくすぐったかった。武士の婚姻というのは戦略的なものであり、性も後継ぎをつくるための手段のように考えていたので、政子が性の快楽を覚えるのは、なにか場違いな気がした。後は政子が産んだ子供をめぐって話が展開する。《大姫、三幡、頼家、実朝、公暁――。/それらの子供たちは、まるで指の間からこぼれ落ちる水のように、私のそばをすりぬけ、不幸の翳を曳きながら死を急いでいった。これが愛の代償なのだろうか》、《政子は、いま、自分が荒涼たる孤独の座に、たったひとりで取残されていることを感じていた。》というあたりでこの作品は終わっている。
 この作品の最後を読んで三島由紀夫の『豊饒の海』の最後を思い出した。『北条政子』も最後の政子の心境を推し進めれば次のようになるだろう。《これと云って奇巧のない、閑雅な、明るく開いた御庭である。數珠を繰るような蝉の聲がここを領してゐる。/そのほかには何一つ音とてなく。寂寥を極めてゐる。この庭には何もない。記憶もなければ何もないとところへ、自分は来てしまったと本多は思つた》。
 ストーリーは大体、わかっていたが、公暁については、あまり知識がなかったので面白かった。随分、昔、公暁と初めて聞いた時は「公卿」とごっちゃになってしまったことがある。この作品によれば、頼家の次男・善哉(公暁の幼名)は六歳で鶴岡八幡宮の別当・阿闍梨尊暁に弟子入りしているので、尊暁の暁をもらったものと思われる。ただ、三浦義村の叔父の貞暁に預けられていたので、暁はそこからきているのかもしれない。鶴岡の僧侶も善哉に手をやいたので園城寺で修行することになり、名を公暁と改める。
 政子は三浦義村の進言に従って、十八歳の公暁を鎌倉へ呼び戻す。実朝が陳和卿にそそのかされて宋へ行くための大船の進水が失敗した年の夏であった。鎌倉の漁師たちの間でこの大船が海を恋いしたって夜泣きをするという噂が流れる。それを聞いた漁師は「船霊だ!」と思って逃げだす。ところがその声は、園城寺で衆道を覚えさせられた公暁と三浦義村の次男・駒若丸との性の行為だったのである。この辺の実朝の大船と、公暁の衆道を繋げるのは『吾妻鏡』にのっておらず、永井路子の創作だとすればうまいものだ。
 政子は実朝と相談して公暁を鶴岡八幡宮の別当に据えようとする。そうすれば実朝が将軍として、世俗の世界をまとめ、公暁が神仏の世界をまとめることになり、源氏は万々歳ということになる。別当になるために公暁は千日修業(修行?)に入ることになる。ところが、公暁は後継ぎのいない実朝を殺して自ら将軍になろうとする。三浦義村の助けを得て実朝暗殺には成功するが、四郎義時の機転によって、情勢は一変し、公暁は三浦義村の手によって討たれ、三浦氏も義時によって比企氏と同様、亡ぼされ北条氏の覇権が確立してゆくのである。
 吉本隆明の『源実朝』によれば、坪内逍遥の戯曲『名残の星月夜』では、実朝は大船で上洛し律令王権と手を組んで北条一族を倒滅するつもりだったが、政子に武門の政権が潰れるだけだと諌められ、船が浮かばなかったことにしているという。吉本隆明は太宰治の『源実朝』、小林秀雄の『実朝』に欠けているのは《制度としての実朝》、《ひとりの人間はひとりの詩人であるとともに、ある共同体の象徴として威力である》という視点であったという。鎌倉幕府は《武家層以下の庶民にたいしては〈国家〉であり、律令国家にたいしては一種の水平な二重権力であった》。この時期の武門一族の構成は〈惣領〉の統括下に一族のものが〈庶子〉としてあった。この〈惣領〉は武力権と祭祀権をもつが、この共同体は血縁を疎外したところで統御されていた。親子、兄弟のつながりよりも、〈総領〉と〈庶子〉のつながりの方が重かった。守護、地頭の設置によって、武門の勢力が全国化すると、《制度としての実朝(将軍)》の必要性は薄くなり、源氏という貴種も必要なくなった。北条氏は実朝の後継ぎを律令王権から迎え入れることによって、実朝の王権と幕府の架け橋の役目を必要としなくなった。その時、実朝に残されたのは詩人(歌人)として生きることだけであり、政治的には死を待つのみであった。                 2015年11月14日

森崎和江『からゆきさん』を読んで

2015-12-17 21:51:50 | 読んだ本
        森崎和江『からゆきさん』            松山愼介
 一九六〇年代の学生運動において、吉本隆明は世界認識や思想の分野において大きな影響力を持った。一方で谷川雁は組織論、運動論の面において吉本に劣らないほどの影響力を持っていた。そのパートナーが森崎和江であった。谷川雁は三井三池炭鉱の争議が総評によって敗北的に収拾されたあと、大正炭鉱において大正行動隊を組織し、大正炭鉱闘争を最後まで闘いぬいた。吉本隆明はこの闘いを《谷川雁がいま大正炭鉱でやっていることは壊滅の敗軍のしんがりの戦いです。敗けるに決まっていると知りながらやっている。……彼がやっていることが終った時、運動の痕跡さえも終った時だ……》(一九六二年末)と評価した。
 谷川雁は自己を《大衆に向っては断固たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆であるところの偽善の道をつらぬく工作者》と規定した。大正行動隊の組織論はあくまで労組から自立していること、成員の所属は登録制ではなく、みずからが全力をこめてその組織に属すると自覚し、または自称するときの自己認識だけがそれを規定する。この組織論を引き継いだのが全共闘運動であった。つまり学生自治会民主主義にとらわれず、闘いに集まった者がすべての問題を決定し行動するのである。
 谷川雁は一九五五年ごろ詩誌『母音』を通じて森崎和江と知り合い、「この人は僕と一緒に仕事をする人だ」と直感し強引に口説き落とし、一九五八年夏には福岡県中間市の炭鉱住宅、上野英信の隣の家に移り住むことになる。森崎和江はしばらくは、夫の住む家と、谷川雁の家を往復していたということだ。ここで谷川雁、上野英信、森崎和江らによって『サークル村』が創刊される。この『サークル村』は三年で自壊するのだが、ここに石牟礼道子が一九六〇年一月に『奇病』(水俣湾漁民のルポルタージュ)を発表しているのは注目されてよい。ちなみに谷川雁も水俣の出身である。結果的に『サークル村』のメンバーは、谷川雁、森崎和江をはじめとして、大正炭鉱闘争を担う大正行動隊の中心メンバーとなっていく。一九六五年ごろ、大正炭鉱闘争の終息とともに谷川雁と森崎和江は袂を分かち、森崎和江は『からゆきさん』など流民を主題にした作品を書いていくことになる。
私は森崎和江が一九七六年にこの『からゆきさん』を発表した時、山崎朋子の『サンダカン八番娼館』(一九七二年)というすぐれた作品があるのに、なぜ二番煎じの作品を書いたのかという疑問を持っていた。今回、あらためて調べてみると、この『からゆきさん』の原型となった作品を森崎和江は『ドキュメント日本人5 棄民』(一九七〇年)に『からゆきさん―あるからゆきさんの生涯』という題名で書き下ろしで発表している。これは単行本『からゆきさん』の「おヨシと日の丸」の部分にあたっている。『サンダカン八番娼館』を再読すると、山崎朋子は森崎和江の『あるからゆきさんの生涯』を読み、森崎和江に助力を頼むことも考えたが、自力で《研究者もジャーナリストの誰ひとり訪ねたことがなく、しかも文字どおり地を這うように生きてきた海外売春婦に逢いたかった》と書いている。
 私が最も感動したドキュメンタリー作品は石牟礼道子の『苦海浄土』(一九六九年)であるが、二番目は『サンダカン八番娼館』であった。この作品は栗原小巻、田中絹代で映画化されたこともあって、すごく印象に残っている。ちなみに田中絹代という大女優を見たのはこの映画が初めてであった。すぐれた作品ではあるが『サンダカン八番娼館』を再読すると、からゆきさんだった、おサキさんが語るという方法は石牟礼道子のものであり、主題は森崎和江のものであることがわかった。ただ森崎和江が「おショウバイ」と書いているのが「商売」のことかと思ったが、山崎朋子では「お娼売」となっていて納得した。
『サンダカン八番娼館』での先入観で、からゆきさんの出身地は天草、行き先はボルネオ等の東南アジアと思っていたが、森崎和江『からゆきさん』では、もっと幅広く、女性の誘拐、売春だけでなく、男性を含む労働力の海外への人身売買として捉えられている。出身地も全国にわたり、行き先もシベリア等の広い地域になっている。歴史も江戸時代から考察されている。《わたしは当分のあいだ、明治の新聞を読むことにきめた。明治人としてその世間を呼吸しないことには、わからぬことが多すぎる》として、「福岡日日新聞」、「門司新報」を読み、「密航婦」としての娘たちの実態を調べていくところは探偵小説を読むようである。「おろしゃ女郎衆」では長崎丸山遊郭での検梅の起源が細かく書かれている。これは万延元年のことである。ロシア船員を相手にするために必要とされたのである。
 明治三十七年の日露戦争の頃から、日本の海外進出にともなって、朝鮮、清国へのからゆきさんの誘拐密航が激増してゆく。山崎朋子に比し、森崎和江の視野が広いのは、彼女が十七歳まで朝鮮で育ったことに関係があると思われる。現在、東南アジア、南米方面から豊かな日本へ出稼ぎに来る女性たちが「じゃぱゆきさん」と呼ばれているのは歴史の皮肉であろうか。
                                    2015年10月10日