遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

森田草平『煤煙』を読んで

2018-01-07 16:30:46 | 読んだ本
     森田草平『煤煙』                松山愼介
 森田草平と平塚明子の塩原心中未遂事件をえがいた『煤煙』は集英社の日本文学全集を古本で買っていて、読むのを楽しみにしていた。ところが、前半は長々と小島要吉の故国(くに)の描写が続き、やや退屈であった。ようやく十節で、平塚明子をモデルにした、真鍋朋子が登場するが、その印象は「あの眉と眉の間の暗い陰は、誰の眼にもつくじゃないか。冥府の烙印を顔に捺したような……一度見りゃ一生忘れられない顔だ」というものだった。要吉は神戸(生田長江がモデル)とともに金葉会の講師をしており、朋子は目白の女子大を出て会員になっていた。これが二人の出会いだった。
 数日後、要吉は急性リュウマチで入院し、その見舞いに神戸と朋子が来て、朋子はダヌンチオの『トライアンフ、オブ、デス』(「死の勝利」)を借りて帰ることになる。この頃から、朋子は要吉に好意を抱いていたようである。詳しくは知らないが、二人が死のうとした理由のひとつにこの「死の勝利」という書があるようだ。
 要吉は神戸から見せられた朋子の「末日」という小品の批評を送り、末尾に「伝説によればサッフォーは顔色の悪いダークな女であった」と書き添える。朋子は返信の最後に「この夜このごろ御言葉のはしばしまで繰返して、思い乱るることの繁く候」と書いてあった。後半でこれらの言葉の意味は解き明かされるので、森田草平という作家は、伏線をうまく使いなかなかの書き手のようである。一方で、この小説は明治末年の東京の風景をよく描いている。題名にもなった「煤煙」は東京砲兵工廠からの煙である。招魂社(靖国神社)の高台から神田、御茶ノ水、小石川の方を二人で眺めていて、ニコライ堂や砲兵工廠の煙が見えるのである。ここで、朋子は「私はもうどうしてもあなたと離れることができなくなった」という告白を要吉にしている。朋子は「煤煙」が好きだと言う。要吉はそれを「あなたの心の中の動揺を象徴的(シンボリック)に表していうようだから?」と受けている。まだ煤煙が公害ではなく、産業の発展を示すのどかな時期だったのだろうか。
 塩原心中行は、終始、短刀を持った朋子のリードで行われ、要吉はやむを得ずついていったようである。太宰治の心中も、山崎富栄に心ならずも玉川上水に引き込まれたという説もある。朋子の遺書は明治四十一年三月二十一日になっている。夜、雪の山道を彷徨いながら要吉は、朋子の短刀を谷間に投げ捨て、「私は生きるんだ。自然が殺せば知らぬこと、私はもう自分じゃ死なない。あなたも殺さない」と叫ぶところで物語は終わっている。前半はやや退屈であったが、後半の塩原行きのところは迫力があった。
 実際の二人の塩原心中行は捜索願がだされ、二十四日早朝、警察官に保護される。二十五日の「朝日新聞」は「自然主義の高潮 紳士淑女の情死未遂 情夫は文学士小説家 情婦は女子大卒業生」という見出しで、社会面中央に数段抜きでのせられた。取り押さえの警官に対して「我輩の行動は恋の神聖を発揮するものにして俯仰天地に愧ずるところなし」と言ったと伝えられた。朋子の母と生田長江が塩原まで迎えに行った。
 漱石はこの事件を森田草平に小説に書くことを勧め、草平がためらっている間に『三四郎』が書かれ、平塚明子のイメージは美禰子に投影されている。草平も明治四十二年一月から『煤煙』を「朝日新聞」に連載することになる。この連載は、漱石から平塚家に、草平はこの事件の結果、中学の英語教師の職を失いものを書くより他に道はなくなったので、小説に書くことを認めてほしいという手紙が来た。母は断るために漱石を訪ねたが押し切られた。(堀場清子『青鞜の時代』岩波新書) 
 明子は、『煤煙』は事実と異るが作者の想像は自由なのでしょう、「本当の私とは違っています。書く人に私という人間がよく分かっていなかったのでしょう」と反撃した。井手文子『平塚らいてう』(新潮選書)によれば、まだ明治のこの時代には「恋愛」ということが西洋文学のイリュージョンでしかなく、明子は観念的に恋愛を求め、当時、結婚もし、子をなしていた森田草平が、そのような明子を扱いかねた結果だとしている。
『元始、女性は太陽であった』、「はじめて結ばれた人」によれば、その当時、明子は性知識がほとんどなく犬や猫の交尾を見たことはあっても、人間にそういうことがあるという現実感はなかったという。人間のそういう行為は春画を見て知ったという。塩原事件のあと、明子の家に嫌がらせに春画が送られてきたというから、それを見たのかもしれない。結局、はじめて結ばれた人は海禅寺の中原和尚で明治四十三年の夏頃であったという。ともあれ、これらの体験をバネにして平塚明子は「青鞜」の女、平塚らいてうになっていくのである。
                            2017年11月11日

中山義秀『咲庵』を読んで

2018-01-07 16:28:30 | 読んだ本
      中山義秀『咲庵』            松山愼介
 織田信長に対する光秀謀反については、多くの作家が、いろんな説を書いている。私が一番最初に読んだのは司馬遼太郎の国盗り物語(一九七一)である。そこでは〈時は今あめが下なる五月哉〉を、時=土岐、天が下なる=天の下知ると解釈して、光秀の天下取りの歌として捉えていた。この『咲庵』(一九六三)では、天の下知るという説を明確に否定し、連歌の最後の句まであげて、光秀は天下取りのくわだてを歌に詠むほど軽薄ではないとしている。
 八切止夫『信長殺し、光秀ではない』(一九七一)という本もあったが、これはタイトルだけで、光秀は本能寺を囲んだが、実際に信長を撃ったのは、南蛮人の大筒だったというものであった。他にもいろんな作品があるが、題名は忘れたが本能寺の変の影の主役は秀吉であったというもので、これはなかなか面白かった。本能寺の変で誰が一番、得をしたかといえば秀吉であることは明らかである。本能寺には秘密の抜け道があり、光秀の謀反を察知した秀吉はその抜け道に壁を作ってふさいでしまったという話であった。そのため、信長はその壁の前で立往生し、死んでしまったので死体が見つからなかったというものだった。
 このように光秀謀反については、歴史家、小説家の想像力をかき立てる題材であるが、この中で、『咲庵』は正当に、歴史を見つめようとする姿勢が見られる。歴史は勝者の手によって書かれるものだから、光秀の言い分は消されてしまい、そこに創作の余地がある。光秀については《その点光秀は、両人(家康と秀吉)と肩をならべるほどの人材でも、器量がせまく計算高い。あるいは知能にすぐれているため、眼前が見えすぎかえって遠見のきかないおそれがある。要するに神経質で、それにとらわれすぎるのだ。戦国武将としては、まず異質ともいうべき性格であろう》と書き、信長については《定命五十歳を前にして、歯には歯をもってむくいる信長の酷烈な精神は、すこしも改まってはいない。/もっとも、そうした生得の一貫したものがなかったならば、彼一代の覇業は達成されなかったに違いない。事実、玉石ともに砕く徹底した勇猛心と破壊力なしには、応仁以来うちつづく百年戦争を、終わらせうるはずがなかった》と書いている。結局、光秀も信長の部下でしかなく、いつ使い殺しにされても不思議でない位置にいたのだ。これは秀吉、家康も同様である。信長の部下の諸将も、信長の死を願っていただろう。
 信長の短所は今、あげたとおりだが、長所は、戦国時代、彼だけが世界観を持っていたということだろう。映画やドラマでも、信長のそばには地球儀が置いてある。戦国時代、信長だけが世界の中の日本ということがわかっていたのではないだろうか。武田信玄や、上杉謙信、毛利も自分の所領を少しずつ増やすことを考えていただけで、日本全体に対する眼は持っていなかったのだろう。荒木村重や松永久秀も信長に反抗するが、それは一向宗や、武田、上杉、毛利による信長包囲網を過大評価していたためであった。彼らには信長にとって代わって、新しい天下を取る器量もなかったし、楽市楽座や、対外貿易のような経済的な政策も持っていなかった。
 光秀もまた、新しい世界観、経済政策ももたずに、ただ信長を討てば、新しい天下人になれると思っていただけではないだろうか。そのため、光秀に協力しようとする武将は誰もいなかった。光秀謀反の要因としてよくいわれるのは、近江、丹波を召し上げ、出雲、石見を切り取り次第という信長の命であるが、これについては、中山義秀は全くふれていない。調べてみるとこのことは『信長公記』には書かれておらず、『明智軍記』に出ているだけとうことだ。中山義秀は、光秀謀反を面白おかしく書くのではなく、確かな資料だけによったのであろうか。
                      2017年12月16日

木山捷平『長春五馬路』を読んで

2018-01-07 16:23:05 | 読んだ本
          木山捷平『長春五馬路』              松山愼介
 木山捷平が満州から帰国した時、妻のみさをに、その苦悩は表現する言葉がないと言いつつ「敗戦後の一年間の生活は、百年を生きたほどの苦しみに耐えた」と語ったという。ところが、この作品には、そんな悲惨なところは書かれていない。一方で、「敗戦以来一ヶ年間に長春に於いてだけでも八万から十万人の死者を出しているのである。長春に於ける人口は敗戦当時約十万、奥地よりの避難者が約十五万、合計凡そ二十五万人であったから、その死亡率たるや思うべし」と木山捷平は書いている。蒋介石は、日本人に危害をくわえないようという指令を出している。満州では、中国人大衆の一部が日本人住宅を襲い、進駐してきたソ連兵は掠奪、暴行を好き放題に行い、日本軍捕虜だけではなく日本人男子を拉致し、シベリアへ抑留した。
 二十一年四月半ばソ連軍にかわり八路軍が入城した。約一カ月半の駐屯にすぎなかったが、日本人庶民の生活を擁護した。五月下旬、国民党軍が無血入城し長春の治安は回復した。木山捷平は引揚船に乗るため、二十一年七月十四日、無蓋車で南長春駅を出発した。葫蘆島を出発したがコレラ患者がでたため佐世保沖で三十二日間船に閉じ込められた。妻のみさをは木山捷平の様子を「肩から出た手は関節だけ瘤のようで、箒木ほどの骨を見た途端、私はその栄養失調が極限に近いことを知って息を呑んだ。脚も手と同様で坐骨は飛び出し尖っていた。よくもこの体で、はるばる海をわたって帰ってきたことだと私は気力というものは怖ろしいものと思った」と書いている(岩阪恵子『木山さん、捷平さん』)。帰国後、木山捷平はむさぼるように飯を食ったが、食べた後から下痢をした。しかし、その下痢も十六日目にピタリと止まったという。栄養失調の身体が食べ物を受け付けなかったのである。
 昭和十九年十月中旬に満州農地開発公社に嘱託として採用され、十二月に長春に赴任する。この満州行きには、満映に就職していた北村謙次郎の熱心な誘いがあった。国内では自由な出版ができず、満州で「軍部なんかの驥尾に付さない純文芸誌の計画をたて」、その題も「飛天」と決まっていたという。酒好きの木山捷平が、自由に酒が飲める満州に行こうとしたという説があるが、栗谷川虹は『木山捷平の生涯』で、日本国内での文学的行き詰まりを打破し、一方で満州という「精神の極北」に身を晒すという思いがあったのではないかと推測している。
 私は敗戦後、中国に取り残された日本人が、引き揚げまでの期間どのように過ごしていたかが気になっていた。漢奸として処刑されそうになった李香蘭の親は北京に住んでいたが、家財を売って食いつないでいた。武田泰淳はたしか上海で代書屋をやっていたらしい。引き揚げるときに子供を中国人に預けたという悲劇をえがいた山崎豊子の『大地の子』という作品もある。この作品は当時の首相・胡耀邦に三回も会見し、現地の取材許可を得、八年間かけて書きあげたそうである。
『長春五馬路』では、最初は高粱から作った白酒(パイチュウ)を売り、後からはボロを売って生活をしている。満州人のなかに、一人、日本人が混じっての商いであった。商売の場所を移動させられる場面では、さりげなく八路軍と国民党軍の争いをえがいている。『長春五馬路』の前編にあたる作品に『大陸の細道』がある。『大陸の細道』の第一章「海の細道」は昭和二十二年に発表されている。そのためもあって、この作品では満州の零下二十度に達する寒さのなかでの生活が綴られている。人々が寒さに耐えるために常に足踏みしているとか、朝起きたら顔に霜が降りていたとかリアルに書かれている。十五年間に書かれた四つの短編をまとめた『大陸の細道』が昭和三十七年に発表され芸術選奨文部大臣賞をもらっている。『長春五馬路』も八年間に書かれた作品がまとめられたものだが、刊行されたときには木山捷平は鬼籍に入っていた。
『長春五馬路』は、敗戦から相当の年月がたっているため、満州での生活を余裕をもって振り返って書いているようである。それで相当、話を膨らませているようである。七家子などは架空の人物だと思われる。講談社文芸文庫に木山捷平の作品は十冊以上あるそうだが、一見、簡単なユーモア小説らしく書いているが、この作家は一筋縄ではいかないと思う。朝鮮で敗戦を迎えた日野啓三、後藤明生らの作品は読んでいたが、満州で敗戦を迎えた作家の作品は初めてだと思うので新鮮だった。
                       2017年10月14日

瀬戸内晴美『美は乱調にあり』を読んで

2018-01-07 16:20:45 | 読んだ本
      瀬戸内晴美『美は乱調にあり』           松山愼介
『美は乱調にあり』は一九六九年に角川文庫から出版され、その後、角川学芸出版から二〇一〇年に継続出版された。今年になって岩波現代文庫から『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』と『諧調は偽りなり上・下』が出版されたが、この岩波現代文庫版は最寄りの図書館には入っていなかった。角川学芸出版から『the 寂聴』というムックが出ていて、この10号が「米寿祝い特別号」で「美は乱調にあり」を特集していて参考になった。書かれた時期からいえば『美は乱調にあり』は出家前なので瀬戸内晴美作ということになる。
 私は『瀬戸内寂聴全集 拾弐』で二作とも読んだが、この「解説」で寂聴は『美は乱調にあり』に野枝と大杉の最期まで書くつもりであったが、伊藤野枝、大杉栄、橘宗一の死因と憲兵甘粕正彦の関係に納得できなかったため、日陰の茶屋事件で筆を置いたと書いている。一九七六年八月の「朝日新聞」に大杉たち三人の「死因鑑定書」の写しが掲載され、続きが書けると確信したそうである。
 私は三〇年程前にこの作品を読んではいたが、伊藤野枝、大杉栄、辻潤の名前を覚えただけで、彼らの本を読むことはなかった。今回、読み返してみても伊藤野枝という女性に、特に惹かれるものはなかった。神近市子の「野枝さんは、臭い人でしたよ」、「体臭がね、何だか風呂に入っていないみたいな。いつもだらしない野暮ったい着付けで……」という発言や、辻潤の「たいして美人という方ではなく、色が浅黒く、服装はいつも薄汚く、女のみだしなみを人並み以上に欠いていた」というのが伊藤野枝の実像に近いのであろう。ところが、このような野性的魅力が男を惹きつけたのであろうし、瀬戸内晴美も出奔した若い頃の自分の像を野枝に重ねたのだと思われる。「青鞜」を平塚らいてうから引き継ぐのだが、伊藤野枝には荷が重かったようである。平塚らいてうも、新しい女といいながら家事は全くできなかったということだ。
 伊藤野枝は大杉栄に出会って、辻潤の下を去り、大杉栄と同棲状態になる。このとき大杉栄は妻・堀和子、神近市子とも関係があり、苦しまぎれに「フリーラヴ」という大杉栄にとって都合のいい理論を提唱する。神近市子も新しい女という姿勢を見せなければならないので、この理論に応ずるが、結果的には金銭的に大杉と野枝の生活を支えるダシになったに過ぎなかった。それが昂じて大杉栄の首を短刀で刺すのだが、首を刺されて助かるというのは大杉栄の悪運が強いのか、神近市子に殺意がなかったからであろう。彼女は従姉の子の援助でピストルを入手したが、青山墓地で試し撃ちしたところ、その音響に恐れをなし使う気になれなかったと告白している。この事件を大杉は「お化けを見た話」で、神近市子は「許して下さい」と叫びながら逃げ出したので、「待て」と彼女に声をかけ取り押さえようとしたと書いている。神近市子は「豚に投げた真珠」で、眼を覚ました大杉は傷口に手をあて、血がでているのに気づくと「ウワーッー」という「魂の底から絞り出すような驚愕と悲しみの声を挙げ、つづいて大声で泣き出した」と書いていて、寂聴もどちらが本当かはわからないとしている。どちらにしても、このようなことを雑誌に発表すること自体が信じられない。
『諧調は偽りなり』には、労働者の吉田一がアナーキズムからボリシェヴィキへ、そしてその協同戦線を目指すとしたり、高尾半兵衛が共産党に入党しつつ、必要悪のボルシェヴィズムを通してアナーキズム社会を目指すとしている。また大杉栄がフランス語訳の『バクーニン全集』を一九二二年に手に入れているとか、エマ・ゴールドマンの『ボルシェヴィキの圧政』という本を紹介しており、伊藤野枝を離れて、当時のアナーキズムとボルシェヴィキの対立を含む、運動の歴史をえがくことに力が入れられている。
 三人の虐殺事件については、甘粕自身が手を下したかは不明だとしながらも、軍の上層部から大杉を殺せという指示があり、拷問のすえ殺したらしい。佐野眞一の『甘粕正彦 乱心の曠野』では甘粕正彦が直接、手を下していないとしても、陸軍幼年学校に入学しながらも放校になった大杉栄に個人的に恨みを抱いており、足の怪我で歩兵になれず、一段下にみられる憲兵にならざるを得なかった甘粕正彦のコンプレックスが影響したのではないかと書いている。
                     2017年9月9日