遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

 黒川創『岩場の上から』を読んで

2017-07-23 23:05:45 | 読んだ本

      黒川創『岩場の上から』          松山愼介
 これはもう戦争だ。でも、そう呼ぶことは禁じられている。
二〇四五年、核燃料最終処分場造成が噂される町。そこに聳える伝説の奇岩――。
鎌倉からやってきた十七歳の少年と町の人々を中心に、〈戦後百年〉の視点から日本の現在と未来を射抜く壮大な長編小説。

 2045年、北関東の町「院加」では、伝説の奇岩の地下深くに、核燃料最終処分場造成が噂されていた。鎌倉の家を出て放浪中の 17歳の少年シンは、印加駅前で〈戦後100年〉の平和活動をする男女と知り合い、居候暮らしを始める。やがてシンは、彼らが、「積極的平和維持活動」という呼び方で戦争に送り出される兵士たちの逃亡を、助けようとしていることを知る。妻を亡くした不動産ブローカー、駆け落ちした男女、町に残って八百屋を切り盛りする妻、役場勤めの若い女とボクサーの兄、首相官邸の奥深くに住まい、現政府を操っているらしい謎の〈総統〉、そして首相官邸への住居侵入罪で服役中のシンの母……。やがて、中東派兵を拒む陸軍兵士200名が浜岡原発に籠城する――。

 以上は本の「帯」の文章である。簡潔にストーリーがまとめられているので引用した。近未来、といっても28年後のことである。その時、自衛隊と使用済み核燃料と安倍政権はどうなっているかというSFもどきの作品である。地名の「印加」もスペインに支配された南米のインカ帝国のことだし、謎の〈総統〉も安倍首相のカリカチュアであることは明白である。このように、この作品は現在、政治的に問題になっている事柄が2045年にはどうなっているかを想像した作品になっている。政治的に現在的な問題を扱ったので、話題になったらしいが、驚くほどのことは書かれていない。
 中東派兵を拒む陸軍兵士も原発に籠城するが、原発を破壊するわけでもない。核燃料の最終処分をどうするかも喫緊の課題だが、その回答を示しているわけではない。わたしは、そもそも使用済み核燃料を10万年間、全く無害になるように保存しなければならないという前提を疑ってみる必要があるのではないかと思う。10万年後といえば、そもそも人類が生き残っているかも不明である。そのような時間軸で問題をたてることがおかしいのではないか。現在の技術力で使用済み核燃料を固形化し地下に埋めれば、地震や地下水の変化で放射能が漏れ出てきても、そのレベルは天然のウラン鉱石や、宇宙から日々浴びている放射能レベルなのではないのだろうか。
 私がそれより不安なのは、原発の警備体制である。原発に武装した警察官や自衛官が常駐しているという話は聞かない。そうすれば村上龍が『半島を出よ』でえがいたように、北朝鮮のゲリラ部隊が少人数侵入しただけで、原発は占領されるのではないか。また精度は不明だがミサイルなどで攻撃されても大丈夫なのだろうか。
 福島原発事故で核燃料がメルトダウンして大問題になっている。私はこのような事故で広範囲の地域に住むことができなくなるなら、何も核兵器を造る必要がないと考えた。どこにあるか知らないが、六ケ所村? 日本に大量のプルトニウムがあるという。このプルトニウムを日本のロケット技術で、敵国へ打ち込めば即効性はないが、核兵器を打ち込んだのと同じ効果があるのではないかという恐ろしい想像もしてみた。原発も核燃料も現在、存在するのだから、それをできるだけ無害化して処分する必要はある。それについて、この作品には回答は出ていない。
 黒川創に詳しい人に聞いた話だが、父親はベ平連の活動家だった、北澤恒彦だということだ。この作品は原発や、自衛隊の問題よりも、〈平和活動〉をするメンバーに父母の姿を重ねているのではないかということだった。そういう話であれば、原発と使用済み核燃料の問題に新たな解決策が示されていなくても納得できるものはある。
                 2017年7月23日

辻原登『村の名前』を読んで

2017-07-23 23:03:39 | 読んだ本
         辻原登『村の名前』              松山愼介
 橘は商社員である。広尾の畳卸商の加藤の要請で、中国「湖南省の湘江や沅江沿いの水田地帯に茂る藺草で畳表を織らせ、買い付けるのが今回の旅の目的」である。中国は毛沢東の死後、一九七八年に鄧小平が復活し、実権を握り「改革開放政策」を実施するようになった。社会主義的的市場経済である。橘、加藤はこの流れにのって中国での畳表の制作を考えたのである。ところが、この物語は藺草を買い付ける村に到着するところから、おかしな展開を見せ始める。
成田から香港経由で杭州までは予定通りだったが、長沙行きの飛行機が飛ばず、武昌行きの列車で長沙に向う。そこには貿易公団の二人の李さん、人民保険公団の朱さんが待っていて車で目的地に向う。目的地の村の名前は桃源県桃花源村である。穴ぼこだらけの道を十時間かかって、「深くて狭い、岩肌が剥きだしの切り通し」を抜けたとたん三百戸はどの集落が見えた。村の入り口には「熱烈歓迎、桃花源」という横断幕がかかっている。この「切り通し」を抜けた時に、橘たちは異世界に入ったのである。映画『千と千尋の神隠し』も車で門をくぐると異世界に着くことになる。
 この村に着くまでにも、奇妙な西瓜売りが登場する。列車が駅に着くごとに、上半身裸の痩せこけた男が西瓜を売っている。おまけに西瓜の形は、ラグビーボール状から丸いものへと形が変わっていくにもかかわらず、西瓜を売っているのは同じ男である。橘は、この西瓜売りを村への途上の道ばたで眠っている姿を見かける。時間的に歩いて先回りすることなど不可能な状況だ。長沙から車に揺られて走っている間に時空が変容しているのである。
 インパール帰りの加藤さんに十年以上出ていなかったデング熱がでる。村には藺草田がなく藺草と同じ発音のリンツァオという少年が登場する。橘はしらふの中年男にリンツァオについて聞くが、子供のリンツァオなんかいない、いるのは八十三歳の老人だと返答される。そうだとすればリンツァオは仙人で千年以上も生きているのかも知れない。オニヤンマを竹棹の微妙な動きで、素手で捕まえる老人も奇妙な存在である。物売りのなかに、西瓜売りの男と、老婆が三つの糸巻きを正三角形に並べている。橘はこの老婆をミイラではないかと考える。そのように考える橘は「この村が、錯覚かもしれないが、何か橘に言い寄ろうとしている気配を感じる」。「気配がめまいに変った。たしかに、この村には何か得体の知れないものが隠れている」。
 橘はこの村には「何か暗い特別な力が潜んでいる。そいつが橘を引きずりこもうとしている」と感じるが、その正体は不明である。この村は千年も平和が続いているのに少女たちは橘たちのことをあっけらかんと「日本(リーベン)鬼子(グイズ)!」と呼ぶ。少女たちはかつて中国を侵略した日本人として橘たちを見ているのではなく、単なる鬼ごっこの「鬼」と見ているだけかもしれない。
 橘は西瓜売りの男を夫に持つ張倩(ジヤンチエン)と関係を持ち、香港へ逃げる資金、三千元(約十二万円)を用立ててやる。結局、橘は自分が千年前の古層の村にいると感じる。この女とともに千年前の中国の古層の村に、橘が沈み込もうとした時、二人の公安が橘の腕をとり現実に引き戻す。現実に引き戻した印に「中日合弁ホテルの協議書」にサインをさせられることになる。その結果、橘と加藤は『千と千尋の神隠し』の千のように現実社会を戻ってくる。
 このような小説は古井由吉の『杳子』(一九七〇年)が最初だと思うのだが、『村の名前』は不可思議な世界をえがくのに徹底するでもなく、リアルな世界を書くでもなく中途半端な作品に終わったのではないだろうか。
                           2017年7月8日

松下竜一『豆腐屋の四季』を読んで

2017-07-23 22:58:19 | 読んだ本
      松下竜一『豆腐屋の四季』          松山愼介
 松下竜一の本を読むのは始めてである。むかし『砦に拠る』(一九七七年)という本を見かけて気になっていたことはある。調べてみると『砦に拠る』は一九五八年から十三年間、筑後川支流の津江川に造られる下筌(しもうけ)ダムに反対し、蜂の巣城を築いて抵抗した室原知幸を中心とした人々の戦いの物語であった。私はてっきり、松下竜一がこのダムに抵抗した本人であると思っていた。
『豆腐屋の四季』はこの松下竜一が青春時代に、母の急死に直面し、父と共に豆腐屋稼業に精を出す日々を綴った物語である。その中で短歌に出会うのだが、その過程を新木(あらき)安利『松下竜一の青春』(海鳥社 二〇〇五)でみてみる。松下竜一は豆腐をスパーカブで配達して回り、その得意先に三原食料品店があった。その三原食料品店の奥さん・ツル子さんは気のそまない、いとこ同士で結婚し、すぐ離婚を考えたが、いとこ同士ということもあって親戚への気兼ねから離婚に踏みきれないうちに、洋子が生まれたのだった。松下竜一とツル子さんが親しくなったのは、ツル子三十六歳、竜一二十五歳、洋子十四歳の時であった。ちなみに三原食料品店では豆腐一丁を二十円で販売していた。
 竜一とツル子はお互い恋愛感情をいだき、ツル子は「もしわたしがもう一度若くなれるんだったら、あなたに結婚を申し込むんですけどね」と言ったという。ある日、竜一はツル子に娘・洋子の内気な性格について相談を受ける。その時、竜一の心のなかに、五年後、洋子が高校を卒業したら結婚しようという考えが目覚めたのだった。〈洋子ちゃんと結婚して、洋子ちゃんをしあわせにすることで、あなたをしあわせにする〉という考えである。洋子も「いつかはそういわれるやろうなち、うすうす思ってたもの。……あんたと母ちゃんが好き合っているのは、早くから知っていたわ。……うちはかあちゃんに返事しなかったんよ。いやだといったらかあちゃんが哀しむやろうなち思うと、はっきりいやとはいいきらんやった」ということで、早い結婚には抵抗があったが、結婚を了承する。「相聞」の取材の場面でもあきらかなように、この洋子は相当、内気で自分の意見を言えないようである。良く言えば、母の言うことを聞く素直な娘ということになるが。悪く言えば、松下竜一の悪知恵が勝ったと、言えないこともない。とりあえず、常識はずれの結婚であった。ともあれ、このツル子から、短歌を勧められ、朝日歌壇に投稿することになる。当時(一九六二年)は九州圏のみの歌壇で、隔週日曜日に掲載された。選者は五島美代子、近藤芳美、宮柊二であった。
 私は、短歌的抒情はあまり好まない。それは平凡なことでも短歌的定形を持つことによって、なにか感動を倍化して読者に強制しようとしていると思えるからである。その中でもわずかに、六〇年安保を歌った岸上大作や、岡井隆の『朝狩り』、同世代の道浦母都子の『無援の抒情』は愛読した。松下竜一の歌で、私に関係するのは「空母迫れどただ卒論に励めりと書き来し末弟の文いたく乱る」と「悩みぬきヘルメット持たず佐世保ヘと発つと短く末弟は伝え来(く)」の二首である。この時、松下竜一は「角材で機動隊に挑んでも無益だ」、現政権を選挙で打倒するしかないという考えであった。ところが、体力的に無理がきて豆腐屋を廃業し、物書きになることを決意してからは違った。
 一九七一年九月、豆腐屋を廃業してから一年三カ月後、西日本新聞から始めて原稿の依頼が来る。大分新産業都市の裏側の公害を取材するものであった。これを契機に松下竜一は反公害、反権力の闘いに、自身も関わり、闘う人々に身を寄せたノンフィクションを発表していく。その白眉は『狼煙を見よ 東アジア反日武装戦線〝狼″部隊』(河出書房新社 一九八七)であろう。これは、一九七四年八月の三菱重工爆破事件の大道寺将司に取材したものである。私は一九七二年の連合赤軍事件で新左翼の時代は終わったと思ったので、爆弾闘争には否定的で新聞を読むだけだった。この本を読んでみると、一九八四年ごろに東京拘置所で『豆腐屋の四季』がブームになったという。京大の竹本信弘(滝田修)、交番爆破事件の鎌田俊彦、大道寺将司が獄中のメンバーにすすめたらしい。過激な闘争を展開した彼らの対極にある庶民像として『豆腐屋の四季』がよまれたらしい。大道寺将司は松下竜一への手紙で《ぼくが人民とか大衆とくくってしまう中に松下青年(当時の)の生活があった訳だし、三菱で死傷した人たちも含まれます。ぼくはそういったものが全然見えなかったのじゃないかと思いました》と書いている。
『狼煙を見よ』で松下竜一は、ほとんど衝動的に豆腐屋を廃業し、著述業に転じたのは一九七〇年七月であるが、そこまで思い詰めさせたのは全共闘運動の熱気だったと書いている。皮肉なことに、竜一は隣り町の巨大火力発電所計画による公害に反対する運動にのめり込んで行き、《『豆腐屋の四季』の模範青年はあっという間に「市民の敵」とされ、この町から出て行けという声を浴びせられることになった》という。
 私は、今まで、東アジア反日武装戦線の爆弾闘争も、彼らのイデオロギーも評価しなかったが、この『狼煙を見よ』を読んで、彼らの考えがおおよそわかり参考になった。彼らが最初に標的にしたのは、南京事件の松井石根を慰霊する、熱海にある興亜観音、伊豆のA級戦犯を祀った殉国七士の碑であった。植民地時代の朝鮮で死亡した日本人の納骨堂のある曹洞宗大本山総持寺、アイヌ・モシリ侵略の資料を集めた北海道大学・北方文化研究施設、旭川市の「風雪の像」、兵器生産の三菱重工、アジアに進出している大成建設、間組、花岡鉱山事件の鹿島建設、そしてレインボー作戦ということになる。
 それにしても『松下竜一その仕事』全三十巻を六十七年の生涯で書いたのはすごいことである。
                          2017年6月10日