遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

 松山愼介著『「現在」に挑む文学』発売のお知らせ

2016-12-31 17:47:43 | 小説
 
 松山愼介著『「現在」に挑む文学』が響文社から出版されます。正式には1月13日の発売です。村上春樹、大江健三郎、井上光晴を取り上げました。このなかでも『村上春樹と「一九六八年」』は村上春樹の学生運動体験に焦点を当てています。一九六八年を体験した人にも、体験していない若い人にも読んで頂きたいと思っています。一応、文芸評論になるかも知れませんが、作品を体験的に読むことで分かりやすく書いています。大江健三郎は現在の大江からは考えられないほど過激だった一九六〇年前後、当時の社会党委員長浅沼稲次郎を刺殺した山口二矢に同化した作品『セブンティーン』を中心に分析しました。井上光晴は谷川雁とのかかわりから初めて井上光晴の共産党、原爆、体験を分析しました。




















石川淳『紫苑物語』を読んで

2016-12-31 17:30:30 | 読んだ本
     
   石川淳『紫苑物語』         松山愼介
 宗頼はさる遠い国の守に任ぜられる。これは妻・うつろ姫の家の権勢によるものであり、同時に父は新たな勅撰集の撰者命じられる。遠国に任ぜられたのは父のたくらみでもあった。このようなことから時代は平安朝であろう。
『紫苑物語』は不可思議な物語である。普通の「純文学」とも「歴史小説」とも違っている。筋をたどるのに苦労もするが、筋が分かることと、この作品の評価は別物である。
 宗頼は都の歌の家に生まれた。勅撰集の撰者の家系であった。五歳で歌を作り始め、七歳の年の始めにつくった歌に父が朱をいれたことから、歌に別れをつげ、弓にうちこんだ。
 宗頼の矢は、百発あやまたず的の真中を射ぬく。しかし、狩場となると獲物を射通しながらも、矢は獲物とともに空に消えた。一年後のこと、草むらを黄の影がはしり、宗頼はとっさに矢を射た。矢は小狐の背にあたった。この小狐を取ろうとした雑色を叱咤し、二人の雑色の背をつらぬいた。この二本の矢が一筋につながって飛びながらも、二人の雑色の背中を射るという必殺の矢であった。後にこの必殺の矢は弓麻呂を討つときには三本の矢、知の矢、殺の矢、魔の矢となって、弓麻呂に取り憑いた老いた狼もろとも射抜くことになる。
 では何故、宗頼の矢は虚空に消えたのであろうか。宗頼の発したものは矢ではなく歌であった。狩りに憑かれたということは、歌に酔ったということに他ならなかった。小狐の黃の影がかすめた時、歌声のおこるすきもなく、手は弓を取り、矢を発していたのであった。
 ここで中野重治の『歌のわかれ』を思い出す。「歌のわかれ」という題名は、旧制高校時代に短歌を作ることに自己の表現を見出していた安吉(中野重治の分身)が学生生活をおくる中で、マルクス主義運動に出会い、短歌とは別れて「兇暴なものに立ちむかっていきたいと思いはじめていた」ということに由来する。石川淳も中野重治への追悼文で「思想運動と詩人」という言葉を使っている。
 渡辺喜一郎の『石川淳研究』によれば、昭和三十一年に発表された『紫苑物語』はこの前年の共産党の六全協を時代的背景にしているという。中野重治はマルクス主義を受け入れたが、三歳年上の石川淳は石川三四郎、大杉栄を通じてアナーキズムの影響を受け、ブハーリン、バクーニン、クロポトキンを耽読したという。戦後すぐの時代は日本においても社会主義革命の現実性があった時代であった。石川淳も「革命」を想像していた発言がある。ところが昭和三十年以後は、革命の現実性がなくなっていき、石川淳の作品においても《‶革命‶が次第に敗北する形で描かれるようになり、‶革命‶そのものが‶幻想‶的に描かれるようになる》。『紫苑物語』はそのような転換を示す作品であるという。渡辺喜一郎は『石川淳研究』で次のように書いている。

 ユートピアが幻想的に、時代的背景、情景が抒情的に描かれ、位置の明確な登場人物が配され、‶死のイメージ‶の漂う幻想的、抒情的作品となっている。少なくともこの頃から、「革命運動から理想社会へ」と描かれていた図式が、‶革命‶に到る運動と‶革命‶後の世界の二極分界的に描かれ始めたのではないかと考える。その一方の‶革命‶運動が殆ど‶政治色‶の消えたテロリズムをともなうアナーキズムへと、作家石川淳にとっての原初的思想へと回帰する形で描かれ、後者の‶革命‶後の世界は、観念上のユートピアとして幻想的世界へ追いやられていったと言えるのではないか。

 このように考えると岩山の向こうの世界はユートピアであり、宗頼は決してその世界へ行くことはない。その手前で「テロリズムをともなうアナーキズム」よろしく三本の矢で、《岩に彫りつけたほとけだち》を撃ち、自らは悪鬼となるほかないのである。
                       2016年12月10日
 

 参考までに四年前に読んだ石川淳『至福千年』のレポートも付け加えておきます。


            石川淳『至福千年』             松山愼介
 石川淳『至福千年』は更紗職人東井源左、神官加納内記、松師松太夫という主要登場人物三人に俳諧師一字庵冬峨(蛾ではない)がからみ、それぞれに、じゃがたら一角、十兵衛、月光院、雲丸さらに、三太、お徳、花木主馬、清川彦一郎とさまざまな人物が出てくる江戸を舞台にした伝奇小説というのでしょうか。
 東井源左、神官加納内記、松師松太夫の三人は十数年前に長崎で出会い、隠れ切支丹の信仰を持って江戸に戻ります。この中でも加納内記は千年会を組織し、仮の主に雲丸を立て、東井源左入魂のはだかマリヤの更紗を月光院の身に付けさせ、月光院を生けるマリヤとして擁立します。この千年会は異端の切支丹で、月光院が酒樽に浸かる場面などは、オウム真理教で麻原の浸かった風呂水をありがたがったことを思い出させます。この教団は「悪をかさねるのは善を積むにおなじ」という親鸞『歎異鈔』の悪人正機説、これをもとにした関東親鸞教団の造悪論の展開です。これに対して同じ切支丹ながら松太夫は「神の国に掟はあっても自由はないぞ」とこの千年会に対抗します。雲丸は花木主馬の鉄砲の弾に当たって死に、主馬も吹矢で殺されます。この主馬に吹矢が突き刺さる場面は聖セバスチャンの殉教(三島由紀夫)を思い出しました。
 雲丸亡き後、加納内記はみずから救主として立ち、幕府に天朝をつぶさせ、弱った幕府を討って江戸を乞食で占領しようと計画し、そのトップに上野宮をかつぎだそうとします。最終的には冬峨は信仰から遠ざかり、海外渡航を目的に神戸をめざし、松太夫も蓄財した財宝を持って一橋家御用という旗のもとに上方へ向かいます。この暗躍した二人が時勢を読んで、さっさと開国派になる一方、東井源左は切支丹の教えを徹底し、全てを捨て死ぬのとは対照的です。東井源左は一遍を思わせます。加納内記は決起を促す一角を、幕府の力、今だ衰えず、決起は時期尚早として抑えにかかりますが、逆に一角に白狐を盗まれ敗れてしまいます。一角の造悪論は「こやつらはその生得自然の悪人だ。いま、心耳をすまして聖教の微旨に聴き入るに、常人といえども、無道をおそれず、悪逆をはたらき、我意のつのるところをおこなって、はばかりなく押しつらぬけば、ついに神はわが身のうちにこそあれ、われこそ神とさとって、無上正覚をうるに至るべし」というものです。
 一角の決起も未発に終わり、一角は一角を出し抜こうとした吉を切り捨て、ええじゃないかの群集のなかを調子はずれの「船だ船だ黒船だ」とどなりながら、横浜のほうに駆け去って行くところでこの奇想天外な物語は終わります。結局幻の乞食の千年王国、江戸革命は不発に終わります。いくら幕府が弱体化したとはいえ、失うものがないとはいえ、訓練されていない三千人の、乞食の軍団で江戸占領は無理だと思われます。ここでは江戸革命だけでなく、現代における革命の不可能性も示唆しているように思いました。中程までの禍々しい話の展開に比べ、最後で話をまとめにかかったため、この壮大な物語も終末部は中途半端な印象を受けました。『至福千年』の現代版『狂風記』は一九七一年に執筆が開始され十万部も売れたとのことです。前者が六十年安保闘争に後者は六十年代後半の学生叛乱に発想のきっかけを得たと思われます。
 野口武彦の『石川淳論』によれば、石川文学の三本柱は「王朝以来の文学伝統の積分値としての江戸文学」「日本の近代が対決し受容した〝西欧〟の問題」「二十世紀最大のテーマである〝革命〟の問題」つまり江戸文学、フランス象徴主義、大正アナーキズム(絶対自由)としています。
 一八九六年生まれの宮沢賢治を初期社会主義者とすれば、一九〇二年生まれにマルクシズムの中野重治、それに対抗した小林秀雄がおり、プロレタリア文学壊滅後の昭和十年に登場した石川淳が大正アナーキズムに共感を抱いたことは面白い流れです。子どもの時から論語の素読を受け、十二歳で漱石を、十四歳で鴎外を読み、十八歳で『ジャン・クリストフ』を原書で読破したうえに、素養として江戸文学に通じていたというのですから『至福千年』『狂風記』の世界を読みこなすのは大変でした。読者の教養の程度によって、深くも浅くも読める作品だったと思います。
                          2012年7月14日


田中小実昌『アメン父』を読んで

2016-12-31 17:16:49 | 読んだ本
     田中小実昌『アメン父』          松山愼介
 田中小実昌は何度もテレビで見たことがある。オズオズしていて、話し方もはっきりしていないのだが、直木賞作家であり、たくさんの推理小説、探偵小説を翻訳している。そのうえ、趣味は哲学書を読むことで、スピノザ『エチカ』、カント『純粋理性批判』、ハイデガー『存在と時間』などの文庫本を持ち歩き、時間を見つけては読んでいたらしい。その一端は短編小説『カント節』にあらわれている。
 昭和十九年十二月に入営し、中国に派遣されている(『香具師の旅』)。その間、慰安所もなく、そういう女性の世話にならなかったという。昭和二十一年七月に上海から氷川丸で復員。復員したら自動的に福岡高等学校を繰り上げ卒業し、東大哲学科に入学していた(ちょっとあり得ない話だ、父が代わりに手続きをしていたのかも知れない)。父の教会の本棚に英語の『小公子』が置いてあったり、英語の聖書を読んでいたというので、少しは父から英語を教わったのかも知れない。そのせいかアメリカ軍の通訳になったり、キッチンで働いたりしている。朝鮮戦争のときには、アメリカ軍の横田基地からB29が爆撃に行き、その爆弾の積載係の通訳のような仕事もしている。この仕事は日米講和条約が締結後、すぐに解雇されている。横田基地は東京に、現在もあり、アメリカ軍のアジアにおける最大の司令基地になっている。戦後、七十年が過ぎて沖縄だけでなく首都にアメリカ軍の基地があるのは大問題である。石原慎太郎が都知事時代に、この不合理を訴えたが政府は無視した。
 その後、田中小実昌は香具師として全国を旅したらしい。テレビに出ていた彼からは、バイの口上を語ったり、ヤクザ同士で仁義を切ったりしたという姿が想像できない。ストリップ劇場(東京フォリーズ)で働いたり、女性の居候になったり、毎日、飲み歩いていたという姿は想像できるが。昭和二十五年七月号の「文藝春秋」に『やくざアルバイト』というルポルタージュふうのものを書いて採用された。原稿料は一枚六百円、同じ頃、実業之日本社の「ホープ」にも原稿が採用され、こちらは一枚三百円だったという(『いろはにぽえむ』)。田中小実昌の様々な短編小説は、戦後の闇市や市井の人々をえがいていて、戦後の風俗をえがいた貴重な資料となるだろう。
 
 田中小実昌の父は明治十八年の生まれ、明治四十一年五月アメリカにいき、キリスト教と出会う。このアメリカ行きは、異母兄・山本三造の移民許可を譲り受けたらしい。明治四十五年二月、久布白直勝牧師より洗礼をうける。父は言葉の勉強のためにアエリカの小学校にいったらしい、ナザレン大学にも在学していた。この『アメン父』は義弟・伊藤八郎が残してくれた資料や、父の説教集『主は偕にあり』等で無教会派の父の信仰の足跡を追っている。
 この父の信仰の跡づけは難解である。つまるところ、神を信じたり、十字架や偶像を信仰したりすることではなく、「受け」が中心となるものらしい。つまり、人間の側から神に呼びかけて信仰が成立するのではなく、個人(人間)が呼びかけなくても、個人の内部に神が存在しなくてはならないということだろうか。
「あなた(神)はパウロに現れたりしたのに、どうして、私に現れないのか」と父がけんかするみたいに言ってる(祈ってる)のを、母はなんどかきいたそうだ。というように、神が自己の前に、自己の内部に現れるまで信仰を深めることだと思われる。
 それにしても、父が残した文書を解読するというのは想像がつかない。私の父は、ほとんど本を読まなかったし(新聞は読んだ)、文章も書かなかった。最近、佐野眞一の『唐牛伝』が話題になっている。唐牛健太郎が北大の先輩でもあるので、読んでみたが、面白かったが大したものではなかった。それは唐牛健太郎がほとんど、文章を残していないからである。個人の伝記を書く場合、書かれたものが中心になる。吉本隆明の『高村光太郎』も高村の「出さずにしまった手紙のひと束」を見つけて書くことができたという。それ故、『唐牛伝』は友人や親戚等からの噂話で占められていて、論拠に説得性がなかった。
『アメン父』は、ひたむきに父の残した文書に向き合っている田中小実昌の姿が浮き上がってくるものであった。
                             2016年11月12日
   
 『アメン父』からの抜書  田中小実昌の父の信仰について

 ふつう、宗教は文化の所産だとおもわれている。でも、父は、宗教という言葉をつかうことはあっても人間文化の所産としての宗教のことではなかった。いや、宗教なんてことよりもアーメンだった。アーメン、イエス、イエスの十字架……。(中略)でも、宗教じゃない、アーメンだ、なんてとつぜん言われても、わかるひとは、ほんとにすくないだろうな。またぼく自身ちゃんとわかってるわけでもない。しかし、そもそも、ちゃんとわかってることなどあるだろうか。

偶像はおがみやすく、自分にもしたしみやすいが、インチキでニセモノで、おがみやすいからって礼拝しても、むだなことではないか。/ただし、よほど用心しないと、なんでも、すぐ偶像になる。十字架でさえも偶像になり、だから、この建物にも父は十字架を たてなかったのか。/十字架は生きた十字架のはずで、金の十字架の銀の十字架もたいていは偶像で、簡素な木の十字架さえ、りっぱな偶像になる。

 父の教会では、宗教的なものを排するようなところがあった。教会が宗教的なものをきらっては、なによりも、商売にならない。/しかし、いわゆる宗教的なものは、そっくり偶像になりやすい。

 うちの父はキリスト教の牧師なのに信仰をうたがった。だから、それまでの宗派にいられなくて、自分たちの教会をつくったのだが……。信仰にも説明や理屈はない。それはいいとして、キリスト教の根本は、信仰といわれるが、はたして、ひとは信仰をもちうるか。信仰をもちつづけることができるか。もちつづけられない信仰は信仰とは言えない。こちら側が信仰をもつのではない、父はうけるということを言った。しかし、それでは、なにをうけるのか。

 ニンゲンたちが、努力して、あるいは信仰により神の国をきずきあげるのではなく、神の国が先だっている。

「信仰基本を自己信念に置きし迷宮を照破され上より臨む「聖」霊の御働きのみ信仰の基礎たること、またこれに「遵(したが)」はしめらるることこそ宗教生活なることを教えられ候。

「あなたはパウロに現れたりしたのに、どうして、私に現れないのか」と父がけんかするみたいに言ってる(祈ってる)のを、母はなんどかきいたそうだ。

 まっくら闇の絶望のなかでも、イエスがアーメンがせまってくるということか。絶望の底をイエスの十字架がささえているのだろう。ただし、これも、いつも十字架上のイエスがささえてくれるから安心、というのではない。安心なんてカンケイない。

(サウロの回心)「その十字架の主からものを言ってきたのであります。彼はワーっとなって目が真っくらになってしまったのです。十字架に会うときに、真に感激がおきるのであります。感動してくるのです。これが御霊の通脱であります」

 田中小実昌のキリスト教に対する態度、父の信仰をどう考えていたのかは複雑である。とりあえず、『アメン父』からキリスト教の信仰に関する文章を抜粋したが、わかるようでわからない。ただ『ポロポロ』という作品が参考になる。「ポロポロ」とは父の教会の信者の神との対話である。田中小実昌の父は信仰は外部からくるのではなく、内部になければならないと考えた。その信仰を言葉にすると、他者には「ポロポロ」としか聞こえないのである。結論的に言えば、田中小実昌はキリスト者としての父を尊敬していたが、彼の内部には、父のようには神は存在しなかった。『アメン父』、『ポロポロ』は彼の神についての論考といえるだろう。また、彼は哲学書を読むことを好んだが、それは一歩でも父に近づきたかったからであろう。