遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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大城立裕『小説琉球処分』を読んで

2019-02-13 15:04:12 | 読んだ本
大城立裕『小説琉球処分』           松山愼介
 沖縄は一九七二年五月一五日、日本に返還された。その前の一九六八年頃、当時の佐藤栄作首相が「両三年」以内に沖縄の施政権返還でアメリカと合意していた。そのため、学生運動でも沖縄問題が課題になった。学生だった私は、沖縄と日本が同じ民族かどうかもわからず、あわててレーニンの民族問題に関する文庫本を手にとったこともある。つまり、当時の学生たちは沖縄の歴史については全く無知であったのだった。また復帰路線を敷く作業をしていた政府官僚にもこの本がよく読まれたということであるから、日本人全体が、沖縄について無知だったともいえる。この本の「前置き」では、「琉球が基本的に日本の一部分にほかならないことは、考古学、言語学、文化人類学などによって、明らかにされた」としているが、そもそも民族という概念は何かという疑問は残る。日本人も中国長江流域から来た人々と、北から朝鮮半島を通って来た騎馬民族系の人々の混交といわれている。
 沖縄返還時においては、ベトナム戦争の最中でもあったので、アメリカの軍事面に焦点をあて沖縄のアメリカ軍基地にあるとされていた核兵器に焦点をあてた反対運動しか展開できなかった。このことが私の中で課題に残っていて、ようやく二〇一三年になって大城立裕の『沖縄の命運』三部作を読んで、「異土」に『沖縄の文学的考察』を書いたが、伊波普猷という名前も初めて知ったという状態だった。
 沖縄はかつて、琉球王国であった。ところが秀吉の朝鮮出兵の時に、琉球は島津の与力にされ、兵と兵糧米を要求された。琉球は兵を派遣せず、兵糧米も要求の半分を収めた。島津氏は徳川家康の許可を得て一六〇九年に琉球へ侵攻した。琉球は那覇港で抵抗したが、背後をつかれ島津に降伏した。この時に、奄美大島は島津領になり、現在も鹿児島県となっている。島津に降伏してからも明、清との関係は続き両属体制となる。この島津侵攻に対してNHKBS『英雄たちの選択』で磯田道史は琉球には「城」とよばれる築城技術があったので、一万人の兵と一千挺の鉄砲があれば島津を撃退できたかも知れないと言っていた。但し、負けたけれども少ない犠牲者で抵抗したという実績を残せたので、結果的には良かったのではないかということらしい。しかし、琉球は長く平和な時期が続いていたので、武器があっても戦闘体制はとれなかっただろう。
 この作品は明治の琉球処分の過程を、松田道之が残した資料をもとに書かれたものだが、松田が琉球の人々と交渉する場面は、やや退屈な面もあるが、かなり当時を再現することに成功しているように思う。読んでいて、琉球の人々が清の軍艦に期待するので、清の態度が不審だったが、「エピローグ」でこの時、西洋の列強が清に押し寄せていて、とても琉球のことなどかまっていられなかったことが明らかにされる。結果的には日清戦争で日本が勝利することで琉球は日本に帰属し沖縄となる。つまり、現代でも領土問題は軍事の問題なのであろう。
 この琉球処分は「大東亜戦争」の敗戦時に、もう一度繰り返されることになる。昭和天皇は天皇制(国体)護持のため、アメリカ占領下にもかかわらず、新憲法を承認し、アメリカによる沖縄占領を望んだ(長期租借という形式であるが)。サンフランシスコ講和条約は沖縄を見捨てた条約であった。この裏側で日米行政協定(六〇年に日米地位協定)が結ばれ、現在も沖縄だけでなく日本全体にアメリカ軍の軍事優先体制は続いている。アメリカ軍関係者は横田基地を経由すれば、パスポートなしで自由に日本に出入国できる。先日も日本の民間機の横田空域の通過をアメリカが拒否しているという報道があった。
『小説琉球処分』は琉球という一つの国が、日本によって支配下に置かれる過程を克明に追っている。日本という国が戦前までは、いかに強欲で、侵略的な国であったかがよくわかる。一方で、大城立裕は沖縄の独立は否定し、日本による近代化の良かった面と、負の面との両方があったと認めているようである。
 二年ほど前に八重山諸島へ行った。石垣市のメインストリートには、交通が右側通行から左側通行になった日の記念碑がおかれていた。また、石垣港には、尖閣諸島に向かうのか、数席の巡視船が入港していた。石垣島までは関西空港から二時間で、修学旅行の高校生と一緒だった。石垣島から飛行機にのれば三十分ほどで与那国島であり、台湾のすぐ側までが日本であることを改めて意識した。琉球王国の支配地は奄美から与那国島まで広大な地域であった。この地域を日本が明治初期に支配下においたのである。         
                                         2018年10月13日

尾崎一雄『暢気眼鏡・虫のいろいろ』を読んで

2019-02-13 15:01:35 | 読んだ本
尾崎一雄『暢気眼鏡・虫のいろいろ』         松山愼介
 NHKアーカイブス『あの人に会いたい 尾崎一雄』によると、尾崎一雄は、早稲田大学国文科を卒業したあと就職せず作家修行に励む。しかし、志賀直哉を目標としたことで、かえって書けなくなってしまう。「結局五年間、そのために書けなかった。ひとつも書けなかった。それで志賀先生というのはひなたに一本そびえてる松の木、自分はどっか日陰に生えてる八手かなんかだと、八手なら八手らしく生きればいいじゃないかと、そういうことようやく気がついたんですね」と、回顧している。〈私小説〉についても「私小説とよく言われますけど単に個人的なことを書いている気持ちじゃない。人間性に通じているんですからね、やっぱり、それに共感する人があるはずだ」と語っている。これをきちんと文章にしているのが、新潮文庫『暢気眼鏡』の解説を書いている山室静である。
 
 しかも志賀さんが明治末から大正初期にかけての日本における近代的自我の最も昂揚した時期に文学者として出発したのに対し、尾崎一雄が作家を志した当時は、早くも近代社会は鋭い矛盾を露呈して、いわゆるプロレタリア文学が勃興し、氏の信奉する従来の個人主義文学はブルジョア文学として鎧袖一触的に論断された昭和初年代にあたり、氏の早稲田時代の仲間たちも次々に左傾した時代であった。こうした内外の事情が重なって、二重三重の挫折を経験させられたことが、氏に作品を書きえなくさせただけでなく、ほとんど生きる張り合いをもなくさせたらしい。多少でも財産が残っていたうちは、氏はそれを売り食いしているよりほか、為すすべを知らなかった形だ。

 二十七歳で、喫茶店ドメニカの女主人Sさん(妻E)と結婚するが、収入のないことから不和になり、妻に暴力を振るうようになり、妻は鼓膜が破れ耳から出血したこともあった。この間に、奈良に行き、志賀直哉のもとで過ごす。二十歳の時に父が死んだので、その後、父祖よりの不動産を次々と売り徒食していたが貧窮に陥る。志賀直哉の好意により『現代語西鶴全集 第四巻』を刊行する。このころに『暢気眼鏡』のモデルになった松枝(芳枝)と、三十一歳と十九歳で結婚している。『暢気眼鏡』を読むと、この芳枝さんの楽天的な性格に随分、救われているようだ。
『暢気眼鏡』に『追記』があって、これが面白い。ここで尾崎一雄は「私の精神と肉体とは、只一つ、仕事に対する熱、その気持の張りで保っている。私と云う存在のあらゆる慾望はその一点に凝結している」と書いている。文学に対する情熱、良い作品を書きたいという〈慾望〉が尾崎一雄という作家を存在せしめているのだろう。
 この『追記』の「芳兵衛、お前は本当に気の毒だ」といわれて、芳枝があなたがそう思っていたら、それでいいのと受け、さらに《「暢気眼鏡」などと云うもの、かけていたのは芳枝でなくて、私自身だったかも知れない。確かにそう思える。しかもこいつは一生壊れそうでないのは始末が悪い》と述懐しているところは面白い。ただ《そこまで来て私はうすら笑いを浮べた》と付け加えているのは作者の〈てれ〉であろうが、客観的に作品を書くなら、この部分はない方が良かった。
 年譜の昭和二十年(四十五歳)の項に、《無収入で難儀す。胃潰瘍、神経痛、痔等になやまさる》とある。若い頃、わずらった肋膜炎の影響もあったかも知れない。四年間ほど寝ついて、背中が洗濯板に見えるほど痩せたらしい。この間に『こほろぎ』、『虫のいろいろ』が書かれている。
 尾崎一雄全集が全十五巻出版されているらしいが、この短編集を読んだだけでは、この作家が、単なる、昭和前半からの世相を書いているだけなのか、もっと文学的に深いところを突いているのかは判断できなかった。ただ、親の残した資産を食いつぶしても文学にかけるという情熱は感じることはできたように思う。
                          2018年9月8日

江刺昭子『樺美智子 聖少女伝説』

2019-02-13 11:47:46 | 読んだ本
            江刺昭子『樺美智子 聖少女伝説』      松山愼介
 この本は樺美智子の実像に迫っている。私は、彼女は東大のやや政治に興味を持っていた、単なる一女子学生だと思っていた。いつの頃か、ブントに加盟していたような噂を聞いた覚えがあるが、確かではない。
 江刺昭子によると、樺美智子は一九五七年四月、東大に入学。反戦学生同盟(AG)を経て、十一月八日の誕生日に共産党に入党してる。推薦者の一人は青木昌彦といわれている。一九五九年十二月十日、約四十五人の参加でブント創立大会が開かれる。美智子は会議に参加していないが、会議終了後、青木と話をしてそのまま、ブント加盟を了承したという。ブントの綱領的立場は、

 スターリン主義を否定してレーニン主義を復権することだった。すなわち、一国社会主義革命ではなく世界革命、平和共存ではなくプロレタリア独裁、議会主義平和革命ではなく暴力革命、講座派の二段階革命(民族民主革命)ではなく労働派の一段階革命社会主義革命を綱領にうたっている。

というものであった。
 美智子は、大衆組織の文学部学友会委員(のち副委員長)、中間組織の社学同同盟員、裏の組織であるブント東大細胞に属し、文学班キャップという三つの顔もって活動することになる。つまり、「聖少女」でなく、バリバリの活動家だったのだ。一九五九年十一月二十七日の国会デモで構内に入り、翌年一月十六日の岸首相訪米阻止の羽田空港ロビー立てこもりで逮捕されている。このデモで、十八日間勾留され、二月二日に釈放されている。そして、運命の六月十五日を迎える。この日は、最初から国会突入をめざし、針金を切るためのペンチ等の道具を行動隊が持参したという。激しい闘争になることが予想されたので、女子学生は後ろに下がるように指示されたが、スラックスに履き替えていた美智子ら一部の女子学生は下がらなかった。
 国会南通用門から、デモ隊は国会構内に入ったが警官隊が待ち構えていて、まともに警棒による暴力を受けることになった。樺美智子の死因は、東京都監察医の渡辺富雄は「胸部圧迫による窒息死」とした。後日、他の医師は美智子の眼にひどいうっ血を見て、首を強く絞められた可能性があるとしている。目立った外傷はなかったという。
 十六日の「朝日新聞は」次のように書いた。

 夜七時すぎ、南門から入った私たちは構内でスクラムを組みなおした。おびただしい数の警官が国会のビルの影に並んでいた。私たちは、その群れに向かって前進した。警官たちも、こちらへ歩き出した。歌もシュプレヒコールも起らない。恐怖の一瞬だった。二つの流れが正面からぶつかった。やがて警官たちは警棒を振るい始めた。隣の女子学生は(樺さんのこと)、髪を乱しながら頭を下げた。男の学生たちも首を縮めた。足元はドロの海。隣の女子学生がつまずいた。ほかの学生たちも何人かころんだ。倒れた女子学生の上を学生のドログツが踏みにじり、そのあと巻き返しに出た警官たちがまた乗り越えた。そのとき『女が死んでいる』とだれかが叫んだが、手のほどこしようがなかった

 この証言をしたのは明治大学文学部の森田幸雄君となっており、同じ内容が「毎日新聞」にも掲載されている。

 樺美智子の死について、吉本隆明は〈死殺〉という言葉を使っている。〈ウィキペディア〉では〈圧死〉という言葉になっている。森川友義【編】『60年安保 6人の証言』(同時代社 二〇〇五)という本の中に、〈注〉として、樺美智子が殺されたときの様子が書かれた「女性自身」(一九六〇年六月二十九日号)の記事が掲載されている。それを引用しておく。この証言は森田幸雄(明治大学文学部)、山中啓二(東大文学部)そのほかの友人、目撃者の話をまとめたものとしている。

 同時に警官隊も、こっちへ進んできた。両方とも無言だった。やがて、(警官隊と)正面からぶつかった。ぼくらの武器は、スクラムだけなのに、警棒をめちゃくちゃにふるった。樺さんは、髪を乱しながら頭さげた。ぼくらも首をちぢめた。うしろからもデモ隊がおしてきて、ものすごいもみあいになり、彼女は両方からおされて動けなくなったところを、警棒の一撃を浴び、悲鳴を上げて倒れた。そのうえに学生が何人か折り重なって倒れ、さらに警官隊が殺到して、それっきり、とうとう起きあがれなかったのだ。もちろん、ぼくらは夢中になって助けだそうとしたが、警官隊には通じない。彼らは倒れた仲間たちを、容赦なくふみつづけ、やっと彼女を抱きあげたときは、倒れてから 五分ぐらいもたっていた。社会党の秘書団が現場から運びだしてくれたのだが、顔はまっ青だし、血とドロにまみれた両手、両足はだらんと下がったまま。仮診療室(新館地下の議員面会所)に寝せたときには、もうひとことも発しなかった。『彼女が死んだなんて、まだ信じられない。前日、大学の研究室でぼく(山中)に、どんな本を読んだらいいとか、一生けんめい親切に教えてくれた樺さんだったのに……』

 この証言は「東京大学新聞」臨時増刊にも転載されており、通説になっている。しかし、江刺昭子の調査によれば、この証言をした森田幸雄、山中啓二は実在しない。また東大のデモ隊に樺美智子がいたのに、明治大学の学生が隣で美智子とスクラムを組んでいたのは不自然だとしている。また、現場は新聞社やフリーのカメラマンが取材していたが「人なだれ」があったという証言はない。
 さまざまな調査の欠陥、江刺昭子は水戸巌編『裁判闘争と救援活動』に掲載された、坂本昭(東大法医学教室の第四代教授上原正吉の弟子筋にあたる)の証言を事実に近いものとしている。

 膵臓出血は面積の小さい平坦なもの―つまり警棒である―警棒で強く突かれために生じた外傷性の出血であり、樺はこのため気を失い、それと前後して、警察官に首に手をかけられて、混乱のなかを押しつけられ、窒息死したものと思われる。喉の出血が比較的少ないのも、膵臓を突かれて気を失ったところをしめられたから、大きな力を必要とせず窒息死に致(ママ)ったものである。人なだれによる死亡なら肋骨骨折および胸部に多大の出血を伴わなければならないものであり、これは常識でも容易に理解できるところである。

 警官隊は、デモ隊員の頭を警棒で乱打していたが、外部の目をそらすために、警棒を下から突き上げるように腹部を攻撃したという証言が多数あるということだ。
 樺美智子は、この後、安保闘争が民主主義擁護の方向に向かうに連れ、平和と民主主義を守る「聖少女」と化していく。秋田雨雀は「永遠の処女」と書き、それぞれの人の立場によっては、キリスト、ジャンヌ・ダ―クと称えた。確かに、その後、一九六〇年代の政治の季節になくてはならない存在となっていく。ブント戦旗派をひきいた荒岱介でさえ『新左翼とは何だったのか』(幻冬舎新書 二〇〇八)に「二十二歳の美人東大生樺美智子さん」と書いているほどである。
 江刺昭子は樺美智子の実像として次のように書いている。

 美智子はブントのなかで、順位をつけるなら、女の中でトップの位置にいてプロレタリア社会主義革命を実現するために闘ってきた人だ。平和運動のようなカンパニアはプチブル的だとして否定し、日本帝国主義を打倒しようとしたのだ。そのことから両親は意識的に目をそらし、学生運動に熱心な一般学生だったかのように書いている。

 死というものは、人を聖化する。樺美智子も普段は普通の女子学生であり、ブントの女性幹部であった。それがいつのまにか「聖少女」というふうにみられてしまい、実像からかけはなれた美しいものとされてしまう。
 また警察による死因の捏造も大したものだ。状況から考えて樺美智子の死は警察官の暴力によることは明白である。学生デモの中で「人なだれ」があり、あたかも学生が原因で「圧死」したというふうに宣伝しようとする知恵を持った人物が権力のなかにいることは常に考慮すべきである。また、そのような権力発表をそのままマスコミが書くということは、両者の間に、それぞれに都合の良い裏取引があるだろうことは容易に想像できる。
 同じことは一九六七年十月八日の羽田弁天橋で亡くなった京大生、山崎博昭の場合にもいえる。共通していることは、死因が警察官の警棒による暴力であることは明白なのに、その原因を学生に転化させていることである。ここでは学生が運転する装甲車による「轢死」と発表された。当時の新聞は、その発表通り、記者がその現場を目で見たかのような記事にしている。このように、都合の悪いことは、警察、マスコミが一体となって平気で捏造することを忘れてはならない。   
                 2019年2月12日