大城立裕『小説琉球処分』 松山愼介
沖縄は一九七二年五月一五日、日本に返還された。その前の一九六八年頃、当時の佐藤栄作首相が「両三年」以内に沖縄の施政権返還でアメリカと合意していた。そのため、学生運動でも沖縄問題が課題になった。学生だった私は、沖縄と日本が同じ民族かどうかもわからず、あわててレーニンの民族問題に関する文庫本を手にとったこともある。つまり、当時の学生たちは沖縄の歴史については全く無知であったのだった。また復帰路線を敷く作業をしていた政府官僚にもこの本がよく読まれたということであるから、日本人全体が、沖縄について無知だったともいえる。この本の「前置き」では、「琉球が基本的に日本の一部分にほかならないことは、考古学、言語学、文化人類学などによって、明らかにされた」としているが、そもそも民族という概念は何かという疑問は残る。日本人も中国長江流域から来た人々と、北から朝鮮半島を通って来た騎馬民族系の人々の混交といわれている。
沖縄返還時においては、ベトナム戦争の最中でもあったので、アメリカの軍事面に焦点をあて沖縄のアメリカ軍基地にあるとされていた核兵器に焦点をあてた反対運動しか展開できなかった。このことが私の中で課題に残っていて、ようやく二〇一三年になって大城立裕の『沖縄の命運』三部作を読んで、「異土」に『沖縄の文学的考察』を書いたが、伊波普猷という名前も初めて知ったという状態だった。
沖縄はかつて、琉球王国であった。ところが秀吉の朝鮮出兵の時に、琉球は島津の与力にされ、兵と兵糧米を要求された。琉球は兵を派遣せず、兵糧米も要求の半分を収めた。島津氏は徳川家康の許可を得て一六〇九年に琉球へ侵攻した。琉球は那覇港で抵抗したが、背後をつかれ島津に降伏した。この時に、奄美大島は島津領になり、現在も鹿児島県となっている。島津に降伏してからも明、清との関係は続き両属体制となる。この島津侵攻に対してNHKBS『英雄たちの選択』で磯田道史は琉球には「城」とよばれる築城技術があったので、一万人の兵と一千挺の鉄砲があれば島津を撃退できたかも知れないと言っていた。但し、負けたけれども少ない犠牲者で抵抗したという実績を残せたので、結果的には良かったのではないかということらしい。しかし、琉球は長く平和な時期が続いていたので、武器があっても戦闘体制はとれなかっただろう。
この作品は明治の琉球処分の過程を、松田道之が残した資料をもとに書かれたものだが、松田が琉球の人々と交渉する場面は、やや退屈な面もあるが、かなり当時を再現することに成功しているように思う。読んでいて、琉球の人々が清の軍艦に期待するので、清の態度が不審だったが、「エピローグ」でこの時、西洋の列強が清に押し寄せていて、とても琉球のことなどかまっていられなかったことが明らかにされる。結果的には日清戦争で日本が勝利することで琉球は日本に帰属し沖縄となる。つまり、現代でも領土問題は軍事の問題なのであろう。
この琉球処分は「大東亜戦争」の敗戦時に、もう一度繰り返されることになる。昭和天皇は天皇制(国体)護持のため、アメリカ占領下にもかかわらず、新憲法を承認し、アメリカによる沖縄占領を望んだ(長期租借という形式であるが)。サンフランシスコ講和条約は沖縄を見捨てた条約であった。この裏側で日米行政協定(六〇年に日米地位協定)が結ばれ、現在も沖縄だけでなく日本全体にアメリカ軍の軍事優先体制は続いている。アメリカ軍関係者は横田基地を経由すれば、パスポートなしで自由に日本に出入国できる。先日も日本の民間機の横田空域の通過をアメリカが拒否しているという報道があった。
『小説琉球処分』は琉球という一つの国が、日本によって支配下に置かれる過程を克明に追っている。日本という国が戦前までは、いかに強欲で、侵略的な国であったかがよくわかる。一方で、大城立裕は沖縄の独立は否定し、日本による近代化の良かった面と、負の面との両方があったと認めているようである。
二年ほど前に八重山諸島へ行った。石垣市のメインストリートには、交通が右側通行から左側通行になった日の記念碑がおかれていた。また、石垣港には、尖閣諸島に向かうのか、数席の巡視船が入港していた。石垣島までは関西空港から二時間で、修学旅行の高校生と一緒だった。石垣島から飛行機にのれば三十分ほどで与那国島であり、台湾のすぐ側までが日本であることを改めて意識した。琉球王国の支配地は奄美から与那国島まで広大な地域であった。この地域を日本が明治初期に支配下においたのである。
2018年10月13日
沖縄は一九七二年五月一五日、日本に返還された。その前の一九六八年頃、当時の佐藤栄作首相が「両三年」以内に沖縄の施政権返還でアメリカと合意していた。そのため、学生運動でも沖縄問題が課題になった。学生だった私は、沖縄と日本が同じ民族かどうかもわからず、あわててレーニンの民族問題に関する文庫本を手にとったこともある。つまり、当時の学生たちは沖縄の歴史については全く無知であったのだった。また復帰路線を敷く作業をしていた政府官僚にもこの本がよく読まれたということであるから、日本人全体が、沖縄について無知だったともいえる。この本の「前置き」では、「琉球が基本的に日本の一部分にほかならないことは、考古学、言語学、文化人類学などによって、明らかにされた」としているが、そもそも民族という概念は何かという疑問は残る。日本人も中国長江流域から来た人々と、北から朝鮮半島を通って来た騎馬民族系の人々の混交といわれている。
沖縄返還時においては、ベトナム戦争の最中でもあったので、アメリカの軍事面に焦点をあて沖縄のアメリカ軍基地にあるとされていた核兵器に焦点をあてた反対運動しか展開できなかった。このことが私の中で課題に残っていて、ようやく二〇一三年になって大城立裕の『沖縄の命運』三部作を読んで、「異土」に『沖縄の文学的考察』を書いたが、伊波普猷という名前も初めて知ったという状態だった。
沖縄はかつて、琉球王国であった。ところが秀吉の朝鮮出兵の時に、琉球は島津の与力にされ、兵と兵糧米を要求された。琉球は兵を派遣せず、兵糧米も要求の半分を収めた。島津氏は徳川家康の許可を得て一六〇九年に琉球へ侵攻した。琉球は那覇港で抵抗したが、背後をつかれ島津に降伏した。この時に、奄美大島は島津領になり、現在も鹿児島県となっている。島津に降伏してからも明、清との関係は続き両属体制となる。この島津侵攻に対してNHKBS『英雄たちの選択』で磯田道史は琉球には「城」とよばれる築城技術があったので、一万人の兵と一千挺の鉄砲があれば島津を撃退できたかも知れないと言っていた。但し、負けたけれども少ない犠牲者で抵抗したという実績を残せたので、結果的には良かったのではないかということらしい。しかし、琉球は長く平和な時期が続いていたので、武器があっても戦闘体制はとれなかっただろう。
この作品は明治の琉球処分の過程を、松田道之が残した資料をもとに書かれたものだが、松田が琉球の人々と交渉する場面は、やや退屈な面もあるが、かなり当時を再現することに成功しているように思う。読んでいて、琉球の人々が清の軍艦に期待するので、清の態度が不審だったが、「エピローグ」でこの時、西洋の列強が清に押し寄せていて、とても琉球のことなどかまっていられなかったことが明らかにされる。結果的には日清戦争で日本が勝利することで琉球は日本に帰属し沖縄となる。つまり、現代でも領土問題は軍事の問題なのであろう。
この琉球処分は「大東亜戦争」の敗戦時に、もう一度繰り返されることになる。昭和天皇は天皇制(国体)護持のため、アメリカ占領下にもかかわらず、新憲法を承認し、アメリカによる沖縄占領を望んだ(長期租借という形式であるが)。サンフランシスコ講和条約は沖縄を見捨てた条約であった。この裏側で日米行政協定(六〇年に日米地位協定)が結ばれ、現在も沖縄だけでなく日本全体にアメリカ軍の軍事優先体制は続いている。アメリカ軍関係者は横田基地を経由すれば、パスポートなしで自由に日本に出入国できる。先日も日本の民間機の横田空域の通過をアメリカが拒否しているという報道があった。
『小説琉球処分』は琉球という一つの国が、日本によって支配下に置かれる過程を克明に追っている。日本という国が戦前までは、いかに強欲で、侵略的な国であったかがよくわかる。一方で、大城立裕は沖縄の独立は否定し、日本による近代化の良かった面と、負の面との両方があったと認めているようである。
二年ほど前に八重山諸島へ行った。石垣市のメインストリートには、交通が右側通行から左側通行になった日の記念碑がおかれていた。また、石垣港には、尖閣諸島に向かうのか、数席の巡視船が入港していた。石垣島までは関西空港から二時間で、修学旅行の高校生と一緒だった。石垣島から飛行機にのれば三十分ほどで与那国島であり、台湾のすぐ側までが日本であることを改めて意識した。琉球王国の支配地は奄美から与那国島まで広大な地域であった。この地域を日本が明治初期に支配下においたのである。
2018年10月13日