芹沢光治良『巴里に死す』 松山愼介
現在では、パリで日本人が亡くなっても、そう珍しいことではない。しかし、この作品が発表された当時はこの『巴里に死す』というタイトルは、日本人のパリにたいするあこがれもあって、十分、刺激的だったのだろう。この作品の時間は、上海での日貨ボイコット事件とあるだけなので特定できないが、著者の年譜をみると一九二五年、二十八歳で渡仏とあるので、その頃のことであろう。大正から昭和にかけての時期なら日本人の渡仏自体が珍しいことであったろう。
『巴里に死す』は昭和十七年という戦争中に「婦人公論」に一年間、連載された作品である。湯川編集長は《戦力増強に資さない作品を載せるな》という軍からの圧力に抗して掲載したのだったが、軍の報復か、徴兵され沖縄で戦死している。この作品は七十五年前に書かれたことになるが、そのせいか、読んでいて時代を感じてしまった。船の中で、夫の宮村の姿が見えないので伸子が探しに行くと、彼は上甲板のボートによりかかるようにして、手紙を破いてインド洋の波の上へ飛ばしていたのだった。その手紙はプラトニックな恋愛関係にあって、破綻した青木鞠子の手紙だった。それを、持ってきたものを全部、いっぺんに捨てるのならともかく、ひとつひとつ破り捨てたり、ましてまだ捨てなかった手紙を、伸子に渡してしまうのは不可解である。あまりにも通俗的な感傷ではないだろうか。
健康上の問題で、自分の命と引きかえに子を産むというのも、そう驚くようなテーマでもない。また、娘の名前を、夫の前の恋人、鞠子と同じ万里子と名付けるのも不可解である。また、この伸子が自分の死期を悟って、娘あてに長い手紙、物語を書くのだが、まずこの物語の文体が女性らしくない。しかも、健康上の問題をかかえていて、これだけ長文の物語を書けたかが疑問だ。書くことは想像以上に、頭もだが、肉体的な体力を使うということを最近、実感している。この作品が一九五三年にフランス語訳されて、十万部を売り上げ好評だったということだが、フランス人の異国趣味を満足させただけだったのではないだろうか。
芹沢光治良がノーベル賞候補になったということだが、小谷野敦はこれを否定している。公開された当時のノーベル賞委員会の文書には芹沢の名前はないということであり、そもそも『巴里に死す』は英訳されていないらしい。諸国語への翻訳という点では、のちにノーベル賞候補と騒がれた井上靖や、井伏鱒二のほうがずっと多いということである。芹沢の経歴でノーベル賞推薦委員と書かれているので、凄いと思ったが、小谷野敦によれば、ペンクラブ会長が自動的にノーベル賞推薦委員になるので、単に芹沢が一九六五年に川端のあとにペンクラブ会長なったということに過ぎないらしい。《代表作『人間の運命』だって、外国語に訳されたという話は聞かないし、どうも芹沢がノーベル賞候補だったというのは、一種の都市伝説のようなものだろうと言うほかない》。このノーベル賞候補というのは『芹沢光治良作品集5巻』(一九七四)の「月報」に《この小説はノーベル賞委員の注目を惹いたようです》と書かれているのが根拠になっているのか。
というわけで、『巴里に死す』には集中できなかったが、芹沢光治良の経歴には興味を持った。父親が私財を投げ捨て天理教に走るのだが、芹沢自身は〈捨て子〉になり、家で教科書をみることはできない境遇にあったが、学校の授業中に全部、理解できたということである。中学に行くについても、家と義絶していて郡会議員になっていた従弟の紹介で芹沢家の世話になったことがある海軍軍人が毎月三円の援助をしてくることになった。ただこのことで〈村八分〉になったということだが、この意味はわからなかった。一高入学後も、お金に苦労するが品川御殿山の某氏の貸費制度に採用されて、月額二十三円もらえるようになったという。
公務員になってからも、苦労しながらも幸運にめぐまれ、フランス行きも子供の頃、養子になる予定だったI氏が一万円の信用状をくれたという。フランスの大学でもよい先生に恵まれ、健康を害して結核と診断されてからも高原療養所、スイスの療養所とめぐまれている。結核には海気が悪いらしいのだが、幸運にも《海気を乾燥させる特別装置のある》船がみつかり、無事帰国している。帰国後、神戸駅で買った「改造」に懸賞小説の募集広告があり、五日間で百枚ちかい『ブルジョア』を書き当選し、小説家の道を歩んでいくことになる。このフランス、スイスでの療養所の体験が伸子の身の上に起こったこととして『巴里に死す』が書かれたのだろう。この療養所の場面はトーマス・マンの『魔の山』を思わせる。
この作品が戦争中にかかれ、編集者が軍部の圧力に屈せず連載を続けたのは評価できるが、かといって作品の評価があがるわけではない。この作品にはとってつけたような展開もあり、時代的な限界を感じた。
2018年3月10日
現在では、パリで日本人が亡くなっても、そう珍しいことではない。しかし、この作品が発表された当時はこの『巴里に死す』というタイトルは、日本人のパリにたいするあこがれもあって、十分、刺激的だったのだろう。この作品の時間は、上海での日貨ボイコット事件とあるだけなので特定できないが、著者の年譜をみると一九二五年、二十八歳で渡仏とあるので、その頃のことであろう。大正から昭和にかけての時期なら日本人の渡仏自体が珍しいことであったろう。
『巴里に死す』は昭和十七年という戦争中に「婦人公論」に一年間、連載された作品である。湯川編集長は《戦力増強に資さない作品を載せるな》という軍からの圧力に抗して掲載したのだったが、軍の報復か、徴兵され沖縄で戦死している。この作品は七十五年前に書かれたことになるが、そのせいか、読んでいて時代を感じてしまった。船の中で、夫の宮村の姿が見えないので伸子が探しに行くと、彼は上甲板のボートによりかかるようにして、手紙を破いてインド洋の波の上へ飛ばしていたのだった。その手紙はプラトニックな恋愛関係にあって、破綻した青木鞠子の手紙だった。それを、持ってきたものを全部、いっぺんに捨てるのならともかく、ひとつひとつ破り捨てたり、ましてまだ捨てなかった手紙を、伸子に渡してしまうのは不可解である。あまりにも通俗的な感傷ではないだろうか。
健康上の問題で、自分の命と引きかえに子を産むというのも、そう驚くようなテーマでもない。また、娘の名前を、夫の前の恋人、鞠子と同じ万里子と名付けるのも不可解である。また、この伸子が自分の死期を悟って、娘あてに長い手紙、物語を書くのだが、まずこの物語の文体が女性らしくない。しかも、健康上の問題をかかえていて、これだけ長文の物語を書けたかが疑問だ。書くことは想像以上に、頭もだが、肉体的な体力を使うということを最近、実感している。この作品が一九五三年にフランス語訳されて、十万部を売り上げ好評だったということだが、フランス人の異国趣味を満足させただけだったのではないだろうか。
芹沢光治良がノーベル賞候補になったということだが、小谷野敦はこれを否定している。公開された当時のノーベル賞委員会の文書には芹沢の名前はないということであり、そもそも『巴里に死す』は英訳されていないらしい。諸国語への翻訳という点では、のちにノーベル賞候補と騒がれた井上靖や、井伏鱒二のほうがずっと多いということである。芹沢の経歴でノーベル賞推薦委員と書かれているので、凄いと思ったが、小谷野敦によれば、ペンクラブ会長が自動的にノーベル賞推薦委員になるので、単に芹沢が一九六五年に川端のあとにペンクラブ会長なったということに過ぎないらしい。《代表作『人間の運命』だって、外国語に訳されたという話は聞かないし、どうも芹沢がノーベル賞候補だったというのは、一種の都市伝説のようなものだろうと言うほかない》。このノーベル賞候補というのは『芹沢光治良作品集5巻』(一九七四)の「月報」に《この小説はノーベル賞委員の注目を惹いたようです》と書かれているのが根拠になっているのか。
というわけで、『巴里に死す』には集中できなかったが、芹沢光治良の経歴には興味を持った。父親が私財を投げ捨て天理教に走るのだが、芹沢自身は〈捨て子〉になり、家で教科書をみることはできない境遇にあったが、学校の授業中に全部、理解できたということである。中学に行くについても、家と義絶していて郡会議員になっていた従弟の紹介で芹沢家の世話になったことがある海軍軍人が毎月三円の援助をしてくることになった。ただこのことで〈村八分〉になったということだが、この意味はわからなかった。一高入学後も、お金に苦労するが品川御殿山の某氏の貸費制度に採用されて、月額二十三円もらえるようになったという。
公務員になってからも、苦労しながらも幸運にめぐまれ、フランス行きも子供の頃、養子になる予定だったI氏が一万円の信用状をくれたという。フランスの大学でもよい先生に恵まれ、健康を害して結核と診断されてからも高原療養所、スイスの療養所とめぐまれている。結核には海気が悪いらしいのだが、幸運にも《海気を乾燥させる特別装置のある》船がみつかり、無事帰国している。帰国後、神戸駅で買った「改造」に懸賞小説の募集広告があり、五日間で百枚ちかい『ブルジョア』を書き当選し、小説家の道を歩んでいくことになる。このフランス、スイスでの療養所の体験が伸子の身の上に起こったこととして『巴里に死す』が書かれたのだろう。この療養所の場面はトーマス・マンの『魔の山』を思わせる。
この作品が戦争中にかかれ、編集者が軍部の圧力に屈せず連載を続けたのは評価できるが、かといって作品の評価があがるわけではない。この作品にはとってつけたような展開もあり、時代的な限界を感じた。
2018年3月10日