遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

村上春樹『海辺のカフカ』を読んで

2021-01-11 12:54:29 | 読んだ本
     村上春樹『海辺のカフカ』         松山愼介
『ねじまき鳥クロニクル』以降の村上春樹の作品を読む場合、素直に読むことが重要である。例えば、『ねじまき鳥クロニクル』がリアリズムで書かれていないのにも関わらず、中条省平という大学教授がストーリーの辻褄が合わないとして批判したことがある。それでいて、カミュの『ペスト』をファシズムの暗喩であると「100分de名著」で解説していた。村上春樹の作品には壁抜けとかリアリズムで理解できない場面がある。これは素直に人間が壁抜けすると理解するしかない。
村上春樹のテーマはこの世の邪悪なものと闘うことである。『ねじまき鳥クロニクル』では、綿谷ノボルという人物と仮想空間で闘うことになる。これをリアリズムで書けば、単に悪人を殺すだけの物語にしかならない。『海辺のカフカ』では、この構造が『ねじまき鳥クロニクル』より複雑になり、深化している。
 加藤典洋の『村上春樹は、むずかしい』(岩波新書)の中の『海辺のカフカ』論も面白かったが、やや文学から離れがちだが、柴田勝二『中上健次と村上春樹』(東京外大出版会)の『海辺のカフカ』の仕掛けの分析には圧倒された。カフカ少年が胸にベットリと半乾きの血をつけて、高松の神社で目覚めるところも、彼が時空を超えて東京へ行き、ナカタさんと二人で田村浩一を殺害したと理解するしかない。ここから、田村カフカ少年とナカタさんは相互の分身であるという。二人が出会うのは甲村図書館だが、この甲村という字が、中田と田村の合わさったものであるという。中と田を合わせれば〈甲〉になり。甲村には田村が含まれている。
 カフカ少年の〈カフカ=カラス〉という等式も、ナカタさんの〈カラ…空〉という言葉によって媒介され、二人は結び付けられている。ナカタさんは、空っぽになる前は疎開児童の中で「いちばん成績がよく、また頭もいい子供」だった。となると、数十年前のナカタさんは、カフカ少年と同定でき、〈カラスと呼ばれる少年〉はナカタさんの可能性があるという。十九歳の時に大ヒットとなった佐伯さんの「海辺のカフカ」の中には〈文字をなくした言葉〉〈窓から小さな魚が降り〉という歌詞がある。
ナカタさんによるジョニー・ウォーカー殺害は、カフカ少年の父殺しの代理行為であるだけでなく、彼自身の戦争でもある。ジョニー・ウォーカーは自分をナカタさんに殺させるために、「これは戦争なんだとね。君は兵隊さんなんだ」とけしかける。つまり、ナカタさんは潜在的に戦争時の出来事、岡持先生の衝動的な暴力によって、空っぽの存在にさせられてしまったということへの復讐として、ジョニー・ウォーカーを殺す(戦争)をすることになる。
〈王殺し〉のモチーフについての柴田勝二の論点も面白い。カフカ少年は高松市の甲村図書館へ向かうのだが、この高松市には高松宮が含意されているという。高松宮はリベラルな平和主義者で戦争反対であったという。またカフカ少年とナカタさんが居住していたの東京の中野区野方は、昭和十三年に陸軍中野学校が開校された地であり、その跡地には現在、警視庁野方署があるという。中野学校はスパイ養成所であるが、外国でも活動するので内容は合理主義で天皇を神とは考えなかった。ここに〈王―天皇殺し〉の文脈で、二人は中野区から高松市へ移動して行くのである。この時、ナカタさんに協力するトラック運転手・星野青年は、星野仙一を示唆しているという。なぜなら、プロ野球で王貞治と死闘を演じたのは中日の星野投手であり、星野青年はドラゴンズの帽子をかぶっている。また、星野青年が甲村図書館っで手に取るのはベートーベンの伝記であり、ベートーベンはナポレオンに「英雄」交響曲を捧げようとするのだが、ナポレオンが皇帝と称してからは、その第三楽章を葬送行進曲とすることになる。
 ここで〈王殺し〉のモチーフは納得するが、それが〈王―天皇殺し〉となるというのには疑問がある。村上春樹は戦争について、「父親の世代がやったことに僕たちは責任があります。彼らの生み出した記憶を僕たちも共有しているからです。戦争中になされたことに僕たちは責任があります」と書いてはいるが、天皇については直接、論及していない。最近の『猫を棄てる』でも父親の戦争体験について書いている。それが『ねじまき鳥クロニクル』のノモンハン、『海辺のカフカ』の日本兵につながっている。むずかしい論点だが、私は父親の世代がやったことに私たちが責任があるとは思わない。だから、反リアリズム小説の中で村上春樹が実際の歴史を取り込むことには批判的である。
 柴田勝二もこの本で小森陽一を批判している。小森陽一がこの作品を「歴史の否認、歴史の否定、記憶の切断」と批判しているのに対して、柴田勝二は「特別な悪意」は小森陽一の論評の方にあると正しく指摘している。他のところでも小森陽一の論評を「転倒した論理」としたうえで、「戦争とその責任者を告発する眼差しにおいては、村上は小森と〈同じ側〉に立っているのである」と書いている。2020,9,12

 ☆参考文献

  松山愼介     『「現在」に挑む文学』(響文社 2017)『村上春樹と「1968年」』
 「異土」13号   『『海辺のカフカ』は処刑小説か ――小森陽一『村上春樹論』批判――』

城山三郎『大義の末』を読んで

2021-01-11 12:50:28 | 読んだ本
       城山三郎『大義の末』             松山愼介
『大義』という本及び、その著者の杉本五郎中佐という名前は全く知らなかった。この『大義』では、天皇を神と信じ、天皇=神のために死ねと主張している。この本は、敗戦と共に天皇が神ではないとわかった時点で忘れ去られたのだろう。大久保に「柿見、おまえ、まだ、こんなものを……」と言わせている。
『大義』はネット上に序文を含む全文がアップされているが、吉本隆明編『ナショナリズム』(筑摩書房 一九六四)にもこの『大義』が収録されている。「釈迦を信じ、「キリスト」を仰ぎ、孔子を尊ぶの迂愚を止めよ。宇宙一神、最高の真理具現者、天皇を仰信せよ。万古、天皇を仰げ」という個所がこの作品では「キリストを仰ぎ、釈迦を尊ぶのをやめよ、万古、天皇を仰げ」となっている。また、「汝、我を見んと要せば、尊皇に生きよ、我は尊皇精神のある処常に在り。尊皇の有る処、君常に在り、忠魂永久に皇基を護らん」という個所も「汝、我を見んと要せば尊皇に生きよ。尊皇精神のある処、常に我在り」となっている。いずれも省略化されている。城山三郎は高山文彦との対談『日本人への遺言』で『大義』を暗記するほど読んだというので記憶に基づいて書いたのだろうか。
『大義』の編者序文には「部下青年将校指導指導のために綴られたものであるが、同時に又、これが、子孫乃至は後世青年への遺言書であることは、その緒言に依つて明かである」と書かれている。『大義』は昭和十三年に刊行され終戦までに百三十万部を越えるベストセラーとなったという。高山文彦は城山三郎との対談で十万部としている。また、杉本中佐はこの『大義』で、伏字にはなっているが、中国大陸での皇軍の蛮行についても触れている。そのため懲罰的に前線に送られ戦死したのではないかと推測している。
 八月十五日の玉音放送で、天皇のレコード盤に録音された放送は五分程度であった。私は八月十五日の放送はこれだけかと思っていたが、調べたら放送自体は三十七分余りであった。前日及び当日、朝から正午より重大放送がある旨、繰り返し放送され、正午から和田信賢アナウンサー(放送員)に続き下村情報局総裁の前置きがあって、君が代吹奏、玉音放送と続いた。再び君が代吹奏があって、下村総裁の言葉に続き、和田アナウンサーが詔書を再度読み上げた。玉音放送は録音盤のため音質が悪かったようだが、和田アナウンサーの言葉は比較的よく聞こえたようだ。天皇は「米英支蘇四国の共同宣言を受諾する旨、帝国政府をして通告せしめたり」と述べるにとどまったが、和田アナウンサーは天皇の詔書を再度、読み上げたのち、この共同宣言を明確にポツダム宣言と述べた。その後、和田アナウンサーは首相鈴木貫太郎の内閣告諭を読み、ポツダム宣言、カイロ宣言について解説したようである。これまで書かれたものや、映画、ドラマでは玉音放送だけが取り上げられ、放送がよく聞き取れなかったが、言葉や声の雰囲気で敗戦がわかったという感じであった。しかし、この放送を最後まで聞けば敗戦は明らかだった。玉音放送は十五時、十七時、十九時にも放送されたという。
 城山三郎は、当日、演習があって、この重大放送がありのことも、玉音放送のことも聞かされていなかった。聞かされたのは下士官からだった。「戦争が終わったと言われても、意味がわからないわけよ。戦争は終るもんじゃなくて、勝つか死ぬかだったんだから。終わったといわれてもね」、「だから、その日は、何がなんだかわからないということで終わってしまったと思う」。城山三郎の語るところによれば、敗戦後の行動が凄まじい。付近にたくさんいた野犬を下士官達は試し切りしたという。また、倉庫にあったものを、大八車で持ち出した。城山三郎らには何もくれなかったという。彼は三十日頃に復員した。
 柿見らは敗戦後、旧制H高校で天皇制の是非をめぐる演説会が開いている。彼らは復員しても旧制高校生だったのである。天皇制賛成論は不利であったが、作者は森に賛成の演説をさせている。森は天皇制を一、絶対的な政治権力としての天皇制、二、国民の象徴としての天皇制、三、個人としての天皇ヒロヒトの三つに分けて考えている。ここで問題になっているのは天皇の戦争責任である。
 柿見は「あれほど、すさまじいエネルギーを出し切った時期、良いにせよ悪いにせよ、自分たちの人間性のすべてを賭け切った時期が空白であり、現在の自分と全然無縁なものとは考えられない」と述べ、天皇制の変遷に考えがついていっていないようである。
 問題は天皇の戦争責任であり、天皇制と個人としての天皇であった。天皇はマッカーサーとの写真や、全国巡幸で見せた姿は、なんとなくか弱くうつり、帽子を振る仕草もぎこちないものがあった。まさに現人神とはいえないようだった。おそらくこのような姿を見て、中野重治は『五勺の酒』で僕は天皇個人に同情しているのだと、書いたのだろう。だが、昭和天皇はこのような人物ではなかったようだ。
 戦争の状況も報告だけでなく、よく調べて指示も出していたようだ。ポツダム宣言の受諾も見切り発車ではあるが、国体(=天皇制)の護持を確認してからである。戦争の終決も、天皇制の廃止されることの
危機感、三種の神器の無事のためのようだった。戦後、沖縄をアメリカ軍に差し出したのも共産革命を恐れてのことだった。明治憲法は天皇機関説であり、昭和天皇には法的には戦争責任はなかったことになっているが、それを意識しながらも昭和天皇は政治に介入していた、したたかな人物であったようである。
『軍艦旗はためく丘に』は、たまに行く宝塚が舞台になっていて興味がわいた。戦時中の宝塚歌劇については『愛と青春の宝塚』(二〇〇二)というドラマの再放送が数年前にあって面白かった。主演が藤原紀香(嶺野白雪)で、接収にくる将校が仲村トオルであった。宝塚歌劇団の全施設を接収し、旧大劇場の観客席を仕切って教室にしている。戦時中は劇団員は川西航空機で労働奉仕をし、その跡地が現在、阪神競馬場になっているという。ここに宝塚海軍航空隊がおかれたが、訓練するべき飛行機はすでになかった。
 城山三郎の地元、愛知一中予科練総蹶起事件(一九四三年六月)というのがあった。予科練の募集人員が足りないので、各中学に応募人員を割当てたのである。割当はおよそ五十人と言われている。愛知一中では当初、志願者は十三名であったが、教師の説得に生徒が応じ、一種異様な雰囲気となり、五六〇名もが手を上げる事態となった。その後、冷静になり、志願者は百八十七名、そのうち視力、体力の適格検査の後、最終的には五十六名になったという。戦争中のエピソードには終わらない話である。
 現在、NHKの朝ドラ『エール』で古関裕而が取り上げられているが、彼は戦争中、軍歌を作曲していた。「露営の歌」(昭和十二年)、予科練の「若鷲の歌」(昭和十八年)などである。また昭和十一年には「六甲おろし」、「栄冠は君に輝く」を作曲している。「若鷲の歌」を聞いて予科練を志願した若者も多かったという。かれは作曲家なので、罪は薄いかもしれない。「長崎の鐘」(昭和二十四年)は原爆の死者へのレクイエムという。一作曲家も戦争に巻き込まれていたのである。
                       2020年8月8日


「セガレ」という柿見の叫びには、天皇制に対する否定と親愛の感情がごちゃまぜになっている。天皇制は、森が言うように「皇居を移転させることだ。維新当時、将軍家が駿府へ移って政治への未練がないことを示したように、天皇家もどこかに移ることだ。移転先はどこでもよい」、「そして、最後は伊勢神宮の宮司のような、祭祀長的存在になればいい。そうなれば、政治家も利用すまい」、「こうして、ほぐすようにしてなくして行くのだ。ほぐす過程は、国民が大事にされて行く過程であり、同時に天皇や皇太子が人間として幸福になって行く過程なのだ」
 この森の言葉がこの作品の結論的なものなのだろうか?

野上弥生子『秀吉と利休』を読んで

2021-01-11 12:42:52 | 読んだ本
         野上彌生子『秀吉と利休』          松山愼介
「唐御陣、明智討ちのようにいくまい」という利休の言葉が、この作品の底流に流れている。野上彌生子はこの言葉が、秀吉にもれ聞こえたのが利休失脚の要因と考えている。一方で、この作品には利休の侘び茶は、ほとんど出てこない。
私の勝手な秀吉像では、秀吉と茶道は結びつかない。黄金の茶室も利休が設計したらしいが、侘び茶とは無縁のものだろう。茶道では利休は秀吉の師であり、政治的には利休は秀吉の臣下である。刀を外して躙口から、頭を下げ腰を屈めて入らねばならぬ利休の茶室を、天下人となった秀吉は表面的には面白い趣向だと思ったかもしれないが、内心では我慢できなかったに違いない。しかし、利休は信長の茶道の師でもあったから、秀吉もこの利休の茶道を否定することはできない。
 信長は高価な茶器を集め、それを配下の武士への報償とした。信長は本能寺で茶会を催す計画だったが、高価な茶器は本能寺の変で灰燼に帰した。以後、利休は侘び茶を目指したらしい。それが秀吉の茶の師となり、はからずも側用人のような役割を果たし政治面にも口を挟むようになったのだろうか。秀吉は「ご機嫌しだい」というところがあったという。哀れなのは山上宗二である。北条幻庵との約束を果たそうとして、秀吉の怒りを買い目と鼻を削がれたうえ、打首になる。山上宗二には利休や茶道についての書き物があり、重要な資料になっているという。
 秀吉は日本を統一し絶対権力者になった。家康を服従させるのには苦労をしたが、北条攻めでは家康を先陣に使っている。その家康を関東に追いやった後、家康も秀吉には口を出せず、関東の経営に専念したようである。秀吉が唐攻めを言いだした時、案外、家康は秀吉の力が唐攻めで弱っていくのを予想して、ほくそ笑んでいたのかもしれない。野上彌生子は、唐御陣は剣の魔力に憑かれての征服欲ばかりではなく、目的は明貿易の恢復にあったとしているが、たしか秀吉は信長に「唐天竺まで征服してみせましょう」と言ったのを、どこかで読んだ覚えがある。
私は、秀吉は本気で明を征服するつもりだったと思う。国家というものは、国力が増加すれば他国を武力侵略する傾向がある。地続きのヨーロッパは、ほとんど戦争の歴史である。三十年戦争を続けていることも珍しくない。ただ日本は島国なので、ある程度、抑制が効いているかもしれないが、明治維新でも征韓論が盛んになった。日本では侵略の対象となるのは地理的に朝鮮、中国である。
 NHKの「戦国」という番組によると、戦国時代、日本には三十万挺の銃があり、ヨーロッパの諸国と比較しても遜色が無かったという。また弾丸にはタイの鉱山で採れた鉛が使われていたという。鉄砲が伝来してからは、日本で改良をくわえ独自に生産体制を確立したという。朝鮮、明を攻めるためには船での輸送という問題があるので、一概にはいえないが、地続きであれば、三十万挺の銃があれば明の征服も可能だったかもしれない。この秀吉の戦争も、彼の死によって終わることになる。その結果、朝鮮で戦った福島正則、加藤清正らと、後方を担当した石田三成との対立が激しくなっていく。家康によって天下が統一されてからは、失職した武士の中にはオランダなどの傭兵となって海外で戦った者もいたという。
 石田三成は典型的な官僚政治家で、またずば抜けた行政官でもあった。彼は絶対的な中央集権こそ、豊臣氏の天下支配を揺るぎないものにする原理と信じていた。その石田三成にとってたった一枚、あるべき場所からはずれて特殊な鱗光を放つうろこが利休であった。秀長は三成の非妥協性のゆえに利休を兄の側近になくてはならぬものと考えていた。その秀長が亡くなった後、利休は三成によって追い詰められていくことになる。
 大徳寺総見院三門は千利休の寄進によって改修された。その結果、古溪和尚の肝いりで利休の木像が三門に置かれることになる。茶道の頭であった利休が、生きている間に自分の木像を作ることを認めたのは、自分の力を過信していたのではないか。秀吉も結局、利休の侘び茶を理解できなかったのだろう。高価な花入れを使わずに、竹ヒゴで編んだ容器や、竹を切り取って花入れにするということは、権力者になってからの秀吉には理解の外であったろう。そうなれば、行政官としての三成を重視し、利休の居場所が無くなったのは当然のことであったろう。
                             2020年7月12日