遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

『五番町夕霧楼』を見て

2016-03-05 11:05:00 | 映画を楽しむ







『金閣炎上』に関連して映画『五番町夕霧楼』を見た。以前、佐久間良子のものを見たことがある。今回は一九八〇年の松坂慶子主演のものであった。たまたま図書館にあったものである。この映画は『金閣炎上』と『五番町夕霧楼』をミックスしたようなものであった。松坂慶子演じる夕子と、奥田瑛二演じる鳳閣の小僧正順との悲恋物語になっている。夕子と正順はは丹後で、幼なじみであった。夕子は貧困のために、五番町夕霧楼に売られていく。その夕霧楼の女将を演ずるのが浜木綿子である。夕子はその美貌から遊女として売れっ子になっていくが、結核を発症する。正順は夕子に会うために、大学に行かずにアルバイトで夕子と会う費用を工面しようとするが、それが鳳閣の住職(佐分利信)にバレ叱責される。
 この映画には当時の京都の様子もえがかれる。アメリカ兵と日本人の女性が戯れたり、池の鯉をアメリカ兵に食べさそうとするのに、正順が抵抗する場面もある。結末は、夕子の病状と、正順の行末を悲観して、正順が鳳閣(金閣)を焼くことになる。一方、夕子はこのニュースを聞いて、丹後の浜辺で自殺する。正順の母(奈良岡朋子)は、正順の骨を故郷に持って帰ったところで、この夕子の自殺に出会う。正順の母は夕子の胸に正順の骨を置いて、「二人はどんなに一緒になりたかったろう」と泣き崩れるところで終わっている。
『金閣炎上』は水上勉が厳しくかつ、理不尽な面もあった自らの徒弟生活を、金閣を炎上させた林養賢に投影したものである。読んでいると水上勉のお寺制度への恨みを感じる。しかし、映画『五番町夕霧楼』はそのような、お寺の徒弟制度に対する水上勉の怒りは後景にやられて、夕子と正順の悲恋物語になってしまっている。これはこれで面白いのだが。
 昔は娘の身売りがあったが、現代でも、貧困のために、学生や、離婚した女性が風俗で働いているという話をよく聞く。学生の場合、奨学金の返済が重荷になっているという。離婚した、子持ちの女性も、稼げる間に、風俗で稼ごうというのは分からない話ではない。日本は表面的には豊かになったが、高齢者の生活保護受給者の増加、風俗で働からざるを得ない女性が増加しているということは、現在の新たな貧困という課題をわれわれに突きつけている。

 主演の松坂慶子は、現在もテレビに登場しているが、貫禄のあるおばさんになっているが、この当時は非常に美しい。私は松坂慶子を映画『蒲田行進曲』の舞台挨拶で、実物を見たことがある。白のスーツ姿で、美しかった。この映画には、娼婦役で風吹ジュンも出ている。
 女将さん役の浜木綿子も当時、四五歳だが、成熟した女性の魅力を発散している。
 浜木綿子に関連していえば、息子の香川照之の歌舞伎への転身が話題になっている。香川照之の『市川中車』によれば、浜木綿子は香川照之という名前を捨てるなら自殺すると言ったそうである。歌舞伎界の内幕はわからないが、香川照之が、自身が歌舞伎の血を受け継ぐために四〇歳を越えて転身したのは大変なことである。正月の松竹座での、『芝浜』を見たがなかなか舞台姿はうまくいっていた。彼のこれからの活躍を祈りたい。
                           2016年3月5日

映画『善き人のためのソナタ』

2015-07-03 23:34:28 | 映画を楽しむ
      映画『善き人のためのソナタ』
                          松山愼介
『善き人のためのソナタ』(フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督)は二〇〇六年のドイツ映画である。最初に字幕で時代状況が説明される。時は一九八四年、東ドイツには国家保安省(シュタージ)があって、協力者十万人、密告者二十万人がすべてを知ろうとする独裁者を支えていた。当時の東ドイツの人口は千六百万人であるから、五十人に一人の割合で国家保安省への協力者がいるという驚くべき監視社会であった。ベルリンの壁崩壊の五年前のことである。
 主人公はヴィースラー大尉である。シュタージで任務をこなす他、学生にも社会主義の敵を尋問する方法を講義している。容疑者を自白させる方法は四十時間寝させずに尋問することである。容疑者は椅子に座り、両手を太腿の下に入れることを要請される。これは容疑者の抵抗心をそぐためでもあり、椅子を覆っている布切れに匂いを染み込ませ、その布切れを万一の場合にそなえて保存しておくのである。例えば、容疑者が逃亡した時に、警察犬で追跡できるように。学生の一人が「四十時間寝させないのは非人間的ではないでしょうか?」と質問すると、彼はすかさず、座席表のその学生の名前にチェックを入れる。
  四十時間たつと、無実の容疑者は怒りをもって抗議しはじめるが、罪を犯している容疑者は泣き出す。しかも何時間たっても同じ供述を繰り返す。ここまでくると妻を逮捕し、子供を孤児院にいれるぞと圧力をかけると全面的な自供が得られるというのである。「尋問相手は社会主義の敵だ」というのがヴィースラー大尉の信条である。彼はこの正義の仕事に、全く疑問をもっていない。ヴィースラー大尉役のウルリッヒ・ミューエは終始、無表情で冷酷なこの役をうまく演じている。講義を終えたヴィースラー大尉をヴォルヴィッツ中佐が拍手で迎える。二人は二十年前のこの学校の同期生である。ヴィースラーは人づき合いも上手くないのだが、ヴォルヴィッツは世渡りがうまく順調に出世の道を歩み今は中佐となって、ヴィースラーの上司となっている。
 二人は食事をするのだが、ヴォルヴィッツは当然のように幹部席に座ろうとする。ヴィースラーは、社会主義的平等は身近なところから実行していかねばと考えているので一般席に座る。一つ横のテーブルでは若者三人が、ホーネッカー議長に関するジョークを話している。
 ホーネッカーは朝、執務室に入り窓辺に立ち太陽を見て言う。
  「おはよう。太陽!」 太陽は答える。
  「おはよう。エーリッヒ!」
 昼になってエーリッヒは言う。
  「こんにちは。太陽!」 太陽も言う。
  「やあ~エーリッヒ!」
 夕方になり、またエーリッヒは窓辺で言う。
  「こんばんわ。太陽!」 太陽は答えない。
 エーリッヒは太陽に再度、問いかける。
  「こんばんは。太陽!」 太陽は答える。
  「クソ野郎! 俺は西側にいるよ」
 国家評議会議長に、西側の方が居心地よいのだと言いたいのだ。ちなみにヴォルヴィッツは、その若者を見てムッとした表情で「君の所属と階級は?」と尋ねる。一瞬、若者の顔に脅えがはしる。それを見ると、ヴォルヴィッツはハッハと笑い、冗談だよと水に流す。体制に不満の若者はこのようなジョークで発散するしかないのだ。ちなみに最初の尋問のシーンは、容疑者の友人が西側に逃げ出し、ヴィースラーはその手引を誰がしたかを激しく問い詰めているところである。結局、四十時間、寝させられずに尋問された容疑者は、手引した人物の名前を自白してしまうのである。   
 ヴィースラーはヴォルヴィッツに演劇『愛の表情』に招待される。主演はクリスタ=マリア・ジーラント、演出はその恋人のゲオルグ・ドライマンである。ドライマンは西側にも評判のいい演出家であり、かつ社会主義・東ドイツの模範市民と思われている。ヴィースラーはドライマンを一目見て、監視の必要性を感じる。ヴォルヴィッツは乗り気ではないが上司のヘンプフ大臣の指示もあって、ヴィースラーの主張する監視に同意する。ヴィースラーがドライマンの家を監視していると、夜遅く、クリスタが車で送られて帰ってくる。調査をするとその車はヘンプフ大臣のものであった。ヴィースラーがこれをヴォルヴィッツに報告すると、ヘンプフ大臣については文書で報告するなと言われる。ヴォルヴィッツにとっては、ヘンプフ大臣は出世の手がかりでもあり、上司でもあるので、彼を監視するわけにはいかないのだ。ここで始めてヴィースラーの中に、この体制への疑問が生まれる。社会主義に忠実な彼は、情実で事が動かされることに我慢ができないのである。ヴィースラーは入党した時の誓い“我らは党の盾と剣である”を覚えているかと、ヴォルヴィッツに話しかけるが、彼はこともなげに「俺は出世をめざしている」と言い放つ。そのためにはヘンプフ大臣に協力して、その政敵を追い落とすことが必要なのだと考えている。
 映画では車(リムジン)の中で、クリスタとヘンプフ大臣とが情交するシーンがある。クリスタとヘンプフ大臣の関係は、昨日、今日の関係ではない。彼女はドライマンに惚れているのだが、ヘンプフ大臣に弱みを握られ情交を断れないのである。ドライマンと一緒に住んでいる部屋に帰りつくと、クリスタは汚された身体を必死になって洗う。ヘンプフの気配を消し去るように。最後には自己嫌悪に陥ってシャワールームのバスタブに座り込んでしまう。恋人がいながらも彼女は何故、大臣と関係しているのか。これは映画では明確に示されない。ヘンプフ大臣は演劇界を粛正した実績がある。おそらくそのために、彼から情交を迫られたクリスタは、それを拒否できなかったのだろう。もちろん。演劇界での自分の位置も危うくなるし、下手をすると、恋人のドライマンにも害が及ぶ可能性があるから。また後に、クリスタは薬物中毒であることがわかるので、その弱みをヘンプフ大臣に握られていたのかも知れない。クリスタの薬物中毒は独裁社会主義国家の精神病であろう。
 ヴィースラーはドライマンを見た時から監視の必要を直感した。ヴォルヴィッツは、ドライマンはシロだと思っているので監視に乗り気でない。しかし、監視するようにヘンプフから指示される。このヘンプフの意図にはドライマンの弱点を見つけ出して、彼を抹殺し、クリスタを独占しようとする意図があったのかも知れない。
 ヴィースラーはドライマン不在の時に部屋に調べに入る。西側の書籍や新聞、雑誌が雑然と置かれている。彼はなにげなくブレヒトの本を持ち去る。ドライマンの部屋には、あらゆる場所に盗聴器が仕掛けられる。彼はビルの屋根裏部屋を改造し盗聴ルームにする。チョークでその部屋にドライマンの部屋の間取りを書くほど念がいっている。盗聴は部下の軍曹と二交代制で行われる。盗聴のためのヘッドホンを掛けたヴィースラーは無表情だが、盗聴という仕事に対する秘められた情熱が感じられる。盗聴によって、何としても社会主義の敵を暴き出すのだという情熱が。ところが盗聴を重ね、ブレヒトの詩を読むうちに、彼の心にわずかずつ変化が起きはじめる。

    ブルームーンの九月のある一日
    静かにすももの樹のかげで
    青ざめた恋人を抱きしめる
    腕の中の彼女は美しい夢
    二人の頭上には夏の空
    一片の雲が眼に止まった
    白い雲、天高く
    見上げると、もう消えていた

 ドライマンに一本の電話が入る。友人からイェルスカが首を吊って自殺したという知らせだった。ドライマンの友人の演出家イェルスカはヘンプフ大臣主導の演劇界の大掃除によって、仕事を失い、ドライマンに「善き人のためのソナタ」のスコアをプレゼントした後、自殺する。この「善き人のためのソナタ」は、この曲を本気で聴いた者は、悪人になれないという、心を落ち着かせる名曲であった。レーニンもこの曲を聞くと革命はできないと言ったという。ドライマンはピアノで「善き人のためのソナタ」を弾き始める。その「善き人のためのソナタ」を盗聴しているヴィースラーは聞いてしまう。いつしか彼の頬を一筋の涙が伝う。彼の生活は無機的なもので、部屋にも最小限の家具しかない。性も巨大な乳房のコールガールを呼ぶことで処理している。このヴィースラーの世界が、ドライマンの部屋を盗聴することによって揺すぶられていく。上司の功利的な世渡り、一方に、情熱的で人間的なクリスタとドライマンの生活がある。ブレヒトの愛の詩もある。
 盗聴を終えて家に帰り、エレベータに乗ると、転がったサッカーボールと共に一人の少年が入ってくる。
「おじちゃん、シュタージの人なの?」
「シュタージが何か知っているのか?」
「知ってるよ。悪い人たちでしょう。みんなを捕まえちゃうって、パパがいってた」
「そうか。なんて名前?」
「僕の名前?」
「ボールだよ、ボールの名前?」
「おかしいの。ボールはボールだよ」
 職務に忠実だったヴィースラーであれば、この子供の親の名前をさり気なく聞き出し、呼び出し、尋問しただろう。しかし、この時は「善き人のためのソナタ」を聞いた後だった。それでボールの名前を聞いたことにしてごまかした。
 ある日、クリスタは昔のクラスメートに会うと言って出かけようとする。ヘンプフに呼び出されていたのだ。二人の関係に薄々感づいているドライマンは「行かないでくれ!」と懇願する。彼女は悲しげに答える。
「演目も役者も演出家もお偉方に握られているから、行くのは仕方がないわ。
あなただって、お偉方に媚びているんじゃないの、彼らはなんだって握りつぶせる力をもっているのよ」
その時、交代の軍曹が来たので、ヴィースラーは帰りかけるが、彼らのことが気になって、真っ直ぐに無機的な部屋に帰る気にならずバーに入り、ウオッカを注文する。そこへドライマンを振りきって出かけてきたクリスタもに入ってきてコニャックを注文する。ヴィースラーは落ち込んでいる彼女に一人のファンのような顔をして話しかける。
「舞台でのあなたは光り輝いていた。今のあなたはあなたじゃない」
「なら教えて、彼女は最愛の男を傷つけるような女だと思う?芸術のための芸術に身を売るかしら?」
「芸術ならあなたは持っておいでです。そんな取引は良くない。あなたは偉大な女優だ。ご存知ないんですか」
「あなたは本当いい方よ」
 次の日、軍曹の報告書をヴィースラーは読む。前夜、彼女は出かけて約二十分たった頃に引き返してくる。ドライマンの喜びは大きく、二人は激しく愛しあう。彼女が二度と離れないと誓うと、ドライマンは「これで力が湧いてきた。何かできそうな気がする」と答える。軍曹はスランプに陥っていた彼が新しい戯曲を執筆するのだと考え、報告書に書いていた。
 東ドイツの統計局は何でも数値化している。ただし、一九七七年から自殺者を数えるのを止めた。自殺者は「自己殺害犯」とされた。その結果、一番、自殺者の数が多いのはハンガリーとなった。
ドライマンはイェルスカの自殺をきっかけに東ドイツの監視社会、自殺の実態を論文にし、西ドイツのシュピーゲル誌に発表することを決意する。その打ち合わせを、どこでするかが問題になる。ドライマンは、自分は監視されていないと確信しているので、自分の部屋で相談することにする。疑い深い仲間は盗聴の可能性があるから、ガセネタを流して盗聴をチェックしてみようと提案する。当局に睨まれている友人ハウザーを車の座席の下に隠してハインリッヒ・ハイネ通りの検問所を突破させ、西側へ脱出させるというものだった。これを聞いたヴィースラーは、許せないと思い、検問所へ通報しようとする。ところが電話が繋がった途端、電話を切ってしまう。
 この場面のヴィースラーの心理は揺れていて、複雑である。ドライマンらの自由主義的雰囲気に影響され始めているし、クリスタをおもちゃにしたヘンプフ大臣や、出世主義者のヴォルヴィッツへの反感もあっただろう。シュタージの悪口を言った少年を見逃したこともある。完璧な社会主義の番人ではなくなりつつある。かれは「今回だけは見逃してやる」と苦り切った表情でつぶやく。数時間後、友人から検問所を無事通過したという電話が入る。ドライマンの部屋には、西側へ脱出したはずのハウザーの声が聞こえる。ようやく、ヴィースラーは盗聴を試されたのだということに気づく。おそらく、ここで彼は無意識のうちに東ドイツを裏切ってしまったのだ。この時、クリスタに対する淡い愛情も芽生え、自由主義的生活へのあこがれも生まれていたはずである。
ドライマンの部屋での三人の集まりは、東ドイツ建国四十周年記念作品の台本を書いていたことになる。ヴィースラーは報告書に「報告に値する出来事は特になし」と書きつける。
 ドライマンはシュタージに気づかれないように秘密の小型のタイプライターを使い、自殺者の数を中心とした東ドイツの実情を全ドイツに知らせるために論文にする。ただ、そのタイプライターには赤リボンしかなかった。その後、タイプライターを敷居板の下に隠す。この一部始終を聞いていたヴィースラーは、再び自分の任務を思い出し、ドライマンを告発する文書を仕上げ、ヴォルヴィッツのところへ持って行く。ところがヴィースラーが報告しようとする前に、ヴォルヴィッツは「入獄中の反政府芸術家の性格パターンについての考察」という文書を得意げに見せつける。それによるとドライマンはタイプ4で「ヒステリー症で人間中心主義、孤独に耐え切れず友を必要とする」という。ヴォルヴィッツはドライマンの社会主義への犯罪の証拠が間もなく手に入るものと確信して、どういう罰則をあたえるべきかを得々と述べる。
「一時的に拘留して、誰にも会わせず優遇する。完全に孤立させ守衛にも会わせない。釈放期限を決して知らせない。そして十カ月後、突然、釈放する。それで終わりだ。彼らはそれ以後、一切ペンを持たなくなる。いとも簡単にカタがつく」
 ヴィースラーはこのヴォルヴィッツの時代錯誤、現実を見る目のなさに絶望して、報告書を握りつぶす。ここで完全に東ドイツの独裁社会主義と縁を切ることを決心する。
 数週間後、シュピーゲル誌に記事が発表される。ヴォルヴィッツは、まだヴィースラーが裏切ったとは思っていない。彼のミス、重大なミスだと考えたのだ。ヴォルヴィッツはシュピーゲル誌内の協力者から原稿のコピーを入手していた。その原稿のコピーからタイプライターを特定し執筆者を逮捕するのだ。捜査が行き詰まっていると、ヴォルヴィッツはヘンプフ大臣から呼び出される。ヘンプフは自分の意のままにならないクリスタを切ることを決断する。ヴォルヴィッツにクリスタが不法に薬物を入手していることを知らせる。ヴォルヴィッツは直接、逮捕されたクリスタを取り調べる。クリスタはヴォルヴィッツを色仕掛けで誘惑してまでも、この危機を逃れようとする。だがヘンプフがクリスタを切った以上、ヴォルヴィッツはその誘いにのらない。クリスタに残された道はドライマンが記事を書いたことを自供することだけだった。ヴォルヴィッツは直接、指揮をしてドライマンの部屋の家宅捜索を行う。だがタイプライターは発見できなかった。ヴィースラーの裏切りを感じつつも、ヴォルヴィッツは彼に最後のチャンスを与え、クリスタにタイプライターの隠し場所を尋問させる。クリスタはヴィースラーの顔を見て、バーで出会ったことを思い出し、自分が監視されていて、もはや逃げ切れないことを悟る。
「今から、十時間後に、いや正確には九時間半後に、劇場で君が健康上の理由で今後、舞台に立つことはないという声明が発表される。君の女優人生は幕を閉じることになる。いいのか?」
「自分が助かることを考えるべきだ。無意味な正義感に流されて監獄にぶち込まれた人間は大勢いる」
「君のファンがいることを忘れるな」
「タイプライターの隠し場所を言え!」
「そうすれば、ドライマンにバレないように、ただちに君を釈放する」
「捜索は君が帰宅してからだ、君は演技で驚いたふりをすればいい」
「そうすれば、今夜の舞台に立てる、舞台こそ君の居場所だ」
「ファンだって君を待っている」
 この尋問にクリスタは観念し、差し出された部屋の間取り図を見て、タイプライターの隠し場所に印をつける。この二人に共感するようになっていたヴィースラーは二人を助けようとする。一人、先回りし部屋に乗り込んでタイプライターを自分で隠す。ヴォルヴィッツがドライマンの部屋に家宅捜索にくる。彼が敷居板に目をつけると、ドライマンはクリスタを睨みつける。彼女はたまらず通りへ飛び出しトラックにはねられ「弱い私は償いきれない過ちを犯してしまったわ」と、つぶやきながら死んでしまう。
 敷居板の下から何も見つけられなかったヴォルヴィッツは引き上げるが、ヴィースラーの裏切りには気づいている。当局を裏切ったヴィースラーは、国家保安省の地下で、市民の封筒を蒸気で秘密に開封するという閑職に追いやられてしまう。退役まで二十年、その仕事が続くのだ。
 しかし、ゴルバチョフがソ連の大統領になったこともあって、この事件から四年七カ月後の一九八九年十一月九日にはベルリンの壁が崩壊する。それをヴィースラーに教えたのは同じように蒸気で封筒を開ける閑職につかされていた、ホーネッカーに関するジョークを話した若者だった。
 ドライマンは舞台『愛の表情』を見ている。途中で、クリスタのことを思い出して、たまらず席を立つ。ロビーに出ると、同じように席を立ったヘンプフがいた。ドライマンはヘンプフに問う。
「何故、私は監視されていなかったのか?」 ヘンプフは答える。
「君は完全に監視されていた。部屋の電気のスイッチの中を見てみろ」
 部屋に帰ったドライマンは壁いっぱいに張りめぐらされた盗聴器の配線に愕然とする。早速「記念資料館」に出かけて、自分の資料を閲覧申請する。一九九一年から一般市民にも機密文書が公開されることになっていた。ただし、閲覧申請ができるのは本人だけである。申請すると「あなたの資料は沢山あります」と言われ、しばらく待たされる。やがて彼に関する膨大な文書がワゴンで運んでこられた。ドライマンが東ドイツの自殺に関する論文を書いていたのに、最後の報告書には建国四十周年記念作品の台本を書いていたことになっており、その報告書の下端には指に付いた赤インクの汚れが残っていた。報告者のコードネームは“HGW XX/7”であった。係官に問い合わせるとそれはヴィースラーであった。秘密の小型タイプライターのインクリボンは赤だったので、ここでドライマンはヴィースラーがタイプライターを隠したことに始めて気づく。また自分がヴィースラーによって救われていたことも。
 しばらくしてドライマンがタクシーに乗っていると、通りを郵便配達のワゴンを引きながら歩いているヴィースラーを目にする。思わず声をかけようとするが、思い留まる。これをきっかっけにドライマンは再びペンを取る。
 二年後、いつもの様に手紙の配達をしているヴィースラーが書店の前を通りかかる。窓にはドライマンの新作『善き人のためのソナタ』の宣伝ポスターがある。彼は店の中に入って、その一冊を手に取る。なかには「感謝を込めて“HGW XX/7”に捧げる」という献辞があった。ヴィースラーはそれを買い求める。
「ギフト用に包みます?」と店員が聞くと、
「いや、私のための本だ」とヴィースラーは答えた。
 
 私が子供の頃は、資本主義の後は、社会主義の時代がくると信じられていた。北朝鮮の社会主義を賞賛している中学校の教師もいた。大学時代に至っても、ソ連の五カ年計画は大成功であったという講義があり、共産党系の学生がそれに拍手をするという場面もあった。社会主義、ソ連の生産力がアメリカに追いつき、追い越すことが信じられていた。しかし、社会主義圏の生産は向上しなかった。物資は配給制であり、生活は豊かにならなかった。一九六〇年代には経済的に社会主義が資本主義を追い越せないことが明白になった。社会主義という理念では人々は献身的な労働をおこなわず生産は向上しなかった。与えられたノルマをこなせばそれでよかった。製品の質はどうあれ、決められた労働時間、働けば一定の給料が保証された。それ以上働いても給料は変わらない。そのような社会では経済は発展しない。映画に出てくる自動車は、青い排気ガスを出している。二十年、三十年間、同じ型の自動車を生産していたという話もある。生産物は国家を通じて分配される、つまり確実に売れるのだから品質の向上は追求されない。東ドイツの大衆車であるトラバントという自動車は、日本ではひと昔前にオートバイに使われていたツーサイクルエンジンで、猛烈な青い排気ガスを出し、車体にはベニヤ板が使われていたという。
 結局、現在の資本主義のように個人が利益を追求し、その結果の不公平を国家によって税金を通じて再配分するというシステムに軍配があがったのである。戦後、ソ連圏に併合された東ドイツでは、西ドイツのほうが自由で豊かであることが明らかになった。そうすれば東ドイツという国家が生きのびるには西ドイツとの情報を遮断し、国内の思想統制を強化する他はない。国境を接しているヨーローッパでは西側の情報はどこからともなく入ってくるであろう。このために国家保安省は強化され肥大していった。このような社会では、生き残るためには、国家体制の側で上昇を目指す他ない。ただ東ドイツの国民の中には社会主義の正義を信じる者もいたであろう。ヴィースラーはその一人であった。職務上、西側の情報も知り得たし、国内の自由主義者の考えに触れることにもなった。国家と国民、統制と自由の板挟みになったのである。この映画は、このようなヴィースラーの苦悩をよくえがいている。社会主義の理想を信じ、社会主義の敵を打倒すべきと考えていたシュタージの中間管理職が、苦悩のうちにも盗聴する対象の自由主義者から、本当の愛を知り、独裁社会主義国家に疑問を感じていく様子がサスペンスタッチで見事に映像化されている。
 結局、社会主義革命というのは壮大な無に終わった。それだけでなく、ソ連、中国では無理な集団化、社会主義的農業化のために数千万人が死亡したと伝えられている。人は理念では生きられないのである。
 吉本隆明に一九八九年七月九日に行われた『日本農業論』(『吉本隆明〈未収録〉講演集〈3〉』所収)という講演がある。まさにベルリンの壁崩壊の直前である。それによると、ソ連の八二年度の農業をみると、コルホーズの農場が四十三、三%、ソホーズが五十一、五%、個人経営が二、九%となっている。ところがこの個人経営の農場がジャガイモの六十三%、野菜の三十二%、食肉の三十%、牛乳の二十七%、鶏卵の三十一%を生産しているのである。これが国有化の弊害である。コルホーズやソホーズの給料は決まっているので、いくら働いても自分の取り分にならない。個人経営だと自分の取り分になるので一生懸命働く。農業機械にしても、自分たちの工場の技術と設備の枠内の農機具しか作らない。農民が本当に必要としている農機具を開発製造するという発想が全くない。できた製品は必要でもない所にまわされる。
 たまりかねたゴルバチョフは個人経営者に個人経営用の農地を貸与するという提案を言い出した。このようなことになってしまったのは、マルクス、エンゲルスによる農業の《土地国有化、国民的管理のもとに共同耕作をする》という原理がある。マルクス、エンゲルスは楽天的だったというか、国有化の結果を見通せなかったので共同耕作をすれば安くていいものがつくれると考えたのである。ところが《国家というものはいったんできてしまうと、どんな政府でも、つまり社会主義政府であろうと自由主義的な政府であろうと、国家自体で閉じられていき、大衆的な利益とは矛盾を生じてきますから、国有化が本当の全国民的管理にならないで、国家官僚による管理ということになってしまう、国家官僚の利害が第一になってしまいます》ということになる。つまり《無分別な競争》の代わりに、《無分別な管理》が横行することになり、汚職がはびこり、官僚だけが肥え太ることになってしまったのだ。このような社会主義を吉本は社会国家主義という。
 吉本は日本の農業についても触れている。日本でも「進歩派」は土地の国有化、企業の国有化が社会主義の目標だと考えている。むしろ自民党の方が、ゴルバチョフと同じ程度には農業の自由化をやっている。ペレストロイカは自民党と同じ程度には進歩性があるということになる。日本における歴史の無意識に任せた農業の考え方が、回り回ってゴルバチョフと同じになるという歴史の皮肉がある。歴史は資本主義から社会主義、共産主義というようには単純な進歩史観では捉えられない。日本の場合、アメリカ占領軍によって農地解放が行われ、小さな自作農がそれほどの格差もなく並列した。案外、このような状態が理想に近いかもしれないというのが吉本の考え方である。
 ベルリンの壁崩壊後、一九九一年八月十九日にソ連でクーデターが起った。ゴルバチョフがソ連共産党を見限り、国家主権を各共和国に移譲し、ソ連邦を各共和国間の調整役にしようとしたのだ。これに反対したソ連共産党派がクーデターを起こしたわけだが、結局、エリツィンがとって代わった。国家管理社会主義者が敗北したわけだ。《国家社会主義理念あるいは共産党による国家権力の掌握をして行われた民衆の解放が、高度資本主義社会における民衆の解放度に負けた》のである。この映画はこのような問題も提起していると言えるだろう。
 普通、映画は一度しか見ない。しかし、現在の技術革新により、DVDで手軽に家庭で映画が見れるようになった。巻き戻しも自由で、同じシーンを繰り返し見ることができる。映像に隠された仕掛けも何度か見るうちに気がつくこともある。最後のヴィースラーの報告書に残された赤く残された指の汚れなどは見事である。途中での秘密のタイプライターに赤のインクリボンしかなかったという仕掛けがきっちりいかされている。この赤インクの汚れでドライマンが自分はヴィースラーによって救われたという事実を理解するのだ。「私のための本だ」という言葉にはドライマンがヴィースラーに向けて書いた本ということが示めされている。時代は人間をのせて進んでいくのである。たとえ、遅々とした歩みであろうとも。                                   
                                      2015年3月31日



 

『永遠の0』

2014-07-20 20:51:30 | 映画を楽しむ
   『永遠の0』(小説、百田尚樹 映画、山崎貴監督)     
松山愼介

百田尚樹の『永遠の0』が良いという話を聞いて読んでみた。ゼロ戦を扱っているということは聞いていて、戦争賛美の本なのかと思ったが、全然違った。むしろ戦争批判の小説であった。宮部久藏という特攻で死んだ祖父の真実を、孫の姉弟が、生きている戦友に聞いてまわるというのがおおまかなストーリーである。最初に話を聞いた戦友は臆病者だといった。ここが小説なので、祖父の真実は臆病者という一番最低のラインから凄腕のゼロ戦乗りだったというように、右肩上がりに評判は上がっていく。
祖父久藏は出征する直前に結婚しており、女の赤ちゃんも生まれていた。彼は必ず帰ってくると妻に約束する。死んでも帰ってくる、と。この約束を守るために、彼は操縦の腕を磨き、戦場では何よりも自らの生還を優先した。そのため空中戦では敵機より上方にあって攻撃をする。無駄な空中戦はしない。その姿勢が他の操縦士からみれば臆病者に映ったのである。ゼロ戦のエンジンが不調の部下には、無駄に自爆させずに不時着を命じて、あくまで生きることを追及させた。大成功といわれた真珠湾攻撃でもアメリカ軍の対空砲火のため二十九機が未帰還機となり、また多くの航空機が被弾した。攻撃部隊の戦死者は五十五名であった。
ミッドウェー海戦では日本軍は大敗北を喫した。しかし空母三隻が撃沈、一隻が大破したが多くの搭乗員は救助され、次の決戦地、ラバウルに送られた。日本軍は戦線を拡大し、遠く南方のガダルカナル島に航空基地を建設しようとしていた。しかし滑走路ができるやいなや、アメリカ軍の攻撃を受け占領されてしまう。日本軍は慌てて、奪回を目指したが兵力の差は歴然だった。このガダルカナル島の戦いにラバウルからゼロ戦が出撃させられたのである。ゼロ戦は航続距離が長かったので、片道三時間という長距離を飛んでの航空戦であった。帰りの燃料を考えるとガダルカナル島上空で戦えるのは十分前後であったという。しかも搭乗員は目視で片道三時間を飛ぶのである。空の上で方向感覚を失ったら、基地にたどり着く前に燃料が切れてしまうのだ。
日本軍の優秀な搭乗員をミッドウェー海戦で失ったのかと思っていたら、失ったのはこのラバウル、ガダルカナルでの消耗戦であったらしい。それでもガダルカナル島を放棄してからも日本軍はラバウルで良く戦ったということだ。私の太平洋戦争の理解ではミッドウェー海戦の敗北で日米戦争の帰趨は決していたのかと思っていたら、この南方で陣地戦が続いていたのだ。しかしラバウルでの戦いで優秀な搭乗員を失い、ここで戦争の帰趨は決した感がある。しかも、アメリカはグラマン戦闘機F4Fの改良型F6Fを投入してきた。これはゼロ戦の1000馬力のエンジンに対して、2000馬力のエンジンを搭載しており、防御力も格段と向上していた。このためマリワナ沖海戦では七面鳥撃ちといわれたほど、日本の航空機は撃墜され、その性能、搭乗員の技量の両面において全く優位性を失ってしまった。一時は国内で教官として搭乗員の養成にあたった宮部久蔵であったが、生徒の技量が航空戦に耐えると思えなかったので、なかなか合格点を与えず、上部から疎まれ再び前線に送られることになった。そこで特攻部隊に組み入れられるのである。(ここからも、物語は続き、感動の結末へ至るのだが、それを書いてしまうとネタバレになってしまうので触れないでおく)。
百田尚樹は中国からは右翼作家といわれているそうだが、戦場において、自分の生命をいかに大事にするかをテーマにしつつ、一方で日本軍の司令官を批判している。南雲、栗田といった大艦隊を率いた司令官は最後まで戦うことなく、そこそこの戦果をあげれば逃げるように戦場を離脱したと。またアメリカの9・11の同時多発テロがカミカゼ攻撃と言われたことに対して、特攻は敵の戦闘部隊に対しての攻撃であり、民間人を巻き込んだ同時多発テロと全く異なると明確に主張している。
映画は自宅から車で二、三十分のところにある大日イオンモールでやっていて、駐車料金は無料であった。映画は主演岡田准一で、妻に井上真央、孫の姉弟に吹石一恵、三浦春馬という配役であった。岡田准一は現在、NHK大河ドラマで黒田官兵衛役を務めている。
以前、NHKの番組で岡田准一と五嶋龍の対談を見たことがある。五嶋龍はあの天才バイオリニスト五嶋みどりの弟で、その技量は姉に勝るとも劣らないといわれている。この番組で、岡田准一は、自分はスタントを使わないように身体を鍛えていると語っていた。なぜスタントを使わないかというと、スタントを使うとカメラアングルが限定されてしまうからということであった。スタントを使うと顔がわかってしまうので、正面から撮影することはできなくなる。つまり単なる俳優として、務めればいいという考えではなく、監督を始めとするスタッフ全体のことを考えて撮影に望んでいるのである。大河ドラマでも、大道具、小道具さんがいなければ時代劇はできないと語っていた。きちんとしたセットがあってこその俳優ということを、若いにしては良く自覚していて感心した。
今までの日本の戦争映画はハリウッドと比べるとチャチなものであった。しかしこの『永遠の0』はVFX(特撮視覚効果)の技術も向上し、ゼロ戦の実物大の模型も造られ、かなりの迫力のある戦闘シーンが実現されていた。
                       2014年3月31日