藤本義一『鬼の詩/生きいそぎの記』 松山愼介
一、二年前から落語のライブに行くようになった。これは地元で桂南光の落語会があったのがきっかけである。この落語会は公民館の定員五十人の和室でマイクを使わずに行われている。一回一時間半で千円だがなかなかライブの迫力がある。その後も、桂文珍、桂ざこば、桂小米朝、立川談春のライブに行った。立川談春のライブはフェスティバルホールを満員にしたが、五十人の和室での落語の方が迫力があった。現在の落語は文字通り語りだけであるが、『鬼の詩』の時代の落語は語りだけではなく、身体全体を使っての芸だったようである。
桂馬喬は馬糞を食べたり、高熱の電球を舐めたりするというような無茶な芸をしている。最終的には天然痘の痘面(あばたづら)のくぼみに煙管の雁首を引っ掛けながら小噺をするという芸であった。彼は明治二十八年の夏に大阪でコレラが流行ったとき三十歳を越えたばかりで、芸人たちが席を喪って右往左往している時、地味な古典落語を披露していた。当時の芸人たちは無学文盲を看板にしていたが、仏教の書を読むという変わった落語家であった。いわば優等生であった。
桂馬喬が自身を語ったところによれば、棄て児であったらしい。養父は実直な寺男であったが、坊主になるか芸人になるかという葛藤を抱いていたらしい。そんなところから仏教の書を読む習慣ができたのであろうか。棄て児であった彼が心の支柱を求めていたのであろう。一人矜持を高くしていた彼が、露と結婚してから芸風を一変した。過去の憑霊が落ちたのだ。
明治中期から後半にかけての時代は、ラジオもテレビもなく庶民の普段の楽しみは浪曲や落語、その他の見世物芸の小屋にいくことだけだったのではないか。当然、生活水準も低く自由に職業を変えるということはできなかったのではないか。そのため桂馬喬も結婚してから露と子供の生活のために芸に対して執着をもつことになる。自分に子供ができ、その子供が死にかけたことで、棄て児であった過去の境遇が傷となって思い出され、その妄想に使嗾されることになったのであろう。現実と空想が混然となり、子供を守るために犬や猫を虐待するようになった。
このころから桂馬喬の芸に対する執念は異常なものとなっていった。桂文我の芸を己のものにしようと、三十三歳の時には文我の隣の貸家に宿替えさえした。しかし、文我の踊る鬼は滑稽で愛嬌があったが桂馬喬の鬼には殺気があった。文我の鬼は愛される鬼であり、桂馬喬の鬼は愛されない鬼であった。露には夫が痩せた一匹の鬼のように見えていた。
桂馬喬が三十四歳になった時、露が二十七歳で急死した。それから彼の芸は一変した。天王寺方面の巫女の家に一カ月ほど通い、そのしぐさ、口調を芸にした。その後も彼の芸は冥界から死人が現れたり、疫病神や貧乏神、閻魔大王が迷い出したりしたが、だんだん袋小路に迷い込んでいった。このあたりから桂馬喬には狂気が宿ってきた。最後には棟割長屋で天然痘の痘面(あばたづら)のくぼみに煙管の雁首を引っ掛けたまま衰弱して死んでいるのが発見された。
考えてみれば、芸人であれ、芸術家であれ突き詰めれば狂気に至るのではないか。最近見た映画『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』でもパガニーニが狂気に陥るものだった。シューマンも精神疾患があり、リストも『死の舞踏』という曲を書いて死を意識していたという。
『下座地獄』で、つるに春江の霊がとりつき、つるの知らない有明節を弾いてうたうシーンは迫力があった。『生きいそぎの記』で川島雄三が藤本義一に、考えていることを100とすると、口で言うことはその1/10となり、書くときにはさらに1/10となる、と言っている。つまり文字にできるのは頭で考えていることの 1パーセントにしか過ぎないという個所は心に残った。
それにしても藤本義一が、相当取材したにしても明治の落語家・桂馬喬(米喬)の人生を、まるで見てきたかのようにこの『鬼の詩』に書き上げたのは大したものだ。テレビで見る限り、軟派型に見える藤本義一も内部に狂気を抱えていたのだろうか。
この『鬼の詩』は藤本義一の脚本で映画化され、私はそれを日本映画専門チャンネルで放映されたものを見ている。この関連で藤山寛美主演の映画『色ごと師春団治』も見ている。二本ともよく出来ていたが、芸に対する狂気という点では藤本義一の小説の方が上であった。
2016年10月8日
映画監督・川島雄三はよく知っている。『幕末太陽伝』、『須崎パラダイス赤信号』、『雁の寺』、『貸間あり』というような有名作品は見ている。ただ藤本義一が織田作之助に関する長編小説を書いていたのは知っていたが、川島雄三の下でシナリオライターをやっていたことは知らなかった。もちろん『11PM』の司会者としての藤本義一はよく知っている。
『生きいそぎの記』は、シナリオを検討している中に、登場人物として発明家、天文学者、予備校生、妾等が出てくるので『貸間あり』の脚本らしい。『貸間あり』はフランキー堺、桂小金治、淡島千景が出演している。アパートのような屋敷は上町台地にあり、少し行くと崖になっていて通天閣のよく見えるところである。ドタバタ喜劇であったがよく出来た作品であった。ちょうどこの映画を見たころに、この会で織田作之助が取り上げられ口縄坂を歩いたので興味深かった。川島雄三が筋萎縮性側索硬化症(小児麻痺?)で体が不自由なので、背広にバネが入っていて体に合うようにしているのは驚きであった。
川島雄三の出身地は青森県下北半島のむつ市である。最近、ハードディスクに録画した番組を整理していたらNHKのドキュメンタリー『日本人は何をめざしてきたのか 下北半島』という番組があった。下北半島が再開発され原子力船「むつ」が製造されたころの話である。ちなみにこの「むつ」という名前は母港となったむつ市から来ている。結局、この原子力船は失敗に終わり廃船となった。この過程で原子力船を受け入れる港がなく下北半島の一部に何百億円というカネをかけて新しく港を建設したが、自然を破壊しただけで無駄に終わった。昆布のいい漁場だったらしい。再開発された下北半島には、結局、使用済み核燃料の貯蔵地(政府の言い分では核燃料再処理工場)が作られただけに終わった。現在、同じようなことが沖縄の辺野古沖で繰り返されようとしている。
石井妙子『原節子の真実』(新潮社 二〇一六)を読んだ。原節子を中心とした映画の歴史がよくまとめられていた。この本では小津安二郎との結婚話は明確に否定されている。小津安二郎には同居する母がおり、また元芸者と長い付き合いがあったという。原節子は昭和十年に日活からデビューし、その後山中貞雄の『河内山宗俊』に出演し、日独合作映画『新しき土』で女優としての地位を確立した。この当時のドイツはナチスドイツである。『上海陸戦隊』では抗日の中国人少女を演じ、戦争中は『ハワイ・マレー沖海戦』、『望楼の決死隊』、『決戦の大空へ』などの戦意高揚映画に出演した。戦後は一転して黒澤明の『わが青春に悔いなし』などの左翼的映画に出演している。
山中貞雄は戦病死し、小津安二郎も戦争に行っている。小津は上海派遣軍直属の野戦ガス部隊に所属し中国大陸を転戦し、彼の所属した部隊は集落に毒ガス弾を撃ち込み、住民を刺殺し斬り殺している。また前線に送られる朝鮮人慰安婦の姿も見ていた。一方で黒澤明は戦争に行っていない。黒澤自身は徴兵検査の担当官が偶然にも父親の教え子だったせいだとしている。一方で東宝は戦意高揚映画だけではなく、軍の教育訓練用映画の製作していたため、東宝が必要な人材を確保するとして黒澤や山本嘉次郎らの兵役を免除するように軍にかけあったらしい。
昭和二十一年の軍国主義者の公職追放にあたって映画界からは原節子の義兄・熊谷久虎が追放された。最も多く戦意高揚映画をつくった山本嘉次郎は反省文の提出でよいとされた。この理由は熊谷は何をやっても食っていけるが、山本らは映画でしか食べていけないといういい加減なものであった。美術界でも同じようなことが起こり、多くの画家が戦争画を描いていたのだが、日本の画壇で浮いていた藤田嗣治一人に責めを負わせた。藤田は「あなたはフランスで十分活躍できるのだから……」と言って説得されたという。
原節子は昭和二十四年に『青い山脈』(今井正監督)の大ヒット(二週間で五百万人を動員)で国民的女優となり、この年の九月の公開の『晩春』で小津安二郎とコンビを組み、後々『麦秋』、『東京物語』と続けて映画がつくられる。これらの小津安二郎とのコンビではそれぞれの映画に戦争の影がある。中でも「麦秋」は中国の農村をイメージしているらしい。原節子自身はこれらの作品には満足せず、細川ガラシャ夫人の映画化を望んでいたらしい。しかし長年の撮影による強力なライトのせいで眼を痛め、体調もすぐれず徐々に映画界から去って行き、九十五歳で亡くなった。
一、二年前から落語のライブに行くようになった。これは地元で桂南光の落語会があったのがきっかけである。この落語会は公民館の定員五十人の和室でマイクを使わずに行われている。一回一時間半で千円だがなかなかライブの迫力がある。その後も、桂文珍、桂ざこば、桂小米朝、立川談春のライブに行った。立川談春のライブはフェスティバルホールを満員にしたが、五十人の和室での落語の方が迫力があった。現在の落語は文字通り語りだけであるが、『鬼の詩』の時代の落語は語りだけではなく、身体全体を使っての芸だったようである。
桂馬喬は馬糞を食べたり、高熱の電球を舐めたりするというような無茶な芸をしている。最終的には天然痘の痘面(あばたづら)のくぼみに煙管の雁首を引っ掛けながら小噺をするという芸であった。彼は明治二十八年の夏に大阪でコレラが流行ったとき三十歳を越えたばかりで、芸人たちが席を喪って右往左往している時、地味な古典落語を披露していた。当時の芸人たちは無学文盲を看板にしていたが、仏教の書を読むという変わった落語家であった。いわば優等生であった。
桂馬喬が自身を語ったところによれば、棄て児であったらしい。養父は実直な寺男であったが、坊主になるか芸人になるかという葛藤を抱いていたらしい。そんなところから仏教の書を読む習慣ができたのであろうか。棄て児であった彼が心の支柱を求めていたのであろう。一人矜持を高くしていた彼が、露と結婚してから芸風を一変した。過去の憑霊が落ちたのだ。
明治中期から後半にかけての時代は、ラジオもテレビもなく庶民の普段の楽しみは浪曲や落語、その他の見世物芸の小屋にいくことだけだったのではないか。当然、生活水準も低く自由に職業を変えるということはできなかったのではないか。そのため桂馬喬も結婚してから露と子供の生活のために芸に対して執着をもつことになる。自分に子供ができ、その子供が死にかけたことで、棄て児であった過去の境遇が傷となって思い出され、その妄想に使嗾されることになったのであろう。現実と空想が混然となり、子供を守るために犬や猫を虐待するようになった。
このころから桂馬喬の芸に対する執念は異常なものとなっていった。桂文我の芸を己のものにしようと、三十三歳の時には文我の隣の貸家に宿替えさえした。しかし、文我の踊る鬼は滑稽で愛嬌があったが桂馬喬の鬼には殺気があった。文我の鬼は愛される鬼であり、桂馬喬の鬼は愛されない鬼であった。露には夫が痩せた一匹の鬼のように見えていた。
桂馬喬が三十四歳になった時、露が二十七歳で急死した。それから彼の芸は一変した。天王寺方面の巫女の家に一カ月ほど通い、そのしぐさ、口調を芸にした。その後も彼の芸は冥界から死人が現れたり、疫病神や貧乏神、閻魔大王が迷い出したりしたが、だんだん袋小路に迷い込んでいった。このあたりから桂馬喬には狂気が宿ってきた。最後には棟割長屋で天然痘の痘面(あばたづら)のくぼみに煙管の雁首を引っ掛けたまま衰弱して死んでいるのが発見された。
考えてみれば、芸人であれ、芸術家であれ突き詰めれば狂気に至るのではないか。最近見た映画『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』でもパガニーニが狂気に陥るものだった。シューマンも精神疾患があり、リストも『死の舞踏』という曲を書いて死を意識していたという。
『下座地獄』で、つるに春江の霊がとりつき、つるの知らない有明節を弾いてうたうシーンは迫力があった。『生きいそぎの記』で川島雄三が藤本義一に、考えていることを100とすると、口で言うことはその1/10となり、書くときにはさらに1/10となる、と言っている。つまり文字にできるのは頭で考えていることの 1パーセントにしか過ぎないという個所は心に残った。
それにしても藤本義一が、相当取材したにしても明治の落語家・桂馬喬(米喬)の人生を、まるで見てきたかのようにこの『鬼の詩』に書き上げたのは大したものだ。テレビで見る限り、軟派型に見える藤本義一も内部に狂気を抱えていたのだろうか。
この『鬼の詩』は藤本義一の脚本で映画化され、私はそれを日本映画専門チャンネルで放映されたものを見ている。この関連で藤山寛美主演の映画『色ごと師春団治』も見ている。二本ともよく出来ていたが、芸に対する狂気という点では藤本義一の小説の方が上であった。
2016年10月8日
映画監督・川島雄三はよく知っている。『幕末太陽伝』、『須崎パラダイス赤信号』、『雁の寺』、『貸間あり』というような有名作品は見ている。ただ藤本義一が織田作之助に関する長編小説を書いていたのは知っていたが、川島雄三の下でシナリオライターをやっていたことは知らなかった。もちろん『11PM』の司会者としての藤本義一はよく知っている。
『生きいそぎの記』は、シナリオを検討している中に、登場人物として発明家、天文学者、予備校生、妾等が出てくるので『貸間あり』の脚本らしい。『貸間あり』はフランキー堺、桂小金治、淡島千景が出演している。アパートのような屋敷は上町台地にあり、少し行くと崖になっていて通天閣のよく見えるところである。ドタバタ喜劇であったがよく出来た作品であった。ちょうどこの映画を見たころに、この会で織田作之助が取り上げられ口縄坂を歩いたので興味深かった。川島雄三が筋萎縮性側索硬化症(小児麻痺?)で体が不自由なので、背広にバネが入っていて体に合うようにしているのは驚きであった。
川島雄三の出身地は青森県下北半島のむつ市である。最近、ハードディスクに録画した番組を整理していたらNHKのドキュメンタリー『日本人は何をめざしてきたのか 下北半島』という番組があった。下北半島が再開発され原子力船「むつ」が製造されたころの話である。ちなみにこの「むつ」という名前は母港となったむつ市から来ている。結局、この原子力船は失敗に終わり廃船となった。この過程で原子力船を受け入れる港がなく下北半島の一部に何百億円というカネをかけて新しく港を建設したが、自然を破壊しただけで無駄に終わった。昆布のいい漁場だったらしい。再開発された下北半島には、結局、使用済み核燃料の貯蔵地(政府の言い分では核燃料再処理工場)が作られただけに終わった。現在、同じようなことが沖縄の辺野古沖で繰り返されようとしている。
石井妙子『原節子の真実』(新潮社 二〇一六)を読んだ。原節子を中心とした映画の歴史がよくまとめられていた。この本では小津安二郎との結婚話は明確に否定されている。小津安二郎には同居する母がおり、また元芸者と長い付き合いがあったという。原節子は昭和十年に日活からデビューし、その後山中貞雄の『河内山宗俊』に出演し、日独合作映画『新しき土』で女優としての地位を確立した。この当時のドイツはナチスドイツである。『上海陸戦隊』では抗日の中国人少女を演じ、戦争中は『ハワイ・マレー沖海戦』、『望楼の決死隊』、『決戦の大空へ』などの戦意高揚映画に出演した。戦後は一転して黒澤明の『わが青春に悔いなし』などの左翼的映画に出演している。
山中貞雄は戦病死し、小津安二郎も戦争に行っている。小津は上海派遣軍直属の野戦ガス部隊に所属し中国大陸を転戦し、彼の所属した部隊は集落に毒ガス弾を撃ち込み、住民を刺殺し斬り殺している。また前線に送られる朝鮮人慰安婦の姿も見ていた。一方で黒澤明は戦争に行っていない。黒澤自身は徴兵検査の担当官が偶然にも父親の教え子だったせいだとしている。一方で東宝は戦意高揚映画だけではなく、軍の教育訓練用映画の製作していたため、東宝が必要な人材を確保するとして黒澤や山本嘉次郎らの兵役を免除するように軍にかけあったらしい。
昭和二十一年の軍国主義者の公職追放にあたって映画界からは原節子の義兄・熊谷久虎が追放された。最も多く戦意高揚映画をつくった山本嘉次郎は反省文の提出でよいとされた。この理由は熊谷は何をやっても食っていけるが、山本らは映画でしか食べていけないといういい加減なものであった。美術界でも同じようなことが起こり、多くの画家が戦争画を描いていたのだが、日本の画壇で浮いていた藤田嗣治一人に責めを負わせた。藤田は「あなたはフランスで十分活躍できるのだから……」と言って説得されたという。
原節子は昭和二十四年に『青い山脈』(今井正監督)の大ヒット(二週間で五百万人を動員)で国民的女優となり、この年の九月の公開の『晩春』で小津安二郎とコンビを組み、後々『麦秋』、『東京物語』と続けて映画がつくられる。これらの小津安二郎とのコンビではそれぞれの映画に戦争の影がある。中でも「麦秋」は中国の農村をイメージしているらしい。原節子自身はこれらの作品には満足せず、細川ガラシャ夫人の映画化を望んでいたらしい。しかし長年の撮影による強力なライトのせいで眼を痛め、体調もすぐれず徐々に映画界から去って行き、九十五歳で亡くなった。