奈良登大路町散歩 2015-09-19 09:37:28 | 散歩 島村利正の『奈良登大路町・妙高の秋』を読んだ。島村利正が若いころ奉公していた「奈良飛鳥園」が奈良国立博物館の前にあった。中には仏像写真の絵葉書等がたくさん置かれていた。 奈良国立博物館では白鳳展が開かれていた。全国から白鳳時代の仏像等が集められいる。これだけの仏像を一挙に見れる機会は珍しいだろう。会期は9月23日までだ。是非、見に行っていただきたい。 奈良国立博物館の前を歩いていたら、鹿にパンフレットを取られてしまった。何か食べ物を持っていそうな人を見ると、鹿が迫ってくるので要注意だ。
島村利正『奈良登大路町・妙高の秋』を読んで 2015-09-19 09:33:17 | 読んだ本 島村利正『奈良登大路町・妙高の秋』 松山愼介 なぜか島村利正は私小説作家だと思っていたが、実際は違うようである。作品集『奈良登大路町』のあとがきには《私はながい間、私小説風の作品が書けませんでした。確たる材料をもとに、虚構を組み立てる苦しみと喜びのなかに、自分の小説があると、いつも考えていましたが、私は私小説も好きでした。この小説集のなかには、はじめての、私風の私小説も何篇かあります》と書いている。『仙酔島』、『残菊抄』、『神田連雀町』、『佃島薄暮』は虚構の作品であろう。『奈良登大路町』、『焦土』、『妙高の秋』は私小説風の作品である。 前者のなかでは『残菊抄』がよかった。おちか、お澄に、菊造りの甚吉をうまく配している。最初の《潮のうごく時刻なのか、隅田川の匂いが、その辺の街路まで漂ってきている感じがした》という描写とか、さり気なく戦争中の街路の《ところ嫌わず防空壕が掘り散らかしてある道路には、不潔な汚臭が漂い》という描写はさもありなんと思わせる。菊を載せた輓車の通り道に沿って東京の風景がさり気なく描かれている。「焼かせてたまるか日本橋」という張り紙も面白い。 お澄の母親のおちかは十八歳のころから菊売りの車を一人で引くようになった。大阪方面で生産される木綿織物を専門に扱う阪物問屋の、阿波屋治兵衛の店の番頭、連太郎とふとしたきっかけから関係を持つようになる。連太郎は得意先から集めたお金で芸妓遊びをするような男であった。連太郎はおちかを遊び尽くすと、姿をくらませた。おちかは関東大震災の火炎に包まれ死んだ。お澄三歳の時である。お澄も昭和二十年三月の空襲で、歩行困難な祖父の甚吉をかかえて逃げられず、煙にまかれて死んでしまう。短編のなかに、関東大震災から戦争による空襲までを、東京の風景の移り変わりを交えながら二人の女性の生涯を巧に組み込んでいる。 島村利正のえがく女性像は、『神田連雀町』、『佃島薄暮』の佳津子も、『残菊抄』のおちかもよく似ている。最初は男に言い寄られて、つかず離れずだが、身体を許してしまうと、女から男を求めるようになるというパターンである。このような女性像は男から見た一面的な、希望的なものではないのだろうか。 『焦土』は志賀直哉の疎開先を伊那谷に探す話であるが、瀧井孝作も登場し、空襲のなか八王子まで行くところは、当時の空襲の実態をよく伝えているようである。『妙高の秋』は奈良飛鳥園に勤める経緯を書いた自伝的短編である。この飛鳥園の当主小川晴暘の一生をえがいたのが単行本『奈良飛鳥園』である。この作品には会津八一も登場し仏像撮影の黎明期の困難なさがえがかれている。仏像写真は光線の当て方によって表情が異なるのである。 問題なのは『奈良登大路町』である。作中、小川氏が講演会で《ハーバート大学のラングドン・ウォーナー博士の人となりを簡単に述べ、そのウォーナー氏がアメリカ大統領をうごかして、奈良や京都を爆撃から救ってくれたのだ、とはなした》というところがある。この一篇はラングドン・ウォーナーに捧げられたようなものである。この「ウォーナー伝説」には吉田守男による手厳しい反論がある。『京都に原爆を投下せよ―ウォーナー伝説の真実』(一九九五年 角川書店)と『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(二〇〇二年 朝日文庫)である。それによると、ウォーナー博士は日本美術研究者であり志賀直哉とも柳宗悦を通して奈良で交友があった。このウォーナーが美術品リストを作ったことは間違いないが、それは日本が朝鮮・中国等から略奪した文化財を返還できない時に、等価交換として日本の美術品を海外に持ち出すためのリストだったというのである。戦後、法隆寺が解体されてアメリカに持ち去られるという噂もあったという。 アメリカは原爆投下を、本土決戦で予想される五〇万から百万人のアメリカ人兵士の命を救うためであったと抗弁する国である。当初から、古代からの文化の中心地、京都に原爆を投下することこそが、日本の息の根を止めると考えていたのである。この「ウォーナー伝説」を最初に報道したのは昭和二十年十一月十一日の朝日新聞であった。アメリカの日本の都市に対する爆撃は人口の多い順になされた。百八十の都市がリストアップされ、人口八万人の都市までいった時点で終戦となったのである。鎌倉は人口四万人でまだ順番に余裕があったが、奈良は五、七万人で爆撃直前だった可能性があるという。京都が爆撃されなかったのは、原爆投下の候補地だったからであり、模擬原爆パンプキンは京都周辺のいくつも投下されている。また三発目の原爆も完成に近づいており、終戦が遅れれば八月二十日前後に京都に原爆が投下された可能性があったという。島村利正も『奈良登大路町』でもウォーナー自身が文化財を救ったことを否定しているし、ウォーナーの死にあたってもアメリカでは小さな追悼記事しか出なかったと書いている。 2015年9月12日
井上光晴『明日』を読んで 2015-09-07 11:18:23 | 読んだ本 井上光晴『明日―一九四五年八月八日・長崎』 松山愼介 吉本隆明とほぼ同じ年生まれのの井上光晴は皇国少年だったが、戦後、獄中共産党幹部が出獄にあたり「天皇制打倒」を掲げたことに感じ入り、共産党員となるが、これは正式に入党したのではなく、自分で名のっただけである。共産党五〇年分裂で「国際派」に属していたため「所感派」から除名される。五五年六全協で復党の打診を受けるが拒否している。 井上光晴は『書かれざる一章』などの共産党批判をテーマとした作品を発表後は、朝鮮人、炭鉱夫、被爆者、民差別を批判する立場にたった作品を発表することになる。その方法は、自己を朝鮮人、炭鉱夫等の立場に置くことである。この立場が行き過ぎて、旅順で生まれ、炭鉱夫をしていたという自分史の虚構化となる。これは井上光晴の死後、川西政明の調査、妹田鶴子の証言等で久留米市生まれで、炭鉱夫の経験もないということが立証された。井上光晴の自己規定は「革命家」である。共産党離党後は文学による革命を目指し「新日本文学」で活躍するが、「新日本文学」が一九六八年のソ連軍のチェコ侵略を批判しなかったことに抗議して、一九六九年三月に退会し『辺境』という雑誌を創刊する。 『虚構のクレーン』で「玉音放送」を聞いた後、仲代庫夫は抗底へ向う人車の上で「助かったぞぉ、万歳」「戦争は終った、終った、終ったぞぉ」と力の限り叫ぶことになる。さらに、〈九月三十日 日曜〉には《原子爆弾を受けた人がばたばたと死んでいる。芹沢治子のことはもう考えない。考えられない。長崎のことは忘れることにする》と書きつける。その後「天皇制打倒」という考え方があるのかと、仲代は目覚めていくのだが、この敗戦時の「助かったぞ」という叫び、「長崎のことは忘れることにする」という文章は、当時の井上青年の本音を何ほどか反映していると思われる。井上光晴は長崎に原爆が投下された時、崎戸にいた。 『虚構のクレーン』のこの仲代庫夫の叫びを知ってしまうと『明日』で書かれた原爆投下前日の長崎の風景も、井上光晴の被害者への同情ではないかと考えてしまう。作家の資質として重要なことだろうが、「嘘つきみっちゃん」と呼ばれた井上光晴は、他者の立場に立つということが、自然にできたのではないだろうか。この作品でも、八月八日の長崎の人々と一体化している。この一体化と、被爆者への同情は紙一重の違いである。徴兵検査時に肺浸潤だったため、召集を免れた中川庄治と三浦ヤエとの結婚式、三浦ヤエの姉ツルの出産をメインとするストーリーは良く出来ているが作り物の感じがする。 この『明日』を黒木和雄が映画化している。黒木和雄は『祭の準備』『竜馬暗殺』などのATG作品で有名になった映画監督である。彼に戦争三部作がある。『明日』『美しい夏キリシマ』『父と暮らせば』である。それに、死後公開された『紙屋悦子の青春』もある。この中では黒木和雄の自伝的要素を取り入れた『美しい夏キリシマ』が一番、秀作だと思われる。この作品では日向灘に米軍が上陸してくると想定している。男性は出征しているので、女性だけを集めての竹ヤリ訓練のシーンがあるが、少年が少女に機関銃の米軍に竹ヤリで対抗できるわけがないと言うと、少女は日本には神風が吹くと答える。それは日本が天皇を頂く「神の国」だからである。少年は敗戦後、キリシマにやってきた米軍部隊にたった一人で竹ヤリで立ち向かうが、米軍兵士に素手で取り押さえられ、投げ出されてしまう。しかし、こりずに再度、竹ヤリで立ち向おうとするが、米軍兵士の上空への威嚇射撃一発で腰を抜かしてしまう。日本人は抵抗するなという「玉音放送」に素直に従った。せめて何件かのゲリラ的抵抗をすることができたら、戦後日本も別の形を取ったであろう。戦後日本は現行憲法と交換に沖縄を米軍に譲り、「象徴」という形で天皇制を存続させ、サンフランシスコ講和条約とともに調印された日米安保条約で、日本への米軍の駐留を認めた。沖縄には一時、一千発以上の核兵器が置かれていた。現在でも、米軍人の日本への出入りはフリーパスである。法的には日米安保は憲法に優先する。今、必要とされているのは護憲運動ではなく、日米安保条約廃棄の運動であろう。そうすれば、わざわざ辺野古に新しい米軍基地も造る必要もない。 北村耕は井上光晴の『地の群れ』にふれて《原爆という「過去」ならざる過去によって、日本社会の未来を撃ち、同時にその未来像のすさまじさによって、戦後社会を撃つ方法を、重層的に交錯させたのである》と評価している。しかし、原爆体験が徐々に風化していく時代にあって、この『明日』という作品が、いつまで原爆という問題に抗しうるかは疑問である。 2015年8月8日 井上光晴は戦後の共産党を内部から批判し、それを小説として発表した。スターリン批判前で、一定の影響を与えたが、共産党の六全協で内部対立が解消される方向に向かい、時間の経過と共に井上光晴の『書かれざる一章』などの衝撃は薄れていかざるを得なかった。そのため井上光晴は朝鮮人炭鉱労働者、の人々の立場にたった作品を発表し、そのリアリティを確保するために、旅順生まれ、の血をひいているという架空の経歴を作り上げた。 このようなかで長崎の原爆に注目し『地の群れ』などの作品を発表した。『明日』は昭和57年(1982)の作品である。原爆の惨禍も忘れられた時代に、原爆については全くふれずに、原爆投下前日の長崎の人々の生活を、結婚式、出産を中心にえがきだした。この方法は、原爆の記憶が薄れ、原発の再稼働が議論されている現在、注目されるべきであろう。 2015年9月7日
真田山陸軍墓地探訪 2015-09-07 11:10:42 | 散歩 夏の一日、大阪JR玉造駅から徒歩10分くらいの真田山陸軍墓地を訪ねました。 場所は高台にあり、ちょっとわかりにくいところです。玉造駅からの案内板の欲しいところです。 明治からの戦争の死者の墓碑がたくさん並んでいます。 中には崩れかけているのもありました。昔は日本中にあったそうですが、もうあまり残ってないそうです。 明治の墓標が多かったので、墓標の前の竹の花挿しには花はありませんでした。