丸谷才一『笹まくら』 松山愼介
この作品は徴兵忌避がテーマである。徴兵忌避をテーマにするならば、それにどのくらいリアリティーがあるかが問題である。私はあまりリアリティーを感じなかった。記憶が曖昧だが随分と昔、山口百恵と三浦友和の映画で、徴兵忌避をするために足を切断するという場面があった。そういうことなら、ありうる話だと思った。ただ、徴兵忌避をして、山の中で隠れて暮らすというのなら小説にならないが。
杉浦健次のように、地方都市で時計やラジオの修理、さらに砂絵屋で身分を隠しながら生活していけるかどうか疑問である。戦前は米穀通帳の管理なども厳しかったと聞いている。配給ももらえたのだろうか。隣組もあったし、いくら砂絵屋が香具師とはいえ少し設定に無理があるように感じた。ただ、炭鉱の口入屋、下関の刑事との対話は迫力があったが、刑事が監視しているのがわかっているのに、そんな場所を通ろうとするだろうか。
ストーリーも、逃げる途中で隠岐の島で、宇和島の質屋の娘、阿貴子と知り合って、一緒に暮らすようになるというのも、話がうますぎる。「ケンちゃん」と呼んでも振り向かなかったというセリフにはリアリティーがあった。その阿貴子も死んでしまうのだが。
陽子との結婚生活も、出来過ぎの設定だと思ったが、陽子が警察に捕まることによって破綻寸前になる。「手癖の悪い娘と徴兵忌避者とを夫婦にしよう」ということだったらしいと、浜田は気づく。
徴兵忌避の逃亡生活と、二十年後の私立大学職員としての生活が混ざって話はすすんでいく。三章の終わりが、五章に続くのは面白いが、いまいち意味がわからない。
作品のなかに面白い言葉があった。「頼信紙」、「羅宇屋」など。「まだ埋めていない防空壕」、防空壕を作る(掘る)話はよくあったが、埋めるという話は初めてだった。木炭バスなども出てくるが、このエンジンの仕組みを知りたいものだ。
堺の「結局、国家というものがあるから、いけないんだな」とか、浜田の「おれは二十年前この国全部を相手にして逃げまわった徴兵忌避者じゃないか」という、現在時における、作者の戦争観、国家観を読むべきなのかも知れない。ただ、作者は浜田の徴兵忌避を、誇るべきものとしてではなく、引け目を感じるものとして、えがいているのは気になった。戦死者や、傷病者に対する気持ちはわかるのだが。
パリオリンピックの最中で、開会式のコンシェルジュリーでのマリーアントワネットの生首には驚いた。フランスといえば、フランス革命の革命的伝統と言われるが、最近見たNHKの『ザ・プロファイラー 言行不一致ナポレオン』では、フランス人(?)のコメンテーターが、「フランス革命は暗黒時代だった」と言い切った。また、この番組によれば自分も、ギロチンにかけられるのだが、ジャコバン派のロベスピエールは、五十万人を逮捕し一万二千人を処刑したという。ナポレオンもよく考えれば、戦争ばかりして皇帝の座を追われた男である。
日本の戦争について少し思うところがある。最初は明治維新だろうが、いつの間にか軍部というものが力をつけてきて、国民を戦争へと追いやる体制を造ったのは、逆に見事であると言えなくもない。天皇機関説事件をきっかけに、統帥権を拡大解釈して、軍部(陸軍)独裁体制を確立していく。天皇の神格化、国民総動員という戦争体制を造り、抵抗するものは容赦なく獄に放り込んだ。確かに一般の国民はその流れに抵抗できなかった。徴兵忌避はこの軍部独裁に対する、消極的ではあるが、立派な抵抗運動である。しかし、作者の、浜田庄吉の造形を読んでいると、現在時において、抵抗運動とは考えず、何か後ろめたい行動であったように捉えているようなのは残念である。
履歴書に兵役、徴兵忌避と書くのだが、この時代、そういうことを書いたのかどうか疑問に残った。ともあれ、徴兵忌避を題材にここまで話を展開した筆力は評価せざるを得ない。
作中に徴兵検査の結果として、第三乙とか甲種合格という言葉が出てくるが、中野重治の『甲乙丙丁』という題名はここからきているのかも知れない。高等学校などの成績表にも使われていたが。
2024年8月10日
この作品は徴兵忌避がテーマである。徴兵忌避をテーマにするならば、それにどのくらいリアリティーがあるかが問題である。私はあまりリアリティーを感じなかった。記憶が曖昧だが随分と昔、山口百恵と三浦友和の映画で、徴兵忌避をするために足を切断するという場面があった。そういうことなら、ありうる話だと思った。ただ、徴兵忌避をして、山の中で隠れて暮らすというのなら小説にならないが。
杉浦健次のように、地方都市で時計やラジオの修理、さらに砂絵屋で身分を隠しながら生活していけるかどうか疑問である。戦前は米穀通帳の管理なども厳しかったと聞いている。配給ももらえたのだろうか。隣組もあったし、いくら砂絵屋が香具師とはいえ少し設定に無理があるように感じた。ただ、炭鉱の口入屋、下関の刑事との対話は迫力があったが、刑事が監視しているのがわかっているのに、そんな場所を通ろうとするだろうか。
ストーリーも、逃げる途中で隠岐の島で、宇和島の質屋の娘、阿貴子と知り合って、一緒に暮らすようになるというのも、話がうますぎる。「ケンちゃん」と呼んでも振り向かなかったというセリフにはリアリティーがあった。その阿貴子も死んでしまうのだが。
陽子との結婚生活も、出来過ぎの設定だと思ったが、陽子が警察に捕まることによって破綻寸前になる。「手癖の悪い娘と徴兵忌避者とを夫婦にしよう」ということだったらしいと、浜田は気づく。
徴兵忌避の逃亡生活と、二十年後の私立大学職員としての生活が混ざって話はすすんでいく。三章の終わりが、五章に続くのは面白いが、いまいち意味がわからない。
作品のなかに面白い言葉があった。「頼信紙」、「羅宇屋」など。「まだ埋めていない防空壕」、防空壕を作る(掘る)話はよくあったが、埋めるという話は初めてだった。木炭バスなども出てくるが、このエンジンの仕組みを知りたいものだ。
堺の「結局、国家というものがあるから、いけないんだな」とか、浜田の「おれは二十年前この国全部を相手にして逃げまわった徴兵忌避者じゃないか」という、現在時における、作者の戦争観、国家観を読むべきなのかも知れない。ただ、作者は浜田の徴兵忌避を、誇るべきものとしてではなく、引け目を感じるものとして、えがいているのは気になった。戦死者や、傷病者に対する気持ちはわかるのだが。
パリオリンピックの最中で、開会式のコンシェルジュリーでのマリーアントワネットの生首には驚いた。フランスといえば、フランス革命の革命的伝統と言われるが、最近見たNHKの『ザ・プロファイラー 言行不一致ナポレオン』では、フランス人(?)のコメンテーターが、「フランス革命は暗黒時代だった」と言い切った。また、この番組によれば自分も、ギロチンにかけられるのだが、ジャコバン派のロベスピエールは、五十万人を逮捕し一万二千人を処刑したという。ナポレオンもよく考えれば、戦争ばかりして皇帝の座を追われた男である。
日本の戦争について少し思うところがある。最初は明治維新だろうが、いつの間にか軍部というものが力をつけてきて、国民を戦争へと追いやる体制を造ったのは、逆に見事であると言えなくもない。天皇機関説事件をきっかけに、統帥権を拡大解釈して、軍部(陸軍)独裁体制を確立していく。天皇の神格化、国民総動員という戦争体制を造り、抵抗するものは容赦なく獄に放り込んだ。確かに一般の国民はその流れに抵抗できなかった。徴兵忌避はこの軍部独裁に対する、消極的ではあるが、立派な抵抗運動である。しかし、作者の、浜田庄吉の造形を読んでいると、現在時において、抵抗運動とは考えず、何か後ろめたい行動であったように捉えているようなのは残念である。
履歴書に兵役、徴兵忌避と書くのだが、この時代、そういうことを書いたのかどうか疑問に残った。ともあれ、徴兵忌避を題材にここまで話を展開した筆力は評価せざるを得ない。
作中に徴兵検査の結果として、第三乙とか甲種合格という言葉が出てくるが、中野重治の『甲乙丙丁』という題名はここからきているのかも知れない。高等学校などの成績表にも使われていたが。
2024年8月10日
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