遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

アウシュヴィッツ再考

2016-06-16 10:46:27 | 旅行

 アウシュヴィッツへ行ってから数週間がたった。その時はよくわかっていなかったが、アウシュヴィッツの気候のことである。映画等では厚いコート着たユダヤ人の映像が多い。私がアウシュヴィッツを訪れたのは五月中旬だった。ポーランドは日が長くなりつつあるときで、夜は九時ごろまで明るく、四時には夜が明けた。この白夜の季節も収容者たちはすごしたのであろう。写真を後から見て気がついたのだが、真っ青な空の色だった。夕方、五時ごろだったが、太陽はまだ沈む気配はなかった。収容者たちも、この季節には真っ青な空、白夜を過ごしたに違いない。
 一方で、冬はそこそこ雪が降り、寒いということだ。雪どけや、雨の時には地面が泥々になり大変だっただろう。このような現実感は、現地へ行かないかぎり、わからないものだ。

アウシュビッツに行くということ

2016-06-04 14:44:22 | 旅行
        アウシュヴィッツへ行くということ
                 
 三十年振りに海外旅行を思いたった。六十歳で退職してから、多いに遊ぼうと思っていたが、退職して生活のリズムが狂ったせいか体調を崩した。ようやく体調も戻ってきたので旅行社のパンフを取り寄せた。最初に行こうと思ったのは、イタリアのフィレンツェであった。ルネサンスの発祥の地でありテレビでもたびたび取り上げられていた。いろんな美術館もあり、すばらしい建築もあるようだった。ところが、パンフを見ているとアウシュヴィッツ見学が含まれているツアーが存在した。これには少し驚いた。だがこのおかげで、日本人のアウシュヴィッツ訪問者は年間一万五千人位になっているという。
 大手旅行社がそれぞれ月に三本ほどのツアーを組んでいた。大体が 一週間ほどのツアーである。A社のツアーが二日目にアウシュヴィッツ見学を設定し、B社のツアーは五日目に設定していた。ツアーの前半にアウシュヴィッツへ行くのは刺激が強すぎるかなと思って、アウシュヴィッツを五日目に設定しているB社のツアーに決めた。料金もB社の方が安かった。
 アウシュヴィッツはポーランドの京都といわれるクラフクからバスで一時間十五分くらいのところにある。手荷物はA4版以下のものしか持ち込めない。ネオ・ナチによる破壊活動を警戒しているのであろう。アウシュヴィッツはポーランド語ではオシフィエンチムという。クラフクから日本語の話せるポーランド人ガイドがバスに同乗している。ツアーのなかった時は、個人で、鉄道、バスを利用して行くしかなかったのかもしれない。現在はクラフクのあちらこちらに「アウシュヴィッツ」という看板があったので、そこでツアーを募集しているようだ。見学者が多くなったので、完全予約制のようである。個人でも予約できるようであるが、日本語ガイドはほとんどいないらしい。英語ガイドは多くいる。アウシュヴィッツは基本、入場料は無料でガイド料が四十ズオッチ(千三百円くらい)程度かかる。トイレは有料で二ズオッチ(六十六円)かかる。日本語のパンフ、ガイドブックも売られている。
                    
 我々のツアーは午前中の予約だったが、前日になって午後に変更された。それほどアウシュヴィッツの予約が混んでいるのであろう。着くとツアーの強みでほとんど待ち時間なく“Arbeit macht frei”「働けば自由になれる」という有名な門をくぐって、かつてのアウシュヴィッツ第一収容所、現在のアウシュヴィッツ博物館に入る。ここは元々、兵舎かなんかの跡地でレンガ造りの建物だった。映像では見ていたが収容者の髪の毛、靴が山のように積まれていたのには、今さらながらではあるが驚いた。一通りの見学が終わると、バスで五分くらいの所にある、アウシュヴィッツ第二収容所・ビルケナウに向かう。
 ビルケナウこそがさまざまな、映画の舞台となったところである。有名な引き込み線のある門が我々を待ちかまえている。第一収容所が手狭になったので、第二収容所が急遽、建てられたのでこちらは木造の建物である。東京ドーム三十七個分のスペースに最大で十万人近くが収容されたといわれている。

 一九九五年に「マルコポーロ事件」というのがあった。「ナチ『ガス室』はなかった」という記事が掲載されたのである。全世界から抗議が殺到し、雑誌「マルコポーロ」は廃刊となった。私はこの記事をネットで読んでなるほどと思ったことがある。歴史というのは、みようによっては不確かなものである。タイムマシンでもないかぎり、過去には行けないのだから歴史は歴史的資料によって検証されるしかない。おそらく日本人の「ガス室はなかった」という受け売りの記事を書いた人はアウシュヴィッツに行っていなかったのだろう。
 ネットの世界は危険でもある。探せば「ガス室はなかった」といういくつもの記事がある。アウシュヴィッツに行けば「ガス室」があったか、なかったかは一目瞭然である。それほどきちんと歴史が保存されている。殺人ガスのチクロンBの空き缶も大量に展示されている。この「マルコポーロ事件」をきっかけにして、反論の書『アウシュヴィッツと〈アウシュヴィッツの嘘〉』が二〇〇五年に白水社から出版されている。一読をおすすめする。
                     
 ポーランドは八〇パーセントがカソリックの国だという。市街には大きな教会があり、バスで移動中も数キロごとに教会らしき建物があった。各町、各村に教会があるのだろう。アウシュヴィッツ見学の日の午前中は、ヴィエリチカ岩塩坑を見に行った。ここは五百年くらい岩塩が採掘されていたという。この坑内にも聖マリア像が立てられていた。坑内から無事帰還できるようにという祈りが込められているという。ツアーの日程は教会を見学して、アウシュヴィッツへ行き、また教会を見て、ポーランド最後の日はショパンのピアノ演奏があった。この生演奏はアウシュヴィッツの死者たちへの鎮魂の曲のようであった。
 ツアーで、アウシュヴィッツを見学するのはどうかという意見もあるだろうが、手軽に行けるのなら現地を見るに越したことはない。アウシュヴィッツはツアーの中の一行程であったが、これから私の内部でその存在感を増していきそうな予感がしている。
                    2016年6月4日

 なお、ポーランド旅行の動画、写真をユーチューブにアップしました。あまりうまく取れていませんが。
 「松山愼介」または「愼介松山」で検索すると見ることができます。「愼」は旧字体です。

澤地久枝『密約 外務省機密漏洩事件』を読んで

2016-06-03 11:13:01 | 小説
          澤地久枝『密約 外務省機密漏洩事件』     松山愼介
 澤地久枝を最初に読んだのは『烙印の女たち』(一九七七)であった。その中の、克美しげるの章は衝撃的だった。一九七六年、羽田空港に停めてあった車のトランクから女性の死体が発見された。トランクから滴る血で発覚したこの女性の死体は、克美しげるが処分に困ってトランクにいれたままにしていたのだった。この事件は、再デビューに賭けていた克美しげるが、つきまとう愛人をやむを得ず殺したということになって、減刑嘆願が多くよせられ同情をひき懲役十年という判決となり、七年で仮出所したというものであった。ところが澤地久枝のこの本によれば、借金に困った克美しげるが銀座のホステスに結婚をエサに、お金を貢がせたうえ、再デビューの邪魔になったので殺したという全く身勝手な殺人事件だった。克美しげるはこのホステスを繋ぎ止めるために妻子がありながら偽装結婚式まであげていた。一方で、女性の方は、ホステスの稼ぎでは、克美しげるの要望にこたえられなくなってソープで働いてまで貢いでいた。総額は三千五百万円というから、当時として莫大な金額である。最初の作品が『妻たちの二・二六事件』であるように、澤地久枝は見棄てられた女性の立場をえがくことがテーマとしているようである。
 沖縄密約事件は、山崎豊子が『運命の人』という小説にし、数年前、本木雅弘、真木よう子でドラマ化された。この『運命の人』によれば、裁判にあたって西山側は蓮見喜久子をかばうことにしたらしい。つまり、蓮見を証人尋問すれば、西山に有利になることがわかっていても、あえてそれをしないということだった。検察側の「ひそかに情を通じて」という言葉が一躍有名になったが、このドラマでも西山と蓮見が「どっちが先にパンツを脱いだかが問題なんだ」というセリフがあった。つまりどちらが誘ったかという点である。この点について西山側はあきらかにしなかったため、どちらが誘ったかは不明であったが、『密約』では蓮見喜久子が誘ったように書かれている。『密約』では蓮見喜久子は法廷では、徹底して西山記者に騙された悲劇のヒロインを演じながら、法廷外では、親しい人と談笑していたという場面が印象的だった。
 西山記者が暴いた、沖縄返還にあたっての密約は二十五年たってアメリカ側の文書が公開され、また当時の外務省アメリカ局長吉野文六が密約の存在を証言したため、依然として日本政府・外務省が否定しているものの密約があったことは事実である。ところがこの密約は金額にして四百万ドル(十二億円)で、沖縄返還にあたって動いた全体の金額からすれば少ないものであった。当時の佐藤政権からすれば、この密約は暴かれたとしても、それほど打撃にならなかったように思える。佐藤政権からすれば、西山記者と蓮見事務官が男女の関係になっていたことは好都合であった。見事に、沖縄密約問題を「ひそかに情を通じた」男女の外務省機密漏洩事件にすり替えたのである。それにしても、西山記者と蓮見事務官の個人的事情はわからないが、情報源の女性と関係を持ったのは軽率であった。また国会質問において、この電信のコピーを明らかにしてしまった横路孝弘が以後、のうのうと衆議院議長をつとめ、現在も衆議院議員であり、民進党最高顧問というのは驚きである。
 一九七二年五月十五日に沖縄返還があり、その直前の四月四日に二人は逮捕されている。私が大学を卒業したのは一九七一年だが、当時の首相・佐藤栄作が沖縄返還交渉を本格的に始めたのは一九六八年から一九六九年頃と思われる。この佐藤政権の動きに対して、それなりに協調行動をとってきた三派系全学連が沖縄問題について鋭く対立し、「沖縄闘争勝利」という内容のないスローガンしか打ち出せなかった。A派は社会党、共産党の「沖縄返還」あるいは「沖縄本土復帰」というスローガンに対し、「沖縄奪還」を掲げ人民の主体性を強調した。他党派は「沖縄の核基地付き返還策動粉砕」というものであった。A派は取り敢えず沖縄が本土復帰することが沖縄人民の利益であると考えた。他党派は沖縄人民の利益よりも、本土のアメリカ軍の基地機能が強化されることを阻止することを第一義に考えた。映画『ノルウェイの森』で、A派と対立する党派が「沖縄奪還」と叫んでいたので苦笑したことがある。
(この時の沖縄問題の理解についての反省が「異土」8号の『沖縄の文学的考察』になっています。)
『密約』の最後で澤地久枝は自分の取り上げた密約は氷山の一角にすぎないとしている。日本人も佐藤栄作の「非核三原則」、「事前協議」などは誰も信じていなかった。沖縄の米軍基地には実際に戦術核兵器があったし、核兵器を搭載した艦船が岩国に入港していたことも明らかになっている。現在では必要性が薄れたので艦船には核兵器を積載しているであろうが、日本国内の基地に核兵器は置いていないらしい。またこの本に触発されて、西山太吉の『沖縄密約』も読んだ。それでわかったことは一九六〇年の岸内閣による安保条約の改定ではアメリカ軍基地の使用は「極東」の範囲と限定されていた。ところが現在では日本国内のアメリカ軍基地は完全に自由使用になっている。
 沖縄返還も結局は、アメリカ軍が根拠なく占領し続けた沖縄を日本がお金で買い取ったものであった。しかもそれは、必要な金額を積み重ねていくのではなく、アメリカの要求する「つかみ金」という、どんぶり勘定を受け入れるものであった。そのためにこの「つかみ金」を正当化するために、日本はお金を払うから、アメリカには、その事実を黙っていてくれという密約が多くかわされた。このような方式を日本が受け入れたことによって後の「おもいやり予算」につながり、アメリカ軍の駐留費用のほとんどを日本が負担することになり、普天間基地撤去といいながら、日本のお金で辺野古に巨大な新基地を造ることになろうとしている。沖縄の海兵隊のグアム島移転もアメリカの世界戦略上の必要であるにもかかわらず、日本に移転費用を押し付けようとしている。政治評論家の青山繁晴によれば、日本のアメリカ軍家屋の光熱費はすべて日本側が負担している。そのため極端な例をあげれば、一カ月家を開けたとしてもエアコンはつけっぱなしでいるそうである。
 このような歪な日米関係になってしまったのは、アメリカによるマッカサー憲法の押し付けと、一九五一年のサンフランシスコ講和条約にある。日本政府も日本の安全保障がアメリカの軍事力(特に核兵器)に依存しているために、アメリカの言い分を飲まざるを得ないのである。いわゆる「安保ただのり論」である。ここから日本の国論は、護憲派、アメリカ追随派、自主防衛派に分かれているのが現状であろう。佐藤栄作は「沖縄の返還がない限り日本の戦後は終わらない」と言ったが、現在も戦後は終わっていないのである。
                              2016年4月9日  


「アメリカによる憲法押し付け論」に関しては「報道ステーション」で古舘伊知郎が辞める前に、「憲法九条」は当時の首相・幣原喜重郎がマッカーサーに申し入れたものであるという説を強調していた。この「憲法九条」は「パリ不戦条約」が元になっており、学会でもマッカーサー案、幣原喜重郎案と依然から知られていたものである。幣原喜重郎が申し入れたものであったのか、マッカーサー(アメリカ)が日本の軍事力を全廃する政治的意図を持ってすすめたのか、今となっては明らかにする術はない。アメリカから新憲法草案を見せられた吉田茂も白洲次郎も非常に驚いているから、この幣原喜重郎提案を知らなかったと思われる。ただ明らかなのはアメリカの占領期間中に、天皇制の存続と引き換えに新憲法が成立させられたことだろう。同時に沖縄はアメリカの占領が続き、新憲法の適用外となったことを忘れてはならない。
 一方でドイツは占領期間中に憲法を作ることを拒否している。ドイツの憲法には「連邦は防衛のために軍隊を設置する」と明記されている。但し、このためにドイツはアフガニスタン派兵を余儀なくされ、五十数名の死者を出している。