鈴木三重吉『桑の実』 松山愼介
この作品は青木とおくみの淡い恋模様と、明治から大正期の生活の様子が書かれている。
桑の実は六月初旬から下旬にかけて実るそうだ。その後、梅雨の季節がやってきて、蚊が出てくる季節となる。青木は蚊を避けるために、押入れから風呂敷を出して、それを被って寝るというユーモラスなことになる。押入れから蚊帳を取り出すのだが、それは黴臭く、一緒に鼠のふんが付いてくる。この辺りは当時の生活の状態を表しているのだろう。
青木の弟、洗吉と、青木の子供、久男が駅の方に遊びに行っている間に、青木は生垣の向こうに入って桑の実を取ってくる。ここがこの作品の山場であろう。桑の実は赤いのは酸っぱくて、黒くなると甘くなるらしい。おくみは青木に「では少しここでお話しなさいよ」と誘われ、二階に上がり、二人で桑の実を食べることになる。この時、階下へ行って紅茶を入れるのだが、おくみは着物を着替えてから、持って上がる。この辺に、おくみの青木に対する淡い恋心が出ている。
青木はおくみに対して自分の描いた画を与え、新しい部屋を用意する。青木もおくみに好意を持っているようである。おくみは二十歳で、青木は二年ほどフランスに画の勉強に行っていた。その間に男の子が生まれているが、奥さんはヒステリーになって久男を置いて実家に帰っている。青木が帰国して間もなく、奥さんは乳の手術をし、その後「大きな蝙蝠が出て自分を食うと言って家の中を方々に遁げて廻ったり」するようになっていた。青木は奥さんが自分の洋行の留守の間に、ほかの男と関係していたのではないかと疑っている。
おくみは夜のひまなときに青木の不断着を一枚ずつ解いて縫いかえる。青木はおくみに「私はおくみさんが来てくれてから、すべてに不平というものがちっともなくて、のんびりした気分になってきましたよ」と打ちあける。
試験を済ました洗吉が郷里に帰ってから、この家には青木とおくみと久男の三人になる。青木とおくみは蚊帳を釣って、襖一枚を堺にして寝ることになる。襖を隔てて二人の寝苦しい状態は続いている。ここまでくれば、読者は二人が関係をもつことを想像する。ところがその時、天井の上で鼠が何かを齧る、ガリガリという音が聞こえてくる。《おくみは唐紙を開けて膝を突いた。「もう何時です?」》というところで、この章は終わっている。関係があったとも、なかったとも取れる終わり方である。
この作品の最後は「おくみはそれと言わないで、今日の帯を表にするお蒲団の、裏と綿とを買いに行くのであった」で終わっている。この夏蒲団の表の生地はおくみの悪い方の丸帯を解して使うのである。おおよそはプラトニックな終わり方であるが、作品のなかでは、そうでない読み方の余地も残している。
ガス燈、自働電話などという言葉が出て来て当時の生活を彷彿とさせる。電気も夜だけ来るようである。髪結いさんが出張してくるところも面白い。
鈴木三重吉は学生時代に書いた『千鳥』を漱石が推奨したことによって、作家生活に入ることになるが、高浜虚子の評価は「写生文としては写生足らず、小説としては結構足らず」というものであった。同じ漱石門下の森田草平の自己暴露小説『煤煙』がセンセーションを巻き起こしたことに刺激を受けて、鈴木三重吉も長編小説を書くようになる。『小鳥の巣』、『桑の実』である。『桑の実』については集英社の日本文学全集の解説で中野好夫が「美しい無韻の詩ともいうべき自然描写にこそ、相変らず三重吉でなければできない芸の細かさは見せていますが、やはり人間同士の葛藤など書ける三重吉ではなかったのです」と書いている。同じく中野好夫によれば鈴木三重吉は自分の文学を「花魁憂い式」といっていて、小宮豊隆は「美しい花魁が憂いに沈んでいるような感じを描き出す」と注釈しているとのことである。これを受けて中野好夫は「ひたすら美しいものを描こうという心はわかるにしても、そのイメージを、比喩もあろうに、すでにはっきり形骸化してしまった花魁などに求めた、擬似浪漫派的なその古めかしさ、そこにこそ最初から三重吉文学の悲しい限界はあったというしかありません」と書いている。
こうして鈴木三重吉は作家生活の行き詰まりと経済上の窮境打開という計算もあって、童話の方に進み「赤い鳥」創刊へと進んでいく。鈴木三重吉の童話はあまり面白くなく、「赤い鳥」という雑誌に北原白秋や西條八十の童謡、坪田譲治らの童話などの編集に力を発揮したようである。
それでも伊藤左千夫の『野菊の墓』を思わせる『桑の実』の清冽な作風は、逆に現代ならば受ける可能性はあるかもしれない。
2014年10月11日
☆読書会では清心な作品という評価が多かった。それは現代のシステムが複雑化しているためだろう。電化製品も携帯電話(スマホ)もない時代の淡い恋模様は、今から読めば郷愁をさそう。一方で、この作品の女主人公おくみは、青木の身の回りの世話を懸命にやってくれる。これに対して女性陣から「こんな都合のいい女は今はいない」という批判もあった。
この作品は青木とおくみの淡い恋模様と、明治から大正期の生活の様子が書かれている。
桑の実は六月初旬から下旬にかけて実るそうだ。その後、梅雨の季節がやってきて、蚊が出てくる季節となる。青木は蚊を避けるために、押入れから風呂敷を出して、それを被って寝るというユーモラスなことになる。押入れから蚊帳を取り出すのだが、それは黴臭く、一緒に鼠のふんが付いてくる。この辺りは当時の生活の状態を表しているのだろう。
青木の弟、洗吉と、青木の子供、久男が駅の方に遊びに行っている間に、青木は生垣の向こうに入って桑の実を取ってくる。ここがこの作品の山場であろう。桑の実は赤いのは酸っぱくて、黒くなると甘くなるらしい。おくみは青木に「では少しここでお話しなさいよ」と誘われ、二階に上がり、二人で桑の実を食べることになる。この時、階下へ行って紅茶を入れるのだが、おくみは着物を着替えてから、持って上がる。この辺に、おくみの青木に対する淡い恋心が出ている。
青木はおくみに対して自分の描いた画を与え、新しい部屋を用意する。青木もおくみに好意を持っているようである。おくみは二十歳で、青木は二年ほどフランスに画の勉強に行っていた。その間に男の子が生まれているが、奥さんはヒステリーになって久男を置いて実家に帰っている。青木が帰国して間もなく、奥さんは乳の手術をし、その後「大きな蝙蝠が出て自分を食うと言って家の中を方々に遁げて廻ったり」するようになっていた。青木は奥さんが自分の洋行の留守の間に、ほかの男と関係していたのではないかと疑っている。
おくみは夜のひまなときに青木の不断着を一枚ずつ解いて縫いかえる。青木はおくみに「私はおくみさんが来てくれてから、すべてに不平というものがちっともなくて、のんびりした気分になってきましたよ」と打ちあける。
試験を済ました洗吉が郷里に帰ってから、この家には青木とおくみと久男の三人になる。青木とおくみは蚊帳を釣って、襖一枚を堺にして寝ることになる。襖を隔てて二人の寝苦しい状態は続いている。ここまでくれば、読者は二人が関係をもつことを想像する。ところがその時、天井の上で鼠が何かを齧る、ガリガリという音が聞こえてくる。《おくみは唐紙を開けて膝を突いた。「もう何時です?」》というところで、この章は終わっている。関係があったとも、なかったとも取れる終わり方である。
この作品の最後は「おくみはそれと言わないで、今日の帯を表にするお蒲団の、裏と綿とを買いに行くのであった」で終わっている。この夏蒲団の表の生地はおくみの悪い方の丸帯を解して使うのである。おおよそはプラトニックな終わり方であるが、作品のなかでは、そうでない読み方の余地も残している。
ガス燈、自働電話などという言葉が出て来て当時の生活を彷彿とさせる。電気も夜だけ来るようである。髪結いさんが出張してくるところも面白い。
鈴木三重吉は学生時代に書いた『千鳥』を漱石が推奨したことによって、作家生活に入ることになるが、高浜虚子の評価は「写生文としては写生足らず、小説としては結構足らず」というものであった。同じ漱石門下の森田草平の自己暴露小説『煤煙』がセンセーションを巻き起こしたことに刺激を受けて、鈴木三重吉も長編小説を書くようになる。『小鳥の巣』、『桑の実』である。『桑の実』については集英社の日本文学全集の解説で中野好夫が「美しい無韻の詩ともいうべき自然描写にこそ、相変らず三重吉でなければできない芸の細かさは見せていますが、やはり人間同士の葛藤など書ける三重吉ではなかったのです」と書いている。同じく中野好夫によれば鈴木三重吉は自分の文学を「花魁憂い式」といっていて、小宮豊隆は「美しい花魁が憂いに沈んでいるような感じを描き出す」と注釈しているとのことである。これを受けて中野好夫は「ひたすら美しいものを描こうという心はわかるにしても、そのイメージを、比喩もあろうに、すでにはっきり形骸化してしまった花魁などに求めた、擬似浪漫派的なその古めかしさ、そこにこそ最初から三重吉文学の悲しい限界はあったというしかありません」と書いている。
こうして鈴木三重吉は作家生活の行き詰まりと経済上の窮境打開という計算もあって、童話の方に進み「赤い鳥」創刊へと進んでいく。鈴木三重吉の童話はあまり面白くなく、「赤い鳥」という雑誌に北原白秋や西條八十の童謡、坪田譲治らの童話などの編集に力を発揮したようである。
それでも伊藤左千夫の『野菊の墓』を思わせる『桑の実』の清冽な作風は、逆に現代ならば受ける可能性はあるかもしれない。
2014年10月11日
☆読書会では清心な作品という評価が多かった。それは現代のシステムが複雑化しているためだろう。電化製品も携帯電話(スマホ)もない時代の淡い恋模様は、今から読めば郷愁をさそう。一方で、この作品の女主人公おくみは、青木の身の回りの世話を懸命にやってくれる。これに対して女性陣から「こんな都合のいい女は今はいない」という批判もあった。