遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

「異土」17号  「上海そんなに遠くない」―林京子の上海―

2019-06-11 12:33:08 | エッセイ
      「異土」17号  「上海そんなに遠くない」―林京子の上海―

 上海という場所は火野葦平を読んだ時から、気になる場所であった。日中戦争においても、満洲事変、日支事変が中国北方で謀略的に起こされたにもかかわらず、主戦場は上海となっている。第一次上海事変、第二次上海事変である。とくに第二次上海事変は、蒋介石が上海郊外に大軍を集め、日本との決戦に打って出た。日本も主戦場が上海になると想定していたが、海軍と陸軍の対立もあって、当初は中国軍を甘くみていたため守勢一方で多大の犠牲をだした。
中国軍はドイツ軍事顧問団によって近代化されていたのである。であるのに日本は中国軍に対して「一撃」で勝利できると考えていた。上海で守勢に回った日本軍は、対峙していた海軍陸戦隊にかわって、陸軍の増派を決定する。このときも、日本得意の(?)軍の逐次投入になるのだが、中国北方に展開していた師団を上海に集め、日本からも三個師団を派遣し、上海南方の杭州に敵前上陸することによって戦局を打開することに成功する。この杭州作戦に火野葦平が参加していた。
 この杭州作戦においては、中国は杭州に兵を展開していなかったので、日本軍は抵抗なく上陸に成功した。実際に上陸した日本軍は十万人だったが、上海市内に「日軍百万上陸杭州北岸」というアドバルーンが上げられた。上海は遠いように感じるが、当時の長崎からの連絡船は一昼夜(二十四時間)で到着できる距離であった。日本軍も動員準備ができれば輸送にそれほど時間がかからなかったと思われる。
 この「日軍百万上陸杭州北岸」という情報によって、中国軍は退路を断たれることを恐れて南京方面へ撤退することになる。この中国軍の撤退をみて現地軍は追撃を独自に決定し、敵の首都・南京を攻略することによって、あの広大な中国を支配することができると考えたのだった。しかし、日本軍は、兵隊を輸送する車両、補給のための車両を持っていなかった。まだ自動車産業は緒についたばかりだったのである。補給は馬、人による大八車によっていたのである。このため、日本軍は補給のないまま徒歩で上海から三百キロ先の南京を目指したのである。このためもあって後に南京事件とよばれる混乱を引き起こすことになる。蒋介石は最初、南京で抵抗するつもりであったが失敗し重慶に退くことになる。
 このような上海に、林京子は父が三井物産に勤務していた関係から、一歳で移り住んでいた。『上海・ミッシェルの口紅』(講談社文芸文庫)には少女の眼を通してこのような時代の上海が見事に活写されている。『祭りの場』という長崎の「原爆小説」でデビューした林京子だったが、彼女のルーツは上海にあったのである。「異土」17号の『「上海そんなに遠くない」―林京子の上海―』はこのような視点で、日本と中国の関係を考えてみたものです。
                         松山愼介
              (興味のある方は「文学表現と思想の会」のホームページからお申込み下さい)

矢田津世子『神楽坂 茶粥の記』を読んで

2019-06-09 12:57:25 | 読んだ本
       矢田津世子『神楽坂 茶粥の記』         松山愼介
 矢田津世子という名前は知らなかったので、まず近藤富枝『花蔭の人 矢田津世子の生涯』を読んだ。近藤富枝は一九二二年生まれ、瀬戸内寂聴とは東京女子大学での友人という。矢田津世子が一九〇七年生まれで、三十六歳で亡くなっているが、近藤富枝とは十五歳違いである。矢田津世子の周辺の人、恋人にも取材しているので、その程度の年齢差だ。
 川村湊は「解説」で「モダニズム文学、プロレタリア文学、自然主義的リアリズム文学という、当時の大きな文学潮流の影響を受け、その短い文学者としての生涯を駆け抜けた」と書いている。これは平野謙の『昭和文学史』における、昭和初年代の三派鼎立という説の踏襲である。しかし、この三派鼎立は昭和十年前後には、それぞれがあたらしい道を模索していた。矢田津世子は長谷川時雨の「女人芸術」から出発して、「日暦」から、「日本浪曼派」に対抗する「人民文庫」へ円地文子らと進んでいる。その前の昭和八年七月には共産党への資金カンパということで約十日間勾留されている。そもそも「女人芸術」の同人は左傾していたという。
 矢田津世子が留置という、朝日新聞の記事を発見したのは近藤富枝らしい。「某思想事件に資金提供」という記事である。共産党の資金局で働いていた苅田あさのと湯浅芳子を通じて知り合い、カンパに応じたという。林芙美子も九月に検挙されている。林芙美子は「こいつもおさいせん組だな」と刑事が話しているのを聞いたという。この年は小林多喜二の虐殺、共産党幹部、佐野・鍋山の獄中転向声明という、左翼運動にとっては激動の年であった。この流れに追い打ちをかけるように警察は文化人に圧力をかけた結果の事件だということである。ともあれ、この近藤富枝という人は噂も含めてよく調べている。女の川西政明のようだ。以前、横光利一について調べた時、片岡鉄兵が出てきた。上田(円地)文子との関係である。この片岡鉄兵も近藤富枝の手にかかれば「女流作家キラー」ということとなり、矢田津世子の最初の男だという噂を紹介している。坂口安吾との関係についても詳しい。
「父」は「日暦」の十三号(昭和十年11月号)に発表され、「神楽坂」は「人民文庫」(昭和十一年三月)に発表されている。この「人民文庫」も昭和十一年十月二十七日の例会に警官が踏み込み「無届集会」、「共産主義の宣伝方法を協議」ということで大半のメンバーが検挙されたが、幸い矢田津世子は出席していなかった。このような左翼的文学が壊滅する中で、「妾もの」つまり、男の経済力に寄生している女を書いていくことになるのだが、決して弱い女を書いているのではない。それぞれの女性は芯が強く、「旦那」の妻の死後、後妻の座についたりする。また、「旦那」の死後は、娘から財布の権利をつかみ取ったりする。
 このような女性は、この時代、特に珍しいものではなかったのであろう。だが、矢田津世子の眼はいろいろな女性の生き方をしっかり見つめている。この文芸文庫の作品集で一番印象に残ったのは「佝女抄録」の寿女である。自分の体の障害をものともせず、せっせと働く。病気になっても休むことはなく、なお体に鞭打つように働いている。性格も明るい、仕事もできる。死を覚悟した時は、店に迷惑をかけないように施療院へいったようにも思える。この寿女は、美貌をうたわれた矢田津世子の対極にあるのかもしれないが、彼女にとって女性の理想型であったかも知れない。このような働き者の女性は私の母を思い出せる。大正五年生まれだが、子どもが多いこともあって、幼い私の眼からは一日中、働いていたようにみえた。
 作品中の仮名遣いには時代を感じさせるものがあった。読みがわからない字もあり、「加様」が「かよう」という読みだとわかるまでだいぶ時間がかかった。
                         2019年2月9日

幸田文『みそっかす』を読んで

2019-06-09 12:54:02 | 読んだ本
        幸田文『みそっかす』          松山愼介
 幸田文、明治三十七(一九〇四)年生まれ、矢田津世子、明治四〇年生まれ、佐多稲子、明治三十七年生まれ、平林たい子、明治三十八年生まれ、林芙美子、明治三十六年生まれ、森茉莉、明治三十六年生まれと、この幸田文と前後して、多くの女性作家が生まれている。明治という激動の時代が安定化していった時期の現象だろうか?ちなみに男性作家の埴谷雄高、太宰治、大岡昇平は明治四十二年前後に生まれている。
「娘文は八代の悩み深い心に気がついたのは離婚を体験し、母を書かねばならなくなってからであることも示唆的である。しかし継母の心の内の痛みを文の悲しみと共有できるようになっても、寛容な父を深く愛せず、苦しめ続けた継母を許せなかった。それでも文は作品に継母を登場させ昇華させようと苦闘したのが『みそっかす』である」(岸睦子『幸田文』勉誠出版 二〇〇七)
 幸田露伴の妻・幾(き)美(み)(文の母)は文が六歳の時に肺炎(肺結核?)で亡くなった(露伴はインフルエンザとした)。幾美は「きびきびと仕事をこなし食事作りはことに楽しみ、工夫を凝らし明治期にタンを煮たりオリーブオイルを使って料理をして露伴を楽しませていた。着物も露伴の着古しを直し、美しく着こなしていたという」(岸睦子前掲書)。幾美が三十六歳で亡くなった時、露伴は四十二歳であったため、あちこちから再婚話が持ち込まれた。露伴は「妻を迎ふるは予に取りては易し、兒等に取りては易々とすべきならねば、荏苒(じんぜん)として今に至りぬ。(中略)よき人とはおもえど、獨身生活になれし人なれば、兒等の世話も容易なるまじくやなどおもひ煩ふあまりに、遅々として今に及べり」と日記に書いているという(橋本敏男『幸田家のしつけ』平凡社新書 二〇〇九)。露伴はいくつもの再婚話の中から、子どものことを考えて四〇歳を過ぎた児玉八代を選んだ。「おねしょ」には四十四歳と書かれている。
「父の再婚」によると、幸田文は学校へ行って初めて父の再婚のことを知る。その日の新聞に報道されていて、学校中の噂になっていた。その日は早退すると、家に荷物が着いていて、オバ公が荷宰領に膳を出す用意をしていた。結婚式は植村正久の教会で次の日に行われた。ところが、岸睦子前掲書によると、幸田露伴の結婚を報じたのは「萬朝報」(一九一二年十月二十五日)で結婚式の次の日であったという。また、この記事によると八代は三十六歳になっている。
 この継母は、生母とは全く違っていた。顔の洗い方も違い、長々と髪にかかりきっていた。そのうち、文にも父と母が不和であることがわかってきた。母がお客を呼ぶための支度が何もないという。「紅茶茶碗とパン皿」だった。露伴は「買ったらいいだろう」と言った。日本語を話す西洋人(バンカム夫妻?)がやってきて、文と一郎もお相伴にあずかったが、文は匙の置きかたも知らない、一郎は吹いたり吸ったりして騒々しいと叱責された。また、一郎のおねしょと、露伴の酒を嫌悪した。
 生母は労働派であり、家全体が「自分のうち」だったが、継母には新しく四畳半の部屋が建てられた。しかし、継母はこの部屋が不満であった。幸田文は生母のことを「母」、継母のことを「はゝ」と表記している。長押でないこと、天井の低いこと、畳表、押入れのないことが不満で、「安普請で人をばかにしている」と言った。「蝸牛庵というのはね、家がないということさ。身一つでどこへでも行ってしまうということだ」という露伴の考え方とは根本的に相容れなかった。一郎がおねしょをしても、継母は「酒飲みと寝小便の世話は私はいやです」といい、「革表紙の三方金の厚い旧新約聖書」から眼を放さなかった。文の継母に対する気持ちは「愛憎が縄のようによじれ」たもので、自分の家出を考える一方、継母の悲しみの姿に同情するものでもあった。
 結局、二人は別居することになるが、露伴は毎月五〇円の仕送りを続け、離婚することはなかった。このような家庭環境のため、幸田文は露伴から家事全般にわたって、きびしく仕込まれることになる。
 この『みそっかす』は、岩波書店の小林勇が、露伴の死後、『露伴全集』を刊行するにあたって売り上げを伸ばすために、文に協力を頼んだ末の企画だったらしい。ともあれ、このような経緯で作家・幸田文が誕生したということになる。
                       2018年1月12日 

萩原葉子『天上の花ー三好達治抄ー』を読んで

2019-06-09 12:48:07 | 読んだ本
萩原葉子『天上の花―三好達治抄―』          松山愼介
 三好達治といえば「雪」である。日本の民話的抒情をうたっている。
   太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
   次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
 一方で、三好達治は「捷報いたる」の作者でもある。
   捷報いたる/捷報いたる/冬まだき空玲瓏と/かげりなき大和島根に/捷報いたる
眞珠灣頭に米艦くつがへり/馬來沖合に英艦覆滅せり
 この詩は、マレー上空の空中戦の大版グラビア写真に添えて、「婦人朝日」昭和十七年二月号の巻頭に掲げられた。「婦人朝日」のこの号は、日米開戦後の最初に発売された号である。
 吉本隆明に「「四季」派の本質―三好達治を中心に―」(「文学」一九五八年四月 『抒情の論理所収)という論文がある。これは「四季」派の代表的詩人が、民話的抒情詩の作者から、どうして戦争詩を書くに至ったかという、「文学者の戦争責任」の追求に関連したものである。「四季」は、昭和九年に創刊され、昭和十九年が終刊となっている。中心人物は堀辰雄で、詩人には萩原朔太郎、立原道造、中原中也が名を連ねている。つまり「四季」派はプロレタリア文学運動の解体期から、「大東亜戦争」の終末期に至る、危機と戦争の時代が全盛期だったのである。
「皇国少年」だった吉本にとっては、「「四季」派の戦争詩は、おおむねつまらない便乗の詩とみえたが、かれらが(昭和)十年代前期に生んだ抒情詩は、過酷な戦争の現実から眼をそらしたい疲労をかんじたとき、一種の感覚的安息所のような役割を果たしていた」。つまり、吉本は「四季」派の抒情詩の世界によく浸っていたということであろう。
「天皇制下における金融・産業資本からなる日本の支配権力は、自体のなかに奇妙な前近代性をはらみながらも、高度な資本主義支配の特質をもち、しかし巧妙なことに大衆の意識感情を組織するにあたり、その極度におしすすめられたアジア的後進性の側面を組織した。大衆のなかにある近代的意識を組織したのではなかった」。「四季」派の代表的詩人・三好達治の「神州のくろがねをもてきたへたる火砲にかけてつくせこの賊」という詩句は、大学においてフランス文学を習得し、フランス文学を日本に移植した人物が書いたものである。つまり「四季」派の詩人たちの中にも近代性と前近代性が共存し、社会に対する認識と、自然に対する認識とを区別できなかった。それが戦争詩と日本的抒情詩が通底した根拠であった。彼らの中では「恒常民衆の独特な残忍感覚と、やさしい美意識」とが共存していた。
 これは一般化できないが、日本においてやさしい父が、中国大陸において残忍な兵士になり得た根拠でもあろう。少し言い過ぎになるが、三好達治においても、「やさしい美意識」が「慶子」を慕いながらも、「恒常民衆の独特な残忍感覚」が「慶子」に暴力をふるうのである。もっとも、この『天上の花』における、三好達治のDVは病的だが。伊藤信吉によれば、萩原朔太郎が青年・三好達治のことを、「三好君は人と話をする時、胸を張って直立不動の姿勢をとり、軍隊式に、ハイッ、ハイッと言う。陸軍幼年学校に居た時の習性が、未だに残っているのである」と書いているという。三好達治のDVには陸軍幼年学校、士官学校の影響があるのかもしれない。
(DV男といえば、テレビドラマ『ラスト・フレンズ』(二〇〇八年)の錦戸亮(NHK『西郷どん』で西郷従道役)を思い出す。このドラマで錦戸亮が長澤まさみにふるうDVは衝撃的で、それを実に見事に錦戸亮が演じたのである。そのため、その後、錦戸亮=DV男となってしまって気の毒で同情していたが、西郷隆盛に比べて弱虫の西郷従道役に抜擢されて良かったのかなと思う。)
『天上の花』でも、三好達治の人間的な側面も書いているのだが「慶子の手記」だけが独り歩きしているようである。このような文学者の私生活は、近親者が書かない限り世に出ない。
私は吉本隆明の批評の方法は平野謙によるところが大きいと考え、吉本も平野謙を尊敬していると思っていた。ところが、平野謙が新居を建てた吉本を妬み、また特許事務所に勤めていた吉本を特許庁に勤めていると誤解して、奥野健男の特許庁長官賞受賞に裏工作をしたと考えていたのは思わぬことであった。これも吉本が書かない限り世に出ない平野謙像であろう。
                            2018年12月8日

林京子『上海・ミッシェルの口紅』を読んで

2019-06-09 12:41:04 | 読んだ本
     林京子『上海』             松山愼介
 一九七二年九月、田中角栄首相と周恩来首相との間で、日中共同声明が発表され、七八年八月には日中平和友好条約が結ばれた。これらの交渉は難航したようである。その三年後の八一年八月九日、林京子は上海、蘇州を訪問する。十人程度のツアーであった。
 林京子は長崎での被爆を書いた『祭りの場』などの作家だと思っていたが、彼女は長崎で生まれ、三井物産石炭部に勤める父の異動に伴って上海へ行き約十四年を過ごしていたのだ。だから、 『祭りの場』で芥川賞を受賞しているが、彼女の原点は、長崎の被爆ではなく、中国を侵略した日本人として過ごした上海だったのである。原爆の被害者となる前に、幼かったので自覚はしていず、責任があるわけではないが、中国への加害者であったのだ。
 私も約三十年前に上海、蘇州へ行ったことがある。記憶では、子供を連れての家族旅行で、近場ということでまず香港、マカオへ行き、次の年に上海、蘇州へ行ったと思う。上海駅の周りには大量の群衆がいた。後でわかったことだが、内陸部から職を探して、とりあえず上海へ来た人たちだった。蘇州では寒山寺へ行って、「寒山寺夜半の鐘 客船に至る」という有名な漢詩の軸を千円で買った。寒山寺の僧侶の読経を録音している人もいた。土産物は、刺繍が有名だった。手作りだからか、結構、いい値段をしていたような記憶がある。
 後に、この中国旅行の話を友人にしたら、戦争のことを覚えている年寄りは「非難の眼」で日本人を見ているぞと言われた。日中戦争のことなど、何も考えず近いからという理由で上海へ行ったのだが、友人にこう指摘されて、中国、韓国は私の旅行の選択肢から消えた。
 林京子も同じようなことを語っている。日中平和友好条約が結ばれた時に、すぐにでも飛んで行きたかったのだが、《「侵略者の国の子供」として住んでいた私が行っていいのか》、慎まなければならないのではないかという、中国人に対する罪悪感があって、自問自答の時期が続いたという。結果、上海に住んでいたことを明かさずにツアーに申し込んだという。
 中国に住んでいて日本のことは何も知らず、上海から大連まで船で、そこからは陸路、釜山へ、関釜連絡船で帰国している。門司で船員が作ってくれた弁当を食べようとしたとき、中国の物乞いのような戦災孤児に取り囲まれてショックを受けている。母に「お母さん避難民がいる」と言って母から「日本人よ」と叱られる。このとき「日本人も避難民になるんだ」ということに初めて気がついて、自分が上海で「戦勝国」の子として暮らしていたことを自覚させられることになる。三十六年後に行った上海で、最も違った光景はバンド(外灘)にクーリーがいなかったことであるという。貧しい彼らは冬でも破れた服を着ていたが、今は真っ白の開襟シャツを着ていたという。
 友誼商店から黄浦江を見に、走って抜け出すのだが「群衆にまぎれ込むこと、抗日テロの戦法だ」と考えている。ガーデンブリッジに向かって歩いているときも、自分が日本人であることを知らせたくないようにと考えている。「過去の歴史が、これほど人の心にわだかまりを残すものなのか」と身構えてている、自分に驚いているようである。
 この『上海』の三年前に『ミッシェルの口紅』という上海時代のことを当時の目線で語っている作品がある。私としてはこちらの方が面白かった。中国人の抵抗運動、爆弾テロ、銃による狙撃があったという。まるでアメリカ軍に対するイラク人の攻撃のようだ。郊外への遠足では、軍人が警備について行ったり、頭蓋骨が転がっていたりする。上海事変の戦場となった場所の様子も書かれている。火野葦平の小説よりも、この作品のほうが、上海事変の具体的なイメージがわいてくるほどだ。
 林(宮崎)京子が結婚した林俊夫は朝日新聞社の上海特派員で、ゾルゲ事件の尾崎秀実とも親しかったという。ポツダム宣言の受諾のニュースは八月五日頃、ソ連経由で中国の新聞社に入り、中国人記者が号外を出そうというのを林俊夫は止めたが、七日には国民党の機関紙が号外を出した。俊夫は十一月に帰国しようとしたが、港で止められ、昭和二十三年十一月に松井石根らと同じ船で帰国し、叔母を迎えに来ていた林(宮崎)京子と出会うことになる。長崎の原爆体験を書いただけの作家と思っていた林京子が、このような上海体験を持っていたことを知ったのは大きな収穫だった。                      
                         2018年11月10日