映画『善き人のためのソナタ』
松山愼介
『善き人のためのソナタ』(フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督)は二〇〇六年のドイツ映画である。最初に字幕で時代状況が説明される。時は一九八四年、東ドイツには国家保安省(シュタージ)があって、協力者十万人、密告者二十万人がすべてを知ろうとする独裁者を支えていた。当時の東ドイツの人口は千六百万人であるから、五十人に一人の割合で国家保安省への協力者がいるという驚くべき監視社会であった。ベルリンの壁崩壊の五年前のことである。
主人公はヴィースラー大尉である。シュタージで任務をこなす他、学生にも社会主義の敵を尋問する方法を講義している。容疑者を自白させる方法は四十時間寝させずに尋問することである。容疑者は椅子に座り、両手を太腿の下に入れることを要請される。これは容疑者の抵抗心をそぐためでもあり、椅子を覆っている布切れに匂いを染み込ませ、その布切れを万一の場合にそなえて保存しておくのである。例えば、容疑者が逃亡した時に、警察犬で追跡できるように。学生の一人が「四十時間寝させないのは非人間的ではないでしょうか?」と質問すると、彼はすかさず、座席表のその学生の名前にチェックを入れる。
四十時間たつと、無実の容疑者は怒りをもって抗議しはじめるが、罪を犯している容疑者は泣き出す。しかも何時間たっても同じ供述を繰り返す。ここまでくると妻を逮捕し、子供を孤児院にいれるぞと圧力をかけると全面的な自供が得られるというのである。「尋問相手は社会主義の敵だ」というのがヴィースラー大尉の信条である。彼はこの正義の仕事に、全く疑問をもっていない。ヴィースラー大尉役のウルリッヒ・ミューエは終始、無表情で冷酷なこの役をうまく演じている。講義を終えたヴィースラー大尉をヴォルヴィッツ中佐が拍手で迎える。二人は二十年前のこの学校の同期生である。ヴィースラーは人づき合いも上手くないのだが、ヴォルヴィッツは世渡りがうまく順調に出世の道を歩み今は中佐となって、ヴィースラーの上司となっている。
二人は食事をするのだが、ヴォルヴィッツは当然のように幹部席に座ろうとする。ヴィースラーは、社会主義的平等は身近なところから実行していかねばと考えているので一般席に座る。一つ横のテーブルでは若者三人が、ホーネッカー議長に関するジョークを話している。
ホーネッカーは朝、執務室に入り窓辺に立ち太陽を見て言う。
「おはよう。太陽!」 太陽は答える。
「おはよう。エーリッヒ!」
昼になってエーリッヒは言う。
「こんにちは。太陽!」 太陽も言う。
「やあ~エーリッヒ!」
夕方になり、またエーリッヒは窓辺で言う。
「こんばんわ。太陽!」 太陽は答えない。
エーリッヒは太陽に再度、問いかける。
「こんばんは。太陽!」 太陽は答える。
「クソ野郎! 俺は西側にいるよ」
国家評議会議長に、西側の方が居心地よいのだと言いたいのだ。ちなみにヴォルヴィッツは、その若者を見てムッとした表情で「君の所属と階級は?」と尋ねる。一瞬、若者の顔に脅えがはしる。それを見ると、ヴォルヴィッツはハッハと笑い、冗談だよと水に流す。体制に不満の若者はこのようなジョークで発散するしかないのだ。ちなみに最初の尋問のシーンは、容疑者の友人が西側に逃げ出し、ヴィースラーはその手引を誰がしたかを激しく問い詰めているところである。結局、四十時間、寝させられずに尋問された容疑者は、手引した人物の名前を自白してしまうのである。
ヴィースラーはヴォルヴィッツに演劇『愛の表情』に招待される。主演はクリスタ=マリア・ジーラント、演出はその恋人のゲオルグ・ドライマンである。ドライマンは西側にも評判のいい演出家であり、かつ社会主義・東ドイツの模範市民と思われている。ヴィースラーはドライマンを一目見て、監視の必要性を感じる。ヴォルヴィッツは乗り気ではないが上司のヘンプフ大臣の指示もあって、ヴィースラーの主張する監視に同意する。ヴィースラーがドライマンの家を監視していると、夜遅く、クリスタが車で送られて帰ってくる。調査をするとその車はヘンプフ大臣のものであった。ヴィースラーがこれをヴォルヴィッツに報告すると、ヘンプフ大臣については文書で報告するなと言われる。ヴォルヴィッツにとっては、ヘンプフ大臣は出世の手がかりでもあり、上司でもあるので、彼を監視するわけにはいかないのだ。ここで始めてヴィースラーの中に、この体制への疑問が生まれる。社会主義に忠実な彼は、情実で事が動かされることに我慢ができないのである。ヴィースラーは入党した時の誓い“我らは党の盾と剣である”を覚えているかと、ヴォルヴィッツに話しかけるが、彼はこともなげに「俺は出世をめざしている」と言い放つ。そのためにはヘンプフ大臣に協力して、その政敵を追い落とすことが必要なのだと考えている。
映画では車(リムジン)の中で、クリスタとヘンプフ大臣とが情交するシーンがある。クリスタとヘンプフ大臣の関係は、昨日、今日の関係ではない。彼女はドライマンに惚れているのだが、ヘンプフ大臣に弱みを握られ情交を断れないのである。ドライマンと一緒に住んでいる部屋に帰りつくと、クリスタは汚された身体を必死になって洗う。ヘンプフの気配を消し去るように。最後には自己嫌悪に陥ってシャワールームのバスタブに座り込んでしまう。恋人がいながらも彼女は何故、大臣と関係しているのか。これは映画では明確に示されない。ヘンプフ大臣は演劇界を粛正した実績がある。おそらくそのために、彼から情交を迫られたクリスタは、それを拒否できなかったのだろう。もちろん。演劇界での自分の位置も危うくなるし、下手をすると、恋人のドライマンにも害が及ぶ可能性があるから。また後に、クリスタは薬物中毒であることがわかるので、その弱みをヘンプフ大臣に握られていたのかも知れない。クリスタの薬物中毒は独裁社会主義国家の精神病であろう。
ヴィースラーはドライマンを見た時から監視の必要を直感した。ヴォルヴィッツは、ドライマンはシロだと思っているので監視に乗り気でない。しかし、監視するようにヘンプフから指示される。このヘンプフの意図にはドライマンの弱点を見つけ出して、彼を抹殺し、クリスタを独占しようとする意図があったのかも知れない。
ヴィースラーはドライマン不在の時に部屋に調べに入る。西側の書籍や新聞、雑誌が雑然と置かれている。彼はなにげなくブレヒトの本を持ち去る。ドライマンの部屋には、あらゆる場所に盗聴器が仕掛けられる。彼はビルの屋根裏部屋を改造し盗聴ルームにする。チョークでその部屋にドライマンの部屋の間取りを書くほど念がいっている。盗聴は部下の軍曹と二交代制で行われる。盗聴のためのヘッドホンを掛けたヴィースラーは無表情だが、盗聴という仕事に対する秘められた情熱が感じられる。盗聴によって、何としても社会主義の敵を暴き出すのだという情熱が。ところが盗聴を重ね、ブレヒトの詩を読むうちに、彼の心にわずかずつ変化が起きはじめる。
ブルームーンの九月のある一日
静かにすももの樹のかげで
青ざめた恋人を抱きしめる
腕の中の彼女は美しい夢
二人の頭上には夏の空
一片の雲が眼に止まった
白い雲、天高く
見上げると、もう消えていた
ドライマンに一本の電話が入る。友人からイェルスカが首を吊って自殺したという知らせだった。ドライマンの友人の演出家イェルスカはヘンプフ大臣主導の演劇界の大掃除によって、仕事を失い、ドライマンに「善き人のためのソナタ」のスコアをプレゼントした後、自殺する。この「善き人のためのソナタ」は、この曲を本気で聴いた者は、悪人になれないという、心を落ち着かせる名曲であった。レーニンもこの曲を聞くと革命はできないと言ったという。ドライマンはピアノで「善き人のためのソナタ」を弾き始める。その「善き人のためのソナタ」を盗聴しているヴィースラーは聞いてしまう。いつしか彼の頬を一筋の涙が伝う。彼の生活は無機的なもので、部屋にも最小限の家具しかない。性も巨大な乳房のコールガールを呼ぶことで処理している。このヴィースラーの世界が、ドライマンの部屋を盗聴することによって揺すぶられていく。上司の功利的な世渡り、一方に、情熱的で人間的なクリスタとドライマンの生活がある。ブレヒトの愛の詩もある。
盗聴を終えて家に帰り、エレベータに乗ると、転がったサッカーボールと共に一人の少年が入ってくる。
「おじちゃん、シュタージの人なの?」
「シュタージが何か知っているのか?」
「知ってるよ。悪い人たちでしょう。みんなを捕まえちゃうって、パパがいってた」
「そうか。なんて名前?」
「僕の名前?」
「ボールだよ、ボールの名前?」
「おかしいの。ボールはボールだよ」
職務に忠実だったヴィースラーであれば、この子供の親の名前をさり気なく聞き出し、呼び出し、尋問しただろう。しかし、この時は「善き人のためのソナタ」を聞いた後だった。それでボールの名前を聞いたことにしてごまかした。
ある日、クリスタは昔のクラスメートに会うと言って出かけようとする。ヘンプフに呼び出されていたのだ。二人の関係に薄々感づいているドライマンは「行かないでくれ!」と懇願する。彼女は悲しげに答える。
「演目も役者も演出家もお偉方に握られているから、行くのは仕方がないわ。
あなただって、お偉方に媚びているんじゃないの、彼らはなんだって握りつぶせる力をもっているのよ」
その時、交代の軍曹が来たので、ヴィースラーは帰りかけるが、彼らのことが気になって、真っ直ぐに無機的な部屋に帰る気にならずバーに入り、ウオッカを注文する。そこへドライマンを振りきって出かけてきたクリスタもに入ってきてコニャックを注文する。ヴィースラーは落ち込んでいる彼女に一人のファンのような顔をして話しかける。
「舞台でのあなたは光り輝いていた。今のあなたはあなたじゃない」
「なら教えて、彼女は最愛の男を傷つけるような女だと思う?芸術のための芸術に身を売るかしら?」
「芸術ならあなたは持っておいでです。そんな取引は良くない。あなたは偉大な女優だ。ご存知ないんですか」
「あなたは本当いい方よ」
次の日、軍曹の報告書をヴィースラーは読む。前夜、彼女は出かけて約二十分たった頃に引き返してくる。ドライマンの喜びは大きく、二人は激しく愛しあう。彼女が二度と離れないと誓うと、ドライマンは「これで力が湧いてきた。何かできそうな気がする」と答える。軍曹はスランプに陥っていた彼が新しい戯曲を執筆するのだと考え、報告書に書いていた。
東ドイツの統計局は何でも数値化している。ただし、一九七七年から自殺者を数えるのを止めた。自殺者は「自己殺害犯」とされた。その結果、一番、自殺者の数が多いのはハンガリーとなった。
ドライマンはイェルスカの自殺をきっかけに東ドイツの監視社会、自殺の実態を論文にし、西ドイツのシュピーゲル誌に発表することを決意する。その打ち合わせを、どこでするかが問題になる。ドライマンは、自分は監視されていないと確信しているので、自分の部屋で相談することにする。疑い深い仲間は盗聴の可能性があるから、ガセネタを流して盗聴をチェックしてみようと提案する。当局に睨まれている友人ハウザーを車の座席の下に隠してハインリッヒ・ハイネ通りの検問所を突破させ、西側へ脱出させるというものだった。これを聞いたヴィースラーは、許せないと思い、検問所へ通報しようとする。ところが電話が繋がった途端、電話を切ってしまう。
この場面のヴィースラーの心理は揺れていて、複雑である。ドライマンらの自由主義的雰囲気に影響され始めているし、クリスタをおもちゃにしたヘンプフ大臣や、出世主義者のヴォルヴィッツへの反感もあっただろう。シュタージの悪口を言った少年を見逃したこともある。完璧な社会主義の番人ではなくなりつつある。かれは「今回だけは見逃してやる」と苦り切った表情でつぶやく。数時間後、友人から検問所を無事通過したという電話が入る。ドライマンの部屋には、西側へ脱出したはずのハウザーの声が聞こえる。ようやく、ヴィースラーは盗聴を試されたのだということに気づく。おそらく、ここで彼は無意識のうちに東ドイツを裏切ってしまったのだ。この時、クリスタに対する淡い愛情も芽生え、自由主義的生活へのあこがれも生まれていたはずである。
ドライマンの部屋での三人の集まりは、東ドイツ建国四十周年記念作品の台本を書いていたことになる。ヴィースラーは報告書に「報告に値する出来事は特になし」と書きつける。
ドライマンはシュタージに気づかれないように秘密の小型のタイプライターを使い、自殺者の数を中心とした東ドイツの実情を全ドイツに知らせるために論文にする。ただ、そのタイプライターには赤リボンしかなかった。その後、タイプライターを敷居板の下に隠す。この一部始終を聞いていたヴィースラーは、再び自分の任務を思い出し、ドライマンを告発する文書を仕上げ、ヴォルヴィッツのところへ持って行く。ところがヴィースラーが報告しようとする前に、ヴォルヴィッツは「入獄中の反政府芸術家の性格パターンについての考察」という文書を得意げに見せつける。それによるとドライマンはタイプ4で「ヒステリー症で人間中心主義、孤独に耐え切れず友を必要とする」という。ヴォルヴィッツはドライマンの社会主義への犯罪の証拠が間もなく手に入るものと確信して、どういう罰則をあたえるべきかを得々と述べる。
「一時的に拘留して、誰にも会わせず優遇する。完全に孤立させ守衛にも会わせない。釈放期限を決して知らせない。そして十カ月後、突然、釈放する。それで終わりだ。彼らはそれ以後、一切ペンを持たなくなる。いとも簡単にカタがつく」
ヴィースラーはこのヴォルヴィッツの時代錯誤、現実を見る目のなさに絶望して、報告書を握りつぶす。ここで完全に東ドイツの独裁社会主義と縁を切ることを決心する。
数週間後、シュピーゲル誌に記事が発表される。ヴォルヴィッツは、まだヴィースラーが裏切ったとは思っていない。彼のミス、重大なミスだと考えたのだ。ヴォルヴィッツはシュピーゲル誌内の協力者から原稿のコピーを入手していた。その原稿のコピーからタイプライターを特定し執筆者を逮捕するのだ。捜査が行き詰まっていると、ヴォルヴィッツはヘンプフ大臣から呼び出される。ヘンプフは自分の意のままにならないクリスタを切ることを決断する。ヴォルヴィッツにクリスタが不法に薬物を入手していることを知らせる。ヴォルヴィッツは直接、逮捕されたクリスタを取り調べる。クリスタはヴォルヴィッツを色仕掛けで誘惑してまでも、この危機を逃れようとする。だがヘンプフがクリスタを切った以上、ヴォルヴィッツはその誘いにのらない。クリスタに残された道はドライマンが記事を書いたことを自供することだけだった。ヴォルヴィッツは直接、指揮をしてドライマンの部屋の家宅捜索を行う。だがタイプライターは発見できなかった。ヴィースラーの裏切りを感じつつも、ヴォルヴィッツは彼に最後のチャンスを与え、クリスタにタイプライターの隠し場所を尋問させる。クリスタはヴィースラーの顔を見て、バーで出会ったことを思い出し、自分が監視されていて、もはや逃げ切れないことを悟る。
「今から、十時間後に、いや正確には九時間半後に、劇場で君が健康上の理由で今後、舞台に立つことはないという声明が発表される。君の女優人生は幕を閉じることになる。いいのか?」
「自分が助かることを考えるべきだ。無意味な正義感に流されて監獄にぶち込まれた人間は大勢いる」
「君のファンがいることを忘れるな」
「タイプライターの隠し場所を言え!」
「そうすれば、ドライマンにバレないように、ただちに君を釈放する」
「捜索は君が帰宅してからだ、君は演技で驚いたふりをすればいい」
「そうすれば、今夜の舞台に立てる、舞台こそ君の居場所だ」
「ファンだって君を待っている」
この尋問にクリスタは観念し、差し出された部屋の間取り図を見て、タイプライターの隠し場所に印をつける。この二人に共感するようになっていたヴィースラーは二人を助けようとする。一人、先回りし部屋に乗り込んでタイプライターを自分で隠す。ヴォルヴィッツがドライマンの部屋に家宅捜索にくる。彼が敷居板に目をつけると、ドライマンはクリスタを睨みつける。彼女はたまらず通りへ飛び出しトラックにはねられ「弱い私は償いきれない過ちを犯してしまったわ」と、つぶやきながら死んでしまう。
敷居板の下から何も見つけられなかったヴォルヴィッツは引き上げるが、ヴィースラーの裏切りには気づいている。当局を裏切ったヴィースラーは、国家保安省の地下で、市民の封筒を蒸気で秘密に開封するという閑職に追いやられてしまう。退役まで二十年、その仕事が続くのだ。
しかし、ゴルバチョフがソ連の大統領になったこともあって、この事件から四年七カ月後の一九八九年十一月九日にはベルリンの壁が崩壊する。それをヴィースラーに教えたのは同じように蒸気で封筒を開ける閑職につかされていた、ホーネッカーに関するジョークを話した若者だった。
ドライマンは舞台『愛の表情』を見ている。途中で、クリスタのことを思い出して、たまらず席を立つ。ロビーに出ると、同じように席を立ったヘンプフがいた。ドライマンはヘンプフに問う。
「何故、私は監視されていなかったのか?」 ヘンプフは答える。
「君は完全に監視されていた。部屋の電気のスイッチの中を見てみろ」
部屋に帰ったドライマンは壁いっぱいに張りめぐらされた盗聴器の配線に愕然とする。早速「記念資料館」に出かけて、自分の資料を閲覧申請する。一九九一年から一般市民にも機密文書が公開されることになっていた。ただし、閲覧申請ができるのは本人だけである。申請すると「あなたの資料は沢山あります」と言われ、しばらく待たされる。やがて彼に関する膨大な文書がワゴンで運んでこられた。ドライマンが東ドイツの自殺に関する論文を書いていたのに、最後の報告書には建国四十周年記念作品の台本を書いていたことになっており、その報告書の下端には指に付いた赤インクの汚れが残っていた。報告者のコードネームは“HGW XX/7”であった。係官に問い合わせるとそれはヴィースラーであった。秘密の小型タイプライターのインクリボンは赤だったので、ここでドライマンはヴィースラーがタイプライターを隠したことに始めて気づく。また自分がヴィースラーによって救われていたことも。
しばらくしてドライマンがタクシーに乗っていると、通りを郵便配達のワゴンを引きながら歩いているヴィースラーを目にする。思わず声をかけようとするが、思い留まる。これをきっかっけにドライマンは再びペンを取る。
二年後、いつもの様に手紙の配達をしているヴィースラーが書店の前を通りかかる。窓にはドライマンの新作『善き人のためのソナタ』の宣伝ポスターがある。彼は店の中に入って、その一冊を手に取る。なかには「感謝を込めて“HGW XX/7”に捧げる」という献辞があった。ヴィースラーはそれを買い求める。
「ギフト用に包みます?」と店員が聞くと、
「いや、私のための本だ」とヴィースラーは答えた。
私が子供の頃は、資本主義の後は、社会主義の時代がくると信じられていた。北朝鮮の社会主義を賞賛している中学校の教師もいた。大学時代に至っても、ソ連の五カ年計画は大成功であったという講義があり、共産党系の学生がそれに拍手をするという場面もあった。社会主義、ソ連の生産力がアメリカに追いつき、追い越すことが信じられていた。しかし、社会主義圏の生産は向上しなかった。物資は配給制であり、生活は豊かにならなかった。一九六〇年代には経済的に社会主義が資本主義を追い越せないことが明白になった。社会主義という理念では人々は献身的な労働をおこなわず生産は向上しなかった。与えられたノルマをこなせばそれでよかった。製品の質はどうあれ、決められた労働時間、働けば一定の給料が保証された。それ以上働いても給料は変わらない。そのような社会では経済は発展しない。映画に出てくる自動車は、青い排気ガスを出している。二十年、三十年間、同じ型の自動車を生産していたという話もある。生産物は国家を通じて分配される、つまり確実に売れるのだから品質の向上は追求されない。東ドイツの大衆車であるトラバントという自動車は、日本ではひと昔前にオートバイに使われていたツーサイクルエンジンで、猛烈な青い排気ガスを出し、車体にはベニヤ板が使われていたという。
結局、現在の資本主義のように個人が利益を追求し、その結果の不公平を国家によって税金を通じて再配分するというシステムに軍配があがったのである。戦後、ソ連圏に併合された東ドイツでは、西ドイツのほうが自由で豊かであることが明らかになった。そうすれば東ドイツという国家が生きのびるには西ドイツとの情報を遮断し、国内の思想統制を強化する他はない。国境を接しているヨーローッパでは西側の情報はどこからともなく入ってくるであろう。このために国家保安省は強化され肥大していった。このような社会では、生き残るためには、国家体制の側で上昇を目指す他ない。ただ東ドイツの国民の中には社会主義の正義を信じる者もいたであろう。ヴィースラーはその一人であった。職務上、西側の情報も知り得たし、国内の自由主義者の考えに触れることにもなった。国家と国民、統制と自由の板挟みになったのである。この映画は、このようなヴィースラーの苦悩をよくえがいている。社会主義の理想を信じ、社会主義の敵を打倒すべきと考えていたシュタージの中間管理職が、苦悩のうちにも盗聴する対象の自由主義者から、本当の愛を知り、独裁社会主義国家に疑問を感じていく様子がサスペンスタッチで見事に映像化されている。
結局、社会主義革命というのは壮大な無に終わった。それだけでなく、ソ連、中国では無理な集団化、社会主義的農業化のために数千万人が死亡したと伝えられている。人は理念では生きられないのである。
吉本隆明に一九八九年七月九日に行われた『日本農業論』(『吉本隆明〈未収録〉講演集〈3〉』所収)という講演がある。まさにベルリンの壁崩壊の直前である。それによると、ソ連の八二年度の農業をみると、コルホーズの農場が四十三、三%、ソホーズが五十一、五%、個人経営が二、九%となっている。ところがこの個人経営の農場がジャガイモの六十三%、野菜の三十二%、食肉の三十%、牛乳の二十七%、鶏卵の三十一%を生産しているのである。これが国有化の弊害である。コルホーズやソホーズの給料は決まっているので、いくら働いても自分の取り分にならない。個人経営だと自分の取り分になるので一生懸命働く。農業機械にしても、自分たちの工場の技術と設備の枠内の農機具しか作らない。農民が本当に必要としている農機具を開発製造するという発想が全くない。できた製品は必要でもない所にまわされる。
たまりかねたゴルバチョフは個人経営者に個人経営用の農地を貸与するという提案を言い出した。このようなことになってしまったのは、マルクス、エンゲルスによる農業の《土地国有化、国民的管理のもとに共同耕作をする》という原理がある。マルクス、エンゲルスは楽天的だったというか、国有化の結果を見通せなかったので共同耕作をすれば安くていいものがつくれると考えたのである。ところが《国家というものはいったんできてしまうと、どんな政府でも、つまり社会主義政府であろうと自由主義的な政府であろうと、国家自体で閉じられていき、大衆的な利益とは矛盾を生じてきますから、国有化が本当の全国民的管理にならないで、国家官僚による管理ということになってしまう、国家官僚の利害が第一になってしまいます》ということになる。つまり《無分別な競争》の代わりに、《無分別な管理》が横行することになり、汚職がはびこり、官僚だけが肥え太ることになってしまったのだ。このような社会主義を吉本は社会国家主義という。
吉本は日本の農業についても触れている。日本でも「進歩派」は土地の国有化、企業の国有化が社会主義の目標だと考えている。むしろ自民党の方が、ゴルバチョフと同じ程度には農業の自由化をやっている。ペレストロイカは自民党と同じ程度には進歩性があるということになる。日本における歴史の無意識に任せた農業の考え方が、回り回ってゴルバチョフと同じになるという歴史の皮肉がある。歴史は資本主義から社会主義、共産主義というようには単純な進歩史観では捉えられない。日本の場合、アメリカ占領軍によって農地解放が行われ、小さな自作農がそれほどの格差もなく並列した。案外、このような状態が理想に近いかもしれないというのが吉本の考え方である。
ベルリンの壁崩壊後、一九九一年八月十九日にソ連でクーデターが起った。ゴルバチョフがソ連共産党を見限り、国家主権を各共和国に移譲し、ソ連邦を各共和国間の調整役にしようとしたのだ。これに反対したソ連共産党派がクーデターを起こしたわけだが、結局、エリツィンがとって代わった。国家管理社会主義者が敗北したわけだ。《国家社会主義理念あるいは共産党による国家権力の掌握をして行われた民衆の解放が、高度資本主義社会における民衆の解放度に負けた》のである。この映画はこのような問題も提起していると言えるだろう。
普通、映画は一度しか見ない。しかし、現在の技術革新により、DVDで手軽に家庭で映画が見れるようになった。巻き戻しも自由で、同じシーンを繰り返し見ることができる。映像に隠された仕掛けも何度か見るうちに気がつくこともある。最後のヴィースラーの報告書に残された赤く残された指の汚れなどは見事である。途中での秘密のタイプライターに赤のインクリボンしかなかったという仕掛けがきっちりいかされている。この赤インクの汚れでドライマンが自分はヴィースラーによって救われたという事実を理解するのだ。「私のための本だ」という言葉にはドライマンがヴィースラーに向けて書いた本ということが示めされている。時代は人間をのせて進んでいくのである。たとえ、遅々とした歩みであろうとも。
2015年3月31日
松山愼介
『善き人のためのソナタ』(フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督)は二〇〇六年のドイツ映画である。最初に字幕で時代状況が説明される。時は一九八四年、東ドイツには国家保安省(シュタージ)があって、協力者十万人、密告者二十万人がすべてを知ろうとする独裁者を支えていた。当時の東ドイツの人口は千六百万人であるから、五十人に一人の割合で国家保安省への協力者がいるという驚くべき監視社会であった。ベルリンの壁崩壊の五年前のことである。
主人公はヴィースラー大尉である。シュタージで任務をこなす他、学生にも社会主義の敵を尋問する方法を講義している。容疑者を自白させる方法は四十時間寝させずに尋問することである。容疑者は椅子に座り、両手を太腿の下に入れることを要請される。これは容疑者の抵抗心をそぐためでもあり、椅子を覆っている布切れに匂いを染み込ませ、その布切れを万一の場合にそなえて保存しておくのである。例えば、容疑者が逃亡した時に、警察犬で追跡できるように。学生の一人が「四十時間寝させないのは非人間的ではないでしょうか?」と質問すると、彼はすかさず、座席表のその学生の名前にチェックを入れる。
四十時間たつと、無実の容疑者は怒りをもって抗議しはじめるが、罪を犯している容疑者は泣き出す。しかも何時間たっても同じ供述を繰り返す。ここまでくると妻を逮捕し、子供を孤児院にいれるぞと圧力をかけると全面的な自供が得られるというのである。「尋問相手は社会主義の敵だ」というのがヴィースラー大尉の信条である。彼はこの正義の仕事に、全く疑問をもっていない。ヴィースラー大尉役のウルリッヒ・ミューエは終始、無表情で冷酷なこの役をうまく演じている。講義を終えたヴィースラー大尉をヴォルヴィッツ中佐が拍手で迎える。二人は二十年前のこの学校の同期生である。ヴィースラーは人づき合いも上手くないのだが、ヴォルヴィッツは世渡りがうまく順調に出世の道を歩み今は中佐となって、ヴィースラーの上司となっている。
二人は食事をするのだが、ヴォルヴィッツは当然のように幹部席に座ろうとする。ヴィースラーは、社会主義的平等は身近なところから実行していかねばと考えているので一般席に座る。一つ横のテーブルでは若者三人が、ホーネッカー議長に関するジョークを話している。
ホーネッカーは朝、執務室に入り窓辺に立ち太陽を見て言う。
「おはよう。太陽!」 太陽は答える。
「おはよう。エーリッヒ!」
昼になってエーリッヒは言う。
「こんにちは。太陽!」 太陽も言う。
「やあ~エーリッヒ!」
夕方になり、またエーリッヒは窓辺で言う。
「こんばんわ。太陽!」 太陽は答えない。
エーリッヒは太陽に再度、問いかける。
「こんばんは。太陽!」 太陽は答える。
「クソ野郎! 俺は西側にいるよ」
国家評議会議長に、西側の方が居心地よいのだと言いたいのだ。ちなみにヴォルヴィッツは、その若者を見てムッとした表情で「君の所属と階級は?」と尋ねる。一瞬、若者の顔に脅えがはしる。それを見ると、ヴォルヴィッツはハッハと笑い、冗談だよと水に流す。体制に不満の若者はこのようなジョークで発散するしかないのだ。ちなみに最初の尋問のシーンは、容疑者の友人が西側に逃げ出し、ヴィースラーはその手引を誰がしたかを激しく問い詰めているところである。結局、四十時間、寝させられずに尋問された容疑者は、手引した人物の名前を自白してしまうのである。
ヴィースラーはヴォルヴィッツに演劇『愛の表情』に招待される。主演はクリスタ=マリア・ジーラント、演出はその恋人のゲオルグ・ドライマンである。ドライマンは西側にも評判のいい演出家であり、かつ社会主義・東ドイツの模範市民と思われている。ヴィースラーはドライマンを一目見て、監視の必要性を感じる。ヴォルヴィッツは乗り気ではないが上司のヘンプフ大臣の指示もあって、ヴィースラーの主張する監視に同意する。ヴィースラーがドライマンの家を監視していると、夜遅く、クリスタが車で送られて帰ってくる。調査をするとその車はヘンプフ大臣のものであった。ヴィースラーがこれをヴォルヴィッツに報告すると、ヘンプフ大臣については文書で報告するなと言われる。ヴォルヴィッツにとっては、ヘンプフ大臣は出世の手がかりでもあり、上司でもあるので、彼を監視するわけにはいかないのだ。ここで始めてヴィースラーの中に、この体制への疑問が生まれる。社会主義に忠実な彼は、情実で事が動かされることに我慢ができないのである。ヴィースラーは入党した時の誓い“我らは党の盾と剣である”を覚えているかと、ヴォルヴィッツに話しかけるが、彼はこともなげに「俺は出世をめざしている」と言い放つ。そのためにはヘンプフ大臣に協力して、その政敵を追い落とすことが必要なのだと考えている。
映画では車(リムジン)の中で、クリスタとヘンプフ大臣とが情交するシーンがある。クリスタとヘンプフ大臣の関係は、昨日、今日の関係ではない。彼女はドライマンに惚れているのだが、ヘンプフ大臣に弱みを握られ情交を断れないのである。ドライマンと一緒に住んでいる部屋に帰りつくと、クリスタは汚された身体を必死になって洗う。ヘンプフの気配を消し去るように。最後には自己嫌悪に陥ってシャワールームのバスタブに座り込んでしまう。恋人がいながらも彼女は何故、大臣と関係しているのか。これは映画では明確に示されない。ヘンプフ大臣は演劇界を粛正した実績がある。おそらくそのために、彼から情交を迫られたクリスタは、それを拒否できなかったのだろう。もちろん。演劇界での自分の位置も危うくなるし、下手をすると、恋人のドライマンにも害が及ぶ可能性があるから。また後に、クリスタは薬物中毒であることがわかるので、その弱みをヘンプフ大臣に握られていたのかも知れない。クリスタの薬物中毒は独裁社会主義国家の精神病であろう。
ヴィースラーはドライマンを見た時から監視の必要を直感した。ヴォルヴィッツは、ドライマンはシロだと思っているので監視に乗り気でない。しかし、監視するようにヘンプフから指示される。このヘンプフの意図にはドライマンの弱点を見つけ出して、彼を抹殺し、クリスタを独占しようとする意図があったのかも知れない。
ヴィースラーはドライマン不在の時に部屋に調べに入る。西側の書籍や新聞、雑誌が雑然と置かれている。彼はなにげなくブレヒトの本を持ち去る。ドライマンの部屋には、あらゆる場所に盗聴器が仕掛けられる。彼はビルの屋根裏部屋を改造し盗聴ルームにする。チョークでその部屋にドライマンの部屋の間取りを書くほど念がいっている。盗聴は部下の軍曹と二交代制で行われる。盗聴のためのヘッドホンを掛けたヴィースラーは無表情だが、盗聴という仕事に対する秘められた情熱が感じられる。盗聴によって、何としても社会主義の敵を暴き出すのだという情熱が。ところが盗聴を重ね、ブレヒトの詩を読むうちに、彼の心にわずかずつ変化が起きはじめる。
ブルームーンの九月のある一日
静かにすももの樹のかげで
青ざめた恋人を抱きしめる
腕の中の彼女は美しい夢
二人の頭上には夏の空
一片の雲が眼に止まった
白い雲、天高く
見上げると、もう消えていた
ドライマンに一本の電話が入る。友人からイェルスカが首を吊って自殺したという知らせだった。ドライマンの友人の演出家イェルスカはヘンプフ大臣主導の演劇界の大掃除によって、仕事を失い、ドライマンに「善き人のためのソナタ」のスコアをプレゼントした後、自殺する。この「善き人のためのソナタ」は、この曲を本気で聴いた者は、悪人になれないという、心を落ち着かせる名曲であった。レーニンもこの曲を聞くと革命はできないと言ったという。ドライマンはピアノで「善き人のためのソナタ」を弾き始める。その「善き人のためのソナタ」を盗聴しているヴィースラーは聞いてしまう。いつしか彼の頬を一筋の涙が伝う。彼の生活は無機的なもので、部屋にも最小限の家具しかない。性も巨大な乳房のコールガールを呼ぶことで処理している。このヴィースラーの世界が、ドライマンの部屋を盗聴することによって揺すぶられていく。上司の功利的な世渡り、一方に、情熱的で人間的なクリスタとドライマンの生活がある。ブレヒトの愛の詩もある。
盗聴を終えて家に帰り、エレベータに乗ると、転がったサッカーボールと共に一人の少年が入ってくる。
「おじちゃん、シュタージの人なの?」
「シュタージが何か知っているのか?」
「知ってるよ。悪い人たちでしょう。みんなを捕まえちゃうって、パパがいってた」
「そうか。なんて名前?」
「僕の名前?」
「ボールだよ、ボールの名前?」
「おかしいの。ボールはボールだよ」
職務に忠実だったヴィースラーであれば、この子供の親の名前をさり気なく聞き出し、呼び出し、尋問しただろう。しかし、この時は「善き人のためのソナタ」を聞いた後だった。それでボールの名前を聞いたことにしてごまかした。
ある日、クリスタは昔のクラスメートに会うと言って出かけようとする。ヘンプフに呼び出されていたのだ。二人の関係に薄々感づいているドライマンは「行かないでくれ!」と懇願する。彼女は悲しげに答える。
「演目も役者も演出家もお偉方に握られているから、行くのは仕方がないわ。
あなただって、お偉方に媚びているんじゃないの、彼らはなんだって握りつぶせる力をもっているのよ」
その時、交代の軍曹が来たので、ヴィースラーは帰りかけるが、彼らのことが気になって、真っ直ぐに無機的な部屋に帰る気にならずバーに入り、ウオッカを注文する。そこへドライマンを振りきって出かけてきたクリスタもに入ってきてコニャックを注文する。ヴィースラーは落ち込んでいる彼女に一人のファンのような顔をして話しかける。
「舞台でのあなたは光り輝いていた。今のあなたはあなたじゃない」
「なら教えて、彼女は最愛の男を傷つけるような女だと思う?芸術のための芸術に身を売るかしら?」
「芸術ならあなたは持っておいでです。そんな取引は良くない。あなたは偉大な女優だ。ご存知ないんですか」
「あなたは本当いい方よ」
次の日、軍曹の報告書をヴィースラーは読む。前夜、彼女は出かけて約二十分たった頃に引き返してくる。ドライマンの喜びは大きく、二人は激しく愛しあう。彼女が二度と離れないと誓うと、ドライマンは「これで力が湧いてきた。何かできそうな気がする」と答える。軍曹はスランプに陥っていた彼が新しい戯曲を執筆するのだと考え、報告書に書いていた。
東ドイツの統計局は何でも数値化している。ただし、一九七七年から自殺者を数えるのを止めた。自殺者は「自己殺害犯」とされた。その結果、一番、自殺者の数が多いのはハンガリーとなった。
ドライマンはイェルスカの自殺をきっかけに東ドイツの監視社会、自殺の実態を論文にし、西ドイツのシュピーゲル誌に発表することを決意する。その打ち合わせを、どこでするかが問題になる。ドライマンは、自分は監視されていないと確信しているので、自分の部屋で相談することにする。疑い深い仲間は盗聴の可能性があるから、ガセネタを流して盗聴をチェックしてみようと提案する。当局に睨まれている友人ハウザーを車の座席の下に隠してハインリッヒ・ハイネ通りの検問所を突破させ、西側へ脱出させるというものだった。これを聞いたヴィースラーは、許せないと思い、検問所へ通報しようとする。ところが電話が繋がった途端、電話を切ってしまう。
この場面のヴィースラーの心理は揺れていて、複雑である。ドライマンらの自由主義的雰囲気に影響され始めているし、クリスタをおもちゃにしたヘンプフ大臣や、出世主義者のヴォルヴィッツへの反感もあっただろう。シュタージの悪口を言った少年を見逃したこともある。完璧な社会主義の番人ではなくなりつつある。かれは「今回だけは見逃してやる」と苦り切った表情でつぶやく。数時間後、友人から検問所を無事通過したという電話が入る。ドライマンの部屋には、西側へ脱出したはずのハウザーの声が聞こえる。ようやく、ヴィースラーは盗聴を試されたのだということに気づく。おそらく、ここで彼は無意識のうちに東ドイツを裏切ってしまったのだ。この時、クリスタに対する淡い愛情も芽生え、自由主義的生活へのあこがれも生まれていたはずである。
ドライマンの部屋での三人の集まりは、東ドイツ建国四十周年記念作品の台本を書いていたことになる。ヴィースラーは報告書に「報告に値する出来事は特になし」と書きつける。
ドライマンはシュタージに気づかれないように秘密の小型のタイプライターを使い、自殺者の数を中心とした東ドイツの実情を全ドイツに知らせるために論文にする。ただ、そのタイプライターには赤リボンしかなかった。その後、タイプライターを敷居板の下に隠す。この一部始終を聞いていたヴィースラーは、再び自分の任務を思い出し、ドライマンを告発する文書を仕上げ、ヴォルヴィッツのところへ持って行く。ところがヴィースラーが報告しようとする前に、ヴォルヴィッツは「入獄中の反政府芸術家の性格パターンについての考察」という文書を得意げに見せつける。それによるとドライマンはタイプ4で「ヒステリー症で人間中心主義、孤独に耐え切れず友を必要とする」という。ヴォルヴィッツはドライマンの社会主義への犯罪の証拠が間もなく手に入るものと確信して、どういう罰則をあたえるべきかを得々と述べる。
「一時的に拘留して、誰にも会わせず優遇する。完全に孤立させ守衛にも会わせない。釈放期限を決して知らせない。そして十カ月後、突然、釈放する。それで終わりだ。彼らはそれ以後、一切ペンを持たなくなる。いとも簡単にカタがつく」
ヴィースラーはこのヴォルヴィッツの時代錯誤、現実を見る目のなさに絶望して、報告書を握りつぶす。ここで完全に東ドイツの独裁社会主義と縁を切ることを決心する。
数週間後、シュピーゲル誌に記事が発表される。ヴォルヴィッツは、まだヴィースラーが裏切ったとは思っていない。彼のミス、重大なミスだと考えたのだ。ヴォルヴィッツはシュピーゲル誌内の協力者から原稿のコピーを入手していた。その原稿のコピーからタイプライターを特定し執筆者を逮捕するのだ。捜査が行き詰まっていると、ヴォルヴィッツはヘンプフ大臣から呼び出される。ヘンプフは自分の意のままにならないクリスタを切ることを決断する。ヴォルヴィッツにクリスタが不法に薬物を入手していることを知らせる。ヴォルヴィッツは直接、逮捕されたクリスタを取り調べる。クリスタはヴォルヴィッツを色仕掛けで誘惑してまでも、この危機を逃れようとする。だがヘンプフがクリスタを切った以上、ヴォルヴィッツはその誘いにのらない。クリスタに残された道はドライマンが記事を書いたことを自供することだけだった。ヴォルヴィッツは直接、指揮をしてドライマンの部屋の家宅捜索を行う。だがタイプライターは発見できなかった。ヴィースラーの裏切りを感じつつも、ヴォルヴィッツは彼に最後のチャンスを与え、クリスタにタイプライターの隠し場所を尋問させる。クリスタはヴィースラーの顔を見て、バーで出会ったことを思い出し、自分が監視されていて、もはや逃げ切れないことを悟る。
「今から、十時間後に、いや正確には九時間半後に、劇場で君が健康上の理由で今後、舞台に立つことはないという声明が発表される。君の女優人生は幕を閉じることになる。いいのか?」
「自分が助かることを考えるべきだ。無意味な正義感に流されて監獄にぶち込まれた人間は大勢いる」
「君のファンがいることを忘れるな」
「タイプライターの隠し場所を言え!」
「そうすれば、ドライマンにバレないように、ただちに君を釈放する」
「捜索は君が帰宅してからだ、君は演技で驚いたふりをすればいい」
「そうすれば、今夜の舞台に立てる、舞台こそ君の居場所だ」
「ファンだって君を待っている」
この尋問にクリスタは観念し、差し出された部屋の間取り図を見て、タイプライターの隠し場所に印をつける。この二人に共感するようになっていたヴィースラーは二人を助けようとする。一人、先回りし部屋に乗り込んでタイプライターを自分で隠す。ヴォルヴィッツがドライマンの部屋に家宅捜索にくる。彼が敷居板に目をつけると、ドライマンはクリスタを睨みつける。彼女はたまらず通りへ飛び出しトラックにはねられ「弱い私は償いきれない過ちを犯してしまったわ」と、つぶやきながら死んでしまう。
敷居板の下から何も見つけられなかったヴォルヴィッツは引き上げるが、ヴィースラーの裏切りには気づいている。当局を裏切ったヴィースラーは、国家保安省の地下で、市民の封筒を蒸気で秘密に開封するという閑職に追いやられてしまう。退役まで二十年、その仕事が続くのだ。
しかし、ゴルバチョフがソ連の大統領になったこともあって、この事件から四年七カ月後の一九八九年十一月九日にはベルリンの壁が崩壊する。それをヴィースラーに教えたのは同じように蒸気で封筒を開ける閑職につかされていた、ホーネッカーに関するジョークを話した若者だった。
ドライマンは舞台『愛の表情』を見ている。途中で、クリスタのことを思い出して、たまらず席を立つ。ロビーに出ると、同じように席を立ったヘンプフがいた。ドライマンはヘンプフに問う。
「何故、私は監視されていなかったのか?」 ヘンプフは答える。
「君は完全に監視されていた。部屋の電気のスイッチの中を見てみろ」
部屋に帰ったドライマンは壁いっぱいに張りめぐらされた盗聴器の配線に愕然とする。早速「記念資料館」に出かけて、自分の資料を閲覧申請する。一九九一年から一般市民にも機密文書が公開されることになっていた。ただし、閲覧申請ができるのは本人だけである。申請すると「あなたの資料は沢山あります」と言われ、しばらく待たされる。やがて彼に関する膨大な文書がワゴンで運んでこられた。ドライマンが東ドイツの自殺に関する論文を書いていたのに、最後の報告書には建国四十周年記念作品の台本を書いていたことになっており、その報告書の下端には指に付いた赤インクの汚れが残っていた。報告者のコードネームは“HGW XX/7”であった。係官に問い合わせるとそれはヴィースラーであった。秘密の小型タイプライターのインクリボンは赤だったので、ここでドライマンはヴィースラーがタイプライターを隠したことに始めて気づく。また自分がヴィースラーによって救われていたことも。
しばらくしてドライマンがタクシーに乗っていると、通りを郵便配達のワゴンを引きながら歩いているヴィースラーを目にする。思わず声をかけようとするが、思い留まる。これをきっかっけにドライマンは再びペンを取る。
二年後、いつもの様に手紙の配達をしているヴィースラーが書店の前を通りかかる。窓にはドライマンの新作『善き人のためのソナタ』の宣伝ポスターがある。彼は店の中に入って、その一冊を手に取る。なかには「感謝を込めて“HGW XX/7”に捧げる」という献辞があった。ヴィースラーはそれを買い求める。
「ギフト用に包みます?」と店員が聞くと、
「いや、私のための本だ」とヴィースラーは答えた。
私が子供の頃は、資本主義の後は、社会主義の時代がくると信じられていた。北朝鮮の社会主義を賞賛している中学校の教師もいた。大学時代に至っても、ソ連の五カ年計画は大成功であったという講義があり、共産党系の学生がそれに拍手をするという場面もあった。社会主義、ソ連の生産力がアメリカに追いつき、追い越すことが信じられていた。しかし、社会主義圏の生産は向上しなかった。物資は配給制であり、生活は豊かにならなかった。一九六〇年代には経済的に社会主義が資本主義を追い越せないことが明白になった。社会主義という理念では人々は献身的な労働をおこなわず生産は向上しなかった。与えられたノルマをこなせばそれでよかった。製品の質はどうあれ、決められた労働時間、働けば一定の給料が保証された。それ以上働いても給料は変わらない。そのような社会では経済は発展しない。映画に出てくる自動車は、青い排気ガスを出している。二十年、三十年間、同じ型の自動車を生産していたという話もある。生産物は国家を通じて分配される、つまり確実に売れるのだから品質の向上は追求されない。東ドイツの大衆車であるトラバントという自動車は、日本ではひと昔前にオートバイに使われていたツーサイクルエンジンで、猛烈な青い排気ガスを出し、車体にはベニヤ板が使われていたという。
結局、現在の資本主義のように個人が利益を追求し、その結果の不公平を国家によって税金を通じて再配分するというシステムに軍配があがったのである。戦後、ソ連圏に併合された東ドイツでは、西ドイツのほうが自由で豊かであることが明らかになった。そうすれば東ドイツという国家が生きのびるには西ドイツとの情報を遮断し、国内の思想統制を強化する他はない。国境を接しているヨーローッパでは西側の情報はどこからともなく入ってくるであろう。このために国家保安省は強化され肥大していった。このような社会では、生き残るためには、国家体制の側で上昇を目指す他ない。ただ東ドイツの国民の中には社会主義の正義を信じる者もいたであろう。ヴィースラーはその一人であった。職務上、西側の情報も知り得たし、国内の自由主義者の考えに触れることにもなった。国家と国民、統制と自由の板挟みになったのである。この映画は、このようなヴィースラーの苦悩をよくえがいている。社会主義の理想を信じ、社会主義の敵を打倒すべきと考えていたシュタージの中間管理職が、苦悩のうちにも盗聴する対象の自由主義者から、本当の愛を知り、独裁社会主義国家に疑問を感じていく様子がサスペンスタッチで見事に映像化されている。
結局、社会主義革命というのは壮大な無に終わった。それだけでなく、ソ連、中国では無理な集団化、社会主義的農業化のために数千万人が死亡したと伝えられている。人は理念では生きられないのである。
吉本隆明に一九八九年七月九日に行われた『日本農業論』(『吉本隆明〈未収録〉講演集〈3〉』所収)という講演がある。まさにベルリンの壁崩壊の直前である。それによると、ソ連の八二年度の農業をみると、コルホーズの農場が四十三、三%、ソホーズが五十一、五%、個人経営が二、九%となっている。ところがこの個人経営の農場がジャガイモの六十三%、野菜の三十二%、食肉の三十%、牛乳の二十七%、鶏卵の三十一%を生産しているのである。これが国有化の弊害である。コルホーズやソホーズの給料は決まっているので、いくら働いても自分の取り分にならない。個人経営だと自分の取り分になるので一生懸命働く。農業機械にしても、自分たちの工場の技術と設備の枠内の農機具しか作らない。農民が本当に必要としている農機具を開発製造するという発想が全くない。できた製品は必要でもない所にまわされる。
たまりかねたゴルバチョフは個人経営者に個人経営用の農地を貸与するという提案を言い出した。このようなことになってしまったのは、マルクス、エンゲルスによる農業の《土地国有化、国民的管理のもとに共同耕作をする》という原理がある。マルクス、エンゲルスは楽天的だったというか、国有化の結果を見通せなかったので共同耕作をすれば安くていいものがつくれると考えたのである。ところが《国家というものはいったんできてしまうと、どんな政府でも、つまり社会主義政府であろうと自由主義的な政府であろうと、国家自体で閉じられていき、大衆的な利益とは矛盾を生じてきますから、国有化が本当の全国民的管理にならないで、国家官僚による管理ということになってしまう、国家官僚の利害が第一になってしまいます》ということになる。つまり《無分別な競争》の代わりに、《無分別な管理》が横行することになり、汚職がはびこり、官僚だけが肥え太ることになってしまったのだ。このような社会主義を吉本は社会国家主義という。
吉本は日本の農業についても触れている。日本でも「進歩派」は土地の国有化、企業の国有化が社会主義の目標だと考えている。むしろ自民党の方が、ゴルバチョフと同じ程度には農業の自由化をやっている。ペレストロイカは自民党と同じ程度には進歩性があるということになる。日本における歴史の無意識に任せた農業の考え方が、回り回ってゴルバチョフと同じになるという歴史の皮肉がある。歴史は資本主義から社会主義、共産主義というようには単純な進歩史観では捉えられない。日本の場合、アメリカ占領軍によって農地解放が行われ、小さな自作農がそれほどの格差もなく並列した。案外、このような状態が理想に近いかもしれないというのが吉本の考え方である。
ベルリンの壁崩壊後、一九九一年八月十九日にソ連でクーデターが起った。ゴルバチョフがソ連共産党を見限り、国家主権を各共和国に移譲し、ソ連邦を各共和国間の調整役にしようとしたのだ。これに反対したソ連共産党派がクーデターを起こしたわけだが、結局、エリツィンがとって代わった。国家管理社会主義者が敗北したわけだ。《国家社会主義理念あるいは共産党による国家権力の掌握をして行われた民衆の解放が、高度資本主義社会における民衆の解放度に負けた》のである。この映画はこのような問題も提起していると言えるだろう。
普通、映画は一度しか見ない。しかし、現在の技術革新により、DVDで手軽に家庭で映画が見れるようになった。巻き戻しも自由で、同じシーンを繰り返し見ることができる。映像に隠された仕掛けも何度か見るうちに気がつくこともある。最後のヴィースラーの報告書に残された赤く残された指の汚れなどは見事である。途中での秘密のタイプライターに赤のインクリボンしかなかったという仕掛けがきっちりいかされている。この赤インクの汚れでドライマンが自分はヴィースラーによって救われたという事実を理解するのだ。「私のための本だ」という言葉にはドライマンがヴィースラーに向けて書いた本ということが示めされている。時代は人間をのせて進んでいくのである。たとえ、遅々とした歩みであろうとも。
2015年3月31日