遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

多和田葉子『献灯使』を読んで

2024-02-29 10:57:48 | 読んだ本
         多和田葉子『献灯使』            松山愼介
 この作者の作品は、どうもよくわからない。それなのに多和田葉子の作品が高い評価を受けていることがわからない。だいぶ前に読んだ『犬婿入り』もいいとはおもわなかった。
 この作品では、「駆け落ち」という言葉に引っかかった。昔は許されない仲の恋人同士が遠くへ行って新しい生活を始めることだが、作者は「駆ければ血圧が下がる」、「ジョギング」という意味で使っている。そういう言葉を、何か得意げに使っている。
大人が死ねなくなり、子どもは弱っていく。これも単に現実を逆転しただけの発想にすぎない。
「趣味を煉瓦として使って、個性という名の一軒家を建てようとは思わない」という文章も、面白くもなんともない。
「敬老の日」が「老人がんばれの日」、「子どもの日」が「子どもに謝る日」となるという。これらはまだしも、インターネットが亡くなった日を祝う「御婦裸淫(オフライン?)の日」ができたという。作者はこれらの言葉を得意げに使っているが、あまり感心しない。
 読んでいくに連れて、二〇一一年の東日本大震災、とりわけ福島第一原発事故以後のことを、膨らませて書いているということがわかってくる。さらに、二〇一三年に朝鮮が統一されて「朝鮮連邦」ができる。二〇一五年に日本政府が民営化される。皇室は京都に移る。二〇一七年に太平洋大地震が起こる。ここまでくると、近未来SF作品のようである。
 原発事故は原発のある国では、どこでも起こりうるし、大地震だって世界各国で起こっている。それなのに、この作品では、日本だけが世界から排除されているようである。今の世界情勢では、この作品のような状態になれば、中国が日本人を受け入れることはありえないだろう。まるで、この作品は小松左京の『日本沈没』のようではないか。

 日本人は電気料金が高くなれば、原発再稼働やむなしという風に、意見を変えたりする。先行きよりも、現実の自分が大事なのである。
 私は原発が放射能事故を起こす可能性があるからダメだとは思わない。むしろ、原発を冷却するために、海水の温度、地球の温度が上がるほうが、害があると思う。ただし、これは人類が火というものを手に入れた結果の現象なので、人類が繁栄(?)する限り地球の温暖化は避けられないだろう。
 現在、少子化が問題になっている。我々、「団塊の世代」は二百万人以上で、現在の出生数は八十万人くらいらしい。これで、将来、日本の人口が半減すれば、それはそれでいいことだと思う。現在、いまだに人口が増加しているインドや、アフリカ諸国も、そのうち避妊法が行き渡り、減少に転ずると思われる。地球環境を良くするには、人口の減少しかない。しかし、それは、文学の問題の範囲を越えている。
 福島原発事故以後、原発反対の意見を述べる人はあまり信用できない。『東京に原発を』の広瀬隆や、『原発は恐竜である』の水戸巌のように、原発事故以前から、警鐘を鳴らしていた人は信用できると思う。
 反原発小説なら、川上弘美の『神様2011』のように、大上段に構えない小説の方を評価すべきなのでないだろうか。
               2023年3月11日

車谷長吉『颱風』を読んで

2024-02-29 10:45:38 | 読んだ本
       車谷長吉『飆風』            松山愼介
 車谷長吉は、写真で見る容貌や文章から、一癖も二癖もある人物だと思っていたが、これほどだとは思わなかった。また、講演『私の小説論』を読むと、実によく勉強している。全部、読んだ作家の全集として漱石、鷗外、荷風をはじめ二十人の作家の名前をあげている。中でもカフカをドイツ語で読んだというのには感心した。
 この本は作品集だが、読み方がわからなかった『飆風』が一番のできであった。『密告』は文章が乱れている感じがした。この『飆風』と、高橋順子の『夫・車谷長吉』をあわせて読むと内容がよく理解できる。順子さんは色川武大の『狂人日記』も読んでいる。私は精神病というのがわからない。幻視、幻聴の体験もない。ただ、潔癖症(ここでは強迫神経症?)というのは聞いたことがあるが、それでも一日に多くて手を数十回洗うという症状で、精神科で「今日は五回で済みました」と話しているテレビ番組を見たことがある。『飆風』の主人公のように、石鹸が三個も一日になくなるほど、五百回も洗うというのは理解できない。また穢れを祓うために、家中を清めまくるというのも凄い。こういう生活に、よく順子さんが耐えたと思う。多分、順子さんが車谷長吉の元を去るということは、即、彼の死を意味していたのであろう。
 鬱病や、最近、よく話題になっている発達障害というのも実感としてわからない。また、精神障害による殺人事件(刑法い三十九条)なども理解できない。友人の弁護士に聞くと、裁判での精神鑑定というのは、精神科医によって違い、同じ診断が出ることは少ないという。『飆風』では、車谷程の症状になると治癒は望めず、逆に治療にあたる精神科医が精神障害になることもあるという。ただ、これらは高度資本主義が病根になっているのであろう。今後も、小説にとって精神病は大きなテーマになっていくような気がする。
「私の小説論』は上智大学での講演であるが、この時は『飆風』を書いている時と同じ時期だが調子が良かったのだろう。人間は死ぬべきことを定められているので、それが「淋しさ」から「悲しみ」になるというのは卓見である。漱石もよく読んでいると思う。
車谷長吉の作品は、派手さはないが、人の胸をうつものがある。小説はあまり売れたかどうかわからないが、三島由紀夫賞、平林たい子賞、直木賞と、受賞歴はすごいものがある。小説に命を賭けていたようなところがある。一方で、お金や出世を望まないというような偏固な性格もあるようだ。
 高橋順子によると、朝からビールを飲んでいたというから、アルコール中毒だったのであろう。脳梗塞もあったという。最後はイカの足を喉につまらせての窒息死という、車谷長吉らしい(?)最後だったのか。
 この作品集、特に『飆風』を読んでいると、本当の小説家というのは、大変なものだと感じた。最終的にはフィクションと現実の境目が不分明になり、精神を病むのだろうか。
 普通、小説を書く人は自分の体験を書くことから始まり、フィクションへと進んで行くのだろうが、その道も簡単なことではないと思った。作中に根津権現が出てくるが、ここは小説家にとって鬼門なのだろうか。藤澤清造、西村賢太も若くしてなくなっている。
 高橋和巳の奥さん・高橋たか子は夫に対して冷たいような気がしたが、順子さんは車谷長吉によく尽くした人のようだ。彼を詩の題材にしながらも。
                       2023年2月11日

村上春樹『騎士団長殺し』を読んで

2024-02-29 10:26:29 | 読んだ本
    村上春樹『騎士団長殺し』         松山愼介
この本は現在のところ、村上春樹にとって最後の(?)長編小説である。久しぶりに村上春樹を読んでみると、十年から二十年前に読んだときの新鮮な感動はなかった。文体とか比喩が通俗的に感じられた。それでも文庫本の四冊を最後まで読ませる力は残っている。ところが、四冊目を、これからどうなるんだろうと読み進めたが、物語は終わってないように感じた。最後になって梯子を外された感じがした。「プロローグ」あって、「エピローグ」がないので、村上春樹が第三巻を書こうとして書けなかったのだろうか。
 村上春樹の作品は、妻の失踪、妻との離婚から始まって、邪悪なものを退治して、妻と復縁するというのが一つの定形となっている。ところが、邪悪そうな「スバル・フォレスターの男」の正体は明かされない。免色渉も、悪人かどうかわからないままである。
施設に入っている老齢の雨田具彦に「騎士団長殺し」の絵の話をするところが、この作品の山場だろう(第四分冊、76)。騎士団長は、「私」に自分を殺して、「顔なが」を引っ張り出し秋山まりえを取り戻せと言う。「私」は、正彦の包丁を騎士団長の心臓に突き立てる。だが、「現実には私が殺しているのはほかの誰かの肉体なのだ」。この光景を雨田具彦は直視している。ナチの高官か、中国人捕虜を斬らせた若い少尉か、それとも「もっとも根源的な、邪悪なる何かなのか」を見ているのか。
「私」は地下に潜り、川を渡り、森を通って、洞窟の中に入る。洞窟の中にはドンナ・アンナがいて道案内をしてくれる。騎士団長はイデアであり、「私」はメタファーの中を進んで行き、あの石室の中に投げ出される。話としては、この「私」の冒険が秋山まりえを救うことになるべきなのだが、この冒険と関係なく、秋山まりえは騎士団長の指図により、迷い込んだ免色屋敷から逃げ出す。これまでの村上春樹の作品なら、「私」の行動によって邪悪なるものが封印され、まりえが助かることになるはずである。
ことによると、それまで邪悪なるものや、我々の前に立ちふさがっているシステムが、時代が複雑化するにつれて見えにくくなっていることの反映なのかも知れない。
『騎士団長殺し』の絵は、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』からきている。リヒャルト・シュトラウスの『薔薇の騎士』もこの作品の背景に流れる音楽である。案外、この作品の謎を解く鍵は『ドン・ジョヴァンニ』にあるのかも知れない。騎士団長はドン・ジョヴァンニに殺された、ドンナ・アンナの父親ということで、この父親は石像にされながらも女たらしのドン・ジョヴァンニを地獄に引きずり込む。だが、『騎士団長殺し』の絵は日本画ということになっている。飛鳥時代の日本の扮装をした人々を描いた絵から『ドン・ジョヴァンニ』が連想され、娘がドンナ・アンナだとわかるものだろうか。私はむしろこの設定から大化の改新(乙巳の変)を連想する。となると殺されたのは蘇我入鹿ということになる。
 免色渉を邪悪なものとして設定し、まりえを免色屋敷から救出するという展開なら腑に落ちるのだが。このように展開するなら、第三巻が書かれるべきであったのっではないだろうか。
 村上春樹の『猫を捨てる』によると、村上の父親は毎朝、お経を称えることを習慣にしていたという。それは、戦争の死者を供養するためのものであった。村上は父親が南京戦に加わっていたと思って危惧していたのだが、父親の部隊は南京攻略戦に参加せず、南京を迂回したということだ。
 この作品のなかで、村上は社会的事件を混入させる。ナチによるオーストリア併合、南京事件等である。こわれかけたプジョー205で放浪するのは、後から東日本大震災にあった地域だとわかる。村上は「上海から南京に至る各地で激しい戦闘をくぐり抜け、その途中で夥しい殺人行為、略奪行為が繰り返された」と書いているが、正確ではない。第二次上海事変で日本陸軍は増援隊を派遣し杭州湾に上陸するが、そこでは中国国民党軍の抵抗をほとんど受けていない。
 日本軍の上陸によって退路を塞がれるのを恐れた国民党軍は、一斉に南京めざして退却した。そのため、兵站が追いつかなかった日本軍は、食糧を略奪したが、ほとんど戦闘はしていない。国民党軍は南京に入る前に、自国の家や畑を焼き払ったといわれている。いわゆる南京事件は、日本軍が南京を攻略してからのことである。
 雨田具彦の弟、継彦を南京での残虐行為のため自殺したということにしているが、私は、このような現実を取り込むことは、現実と非現実の境目を書き、「壁抜け」などもある村上作品の完成度を弱くしているように感じる。これは『ねじまき鳥クロニクル』でも同じで、イスラエルのエルサレム賞の受賞スピーチ『壁と卵』にもいえることである。
 免色渉は秋山まりえの家が見えるところに白い大きな家を、なかば無理やり購入し、自分の娘かもしれないまりえを双眼鏡で見守る。これは、村上春樹が絶賛するスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』の構図そのままである。J・ギャツビーが免色渉で、「私」はニックである。戦争のため、愛するデイジーと別れさせられたギャツビーは、帰国後、デイジーが金持ちのトム・ブキャナンと結婚していることを知る。裏社会で金を手にしたギャツビーはブキャナンの家の対岸に豪邸を建て、デイジーの暮らす家を見つめて過ごす。

 ここまで書いてから、屋根裏の「みみずく」から川上未映子が村上春樹にインタビューしている『みみずくは黄昏に飛びたつ』を思い出した。これほど、村上春樹が自分の作品について饒舌に話しているのは珍しい。また、川上未映子も実に丁寧に村上作品を読んでいて、的確なインタビューというよりも、優れた対談になっている。

 今回の小説は、妹のコミとの関係をなんとか取り戻そうとしている話なのかもしれない。「私」と妹はかつて、どこまでも完全な関係を持っていた。ほとんど無意識な状態で、無垢な楽園状態で。それが彼女の死によって失われてしまって、等価とはいわないけれど、そこに有機的に結びつくはずのものを彼は探し求めている。

 上記の引用文がこの小説のテーマらしい。また、この本で村上は、この作品は完結しているとも述べている。
確かに村上春樹は優れた作家だが、晩年(?)になって、早稲田大学構内に『村上春樹ライブラリー』を建設してもらったり、雑誌で特集号を組んでもらうというのはいかがなものかと思う。

                            2023年1月14日