3104丁目の哀愁と感傷の記録

日々生きてます。自分なりに。感じた事を徒然に書きます。素直に。そんな人間の記録。
since 2008.4.4

言の葉

2009-07-18 00:20:32 | 徒然
言葉って素敵ねって話をします。
そろそろ眠気が限界に近づいているような気がしますが、
頑張って書いてみます。

僕は言葉が好きです。文学部出身なもんでね。
最近言語学的に言語の機能をいろいろな側面から、見て行くのが好きだったんだけど、最近はもっと言葉って何なのかっトコにもっと焦点を絞って考えてみた。
考えた事を書いて見ます。最近コーヒーのみながら考えた事をね。

あ~うっとうしい、って思った人はココから先読まないほうがいいよ。
相当長くなったからさ。

言葉って、話し言葉に関して言えば、本質は“音”じゃん。
音ってことは単純に声帯を振動さることによって、
空気が振動して聞こえるものでしょ。

その音に私達はこの世のあらゆる概念を乗せているわけ。
その空気の振動で人を狂わせることだってできるし、
世界を変えることだってできるし、
2000万人の人間を殺す事ができる。

言葉は行為と結びつくと同時に既に力を持っている。
これは言語学では有名な話じゃん。

書き言葉も然り。
二次元における単なる線だよ、所詮は。
が、所詮は線という以上の力を持ってしまっている気がする。
当たり前なんだけど。普段あんまり意識する事じゃねーけどな。

「3回転5000ポッキリ!」なんて看板があったら、
(本当にあるんだよこういう店が)
性的に興奮させるという力が働いており、
店に向かうという行為を約束させるかもしれない。

ってことはこから私達はある種の記号として認識して
その中に含まれる概念を読み取っているわけだ。
これがどれほどの速さの過程を経てるのかはわかんないけどね。
殆ど無意識レベルでしょう。

第二外国語で難しい単語が出てきたときなんかは
その記号を読み取ろうとしている過程が体現できるけど。

逆に言ってしまえば何の概念も含まれていない言葉なんてものは
すでにそれは言葉ではなくて、今度は音になる。
外国語を学んでいて自分の知らない単語が、あるいはリスニングが
単なる音に聞こえる状態なんていうのは、
そういう状況だろうと思う(多分ね)。

うんちって言葉を見たときに、
われわれがアタマの中で思い浮かべられるあの物体をリンクさせないような「うんち」は言葉ではない。
うんちという音。
この際うんち音(おん)といってもよい。それは違う意味になるか…

私達は言葉を知ってしまっているので、
うんちという言葉を見てあの物体をイメージできるが、
その逆の方向の機能は一体どうなっているのか。

あの思い描く(まあ、別に思い浮かべるもんでもないけど)物体が、
「うんち」となるには一体どのようなプロセスを経ているのだろうって思う。

逆はそもそも概念が先にあるっていう状況だ。
ことばとは結び付けられていないある概念が先に来て、
そこからその言葉(名前って言ったほうがわかりやすいか)を付ける。
概念から言葉に行く時には絶対にリンクはしない。
これはまず先に概念が生じた時にはそうであろう。
リンクするのではなく、名前を付ける。
概念が先の場合はリンクするわけじゃないじゃん。
必ずその概念に対して言葉をつける。

これが単純に言葉の獲得とするならば、
われわれはこの世の全ての概念に対しての言葉(名前)という記号を付けているという解釈もできるかもしれない。
だから概念がまず先に来て、
そこに記号として言葉をつけて、
それを母国語の人間ならばものすごいスピードでその記号を解読し、
イメージとリンクさせていると考える事ができる。

この過程を一度経験した上で、
再び、うんちという言葉に対して瞬時にあのトイレに流れ行く物体をイメージできるわけである。

まあ、ココまではいいとして。
問題は先の概念が先に来る状況だ。

概念が先に来る時はことばが後に付帯されるという事を上に書いてみたんだけど、
果たしてそんな事が起こりうるのかをちょっと考えてみた。

残念ながらそれはあり得ないんじゃないかな。
もっと言ってしまうと、そもそも言葉をみた時に、
記号を読み取って瞬時にイメージとして思い浮かべられるけど、
そのイメージは単純に先に述べたような最初からあった概念ではないということ。
それは既に言葉によってつくられた概念であって、
最初からあった概念なんていう存在が既に言葉ありきのもの。
単純に言葉が存在していない世界では最初からあった概念なんてものは必要ないし、存在しない。
てか「最初からあった概念」なんてのもそもそも言葉だし、表すこと(存在する事)が不可能。
つまりは先に概念が存在するためにはもう既に言葉が必要であるということよ。
分けわかんないね。

その「概念が先に来る状況」ってのが言葉の存在なしに語れないってこと

俺らが言葉をみて、単純にイメージを思い浮かべる。
言葉と純粋なイメージがリンクしているように思えるけど、実は違う。
そのイメージそのものが言葉の存在の上に成り立っているものであると思います。
先に概念がくるって状況も言葉が存在していなかったら概念はない。
「先にくる概念」っていうものになれないでしょ。
必要ないって言ってしまったほうがいいか。

言葉をまったく必要としない生物が何かを概念として必要とするかって考えると解り易い。
例えば猫が、うんちして(どんだけうんちって書いてんだよ)
これはなんだろうと(この言葉はもちろん便宜上ね)いう疑問という概念を持ったとするよね。
けど、言葉が無かったらその疑問って言うものを言葉にはしないし(必要ないし)、
なんだこれは(これも便宜上)という気持ちはあるかもしれないけど、
「なんだ、これは」という気持ちの存在が「なんだこれはという概念」になるための手段が一切存在していない。
ただ、その猫がみている事実だけ。(まあ、見るってのも事実ってのも当然言葉だけど、ってきりが無い…)
そのなんだこれはって言う気持ちから、「疑問」という言葉に行くことはないし、
その過程が無ければ間違いなく疑問という言葉をみてなんだろうこれはという気持ちを思い浮かべる事もない。
言葉が存在している条件下でのみ、あのちゃいろい物体はうんちという言葉になりえる。
つまりは、双方のリンク(と言葉を与える行為)はまず言葉が無くては始まらない。
“これはなんだろうと(この言葉はもちろん便宜上ね)いう疑問という概念を持ったとするよね”
なんて仮定を立てること自体が不可能。

全く言葉というものを知らない人がいるとする。
その人が何か熱いものを触って反射的に手を引っ込めたとする。
この様な状況は十分にありえるけど、それは手を「反射的に手を引っ込めた」という言葉を一切排除した行為だけである。
そもそも「反射的に手を引っ込めた」なんて言葉によるものであって、
彼にとって「反射的に手を引っ込めた」ことにすらならない。ただ、それだけ。
そっから熱いなんて言葉が生じるわけがない。
概念に名前をつけるとかいうはるか以前の問題。

そもそも「熱い」も「痛い」ない。
その感覚(事実というか)は確かにあるけど、それを「これが熱い」というものか、と認識することは不可能。
だって「熱い」なんて概念がそもそも無いんだから。
ただ、その事実が存在するだけ。

俺が悪かったみたい。
そもそも文章という形で言葉を使って言葉のない世界のことを書こうとしてるんだから。



次に考えたのは、

純粋な言葉の誕生は今書きたいことではないし、
言葉の純粋な誕生よりちょっと視点を変えて、
先の「反射的に手を引っ込める行為」がどうやったら「熱い」になったのかではなくて、 なぜ、「熱い」なのかということ。

てかココまで読んでるやつはちょっと人生を振り返ったほうがいいぞ。
君にはもっとやるべき事があるぞ。

言い換えると、なんで概念としての熱いが、日本語では「熱い」なんだよ。
っていう話。
別に熱いじゃなくてもいいじゃん。音や記号なんだから。

あの「熱い」って概念は「寒い」じゃだめじゃん。今のご時世。

なんで「熱い」は「熱い」なんだよ。


ぼくが思ったのは言葉って基準性をもっているからかなあ、と。

言葉は全てのものの基準である。
言葉の基準を通じて僕らは感覚やら、概念やらを言葉の基準性を使って表現しているわけです。
言葉は森羅万象のあらゆることの基準になっていると言い換えてもよい。
うんちがウンチであるのは、言葉が絶対的な基準を持っているからです。
うんちが別の単語でもそれはいいかもしれないが、
うんちという概念の基準がうんちという言葉であるから、
このご時世では、うんちを表現するためには、うんちという言葉を使わなくてはいけないんです。
その基準は世界各国変わるかもしれないし、
時間と共に変わるかもしれない。
ある組織の中、コミュニティーの中だけでもっている基準かもしれない。
英語と日本語でうんちに対する言葉が異なるし。

しかし、言葉が概念に対してもっている基準性は変わることは無い。
100年後にうんちのことをうんこと表す時代が来ているかも知れない。
しかし、うんちがうんこに変わったからといって、
そのうんこがもっている、言い換えればうんこという言葉が持っている基準性は変わらない。
うんちという概念はうんこという言葉が基準になり、
われわれはうんこという言葉であの物体を表現するのだろう。
逆にうんちはうんこという言葉が無ければうんちとして存在し得ない。

極論してしまえば言葉じゃなくたっていい。音楽でもジェスチャーでも。
その音やジェスチャーが例えば不快感を表すだとか、
快感を表すだとかいう基準を有していればことばと同じような働きをするだろう。

その基準は誰がつくったかとか知りません。
社会が決めているのかもしれないし、自然と決まったのかもしれない。
しかし、少なくとも言葉が何であついじゃなきゃダメなのかなんて疑問は消える。
言葉が基準であるならば。言葉にある一定の基準性をもたせないことには言葉はここまで発展し得ない。

絶対的な権力を持っているのが、基準だ。
基準は客観的に図られることができない。
例えば、上野クリニックがだしている絶対的な「包茎」の基準が存在したとする。
とすればこれが絶対的な基準になるため、それ自身を相対的に図る事ができない。

グリニッジの時計台も同じだ。
あぁ最初からこっちの例を出しておけばよかった。
この時間が基準ですと言われれば、
それ以外の全ての時間が基準ではなくなる。
つまりは基準を決めた段階で基準以外のものはその概念になることはできない。

うんこはうんこという概念を表すと同時に、
うんこという概念をあらわさなければならない、
むしろ、基準という言葉を強調するなら、
どうやったってうんこという概念を表してしまうんです。

うんちという言葉が基準であるかぎり、
うんちがどれほどうんじゃなくなっても(意味解らない)、
それはうんちであってしまう。
で、それがうんちなんだから、それをうんちじゃないという視点で見ること自体が不可能になる。

言葉が基準性を有しているからこそ
そもそも言葉を使っていま、この世界を見ているんです。

だから僕は言葉がこの世の中の全ての森羅万象の基準であると思います。
われわれが見ているこの世界の全てだけでなくて、
精神世界ももちろん、眼に見えない抽象的なものも全て。
本当にこの世の全て。
デカルトに倣えば、自分が考えているって状況も言葉を基準にしていると思います。

言葉では表せないっていう状況があると思いますが、
もし本当に言葉が無かったら、
その情景に感動する事もないし、
そもそも感動というものがなくなります。

誰かを好きになったりするなんてとてもロマンチックですね。
言葉で表現できないような気持ちも言葉を解して体感しているのであって、
言葉が無かったら、その気持ちを抱く事は絶対に不可能です。

こんな凄いものだと思います。言葉は。

だから、僕は言葉が好きなんです。