(承前)
(浜コンのHPから拝借)
- 主人公の一人風間塵の演奏は、作曲家の意図に自分の演奏を合わせていくのではなく、逆に、曲を自分に引きつけていく、曲を自分の世界の一つにしてしまう、曲を通じて自分の世界を再現してしまう、と書いている。難しいが、自分の音楽の世界というものを持っているピアニストしかできないし、それは独りよがりと批判されることもあろうが、風間塵は、鳥は一人でも歌うでしょ、と言っている。
- この小説ではコンクールを通じてコンテスタントが成長する姿を書いている。経験が少ない若いコンテスタントが多く、コンクールの期間が長いので確かにそういう面があるのかもしれない。
- 6人が選ばれた本戦ではピアノ協奏曲が演奏されるが、6人全員が違う曲を選んだ、同じ曲を選ぶ人が多いとオーケストラも飽きが生じるという。ショパンコンクールなどはさぞオーケストラは大変だろうな、と書いている。そうかもしれない。オーケストラの責任も重大だが、同じ曲を続けて演奏というのも確かに辛いだろう。
- また、本戦のピアノコンチェルトは実際にそれを経験したピアニストでないとわからない難しさがあると言う。CDで聴いているのと全然聞こえ方が違う。確かにそうだろう。これは先日観た演奏会形式のオペラの歌手も言っていたことと同じだ。自分のすぐ後ろで演奏している楽器の音が大きく聞えて、それ以外の楽器の細かい音が聞えないという。
- コンチェルトの中にあるカデンツァは本来即興曲だが、本当に即興で演奏する人はまずいない。こんなことも知らなかった。
- 主人公の一人明石が、西洋音楽の本場の欧州に行かなくても、それぞれの国にいて学び、そこから出てくる才能があっても良いのではないかと述べている。これもその通りだろう。明石が聴衆賞を取ったと言うことは、そういう時代が迫ってきているのではないか、と書いている。これは、東洋人がなぜ西洋音楽をやるのか、と言う先の問いに対する一つの答えでもあろう。
- 生物でも何でも進化というのは一時期に爆発的に起こるもので、クラシック音楽もそうだった、きら星のごとく偉大な作曲家が生まれたのは奇跡か、と書いている。確かにそうだ、絵画でも同じだ。マネ以降に出てきた偉大な画家たちの多いこと、驚くしかない。
- 予選、本戦とも選考が終了して結果が発表された後、審査委員を囲んで懇親会が開かれるという。そこでコンテスタントと委員が話ができるのは大変有意義だろう。こんな素晴らしい運営面の工夫があったとは知らなかった。
(その4、完)に続く
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