僕は小学生の時に写真を撮り始めた。中学生からは父の一眼レフを使い、写真の基本を学んだ。高校生になると自分のカメラを手に入れて、モノクロフィルムの現像引き延ばしを行うようになった。写真狂の少年だったと思う。ところが、東京の大学に入り上京すると、全く写真を撮ることはなくなった。少年野球をやっていた子が、いつしかバットとグローブを手放すように、僕はカメラを手放した。その後、就職しても写真を撮ることはなかった。どうしてもという時は「写ルンです」を使っていた。
その状況が変わったのは、転職で京都の会社で働くようになってからだ。京都には多くの中古カメラ屋さんがあった。通りを歩くと、ショーウィンドーに多くのカメラが飾られていた。日々それを眺めるうちに、いつの間にか欲しくなり、中古でEOSの安いフィルム一眼レフを買うことになった。それが再開の一歩で、転職先の仕事が順調になるに従い、徐々にカメラはアップグレードし、レンズは増えていった。京都には撮るべき被写体が沢山あった。こと写真を撮るという意味では、一生掛かっても撮り切れないだけの被写体が存在する。神社仏閣、桜や紅葉などの四季折々の風景、催し物、更には郊外の自然もある。加えて当時はモデルさんのポートレイト撮影もしていた。それでも「飽きる」のである。もし、今僕が京都に再び住めば、もう一生被写体不足で困ることはないだろう。でも当時はそう思わなかった。あまりに潤沢な被写体に囲まれて過ごすと、それが当たり前になり、ちょっとやそっとでは満足できなくなる。今振り返ると、当時は「目新しい何か」を求めて、毎週眼の色を変えていたように思う。もしそのまま京都に住み続けていたら、被写体がないと嘆いていたと思う。離れて初めて分かることもある。
18年前、秋田県に移住したとき、最初のうちは目に入るもの全てが新鮮で、写真を撮ることが楽しくて仕方なかった。一方で、京都でさえ飽きた僕が、東北の地で写真に撮るものが無くなるのは明白であり、その時はどうすれば良いのか途方に暮れた。数年もすれば、写真を撮らなくなるのかもしれない。そう思いもした。徐々に「東北の町」というカテゴリーに興味がシフトし、活動を続けるなかで、亡き上原稔師匠の写真に出会ったことが転機となった。師匠から多くのことを学び、残りの人生は東北地方の写真を撮り続けることを決意した。東北地方の町の写真は、京都の町中で撮っていた写真の撮り方をベースに、上原師匠の写真の猿真似、そして教えて頂いたことの消化から成り立っている。人生、何が何に連なっていくのか本当に分からないものだと思う。
さて、18年前というのは京都を去った時なので、実際によく写真を撮っていたのは20数年前のことだと思う。当時も歩いた花見小路界隈から分岐する小路。撮る喜びは当時と何も変わっていない。作法は変わったのだろうか。どこかに東北メソッドが加味されたのだろうか。嗚呼、師匠にこの写真を見て頂き、批評をして欲しかったなあ。今回の写真は人に誇るような要素は何もない。ただ自分が楽しむだけの写真だ。こういう写真を撮るときが、僕にとっての至福の刻なのである。
LEICA M10 MONOCHROME / Summicron M35mm ASPH