No Room For Squares !

レンズ越しに見えるもの または 見えざるもの

深いジャズ喫茶の話〜東松島 ABBEY ROAD 

2024-05-24 | 音楽







宮城コンプリートのプロセスでは、幾つものジャズ喫茶にも立ち寄った。仙台市では、カウント、カーボ。栗原市では、コロポックル。登米市のエルヴィン、等々。何をもってジャズ喫茶と呼ぶかという定義は難しい。そういう意味では未踏の店舗は多いかもしれない。それでも宮城県の主だったジャズ喫茶は殆ど網羅したのではないか。今回、石巻市からの帰路にGoogleマップで、「ABBEY ROAD」なるジャズ喫茶を見つけた。折角の機会なので、旅の最後に立ち寄ることにした。

ABBEY ROADは、東松島市(旧・矢本町)の住宅街にあった。予備知識なしに訪問したところ、現地は本当に普通の住宅街だった。というよりお店自体も一般住宅の隣に建った車庫の二階にあった。クルマはその民家(大きくて立派な民家ですが)の門扉の中に停めることになった。少し困惑した。入り口で靴を脱ぎ、二階の扉を開けると、ちょっと外からは想像できない正統的なジャズ喫茶ワールドが展開していた。先客は二名、持参したレコードをかけてもらい、うっとりとしている。JBLの大型システム、マッキントッシュを中心としたアンプ群、プレーヤーは僕もかつて使っていたトーレンスのTD520系だった。この日は帰路を急ぐこともあり、短時間の滞在となったが、正直びっくりするほど音の良いジャズ喫茶である。自分でCDとかレコードを持ってくれば、それも掛けてくれるという。あまりに正統的かつ古式ゆかしい内装だけど、あとで調べたら、オープンしたのは2012年とのことだった。以下は直接お聞きしたのではなく、ネット記事で読んだ内容だ。

元々、マスターは石巻の水産関連を扱う流通会社の役員だったそうだ。その会社の社長を慕い、右腕として忙しいながらも充実した日々を送っていた。当時、現在のジャズ喫茶店舗は個人のオーディオ部屋であり、自分の趣味として築き上げたシステムだという。要するにマニアさんである。そんな時に当地を襲った東日本大震災。勤務先の会社は津波で全壊、残念ながら社長もご遺体で発見され、会社は廃業となった。マスターのご自宅にも津波の浸水があったものの、二階にあるオーディオ鑑賞室は無事だったという。色々なものが失われたけど、音楽は残った。一念発起。その後、一年半かけて自宅の復旧と鑑賞室の改装を行い、2012年12月にジャズ喫茶として開業したのである。

そんなドラマがあった店とは全く知らなかった。優しそうで人当たりの良いマスター。懐かしい雰囲気のする店内。羨望のオーディオ。薫り高い珈琲。いかにもジャズ喫茶らしい音。それらが生死を潜り抜けた先に出来上がったものかと思うと、心が震えた。失われたもの、残ったもの。そこから導かれた「やりたいこと」。岩手コンプリートの際は、「東日本大震災」を強く意識した。宮城コンプリートでは、その気持が薄れていたように思う。石巻周辺は多くの方が犠牲になった鎮魂の地でもある。最初に店に入るときに、「何だか普通の家みたいだな~」なんて呑気に構えた自分が恥ずかしい。ジャンル問わず、どんなレコード(ジャズ以外でも)でも持参すれば掛けてくれるという。勿論、店内のレコードだって聴くことが出来る。是非、もう一度お邪魔したい。

追伸:本来は予約してから行く方が良いようです。でも普通に受け入れてくれました。ありがとうございました。
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のびたさんのレコード〜シャンソン編

2022-07-21 | 音楽





音楽と旅が大好きな明るいおじさん、のびたさん。ピアノを弾きながら、集まった皆さんで歌う「下町のうたごえ」というイベントを80回以上も開催されている。レパートリーもジャズ、ポップス、演歌、懐メロ、映画音楽、民謡、童謡、と何でもこなす。更には旅行添乗員を経験され、日本全国の町にも詳しいのである。そのバイタリティと知識には本当に頭が下がる。しかも偉ぶることは一切なく、聴く人の目線に合わせて演奏する音楽は、どこまでも優しい音楽なのだろう。難しい顔で黙り込み、腕組みをしながら交響曲を聴くだけが音楽ではないのである。先般、その「のびたさん」から所有していたレコード30枚ほどを譲り受けた。良いのだろうかという逡巡もあったが、これもご縁なので引き取らせて頂いた。中には現時点で僕が聴かないようなレコードもある。人生のある段階で、自然とそれも聴くことになるだろう。レコードというものは、そういうものだ。慌てず、ゆっくりと楽しんでいきたい。

そんな訳で、そのレコードから一枚、昨日聴いたシャンソンのレコードを紹介する。まずジャケットが良い。レコードはジャケットが大事だ。そして内容紹介の冊子が良い(2〜3枚目)。そして曲が良い。最後に演奏が良い(ストリングスバンド)。アコーディオンの調べが特に良かった。曲として、「La vie en rose」と「Sous le ciel de paris」が良い。前者はエディット・ピエフ、後者はバルネ・ヴィランの演奏で良く聴いている。ワインを飲むとき、特にボージョレ・ヌーヴォを飲む時に、このレコードを聴こうと思う。家人も気に入っていた。無許可でこの記事を書いたが、のびたさんのブログへのリンクを下記に貼ります。是非見て下さい。



X-PRO3 / XF23mm F1.4R



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7月のコルトレーン

2018-07-17 | 音楽
(個人的な妄想意見なので、ご容赦下さい)
ジョン・コルトレーンが亡くなったのは、1967年の7月17日だ。古くからジャズ喫茶では、7月をコルトレーンの「月命日」と称し、コルトレーンのアルバムを掛けまくるという習慣があった。今でもやっている店もあると思う。若い頃、コルトレーンが苦手だったので、7月にはジャズ喫茶に近づかないようにしていた。よく考えると、これは変な習慣だ。7月に亡くなったジャズミュージシャンは他にも多くいる。例えば、ビリー・ホリデイは1959年の同じ7月17日に亡くなっている。7月にビリー・ホリデイを掛けまくるジャズ喫茶の話は聞いたことがない。他のジャズミュージシャンでも、亡くなった月にアルバムを掛けまくるという話は、聞いたことがない(亡くなった同じ月日にラジオで追悼曲を掛けることはあっても)。今ではジャズ喫茶に行く機会は少なくなった僕だが、家庭ではコルトレーン命日演奏を今だに実践している。写真のアルバムに加え、双頭リーダーのアルバム2枚(ヂューク・エリントンとケニー・バレル)、CDでしか所有しないアルバム3枚(ブルートレーン、コルトレーンジャズ、ライブアットバードランド)の5枚を加えた合計19枚。今月中に聴きます。

それにしても、コルトレーンとは一体どのようなミュージシャンだったのだろうか。ジョン・コルトレーン(本名同じ、以下「コルトレーン」)は、1926年9月23日にノースカロイナで産まれ、前述の通り1967年に40歳で亡くなっている。死因は肝臓ガンだった。ジャズのテナーサックス奏者であり、多くのリーダーアルバムを発表している。また当時世界最高のバンドと言われたマイルス・デイビスのクインテット(五重奏団)の一員でもあった。コルトレーンの最大の特徴は、彼は最初から天才と呼ばれたわけではないことだ。バードことチャーリー・パーカーは最初から天才として飛翔したし、コルトレーンと何かと比較されるソニー・ロリンズはコルトレーンより若いにも関わらず、早くから巨匠と呼ばれた。

コルトレーンは1955年に、マイルス・デイビスのバンドに加入した。無名の男の大出世ではあるし、スター候補生には違いないが、どことなく「どんくさい」ミュージシャン扱いであったことも事実である。1957年には初期の代表作「ブルートレーン」を出しているものの、ドラッグ問題も抱え、同じ年にはマイルスバンドを解雇されている。この後、ジャズピアノの鬼才セロニアス・モンクとの共演を通じ、何かを掴みとったと言われるコルトレーン。1959年になると、突如として開眼するのである。意欲と自信に満ちた大傑作「ジャイアント・ステップス」を発売、マイルスバンドにも2年振りに呼び戻されるなど、破竹の快進撃を始める。限界速度を超えたトレーン列車は、以後ノンストップで疾走し、死ぬまで走り続けることになる(時折、途中停車し、バラードなど穏やかな作品を残しているが)。その音楽は、より人間の精神の内奥へ向かう求道的なものだった。

技術的にも精神的に今あるものに満足せず、常に先に向かい疾走する姿。本来それはジャズそのものの姿でだった筈である。だが彼の疾走は、まるで何かに取り憑かれ生き急いでいるようだった。結果的にジャズそのものを具現化したコルトレーンは、ジャズ自体を追い越していまうことになった。特に最後の2年間は、一体、どこまで飛翔するのか。どこを目指すのか。目が眩むような疾走だった。このコルトレーンの求道的な姿勢が、当時の若者、もっといえば全共闘世代を虜にした。一方で、こんな速度で走り続けることができるわけがない。この先にレールなんかあるのか。一体どうなってしまうのか。誰もが思っていた通り、コルトレーンは1967年7月に遂にレール上で停止する。肝臓がん、まだ40歳の若さだった。結果的にコルトレーンの実質的な活動期間は十年余りしかなかったことになるが、とてもそう思えない濃度であった。コルトレーンが人の心を打つのは、この圧倒的な疾走感なのだと思う。色々なものを一緒くたにすると叱られるが、それから色々な死の連鎖が始まったような気がする。以下が、僕が尊敬する方の偏ったリストだ(政治、宗教関係は除いた)。特に1970年を見ると、心折れそうになる。これらがコルトレーンの死を契機に起こったような気がしてならない。


1969年7月3日:ブライアン・ジョーンズ
1969年10月21日:ジャック・ケルアック
1970年2月15日:力石徹(少年マガジン発売日)
1970年9月18日:ジミ・ヘンドリックス
1970年10月4日:ジャニス・ジョプリン
1970年10月28日:沢田教一
1970年11月25日:三島由紀夫
1971年7月3日:ジム・モリソン
1972年2月19日:リー・モーガン

これは僕の想像だが・・・。コルトレーンの月命日問題は、上のリストにおける「力石徹」の死と関係しているのはないかと思っている。漫画のキャラクターが死んで、その葬式を実際に行う。その仕掛け人は寺山修司だったという。全共闘世代の所謂「団塊のおじさん」たちは、異なる世界の思想を「先祖代々」という日本的な価値観に組み入れてしまったのだ。力石が葬式ならば、コルトレーンは月命日、そういう発想である。それは、学生運動の終焉を予見した自らの価値観の死を客体化したものでもある。異国の地で、こんな受け容れ方をされていることをコルトレーンはどう思うのだろう。今宵は「クレッセント」を染み染みと聴こう。


追伸:僕が個人的な好きなアルバムは、歴史的な傑作ではなく、むしろ駄作扱いされる「スターダスト」。特に冒頭のテーマ演奏には痺れるし、フレディ・ハバードとの連携にもジーンと来る。
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Saxophone Colossus 〜 ありがとうヴァン・ゲルダー

2018-03-10 | 音楽




「貴方の落としたのは金の斧ですか、それとも・・・」。
もしこの二枚のレコードのうち、好きな方をあげると言われたらどちらを選ぶだろうか。一見綺麗な左を選んだ方、それはごく普通の国内再発盤で、中古レコード屋に行けば1000円未満で買うことができるだろう(それでも僕はこの国内版を20年以上聴いてきた)。一方、右側の霞んだ色合いに見えるジャケットの方、これこそ現在は入手困難、正真正銘のオリジナル盤である。価格の話をすると嫌らしいけど、低く見積もっても10万円以上の市場価値があり、程度が良ければ軽く15万円オーバーという代物である。録音日時は1956年6月22日。ニュージャージーにあるジャズレコーディング技師のルディ・ヴァン・ゲルダーのスタジオで行われた。ヴァン・ゲルダーはブルーノートレーベルを含む、ジャズの名盤を数多く録音した神様のような人で、一体どれだけ仕事したんだという数の録音を手がけている。残念なことに2016年に亡くなっている。ソニー・ロリンズは存命しているが、秋田県に住む僕が彼の生演奏を聴く機会はもうないだろう。1956年の空気を閉じ込めた、このオリジナル盤を折に触れ聴くのみだ。このアルバムでは、セントトーマスという曲が好きな人と、ブルーセブンという曲が好きな人に分かれる。でも僕は、ユー・ドントノー・ホワットラブイズのサックスの音の震えに痺れる。その音の震えはオリジナル盤で聴くと凄みさえ感じる。

ちなみにこのレコードは、「完全オリジナル盤」とか「ニューヨークオリジナル盤」と呼ばれる。録音はニュージャージーなのだが、レコード会社のプレステッジの所在地(レコードのレーベルに記載された住所)によって識別するからである。オリジナル盤としての経済的価値は別にして、1956年にプレスされた、そのレコード。当時新発売したものを誰かが買ったレコード。それを60年後に極東の地で聴くなんて、ロマンの塊ではないか。名演奏を残したロリンズのみならず、それを形にした。ヴァン・ゲルダーに感謝する。このレコードは昨年の夏に入手したのだが、国際便の荷物到着が謎の遅延を起こした。それが到着したのは、丁度ヴァン・ゲルダーの死から一年後の命日だった。

追伸:僕の物件は、ジャケット自体は綺麗だけど破れあり、盤もA面の前半はプチノイズ多しで、価値は落ちると思います。でも益々入手困難なので、そのうち更に高騰するかもしれません。

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#7 初夏の夜に窓を開けて聴く This time by Basie

2016-06-21 | 音楽

ある時、ある場所で聴いた音楽が、非現実的な程に良く聴こえることがある。それは様々な要素、装置だったり音量だったり、自分の気分だったり体調だったり、その時一緒にいた人だったり、あらゆるものが影響しているので、再現しようと思っても出来るものではない。以前にも書いたが、亡くなった僕の父は、ジャズを聴くことが好きな人だった。引っ越しのゴタゴタなどで、かなり紛失してしまったが、そのレコードは僕が受け継いでいる。その中の一枚に、「This time by Basie / CountBasie Orchestra」がある。カウント・ベイシーは豪華絢爛なビッグバンドを擁することで有名なミュージシャンである。だが僕はそのビッグバンドというカテゴリーが好きではなかった。楽しんで聴けるようになったのは、正直なところ、ここ数年の話である。そんな僕が例外的に聴き続けた一枚が、「This time by Basie / CountBasie Orchestra」なのである。

あれはいつのことだったろうか。多分小学校5年生の頃だ。当時、僕は痩せっぽちでヒョロヒョロの体系だった。男なんだからもっと身体を鍛えた方が良い、そういう周囲の勧めもあり、柔道を習っていた。週に何回か、夕方の2時間ほど道場に通った。この柔道場通いが僕は嫌で嫌で仕方なかった。その日、僕は道場に行く振りをして、実際は外をほっつき歩きサボタージュをしていた。通常道場が終わるのは夜7時過ぎで、片づけと清掃を終え、家に帰るのは7時半をまわる頃になる。夕方に小学生が一人で時間をつぶせる場所などなく、適当な頃に僕は家に帰ることにした。今日は早く終わった、と嘘をつけばよい。
ところが、家に帰ると何故かジャズの音が外に流れてきている。普段は帰りの遅い父親がその日に限って帰宅している。面倒なことになるかもな、そんな予感はあったものの、疲れて喉も渇いた僕は早く家の中に入りたかった。当時住んでいた家は、両隣が空き地になった一軒家(借家)で、所謂サザエさん家的な縁側がリビングの脇にあり、窓を開けると裏庭に面していた。そっと裏庭に周り様子を伺うと、父は縁側に座りビールを飲んでいた。見つかったら、怒られるかもしれない。後ろめたい気持ちのある僕はその場に立ちすくんだ。そのとき、レコードは「Moon River」を演奏していた。何の曲かなんて、当時は知らなかった。季節は丁度夏至で空は中々暗くならなかった。紫に空が染まり始めたマジックアワーに、その曲は似合っていた。

そのとき、裏庭にいる飼い犬、レオが「ワオーン」と吠えた。今の今まで気づいていなかったどころか、普段と違う行動を取る僕を不審者と勘違いしたのだ。
「誰だ?」父がこちらに向かって呼びかけた。僕は怒られることを覚悟して「僕です」と言った。父は特段驚くこともなく、「何してる?家にあがれ」と言い、犬のレオにサラミか何かを放り投げた。白い雑種の犬、レオは嬉しそうそれを食べた。
家に上がっても、父は道場のことは何も言わなかった。そもそも道場が何時に終わるかなんて知らなかったのかもしれない。
「この曲いいね、何て曲」
「MoonRiverだ」短く父は言った。父はそういう人だった。話としてはオチも続きもなく、それだけのことだ。



(中略)

その後、いろいろなことがあったが、僕は東京で大学生になり、ジャズを本格的に聴くようになっていた。ジャズといっても好きなのは、モダンジャズで、ブルーノートのレコードなんかを貪るように聴いていた。ビッグバンドや中間派の演奏には興味がなかった。ある時、ふとしたキッカケで、「This time by Basie / CountBasie Orchestra」をターンテーブルに載せた。特別な理由はない。ジャズファンは定期的にそういう普段聴かないものを掛けてみるという習癖がある。そして「やはり苦手だな」とA面の半分くらいを聴いて針を上げるのだ。でも、この時は違った。何かが心に引っ掛かる。最初に僕の脳裏に浮かんだのは、亡くなった飼い犬のレオの顔だ。散歩が大好きな犬なのに、面倒がって連れていかず、繋ぎ放しで可哀想なことをした。犬にとって、散歩がどれだけ大切なことかわかっていなかったのだ。申し訳ない。あれ?なんで僕はこんなことを考えているのだろう。そう気付いた瞬間、僕は先ほど書いた一連の出来事を思い出した。いや、思い出したというレベルではない。その場面が生々しいほどに頭の中に再現され、それを追体験したのだ。風の匂い、染まる空の色、半ズボンの足に絡まる草の感触、それらを僕は明確に感じることができた。飼い犬レオが吠えて父が僕に声を掛ける、その瞬間さえも。そんな記憶が僕の中に残っていることなど想像すらしたことはなかった。柔道をサボった日から10年後の出来事だった。

それ以来、夏至に近い初夏の気候の良い晩になると、無意識に「This time by Basie / CountBasie Orchestra」を取り出して聴くようになった。本当に不思議なことなのだけれど、無意識にレコードを手にすることが先で、その後に「もうそんな季節か」と気づくのである。ベイシーファンからは、「ヒットパレードのようで、ポピュラーだけどベイシーの本質ではない」と揶揄されるアルバムだけど、今年も僕はMoonRiverを聴いて、そのトルクフルなアンサンブルに一時酔いしれるのである。それはお盆に墓参りにも行くことのできない、僕なりの追悼の儀式といえるのかもしれない。




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一関ベイシー

2016-01-12 | 音楽







泣く子も黙る、岩手県一関市のジャズ喫茶「ベイシー」である。日本一音の良いジャズ喫茶として有名である。我が家のオーディオも数年掛けてセッティングも安定し、結構良い音になったと自負している今日この頃、かのベイシーの音は如何かとお邪魔した。いや、もう凄い音で、過去何度もベイシーには来ていて、当然今までも良い音だと思っていた。だが今回、もしかしたら思い込んでいるだけで分かっていないかったかもしれないと気づいた。家で38センチウーハーのJBLを日常的に聴くようになって、初めて分かったベイシーの音の真価である。この日は「Miles in Berlin」がかかったが、このアルバムを初めて「良い!」と思った。良い音というより、生演奏を聴いたような気分になる。本当に良い音は、分析的に聞かせるのではなく、演奏自体を聴かせてくれるものである。それにしても、使っているカートリッジは、シュアーのV15(Type3)とのことである。あの軽針圧カートリッジで、何故あんなに太い音が出るのか、摩訶不思議である。


LEICA M9 / SUMMICRON 35mm ASPH

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(#6) 時の玉手箱 Waltz For Debby /Bill Evans Trio

2015-12-01 | 音楽





1961年、ニューヨークのビレッジバンガードでのライブ盤である。このライブから11日後、ベーシストのスコット・ラファロが交通事故で亡くなっている。ピアニストのビル・エヴァンスは1980年に肝硬変で亡くなり、残るドラマーのポール・モチアンも2011年に亡くなった。もう、この伝説的なトリオの構成メンバーは誰一人としてもの世には存在しない。
よく「あなたは人生の最後の瞬間に何をしたいですか」ということが話題になることがある。僕は命が尽きる最後の5分間に、このアルバムの冒頭の曲「My Foolsih Heart」を聴いて死ねればなと思う。それほど美しい演奏である。

このアルバムはライブ盤である。信じがたいことに、演奏だけでなく、1961年のニューヨークのライブハウスの空気をそのまま音圧に変換して収録している。夜、照明を落とし強い酒をやりながら、いつもより大きな音量で聴いてみる。グラスや皿が触れる音、咳払い、人の声、それは単なる音というより、完全なる気配としてスピーカーの振動と共にやってくる。もうそこは、「秋田県」ではないのである。時空を超えて、僕はニューヨークのビレッジバンガードでビル・エヴァンスの生演奏を聴いているのである。トリオの演奏を、その時その場にいた観客と共に聴いているのである。

今年になって、とうとう僕はこの「Waltz For Debby」のモノラルオリジナル盤を入手した。下段3枚のうち、一番左手のものがそれだ。透明度はCDやステレオ盤のLPレコード(再発)の方が上である。でも、モノラルオリジナル盤は音圧も凄ければ、閉じ込められた気配の濃厚さも圧倒的である。このライブ盤では、演奏中に近くのトンネルを通る「地下鉄」の音が収録されていることで有名だ。それが聴こえたから何だってことはないのだけど、オーディオ的には、聴こえるべき地下鉄の音が聴こえないのは何か問題があるからだということになる。だからエヴァンスファンは、地下鉄の音が聴こえると殊の外喜ぶ。オリジナル盤では、はっきりとそれが聴こえる。厳密には地下鉄自体の音というよりも、マイクごと振動を拾っているのではと気づくほどはっきり聴こえるのである。だが、重要なことはそこではない。一番重要なことを書く。

このアルバムを聴くと思う。人生は小さな小さな奇跡のなだらかな連りそのものであり、人は奇跡が起きていることさえ気づかずに日々暮らし、やがて死んでゆくのだと。時折、とても信じられないような大きな奇跡が我々を驚かすことがあるけど、実は世の中は大小様々な奇跡に満ちていると言ってよい。1961年にビレッジバンガードで、エヴァンストリオのライブが行われた。これがライブレコーディングされていたという奇跡。わずか11日後にメンバーの一人が亡くなってしまい、録音テープがなければ、このトリオのライブアルバムはこの世に存在しなかったという事実。そして、その場に居合わせた幸運な人たちもいる。だが、彼らはこの演奏が後に歴史に残るライブ演奏となることにはまるで気づいていない様子だ。ホールは騒がしく、笑い声も聴こえる。表題曲が佳境にが入った際の「ある男」の笑い声は、いまでも全世界の人に繰り返し聞かれている。さらに僕は、地下鉄のことを思う。この名演奏、後にも先にも1961年の6月25日、NYのビレッジバンガード、その時その場でしか聴くことのできなかった名演奏。それが目と鼻の先で演奏されているとは露知らずに、地下鉄に乗って奇跡の現場の脇を通過した無数の人たち。人生の織り成す綾とは何と切ないのだろう。そして、それから半世紀以上を経て、僕は当時新品で発売されたレコードを入手し、聴いているのである。そのレコードは、どういう経緯を辿ったか分からないが、NYを出発点にヨーロッパの片田舎に移り、いまは日本の片田舎の僕の家にある。エヴァンスの人生と僕の人生は、直接的は交差することはなかったが、こうして僕は当時の仲間の末席にいれてもらったのである。この権利を生涯行使できるのであれば、いくらであろうと安いものではないか(と思う)。




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Merry X'mas 珠玉のJAZZクリスマス

2014-12-24 | 音楽
今このタイミングで言われても、どうにもならないかもしれないが、私的なクリスマスアルバムのベスト3を掲載しようと思う。ジャンルは当然ジャズなので、世間一般の評価と比べると疑問符も付くかもしれない。逆にジャズファンからすれば、結構順当過ぎてつまらないとの評価になる可能性もある。目くじら立てずに参考にして欲しい。



第3位 Yule Struttin' (BlueNote) ※CDで入手可能

01. Vauncing Chimes - Horizon, Bobby Watson
02. Silent Night - Stanley Jordan
03. Christmas Song - Lou Rawls
04. I'll Be Home for Christmas/Sleigh Ride - Eliane Elias
05. Winter Wonderland - Chet Baker
06. Merrier Christmas - Benny Green
07. Merrier Christmas - Dianne Reeves
08. O Tannenbaum - John Hart
09. Jingle Bells - Count Basie
10. Chipmunk Christmas - John Scofield
11. God Rest Ye Merry Gentlemen - Joey Calderazzo
12. Have Yourself a Merry Little Christmas - Dexter Gordon
13. Silent Night - Benny Green
14. Little Drummer Boy - Rick Margitza



ブルーノートレーベルのクリスマス・コンピレーションアルバムである。いつまで経っても新しいアルバムという感覚が抜けないが、実は1990年のリリースであり、もう25年、四半世紀前のアルバムである。内容はといえば、所謂新生ブルーノートのメンバーによる新録ものと、大御所の過去音源とのミックスである。新生ブルーノートのメンバー、ダイアン・リーブスとか、スタンリー・ジョーダン、ボビー・ワトソン、つまりはMtフジジャズフェスティバルの常連だが、このメンバーの演奏を楽しめるかどうかで、このアルバムの評価は分かれると思う。僕にとっては、そこは正直普通の出来なので、傑作アルバムとはいかない面がある。一方、大御所、ベイシー楽団とかデクスター・ゴードンとかは流石の横綱相撲で、冒険心はないが、どっしりとした演奏である。
要約すると、これは大音量で真剣に聴くものではなく、秀逸なデザインのジャケットをたまに眺めつつBGM的に聴き流し、3,5,9,12番あたりで耳を澄ます、そんなアルバムである。付け加えるに、ジャケットのせいか、ジャズファン以外の層にも売れているようである。しかし、ポップファン等からは、メインテーマのメロディがストレートに演奏されないことに困惑する声が寄せられている。まあ、それがジャズ一流の演奏方法なのである。原曲のメロディを探して、それ自体を楽しんで聴きたいのであれば、辛いものがあることは断言しておく。但し、大御所はそれに非ず。ストレートに演奏して、自分の個性を表現できる、大御所の凄さを垣間見ることもできるアルバムである。






第2位 Holiday Soul / Bobby Timmons Trio (Prestige) ※中古レコードを探して下さい

Bobby Timmons (p) , Butch Warren (b) , Walter Perkins (ds)

Side-A
01.Deck The Halls
02.White Christmas
03.The Christmas Song
04.Auld Lang Syne

Side-B
01.Santa Claus Is Coming To Town
02.Winter Wonderland
03.We Three Kings
04.You're All I Want For Christmas



言わずと知れた、あのジャズメッセンジャーズの『モーニン」を作曲したボビー・ティモンズである。そんなの耳タコで、もう聴きたくないという諸兄は、もう一度レコード棚から「サンジェルマンのジャズメッセンジャーズ」を引っ張り出して聴いてもらいたい。「黒い情念」を鍵盤に叩きつけるが如く、執拗に同じフレーズを繰り返すティモンズの圧倒的なピアノソロ。煽りに煽られて熱狂の坩堝に巻き込まれていく観客達。音とリズムと喧騒が渾然一体となった、あの訳の分からない興奮。燃え上がったパリの夜の記録は、ジャズライブレコード史に残る大傑作である。
さて、そんなティモンズのクリスマスアルバムだが、注目はなんといっても「ジャケット」だ。Yule Struttin'とは対照的に、これ以上ないくらい素っ気ないデザインである。このジャケットを見れば、買おうという気が失せるのも無理がない。だが断言しよう。どういう経緯でも構わない。それが何かの間違いでも良い。結果的にこのアルバムを買った人には、至福の時が訪れるのだと。聴いたことのない人には、本当のところ教えたくないアルバムである。2位とはいえ、3位とは圧倒的な差を付けての2位なのだ。(具体的な解説が何もないような気もするが、一言で言えば意外と抑え気味のソフトなティモンズが楽しめる。ソフトなティモンズって何よ?という人は聴いてみて下さい)





第1位 Merry Ole Soul / Duke Pearson (BlueNote) ※CDで入手可能です

Duke Pearson (p,cel), Bob Cranshaw(b), Mickey Roker(ds), Airto Moreira (per)

Side-A
01. Sleigh Ride
02. Little Drummer Boy
03. Have Yourself A Merry Little Christmas
04. Jingle Bells

Side-B
01. Santa Claus Is Coming To Town
02. Go Tell It On A Mountain
03. Wassail Song
04. Silent Night
05. O Little Town Of Bethlehem



ジャズファンからは、「ああ、やっぱりこれね」という声が聞こえてくるのは仕方あるまい。本題に入る前に、諸兄は「ラズウェル細木」をご存知だろうか。代表作(?)「酒のほそ道」で知られる漫画家で、最近では週刊モーニンで、鰻大好きな呉服屋の若旦那を描いた「う」でプチブレークしたのは記憶に新しい。ごく一部のファン層からは絶賛されているラズウェルは、かつて「ジャズ批評」誌に「ときめきジャズタイム」を連載していたジャズ漫画家でもある。僕も、それを単行本化したものを持っている。
その中に、このピアソンのアルバムを題材にした話がある。生粋のレコードコレクターの戸仁井さんから、「メリーオウルソウル」を借りた主人公。電車の中でジャケットを眺めていると、中のレコードを落としてしまう。レコードは多くの乗客に踏みつけられ、スクラップ同然となる。レアなレコードなので、なんとかこっそりと入手して弁償しようと獅子奮迅の努力をする主人公。やっとのことで手に入れる寸前までいくが、結局入手できず万策尽き果てる。覚悟を決めた主人公が意を決して戸仁井さんに謝りに行くと、実は・・・(以下略)、というストーリーである。その位、入手し難いアルバムであったのだ。僕も何度か中古レコード屋さんで見たが、ちょっと手が出ない金額だった。
このアルバムは一昨年にe-bayで入手した。結構高かったけど、オリジナル盤であり、ひと昔前から見れば現実的な値段となっていた。演奏よし、ジャケットよし、音よしの三拍子揃った名盤である。なお、CDであれば今すぐにでも入手できるので、レコードが無理であればCDをお勧めする。
演奏内容に触れていないって? それはもう心配無用である。千円二千円でこんな名盤が買えるのであればタダみたいなものである。安心して買って欲しい。

(終わり)


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仙台ジャズ喫茶 COUNT

2014-11-06 | 音楽










仙台市青葉区一番町、ジャズ喫茶「カウント」である。ここに行くときは、いつも夜、しかも1杯飲んだ後に立ち寄る。瓶ビールを頼むと、山盛りのスナック類が突き出しで付いてくる。スピーカーは、アルテックのA5、伝説的なスピーカーである。アルテックはどちらかというと業務用スピーカーで、音像のリアルさを売りにしている。家庭向けハイファイ用途ではないので、繊細な音を期待するスピーカーではない。演奏者の唾が飛んでくると言われるスピーカーで、とにかく大きく元気に鳴らすことが美徳とされている。逆にいえば、うまく鳴らないアルテックはウルサいだけであり、そういうお店に何回も行ったことがある。だから僕は正直あまり良いイメージを持っていなかった。
だが、ここのA5はひと味違う。全くうるさくないのである。楽器そのものの音が鳴っており、管楽器類は本当にそこで演奏しているようである。ベースもリアルである。そして、それを気負うでもなく、ひけらかす訳でもなく、業務然とした顔で平然と鳴らすアルテックA5。恐るべしである。いや、そうやってスピーカーを手なずけたマスターが恐るべしなのだろう。手前味噌だが、僕の家だってJBLの38センチウーハーとホーンである。決して悪い音ではない。天井を音質を意識した構造にしたこともあり、ヘタな店には対抗できなくもない筈だ。でも、音のレベル、スケールが違うのである。この日も、クリフォード・ブラウンが店内に降臨していた。

ここで僕は、落ち着きを取り戻し、ホテルへ帰るのである。つまらない音を聴かされたら、全く関係はないけど、ついつい違うお店に行きたくなるのだから、家計にも優しいジャズ喫茶である。
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渋谷SWINGの思い出

2014-10-22 | 音楽
在りし日のマスターと、その猫へ捧ぐ


21世紀を迎えた年のことである。僕は渋谷の奥まった通りで、記憶を頼りに、その店を探していた。おおよその場所は身体が覚えていて、勝手に足が進む。だが、込み入った通りに入ると、辺りの景色が以前とは異なっている。最後にそこを訪れてから、かなりの日時が経過していた。それでも僕は何度も周囲をグルグル周って、やっとその場所を特定した。そう、やはり店はもうそこに存在しなかった。自分の中の何かが失われてしまったことを思い知る。時は流れたのだ。

僕が探し求めていた店は、20世紀に渋谷で営業をしていたジャズ喫茶「SWING」という。

学生時代から社会人生活の初期まで、僕は都合9年間に渡り東京で生活をした。ジャズ好きの僕は、その間、数多くのジャズ喫茶に遊びに行った。総数でいけば優に20店舗以上にはなると思う。東京には数多くのジャズ喫茶があった。下北沢の「マサコ」がホームグラウンドで、神保町の「響」、高田馬場の「イントロ」、銀座の「ジャズカントリー」なんかには数えきれないほど行った。ジャズ喫茶は、必ず地名と一緒に表現される。四谷の「いーぐる」とか、新宿の「DUG」といった具合だ。有名なジャズ喫茶が一つの街に複数あるケースもある。吉祥寺の「MEG」、「A&F」、「ファンキー」等の場合で、それぞれのファンというか派閥みたいなものがあった。今風にいえば、「押しメン」か。

今回の話は、数ある東京のジャズ喫茶の中から、渋谷にあったジャズ喫茶の話である。渋谷は、当時から若者の町、そして深夜早朝まで人通りが絶えることのない街だった。もちろん、それなりに物騒な街ではあるが、現在よりは遥かに安全で遊びやすかったと思う。六本木なんかと比べればカジュアルで気楽な街なので、週末ともなるとまさに人で溢れかえっていた。夏の季節には、薄着の女性の汗と香水の匂いの入り混じった独特の空気が辺りを満たし、様々なエネルギーをモロに身体に受けた。頭がボーッとして、熱に浮かされるようになってしまうのだ。僕はその渋谷で、レコードを買ったり、本を買ったり、友達と居酒屋で酒を飲んだり、女の子とショットーバーでデートしたり。様々な用事で出かけて遊んでいた。それだけ馴染みのある町ではあるが、渋谷に行くということは、街全体が発する熱に飛び込むことを意味し、少し疲れてしまうのも事実だった。
その渋谷に「SWING」というジャズ喫茶があった。ただでさえゴミゴミした渋谷の街でも、特にゴミゴミした一角の雑居ビルに居を構えていた。その昔は知らないが、僕が行った当時のSWINGは、プロジェクターでジャズビデオを投影するジャズビデオ喫茶だった。真っ暗な店内に巨大なスクリーンだけが光り、そこで古くさい映像を見ながら珈琲を啜ったり、ビールを飲んだりするのである。ビデオは得てしてモノクロであり、8ミリ映画なみの画質のものも多かった。また、ジャズだけでなく、ブルースや古いロックのビデオが流れていることもあった。店は老齢のマスターが切り盛りしていた。時には、マスターの娘さんと思われる黒髪の美女がウェイトレスをしていた。そして店内には飼い猫が、マスターの近くで静かに寛いでいた。真っ暗な店内、特に美味しくない珈琲、無口なマスター、古くさいビデオ。そしていつの間にか僕に懐いた猫。それだけの店だったが、それが僕にとって居心地のよい場所となり、渋谷での避難小屋となったのだ。

その後、社会人になってからも、折に触れてSWINGに通い続けた。マスターとは特に会話をすることもなかった。来店するとマスターは無愛想にうなづき、黙って珈琲を出すようになった。ビールやコーラを飲むときは、マスターが珈琲を出す前にこちらから断わらなければならない。後はたまに「外は雨ひどい?」とか天候の話をするだけである。でも、その距離感が逆に僕にとっては心地よかったのである。猫も相変わらず大音量の店内で寝ていて、僕を見つけると膝の上に乗ってきた。そして、そんな日々が数年続いたあと、僕は東京から地方都市に転勤することになった。結果的に、それが僕にとって東京との別れになった。
詳細は割愛するが、僕は転勤先で会社を退社し、その後本社が関西の、別の会社に転職した。転職先の仕事にも慣れ、いつしか今度は出張で日本全国各地に行くようになっていた。東京を離れてから、気が付けば結構な年月が経っていた。当然その間も、東京も出張で何度も訪れている。出張先の事務所は渋谷区内にあった。行こうと思えば、行けた筈なのに何故かSWINGに行かなかった。
いや何故かではない。敢えて行かなかったのだ。僕は、SWINGが無くなっていることが怖かったのだ。店がなくなることで、自分と東京との結びつきが断たれてしまうのではないか、それが怖かったのだ。

そして、僕らの時代、太陽の光を反射した真珠の粒のような20世紀は終わりを告げた。かわりに腰痛持ちの事務員みたいな憂鬱な顔をした21世紀がやって来た。いよいよハッキリさせなければならない時が来たことを悟った。自分の中の「何か」と決別する時が来たのだ。その「何か」が何を意味するのかは自分でもわからなかった。初冬の肌寒いある日、僕は東京に出張し、日帰りができるのにも関わらず適当な理由をつけて渋谷に泊まることにした。その夜、重い腰を上げて、SWINGがそこまだあるのかどうか、探しに行ったのだ。無いのは分かっていた。無いことを自分で確認したかったのだ。そして、SWINGが無くなっていることを、この眼で確認した時、僕の若かりし日々は終わりを告げた。同時に紐の結び目が解けるように、東京と僕の結びつきが切れたのである。

昔、SWINGというジャズ喫茶があった。そこに通っていた人は、今どうしているのだろう? ただの一人でもいい。僕のブログを見てくれる人がいるだろうか。ただの一人でもいい。あの猫のことを覚えていてくる人がいるだろうか。

写真:Mcintosh MC7270 (EOS 6D / EF40mm F2.8 STM)


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