No Room For Squares !

レンズ越しに見えるもの または 見えざるもの

#5 父のアート・ペッパー

2014-10-03 | 音楽
亡き父に。

環境が許すのであれば、下のYOUTUBEで曲を聴きながら読んで貰いたい。父が亡くなってから、もう10年以上になる。割愛するが、それなりの複雑な事情があり、ある時期から離れて暮らし、5年以上会っていなかった時期もある。そんな父から受け継いだものは、ジャズのLPレコードだけである。そのLPレコードだけが、親子の繋がりを保っているのである。

あれは、僕が10歳頃のことだった。何を思ったか、父は大型のステレオセットを突然購入した。アンプにレコードプレーヤー、カセットデッキにチューナー、そしてスピーカー。当時の僕は全く興味を持っていなかったが、ジャズのLPが数十枚。そして、それは徐々に増えていった。小学生である僕にジャズへの興味があるはずもなく、山口百恵やピンクレディーのレコードを、こっそりとかけていた。
ある夜のこと、僕は夜中に眼を覚まして眠れなくなった。多分怖い夢をみたとか、そんな理由だと思う。闇の中、布団に包まり不安に慄いていた。ふと気づくと居間の方から人の気配がした。布団から抜け出し近づくと、そこには薄明かりの中、ヘッドフォンでジャズを聴いている父がいた。一人でウイスキー片手(サントリーオールド=ダルマ!)にジャズを聴いていたのである。父は帰宅も遅い人だったし、夕食を一緒に食べることも滅多になく、家で寛ぐ姿など余り見たことはなかった。僕は深夜に一人の時間を楽しむ父の姿を見て、意外だと思うと同時に、ちょっと格好良いと思ったのだった。世界中が寝静まっていると思い込んでいた深夜、そこだけは別世界のようだった。あるいは、その時の父は、満たされない何かを抱えていたのかもしれない。でも、僕と父しか存在しない空間、そこは親密さに満ちた世界だった。その時、かかっていたアルバムが、アート・ペッパーの「モダンアート」であった。勿論、当時はそれを覚えた訳ではなかった。ただ、ジャケット写真のアート・ペッパーが余りにダンディだったので、ジャケットを覚えていたのだ。

中学生になった頃、事情があり、父と別れて暮らすようになった。ステレオセットとレコードは僕が引き継いだが、ジャズを聴くようなことはなく、僕はローリングストーンズなどのロックに夢中になっていた。ところが中学3年生になり、高校受験の勉強を夜遅くまでするようになると、ふと思い立ったのである。「ロックなんかは音楽を聴いてしまうから駄目だ。BGM代わりにジャズを聴いてみよう」。
そうして聴いてみると、ジャズは僕の身体に衝撃的に響いてきたのである。・・・となれば面白いのだが、実際にはそんなことはなかった。「ジジ臭い音楽だなあ。ムード音楽みたいで気持ち悪いなあ」、これが正直な感想である。でも、とにかく聴き入ってしまうことがないので、BGMとして流して受験勉強をしたのである。
結果的には、この時聴き流していたことが、僕に影響を与えたのだと思う。大学生になるときには、自然と僕はジャズを聴くようになっていた。そして自分でLPレコードとCDを徐々に増やしていった。その中核となったのは、父が好きでレコードも残っていた、アート・ペッパー、アート・ブレイキー、ミルト・ジャクソン、トミー・フラナガンといった人達だった。そして、とりわけアート・ペッパーの「モダンアート」。このジャケットの格好よさが僕をジャズに誘ったのだ。今では、レコードとCDを合わせて1500枚以上のアルバムが僕の家にはある。でも、すべてはこのアルバムから始まったのである。アート・ペッパーのアルバムは10枚以上は持っているが、一番大事にしているのは、「モダンアート」である。

アルバムは、ベースとのデュオの「Blues In」で始まり、最後もベースとデュオの「Blues Out」で終わる。この最初と最後の曲は、光の中の影を追い求めるような内省的な演奏で、生と死は本質的には同一なものであると語っているようである。ちなみにCDでは、ボーナストラックが収録され、「Summertime」も追加されているので気にはなるが、最後は「Blues Out」で終わらなければいけないのである。

今、僕は当時の父と同じ年齢になった。そして数十年の時を隔てて、同じように、このレコードを夜中に聴くようになった。初めて、このアルバムを聴いたときは、僕の人生はA面の半分もいっていなかった。今は、ひっくり返してB面であり、始まりよりも終わりの方が近い立ち位置となった。失ったものも多いが、だからこそ、この演奏が理解できるようになった。

Blues In


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#4 Lilacs in the Rain・・・with 8na8na-club

2014-05-18 | 音楽

リラの花が、雨に濡れていた。ジャズピアニスト、カール・パーキンスは幼少時の事故の影響により、左手に障害を負い、肘から下がほぼ直角に曲がった状態であったという。それでも彼は、曲がった左手(時には肘から下全体)を、鍵盤に押し付けるようにして演奏する独自のスタイルで、ジャズピアニストとなった。1950年代半ばには、アートペッパーやデクスターゴードンなど一流ミュージシャンとの競演でグングンと名を上げていく。ソウルフルでブルースフィーリング溢れる彼の演奏は、一方でどこか憂いを秘めた繊細さも持ち合わせていた。
だが、運命とはなんと残酷なのであろう。障害を乗り越えてミュージシャンとなり、まさにこれから第一線でブレークするというその時、カールパーキンスは不慮の交通事故で命を失ってしまうのである。それは皮肉にもモダンジャズの人気がピークを迎える1958年のことだった。享年29歳、あまりに短い生涯だった。

存命していれば、恐らくジャズ史に残るアルバムを何枚も出していたと思われるカール・パーキンスだが、余りに活動時期が短いため、生前に録音したリーダーアルバム(自分名義のレコード)は、ただの1枚しかない。それが、「カールパーキンスの肖像(Introducing Carl Perkins)」と名付けられたアルバムであり、僕の愛聴版でもある。その中に、「Lilacs in the Rain(雨に濡れたライラック)」という曲が収録されている。とても珍しい曲で、あまり他のミュージシャンは取り上げない曲でもある。1940年頃に作曲されたそうなので、往時のカール少年が好きだった曲なのだろう。もしかすると、この曲でピアノの練習をしていたのかもしれない。ミュージシャンを目指すうえで、黒人であるだけでも様々な差別があった時代である。更には、腕の障害もあった。カール少年は傷つき挫折しそうになることも多々あっただろう。そんな境遇だからこそ、雨に濡れたリラの花に、共感と優しい眼を向けていたのだろう。残された演奏は、そうとしか思えないほど、優しく胸を打つ演奏なのである。

ここから先は、僕の妄想だが。。。。
カールの初の(そして最後になった)リーダーアルバムレコーディングの日は、生憎の雨だった。緊張感と高揚感、そして不安。様々な想いが入り交じったなかで、彼は地下鉄の駅を目指す。駅の近くの道端には、リラの花が植えられていた。淡いその花は、冷たい雨に濡れていた。その瞬間、カールは予定にはなかった、「Lilacs in the Rain」を演奏することを決めたのである。レコーディンスタジオでは、スタッフは当然良い顔をしなかった。収録曲は決まっているのである。カールはまだ、若手ピアニストで、売上だってそれほど期待できない。オリジナルでもない未知の曲を収録することなんて出来ない。音合わせの練習用、それが演奏の条件となった。外では雨がまだ降り続いていた。カールには聴こえる筈のない雨音が聴こえていた。そして鍵盤に向かう。一瞬リラの花の匂いが鼻をかすめたような気がした・・・・。カールの身体から力が抜け、冷たい雨に濡れたリラの花を脳裏に描いた。演奏の瞬間の記憶は全くない。ふと気付くと、レコード会社のマネージャーの興奮した声がマイクから聞こえた。「素晴らしいよ、カール!」。ガラス越しにスタッフが立ち上がって拍手していた。この名演が世に残されることが決まった瞬間だった。
その演奏は、・・・・聴いて下さい。



Lilacs in the Rain




EOS 6D / EF100mm F2.8L IS MACRO

8の付く日は 「8na8na-club」。「8na8na-club」は、awaさんが主催するクラブです。詳細はコチラ Dear to you 

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#3 You must believe in spring /Bill Evans

2013-05-31 | 音楽
僕の人生に大きな影響を与えた音楽アルバムを紹介するシリーズ、第三弾。

Bill Evans。初心者から年季の入ったジャズマニアまで変わらぬ支持を集める白人ジャズピアニストの最高峰。特に、ベースのスコット・ラファロ、ドラムスのポール・モチアンとのトリオでのアルバム、通称リバーサイド4部作は、今でも絶大な人気を誇る。これらのアルバムでは、メンバー相互がお互いのプレイに即応する形でインプロビゼーションを展開していく「インタープレイ」と呼ばれる新境地を開いた。そういうと小難しいが、実際には3者が有機的に絡む合う美しさは理屈で捉えなくても理解できるものである。1961年、NYのビレッジバンガードでのライブアルバム「Waltz for Debby」はジャズピアノ名盤の筆頭アルバムだが、そのライブから僅か1週間後、ベーシストのスコット・ラファロが交通事故で死亡し、伝説のピアノトリオは終焉を迎える。若くして人生最高の音楽を完成させ、そしてその直後にそれを喪失したビル・エヴァンス。彼はその後、終生このトリオの幻影と闘うことになる。

今回、紹介する「You must believe in spring 」は、エヴァンス中後期、1977年の作品。1968年にエヴァンスは、若きベーシスト「エディ・ゴメス」をトリオに加入させる。その後、ドラムス奏者は何度か入れ替わるが、ゴメスとのコンビは1978年まで12年もの長い間続けられることになる。名作を何枚も排出した二人だが、さすがに10年以上も共同作業を続けるとマンネリに陥り、その音楽的繋がりは失われていく。隙間風吹く離婚寸前のマンネリ夫婦が、最後に燃え上がったようなアルバム、それが、この「You must believe in spring 」だ。
何故燃えあったのかは誰にも分からない。でも、とにかく燃えあがったのだ。普段は煩いくらい饒舌なエディ・ゴメスが、思いのたけを吐き出すように紡ぐ美しいベースライン。押しては引いて、引いて押すように絶妙に絡むエヴァンスのピアノ。何かの始まりのようであり、何かの終焉のようである。奇跡のように美しく、そして哀しい音楽だ。このアルバム録音から3年後の、1980年。長年の麻薬常用の影響で、健康を大きく損なっていたビル・エヴァンスは、亡くなっている。

さて、このアルバムのエピソードは東京での学生時代の話。粗末な木造アパートで迎えた寒い冬の朝の話だ。

東京での学生時代は、常にお金がなく、女の子にも余り恵まれず、時間だけは豊富にあるという生活だった。六畳の風呂なしボロアパートに住んでいたが、似たような境遇の友人とよくお互いのアパートを行き来し、夜通し酒を飲むことが多かった。来客用の布団などあるわけもなく、毛布に包まって、よく雑魚寝をした。大抵3~4人でそういうことをするのだが、ある冬の夜、Nという友人と二人で飲み明かしたことがあった。彼とはそれほど親しい仲でもなかったので、何故二人で飲み明かすことになったのかは正直覚えていない。
それでも飲み明かすなかで、僕たちは互いに好感を持ち、下世話な話から将来の夢まで、親密な気分で語り合った。夜中の2時か3時にどちらからともなく、眠り込んでしまったのだが、朝方、首筋に強烈な冷気を感じて眼を覚ました。僕は自分のベッドで寝ていたが、Nはコタツと毛布に包まって余りの寒さに小さくなっていた。アパートは池袋のはずれにあり、都会の騒音にまみれた場所なのだが、何故かその日は異様な静けさに満ちていた。怪訝に思いながら、分厚いカーテンを開けると理由がすぐに分かった。東京には珍しい大雪だ。昨夜、寝ているうちに音もなく降り積もったのだろう、辺りは一面白銀の世界と化していた。普段はゴミだらけのアパート前のアスファルトは、白い雪にすっぽりと覆われていた。数十センチは積もった雪が、すべての汚い風景を隠し、東京中の騒音を全て吸い取っていた。まるで、人類が滅びた無人の街であるかのような静けさだった。僕たちは、二日酔いの頭を抱えたまま、無言で熱いインスタントコーヒーを飲んだ。そして、その時聴いたアルバムが、「You must believe in spring」だった。深々と冷えたみすぼらしいアパートの中に響く、エヴァンスの珠玉のピアノ。エディ・ゴメスのベースも、優しく柔らかく心に響いた。僕たちは、そんな音楽を朝から男二人で聴いていることに恥ずかしさを覚えるのだが、その気持ちとは裏腹にどんどん音楽に引き込まれていった。音楽の透明感に僕たちは硬直し、レコードが終わっても、しばらく動けずにいた。無音部分をトレースする「パチパチ」という音だけが暫く響いていた。

やっとの思いで針を上げると、Nは、ポツリと「故郷を思い出す」と言った。Nは北国出身だった。暖かい地域出身の僕には、彼が思い出している故郷がどんなところなのか、思い描くことは出来なかった。

さて、それから数ヵ月が過ぎた。冬は去り、確かに春は訪れ、更には季節は春を越えて初夏に入ろうとしていた。Nとはその後会う機会がなかった。元々日常的に会うような関係でもなかったので、正直な話、特に気にとめてはいなかった。ところが、事態は急変する、驚きの知らせが届いたのだ。なんとNは郷里の青森の病院で亡くなっていたのだ。「舌癌」という舌の癌が急速に進行したそうだ。僕が全く知らない間に彼は亡くなり、地元で葬儀まで終了していたのだった。ほんの数ヶ月前に、一晩飲み明かした友人が、癌で亡くなっている。僕はこの事実をどう受け容れてよいのか分からなかった。彼が亡くなったという実感がわかないので、悲しみさえわいてこない。どういう訳か、東京の彼の友人はこの件を誰も知らなかったようだ。隠していたのか、あるいは本人にも告知されていなかったのか。いずれにせよ、僕が彼の死を知った時には、彼は既に骨になっていた。
その日の夜、アパートで「You must believe in spring 」に針を落とした。あの日、Nと一緒に聴いて以来のことだった。メロディと共に数ヶ月前のNの姿がどうしても脳裏に浮かんでくる。そして、その次の瞬間、僕は自分が泣いていることに突然気づいたのだ。「あれ?」、大粒の涙がとめどなく両方の眼から流れ落ちていた。自分が泣き出したことに気づかなかったし、何故泣いているのかも分からなかった。哀しさは伴っていなかった。感情が麻痺して、涙が意識をバイパスして勝手に流れ落ちている。そんな感じの不思議な涙だった。

次の日、僕は「You must believe in spring 」のLPレコードを処分した。とても、聴くような気分にはならず、手元に置いておきたくなかったのだ。Nの死をレコードと共に、忘れてしまいたかったのかもしれない。結局、僕がこのアルバムを買い直したのは、それから10年以上たってからだった。やっと、あの時のことを受け容れることのできる年齢になった僕は、CDで同じアルバムを買い直したのだ。今では折に触れて、このアルバムを聴くが、やはりNのことを思い出す。だが、それはもう辛いことではない。年月は経ち、僕も齢を取ったが、同じ音楽を聴きながら、変わらぬ姿のNを思いながら酒を飲む。まるで、あの夜の飲み会が今でも続いているような気がする。
Nには僕よりも親しい友人もいたし、付き合っていた彼女もいると本人から聞いていた。でも、そんなに親しい仲ではなかった僕が、今でも彼と共に語り合う。人生とは因果なものである。「You must believe in spring 」。このアルバムは僕にとって、濃厚な死の香りと、儚さ、二度と訪れない美しい瞬間、そんなものたちの象徴である。

もうすぐ、彼の命日がやってくる。僕はまた、「You must believe in spring 」を聴くだろう。
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#2 Chet Bakrer Sings / Chet Baker

2013-03-26 | 音楽
Chet Baker。波乱万丈、破滅的な人生を送ったジャズトランペット奏者、そしてボーカリスト。1950年代にはアメリカ西海岸を中心に活躍し、マイルス・デイビスを凌ぐ人気者だった。ジェリー・マリガンとの双頭コンボなどシリアスなジャズでの実力もかなりのものだが、抜群のルックス、耳元で囁くようなボーカルでも人気を集めた。だが、彼の周りには常にドラッグの問題が付きまとい、リタイアと復帰を繰り返し、安定した生活とは無縁の人生を送っていた。1980年代には、ブルース・ウェーバーがチェットを主役にドキュメンタリー映画「Let's Get Lost」を撮り、若者を中心に、その破天荒な人生が再評価されていた。だが、1988年、オランダのホテルの窓から転落して死亡。記憶が定かではないが、そのホテルの部屋は2階とか3階の低層階で、その死亡原因を巡っては、ドラッグ吸引による事故説や、ドラッグ売人との金銭トラブルによる殺害説など様々な憶測を呼んだものである。

さて、そのChet Baker。今ではトランペット演奏のアルバムで好きなものが結構あり、ジェリーマリガンとの競演モノもよく聴くが、元々苦手なタイプなミュージシャンであった。原因は、表題のアルバム。チェットの中では一番有名なアルバムで、ボーカル入りの曲が中心だ。大学入学当初にLPレコードを購入した。今でも大名盤として、1000円で再発CDが発売されていたりするし、ご婦人に根強い人気があるアルバムでもある。だが、かのジャズ評論家、寺島靖国氏は「耳元を舐めるよう」、「淫花植物のごとく」と表現したように、メリハリのない男とも女ともつかない、あの声。それを理解するには僕のお尻は青過ぎた。勢い、チェットを聴く機会はなくなり、男らしさの塊である「リー・モーガン」などストレートなトランペットに傾倒していった。
その大学生当時、僕にはTさんという友人がいた。Tさんは、僕よりひとつ年上で、音楽や芸術に詳しい人だったが、留年して僕と同じクラスで講義を受けるようになっていた。もう長い間会ったことはないが、今では、某レーベルからCDを出すミュージシャンになっている。そのTさんが、ある日、顔面を蒼白にして教室に入ってきて、深刻な口振りで、こう言った。

「チェット・ベイカーが死んだよ・・・」

それを聴いた僕と数人の友人は凍りついた。チェット・ベイカーが死んだ。勿論、ジャズファンとして残念なことではある。でも、どう反応してよいか分からなかった。チェット・ベイカーは僕の日常生活に、それほど浸透している存在ではない。

「どうして?」かろうじて誰かがそう聞いた。

Tさんは、真っ青な顔のまま、「ホテルの窓から落ちて死んだんだ」と言った。

このエピソードに特別な結論もなければ、続きもない。だが、それは僕の心に完全に刻み込まれてしまった。あの時のTさんの口ぶり。それは誰か知り合いが亡くなったかのような深刻な反応だった。一人の海の向こうのジャズミュージシャンの死をこれほど深刻に捉えていることへの当惑と驚き。結果的に、それから僕は意識してチェット・ベイカーを聴くようになったのかもしれない。
そして、いつの間にか、普通に好きになった、「Chet Baker Sings」。今でもこれをターンテーブルに載せる度に、Tさんの言葉が頭に蘇る。
「チェット・ベイカーが死んだよ・・・」。

Chet Baker / It's Always You
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#1 Mclean's Scene / Jackie Mclean

2013-03-22 | 音楽
恐らくジャズが中心になるが、僕がこれまで影響を受けた音楽アルバムをエピソードを交えつつ紹介したいと思う。誰かに発信したいというよりも、備忘録というか、年々薄れつつある記憶を書き留めておきたいという個人的な行為である。
さて、記念すべき第一回目は、Jackie McLeanの名盤「Mcleans's Scene」である。ジャッキー・マクリーン。1950年代からBleuNoteを中心に活躍したアルトサックス奏者だ。ビバップの創始者、天才チャーリー・パーカーや、若き日のマイルス・デイビスにも認められた早熟の天才ではあるが、その演奏は、どこか不安定な脆さを感じさせる。そして、その不完全さが、そのまま魅力となりファンを惹きつける希有なミュージシャンでもある。

そのマクリーンが、フレディ・ハバードを始めとするNYの錚々たるメンバーと共に来日公演をしたのが、1996年、熱い熱い夏のことだった。当時僕が住んでいた岡山でも公演があった。しかも、コンサートホールではない。ホテルのバーでのライブである。日本に小金を稼ぎに来て、お茶を濁すような御座なりの演奏をして帰っていくのだろう。そんな僕の予想は呆気なく裏切られた。メンバーは皆一流だった。その一流メンバーがいきなりマジになり、熱い演奏でハナから飛ばしまくる。至近距離で聴くマルグリュー・ミラーのピアノは、時に打楽器のように激しく、時にハープのように優しく響く。ベースのマーク・ジョンソンも燃えまくっている。でも何といってもマクリーン。観客は立ち上がり、最前列に押し寄せる。わずか2.5m先でマクリーンのアルトは唾を吐き散らさんばかりの勢いで吼えていた。しかも、一音で分かるあの、マクリーン独特の音である。これで痺れるなと言う方が無理である。そして、数曲の演奏の後、暫しのインターバル。誰もがマクリーンを視線で追っていた。そのマクリーン氏、演奏が休憩になると、バーにも行かず足早に控え室に引き上げていくではないか。だが、ここで会ったら百年目。逃す訳にはいかない。僕は脱兎のごとく席を飛び出し、文字通りマクリーンを全速力で追いかけた。

「僕は貴方の大ファンです。演奏が聴けて幸せです。サインして下さい」

だが、ニコリともしないマクリーン氏。インチキ哲学者みたいな風貌で、素っ気なく「サインはしてあげたいが、ペンがないから駄目だ」と答える。その間も控え室への歩みは止めない。ここで、日本の英語教育史上、最も有名で、最も多く喋られた、あの必殺フレーズが炸裂した。

「 I have a pen !!!」

なんということだ。これまで僕は、このフレーズは英語教育の必要から造られたフレーズで、日常生活で使う機会など一生ないと思っていた。だが、そうではなかった。これは究極の実用フレーズだったのだ。
ピタッとマクリーンの脚が止まった。サインが欲しい→ペンがない。この展開で「 I have a pen !!!」。もうサインを断る理由はそこに存在しない。最早断ることは不可能だった。諦めたマクリーンは、「どこにサインする?」そんな顔をした。
そして取り出したのが、写真のレコードとペンであったのである。残念なことにオリジナル盤でも何でもなく、1.280円で買ったOJC盤だけど。それでも、レコードを見たマクリーン氏は口元を僅かに緩め、素っ気なくサインしてくれた。更に「これだけでいいか?」。すかさず僕は持参したCD「4,5,&6」にもサインしてもらった。サインをもらった僕を見て、他の観客が押し寄せてくると、マクリーンは、逃げるように奥に消えてしまった。出足がもう3秒遅かったら、僕もサインしてもらえなかったと思う。

あのとき、仕方なくサインに応じたマクリーン。でも、このアルバムジャケットを差し出した時に、彼の口元は僅かではるが、確かに緩んだのだ。そのマクリーンも、もうこの世を去り、手元には彼がサインを記したアルバムが残った。あの夏の思い出を脳裏に描きながら聴くB面2曲目、「Old Folks」は最高である。ジャズファンは一般的にアルバムが1000枚を超えた辺りで、小難しいマイナーなアーティストを好むようになるのだが、やはり名盤にはそれなりの理由がある。いや、理由などいらないのかもしれない。このひと時、マクリーンのアルトに身も心も委ねよう。


追伸:喉と唇の調子が悪く、まともに吹くことができなかったフレディー・ハバード。実に気さくな人で、休憩時間にずーっと話相手になってくれた。ちゃんとしたパフォーマンスが出来ない、それを言う時に顔をしかめ、本当に残念そうだった。フレディのアルバムを持っていかなったので、ライブのチケットに嫌な顔ひとつせずに、サインしてくれた。




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